「確か…ここですわね?」
トレーナー寮、そこの2階へと上がっていけば辿り着く一つの金属の扉。トレーナーさんの家を訪れたのには理由があります。
その理由は肩に下げている保冷バッグ。この中には私が作ったアップルパイが入っており、お世話になっているトレーナーさんへお裾分けをしようと考えては脚を運びました。
午前11時。今日はトレーニングも無いため、きっとトレーナーさんは部屋でゆっくり過ごされている事でしょう。LANEで連絡をしても返信が無く、とはいえこういった生ものは足が早い。勝手に訪れたことに彼に迷惑をかけてしまわないか心配でしたが、それ以上に食べて欲しい、という気持ちの方が勝ってしまいました。
インターホンを押していくと部屋の中から、ピンポーン、という機械音が響くのが聞こえてきます。
数秒。部屋の中から彼の声は聞こえず、もしかしていないのではないか、それとも気づいていないのでは無いかと考えてしまう。
携帯を取り出してはLANEを起動してもそこには既読、という二文字は付いていませんでした。そうなると考えられることは何かに集中しているのか、それとも携帯の電源が切れてしまっているのか。
もう一度インターホンに指を伸ばしてはボタンを押していく。
ピンポーン
機械音がまた部屋の中に響き渡れば返ってくるのは無音のみ。
「もしかして…出かけているのでしょうか…?」
独り言を呟いてはそのボタンにまた指を伸ばしてはただ当てるのみ。もし居ないとなれば何度した所で結局は徒労になってしまう。だけどトレーナーさんに私が作ったものを食べて欲しいという感情が勝ってしまう。
その感情に身を任せてはまたボタンを押していく。
ピンポーン
やはり返ってくるのは無音のみ。今日はきっとお出かけをされているのでしょう。残念ではありますが、一旦寮に帰っては他の誰かに味見として食べて頂こうかしら、なんて考えては扉から離れて背を向けていく。
その離れるのと同時に扉の奥から彼と思われる足音が聞こえてくる。ウマ耳を其方に向けては、音を聞き取り、扉にまた体の向きを戻しては、がちゃんっ、と少し乱暴に開けられる扉の音。
「おい、来るときは連絡しろって何度…言え、ば…………」
「と…トレーナー…さん…?」
「ヴィルシーナ!?どうして家に!?」
彼の姿はいつもと違いました。
**
「恥ずかしい所を見せちゃったね…」
「い、いえ…私も押しかけてしまい失礼いたしました…」
あの後、トレーナーさんの部屋に招き入れられ私はソファーに座っていました。対する彼はアップルパイをアルミホイルで包んでは暖めるための準備。折角持ってきてくれたのだから、という事で今から食べてくれるとのこと。
トースターにそのアップルパイを入れてはタイマーを設定し、ジジジッ、とタイマー動く鈍い音が聞こえてきました。
「その…幻滅した?」
「えっ!?い、いえ…そんなことは…」
いつもとは違う彼の身なり。部屋から出てきた時の彼は黒色の寝間着を着ていましたが、今は着替えてラフな私服姿。ですが、彼の顎には無精ひげが生えており、いつもの柔らかな彼ではなく、どこかもっと男らしさを備えているように見えました。
そして先ほどの言葉遣い。いつもトレーニングの指導や日常の会話では見せない乱雑な言葉遣い。きっとあれが同世代の友人に対してなのでしょう。それにしては少し怒りも籠っていましたが。
更には絶対に私に向けられることのない表情。眉を顰め、瞳を細めては睨むようなその表情。私の姿を見ては直ぐに朗らかになりましたが、忘れることが出来ないほど印象的でした。
「ごめんね。トレーニングも今日はお休みだったから寝てて…全然気づかなかったよ」
「その…はい…大丈夫です…」
先ほどの彼が見せた表情、声色、態度、それら全てが私に普段向けられることのないもの。特別感というものを感じてしまう。
浮ついた気分というのでしょうか。ぼーっ、と何処かでは無い所に視線を向けてしまっており、彼からの言葉に機械のように相槌を打って返答するのみ。
「アップルパイ、楽しみだよ。もうお昼ご飯が近いけど…折角持ってきてくれたしね」
「そう…ですね」
トレーナーさんの言葉の歯切れが悪く、どうやら先ほどの事を気にしているようでした。対する私は未だに先程の事が脳裏に刻まれてしまっている。
それほどまでに私にとっては衝撃的で、そして魅力的にも感じてしまった。
「…ヴィルシーナ?」
はい、と心の無い返事。
彼の足音が近づいてくると、肩をとんとんっ、と叩かれると現実へと引き戻されていく。
「は、はい!?トレーナーさんっ?ど、どうしたんですか?」
「それはこっちのセリフだよ。その…大丈夫?」
「だ、大丈夫です…」
嘘でした。咄嗟に口から出たこの言葉は本心ではありません。
どくんっ、どくんっ、と心臓の鼓動が早まっており、既に気が付いてしまったこの心を止めることはできませんでした。
それほどまでにトレーナーさんを魅力的に感じてしまっている。
ギャップ萌え、という言葉があるのは知っていますがそんなのが陳腐にも思えてしまうほど私は心を奪われてしまっている。
願わくばもう一度だけ見たい、だなんて思ってしまいました。
「えぇっと…そうだ!アップルパイを持ってきてくれたお礼をしないとな。何がいい?」
私の反応が鈍く、そして彼は声を無理に弾ませながら提案をしてくる。私はその声に視線を向けてはここに来た本来の目的が脳裏から消え去ってしまう。
トレーナーさんに普段のお礼として来たはずなのに。その目的では無かったように私の中で都合よく書き換えられてしまう。
「………先ほどの…」
「…?」
声に出そうとすると唇が震え、喉に何かが引っかかったように声が出せなくなってしまう。それはまるで
だけど、それ以上に先程見せてくれた彼の声色。一度深呼吸をしては喉の突っかかりを無くして
「もう一度…先ほどの感じで話して欲しいです…」
「─────────えっ」
素っ頓狂な彼の声。その声で私はとんでもないお礼を頼んでしまったのではないか、と視線を下に向けては彼と目線を合わせないようにしてしまいました。
瞳だけを彼の方に向けては、困ったように頭を掻いて考え込んでいる様子。それもそのはず。こんなお願いをされてはきっとトレーナーさんもどうすればいいのか分からないはず。
「そ、そのっ!やっぱりだいじょ────」
「一回だけ、ね?」
彼がそう答えると一度、こほんっ、とわざとらしく瞳を閉じて咳き込んではゆっくりと瞼を開いていく。その瞳が私に向けられるだけでどくんっ、と心臓の鼓動がまた早くなってしまった。
「ヴィルシーナ」
「は、はいっ」
「いつも
トレーナーさんが私に近づいては前屈みになり、目線を合わせて、そして頭に手を乗せては優しく撫でながら言葉を紡いでくる。私のウマ耳が彼の手によって少しだけ横になり、そしてきーんっ、と耳鳴りがしてしまう。
浅くなる呼吸、彼の言葉が途中で聞こえなくなってしまう。
「──────なんてな。……幻滅してない?ちょっと狙いすぎて怖いな…」
ははっ、と彼は苦笑いを浮かべては私の頭から手を離していこうとする。その離れていく手に私は「あっ」とまるでご褒美を取り上げられてしまった幼子のような声を上げてしまいました。
そして気が付けばその離れた手に私は自分の手を伸ばしてしまい、彼の服の袖を掴んでいました。
「あー…その…珍しいね…?」
トレーナーさんはその手を振り払うことなく、そして私を見つめ続けています。
いつもは彼が使うことの無い言葉遣い。私を担当の年下の子、ではなく対等な存在として一時だけでも言葉として話してくれたソレ。
一度享受してしまえば、もっと求めてしまうのは本能なのです。そして普段見せてくれないからこそ、余計に大きな起爆剤となってしまう。
心臓の鼓動が止まらない。でも不思議と落ち着いてしまっている自分がいる。だけどその鼓動によって大量の血液が体中を駆け巡り、そして少しずつ熱を持ってくるのを感じてしまう。
彼を見つめていくと不思議そうに首を傾げてくる。まるで私に何が起きたのかが知らない彼。
袖を握る力に手が入っては、私はゆっくりと唇を開いた。
「もっと………欲しいです」
もうこの欲は止められなかった。