さて、シェーンシュケント競馬場が完成したことにより、こちらでも平地競走の開幕が宣言された。
そうなると、ティリアン競馬場に所属している調教師の中でも、こちらに異動しようとする流れが起き始めていた。
ティリアン競馬場は復興競馬の地として重要な拠点ではあったが、依然として老朽化と厩舎間の狭さが問題になっていた。
老朽化に関しては近代化改修の予算を確保されており、これに関しては戦災復興予算の中に組み込まれていた。
そして過剰になっていた利益に関しては旧エルフィンド方面の更なる復興及び新たな農業用地などの予算に回される事となった。
つまりは、シェーンシュケント競馬場のように豪奢にするには時間がかかる事となった。
この時のオルクセン競馬協会の中にも、ティリアン競馬場こそがオルクセン競馬の中心として扱っていきたいという思惑を持ったエルフたちが暗躍していたが、これを占領軍総司令官アロイジウス氏が遠回しにその案を退けている。
恐らく、そのような野望を見せなければ、今頃ティリアン競馬場がオルクセン競馬の中心地になっていたかもしれないが、戦争から数年経った今でも、どの種族よりもエルフ族が秀でているという思想を持った者も少なからず存在したのだ。
その鼻をへし折るために、介入するつもりのない案件に、わざわざ名前付きで指摘したのだ。
この年、旧エルフィンド方面は完全にオルクセン王国に併合され、国号を王国から連邦に移行した。
ある意味、占領軍総司令官としての氏の最後の仕事の一つに数えられるだろう。
この当時、グスタフ王以下オルクセン首脳陣は知識人を集め、憲法改正と近年稀にみる政治体制に移行しようとしていた。
当時、帝国主義や絶対王政から新たな時代の幕が開こうとしていた時代であった。
八七八事変を経て、人々は王の威光という檻から抜け出し、荒れ狂う民主主義という大海原に小さな翼を広げようとしていた。
そんな中、グスタフ王は君主としての座から降りずに絶対的な権力を手放し、議会と国民たちに全ての権利を委ねた。
恐らく彼が暴君にならない限り、王として君臨し続けても誰も文句は言わなかったであろう。
シェーンシュケント競馬場を、親愛なる王に捧げようとしていたのも、臣民たちに敬意に値し、愛されていた証拠だったのだろう。
それでも、グスタフ王は、彼らオルクセン連邦に自立し、自分で歩くように背中を押した。
これはどの時代にいる神君、名君でも起こしえなかった事業である。
我が祖国、キャメロットも遅れてこれに続いたが、オルクセンの背中を追い続けているような状態だったと言えるだろう。
不安定とは言わなかったが、出来うる限りの芽は摘んでおきたい、それが占領軍総司令官アロイジウス氏の王国から連邦へ自立する際に行った、親愛なる王への最後の奉仕だったのだろう。
(最後とは言うが、氏が引退したのはまだまだ先である。)
そんなこんなで、ティリアン競馬場の改修と同時に、シェーンシュケント競馬場への移籍が開始されたが、一種の民族大移動のような状態だったという。
この頃には、シェーンシュケント競馬場が開設されるということで、調教師の数も若干数増やし、レース数も増設することが決定した。
もちろん、不足となっていた短距離、マイル路線のG1レースや、中距離、長距離の古馬戦線の増設なども検討されていた。
そんな中で、騎手を引退する者も現れた。
有名なところでは、カイザリン厩舎所属だったアデル騎手だっただろう。
以前、落馬事故により、膝に怪我を負っており、回復する見込みがないということで、これ以上の騎手生活は不可能と感じ、調教師試験を受験。
見事合格し、シェーンシュケント競馬場に移籍する。
その際、カイザリン厩舎から何名か付いていったが、これに関しては引き抜きなどではなく、カイザリン師からの選別でもあったという。
長い騎手生活に見切りを付けたアデル師だが、彼女の競馬人生はこれからがスタートラインであった。
現役調教師で厩舎ごと移籍を発表したのは、オンレイアン師、リーレン師の両名も含めて25厩舎。
カイザリン師はティリアン競馬場に留まり、依然残った厩舎と新たに新興してくる厩舎とシノギを削ることなる。
ちなみに、ティリアン競馬場の近くにある厩舎群と調教場は“ミーホ”という地名であり、シェーンシュケント競馬場の厩舎群と調教場は“リーティア”という地名であり、ここから南北競馬の拠点として知られるようになる。
八八五年、オルクセン王国、立憲君主制に移行、オルクセン連邦として名を改める。
オルクセン競馬もシェーンシュケント競馬場と共に新たにスタートを開始し、オルクセン競馬協会は連邦制移行を記念してG1レースを発表する。
一つは“大統領杯”。
距離は二〇〇〇m。四月の後半に設営されることとなり、後に春古馬三冠路線の一つになる。
これはシェーンシュケント競馬場の全周が四〇〇〇mから設定された距離であり、反対側から左回りで出走することになった。
最終直線はティリアン競馬場と比べて短いものの、その坂は急坂となっており、スピード自慢達を何頭とも跳ね除けていく難所と知られている。
実際に試走したジミー騎手も舌を巻き、ティリアンの走りをしていたら破滅すると口々に語っていたという。
その次は連邦記念杯である。
距離一六〇〇m。五月の後半に設けられ、マイル古馬の総決算に当てられることとなる。
九月には一八〇〇mのアードラーステークスが設けられ、この二つのマイルG1がオルクセン春秋マイル二冠として設営された。
他には、ティリアンで行われていたクラシックレースの二〇〇〇ラング、一〇〇〇ラングの両ステークスと複数の重賞が移設され、双方の競馬場で重賞が行われていくことになるが、そうなると開催するスケジュールが将来的にひっ迫してしまう。
連日開催をしてもよいが、それでは走る馬たちの数が圧倒的に足りないことが懸念された。
その時、各地方自治体の首長から「ぜひオラが街でも!」という旨の声が上がってきた。
それはシェーンシュケント競馬場を見た一部の地方自治体の首長たちが「これ以上の物を建てて誇りたい」という欲と「これだけ賑わうのだから税収がとてつもないことになる」という欲が入り混じった結果であったが、オルクセン競馬協会は、結果として選んだのは、フェルゼンハント、ランゲンフェルト、メルトメアの三州であった。
各自治体ひとつひとつに競馬場を設営するのは良いが、現状出走する競走馬が圧倒的に足らないため、年代が進むごとに順次建設する予定と決定した。
同時に作ったとて、ティリアンやシェーンシュケント競馬場のように採算が取れる見込みがないのだ。
それでもオルクセン競馬協会の選考から外れた各州は、独自に競馬場を設営。
メラアス種限定のレースなどを行い、各州が運営して胴元となった。
レースルールはオルクセン競馬協会のものと変わらないが、この当時はオルクセン競馬協会は運営などに関わることがなく、何より走る馬場が芝ではなく、砂、いわゆる“ダート”でレースを行っているため、当時はオルクセン競馬協会のレースには出走できないという規則を設けた。
何より、金のある馬主はオルクセン競馬協会の高額な賞金を狙いに動くが、各州のダートレースはまだ発達していないため、のちに“オルクセン地方競馬組合”が結成されるまで、用意できる賞金が雀の涙ほどであった。
故に、出走する競走馬もオルクセン競馬協会で走っている馬達と比べると能力は格段と劣ることになるし、それを所有する馬主も地方の商店街で店を構えている小金持ちや豪農ばかりであったが、それでも高速で馬場を駆け抜ける競走馬たちの姿を見た観客は、感動と興奮に包まれており、のちに名手や名馬も誕生するきっかけとなる。
あけましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いいたします!
2026年早々ではありますが、競馬おもろいですねぇ!