さて戦災復興競馬初日は無事成功し、徐々に競馬界にも活気が戻り始めていた頃、オルクセン国内ではとある計画が複数立てられていた。
それは“オルクセン競馬協会の設立”と“新たなレース場の設営”と“騎手育成”である。
キンググスタフステークスを現地で観戦していた一部の将兵や民間人がそのレースの素晴らしさをオルクセン本国の故郷に伝達すると、一部でメラアス種を趣味で育成していた富裕層の中にも是非やってみたいと話が持ち上がったのだ。
そうと決まれば、行動は速かった。
軍官民の有志がそれぞれ役割を担い、軍は“騎手育成”を、官僚は“競馬協会の設立”を、民間企業は“レース場の設営”を担った。
まずはレース場の設営であるが、これに関してはファーレンス商会のイザベラ・ファーレンスの助力により首都ヴィルトシュヴァイン郊外にある工場予定地をオルクセン競馬協会が購入し、レース場にする計画に変更する。
その際の建築資材などの購入もファーレンス商会が仲介するなど、イザベラの商才が光っていた。
レース場に関しては、キャメロットにある競馬場を参考に、豪奢にはせず、しかし洗礼された紳士淑女の場としての建築を目指し、エルフィンドで行われた戦災復興競馬の日から約5年後に設営され“シェーンシュケント競馬場”と命名した。
競馬協会に関してはエルフィンド競馬協会と協議を重ね、統合新設を行い“オルクセン競馬協会”として設立、プルケルもそれに伴いオルクセンへと移住し、広報官として活躍している。
騎手育成に関しては、グスタフ王に許可を頂き、キャメロットよりのサー・マーティン・ジョージ・アストンの仲介を経て騎手育成に関するスペシャリストを招聘することに成功した。
そして招聘された一人が初代オルクセン競馬学校校長である“ショーン・ブリメイ”である。
ショーンはキャメロットの競馬学校を首席で卒業後、騎手として一線で働き、数多くのレースで勝ち続けていた名手である。
どんな癖馬でも操ることから“魔術師ショーン”との異名を持っていたが、とあるレースで落馬事故で腰を負傷してから戦績が振るわなくなり、その後引退。
キャメロットの地方にある乗馬クラブにて余生を過ごしていたところをキャメロット競馬協会の白羽の矢が立ち、オルクセンの地に降り立った。
ショーンがオルクセンに来た時の心情を彼が遺した日記に記されていた。
『騎手を辞めて、田舎で腐っていた俺をアストン卿が見出してくれた。女房殿には「ダメだったらその時はまた私が皿洗いして稼げばいいさ」と快活に笑っていた。息子のデービットも「魔族がいる土地に行けるの!?すげー!!」と喜んでいた。見知らぬ土地で慣れない言語、姿形が違う種族に教鞭を振るうのはあまりにも不安だが、港につけばその活気の良さに驚いた。迎えに来たビーグル種の獣人は人懐っこく、俺の身の回りの世話を良くしてくれた。まるで昔飼っていた愛犬にそっくりだったが、この土地で良き仲間が増えたと思うとオルクセンに来て本当に良かったと思っている』
オルクセン競馬学校の門を叩いた者の中にはイアヴァスリルの推薦があった者もいた。
理由があって軍を諦めた者が多かったが、騎乗センスはあると太鼓判を押されていた。
他には獣人種が多かったが、オークやドワーフが混ざっていたが、学校側として別の応募枠も用意していたのだ。
それは調教師、騎手以外にも馬の調教や育成に携わる厩務員や馬の蹄鉄を作成し装蹄する装蹄師も育成する事もキャメロット本国から招聘される前から教育陣から指示を受けていた。
オルクセン国内にも厩務員や装蹄師は存在するが、スタンブレット種を扱う者はいないため、経験者でも学校にて教育していかなければならないのだ。
それでも技術力に関してはオルクセンは相当上の為、教えて一ヶ月でドワーフ達は技術を完全に習得してしまった。
オークに関しては騎手よりも厩務員を志望している者ばかりであった。
富裕層の間で趣味でメラアス種を育成していたこちらも経験者が多かったが、純粋に生き物を愛し、育ててみたいという好奇心もあったという。
かくしてオルクセン競馬学校第一期生の育成が始まったのである。
これが八七八年一〇月頃の事である。
騎手の乗り方には競走姿勢というものが存在する。
南北センチュリースターが起源とされ、その乗り方をキャメロットで披露したところ、キャメロット人からは木の上に登っている猿のように見える事から“モンキー乗り”と称されている。
当初この乗り方は不格好としてキャメロット人からは忌避され笑い種になっていたが、南北センチュリースターから来た騎手が驚くほど勝率を上げたため、次第にキャメロットの騎手の中でも習得し、受け入れられるようになっていた。
ちなみに南北センチュリーの騎手がモンキー乗りをしている映像を納めた古い映像が残されており、映っているのはショーンであり、騎乗姿をどこでも教えられるように納められたとされている。
モンキー乗りにも種類があり、キャメロット型と南北センチュリースター型があり、南北センチュリースターは平坦なトラックコースがあるため、空気抵抗を減らすことを目的としている。
逆にキャメロット型は起伏に富んだ競馬場が多いので、力を要し、馬を動かすことを重視されている。
現在では更に発展しているが、これは後に語ろう。
遥か年上のダークエルフやコボルトに教えるのは不思議な感覚だったとショーンは語っているが、皆が真面目に学んでいる姿に年齢も種族も関係ないのだと日記に書き記していた。
中でも筋が良かったのはやはりダークエルフで、イアヴァスリル推薦の者達はメキメキと上達しており、キャメロット本国にいる騎手にも負けず劣らずに成長していた。
ただ人族と魔族共通して言えたのは、体重維持による減量などが辛いと騎手候補生達は語っている。
さて一期生の育成が着々と進む中、競走馬の生育も始まっていた。
エルフィンドだけではなくオルクセン国内でも生産育成を行われ始めている。
特にオルクセンではキャメロットだけではなく、評判のいい競走馬の種を付けた繁殖牝馬や幼駒をファーレンス商会経由で星欧中から取り寄せては富裕層の間で少しずつではあるが、皆買い始めた。
それでも本場キャメロットとレベルを比べると雲泥の差ではあるが、オルクセンの競馬は徐々に歩み出していた。
シェーンシュケント競馬場が完成されるまで、旧エルフィンド首都にあるティリアン競馬場がオルクセン競馬の中心であった。
相も変わらずスプリングオブリバティはティリアン競馬場の女王として君臨しており、圧倒的な力を発揮していた頃、ある話題が持ち上がった。
それは新たなクラシック戦線の開設であった。
エルフィンドクラシックは牡馬牝馬と分かれており“2000ガレーステークス”“エルフィンドダービー”“ホーリーレジャーステークス”が牡馬三冠クラシックレースで“1000ガレーステークス”“エルフィンドオークス”の牝馬二冠クラシックレースである。
牝馬のみ一冠少ないが、ホーリーレジャーステークスを勝つと三冠牝馬として認められる。
これをそのままの名前でオルクセンクラシックで行うのはいけないとの話になり、改名することとなった。
まず牡馬クラシックレースは“2000ラングステークス”“オルクセンダービー”“ファルケンハインステークス”に名を改めた。
2000ラングステークスは1600mを走り、獲得賞金2000ラングを支払うことから命名、オルクセンダービーは2400mで最も名誉あるレースに位置付け、ファルケンハインステークスは最長の3200mを走り、その年の最も強いクラシック馬を決めるレースに位置付けた。
牝馬クラシックも“1000ラングステークス”“オルクセンオークス”に加え新たに“アンダリエルステークス”を追加し、1000ラングステークスは1600mを走り、オルクセンオークスは牝馬の中で最も長い2400mにし、牝馬にとって最も名誉のあるレースとして位置付けた。
新設されたアンダリエルステークスは2000mと先の2レースの中間に位置する距離にし、ディネルース妃の名字から借り、命名を行った。
このレースを開設する際に、国王夫婦に許諾を得に行った際には大変喜ばれたと記録が残っており、時間が許される限りではディネルース妃は今でもレース開催日には天覧されている。
さて三歳馬のみのレースを拡充していては、クラシックを終えた古馬たちの立場がない。
そうなるとオルクセン古馬戦線も開設しなければならない。
そこで、キンググスタフステークスの他にもあと二つ追加しようとの事で“エルフィンドカップ”“王室大賞典”を新設し、これを古馬三冠戦線と名付けた。
どれもが当初の国際競争基準を満たしていないが、のちに拡充され、毎月に国際G1が行われていくことになっていくが、クラシックが設立されたのは八八〇年、古馬戦線に関しては八七八年の末頃になる。
レース名考えるの凄くムズカシイ