におい。
花のにおい、雨のにおい、食事のにおい、汗のにおい、お菓子のにおい、ゴミのにおい、ガスのにおい、芝のにおい。
様々なにおいがこの世界には存在しており、良いものと悪いもので分類をされている。匂いと臭い。同じ言葉なのに、意味は異なっていく。
匂いというものは人によって感じ方が異なる、と言うそうです。例えば誰かにとっては雨の匂いが好きな人が居れば、嫌いな人もいる。これは遺伝子、というものが関係している、と何処かで耳にしたことがあります。
生まれつきであるが故に好みが変わる事は余程の事がなければ無いとも言われています。
その中でも大きく、好みが左右するにおいがあります。
それは───────異性の匂い。
私、ヴィルシーナはトレーナー室に足を運んでは、今日のトレーニングメニューを彼に聞こうと思いました。扉を開けては中に入ると、そこには机に突っ伏すような形で寝息を立てている彼。
「……もう、本当に困りましたね」
音を立てないようにしては扉を閉めていき、そして肩にかけている自分の学生鞄をソファーの上に下ろしていく。ここ最近の彼は夜遅くまでトレーニングメニューやレースの研究をしてくれている事を知っています。机の上に増えていくばかりのエナジードリンク。彼は一通りを終えてしまうと燃料が切れたようにこうやって寝てしまっている。
私の為に頑張ってくれるトレーナーさん。それは嬉しい事ではありますが、無茶をしている姿は嬉しくなかった。
いつもの様に彼に近づいては体を揺さぶって声をかけようとするも、その手は止まってしまう。
【知ってる!?男の人のにおいを嗅いだ時、良い匂いって思ったら相性が良いんだって!】
教室で誰かが話していた噂話。眉唾物の話であり、私は気にしないようにしていました。異性のにおい。私はトレーナーさんのことを指導してくれる大人の男性ではなく、1人の男性、として見始めている。いつからそうなってしまったのかは、定かではありません。
気づいた時には彼の視線や声、表情、それら1つ1つが私にとってとても気になるものへ変わっていました。
その中でまだ気づけていないもの。
におい。
「……いえ…はしたないわ、ヴィルシーナ…」
自分を制止するように私はぽつり、と一言呟いていく。今の彼は無防備な状態であり、そしてその首元に鼻を近づけて嗅いだとしても、気づかれることは無いでしょう。
まるでイケない事を、悪い事をしているかのような所業。妙に自分の心臓が跳ねてしまうのは、緊張からなのでしょうか。
彼が寝ているという状況はきっとこれからも何度も訪れるでしょう。ですが、目の前に用意されているこの状況で試さないのは、それは勿体ないとも思えてしまう。
背徳感。普段近づかない彼の距離に近づき、においを嗅ぐ。
だけどこの行為をするに1つだけ、気になってしまう事があった。
もし、彼のにおいが私にとって不快なものだったら?
鼻をしかめ、吐き毛を催し、そして近づくことさえも本能的に拒絶してしまうものだったら?
臭い。生まれつき彼との相性が悪いという事を知ってしまうのは、とても嫌なことだった。今まで彼が好きだという感情が、この他愛ないもので崩れてしまうのではないか。
あまりにも残酷でした。
「でも…もし、よ…もし…」
臭いではなく、匂い、であれば?
トレーナーさんのにおいが私にとって安らぐものであり、胸を高鳴らせる匂い、であれば?
2つに1つの結果。どちらか一方で、そしてそれが変わることの無い結果。自然と私の鼻は彼の首元へと近づいていました。
既に私の顔は彼の肩と首の間。息を止めて、まだ嗅ぐことはできなかった。それだけ、私にとって一世一代の大勝負。
少しずつ苦しくなる。胸が締め付けられ、体は酸素を欲しがり、呼吸を求めてくる。
すぅ、と小さく息を吸った。胸の締め付けがなくなり、少しだけ楽になっていく体。
「……?」
吸った時に入っていくトレーナーさんのにおい。それは不快感はなく、むしろ何処か包み込むようなにおい。
もう一度、すぅ、と息を吸いました。今度は、少しだけ大きく。
「あ……これ、好き…かも…」
自分の体内に広がっていくトレーナーさんの匂い。私の胸を高鳴らせる、というよりは何処か落ち着いてしまうような、そんな匂い。
安心感、というのでしょうか。嗅いでしまえば、先程までの心臓の高鳴りは何処かへ消えてしまっていました。
肺の中の空気を外へと出していく。今度は彼から出ている匂いを肺一杯に満たしてしまいたい、そんな願望さえ生まれてしまう程、好きな匂いだった。
今度は深呼吸に近いほどの深い呼吸。自分の胸元が膨らんでいき、体内を彼の匂いで支配させていく。
これは────────良くないですね。
良い匂いというのは無意識に欲したくなってしまうものだと言います。花やお菓子の匂いを、紅茶やコーヒーの香ばしい匂いを、嗜好の1つとして楽しむこともあるでしょう。
彼の匂いは……それの比では無かった。
嗅いでしまえばより体が求めてしまう程の安らぎと心地よさ。嗅げば嗅ぐほど、ふわふわ、と宙を舞っているのではないかと錯覚する幸福さ。
麻薬。彼の匂いを定義するのであればその二文字が相応しかった。
「……あと…あと一回だけ…」
トレーナーさんが寝ているのを良い事に私は首元の匂いを嗅ぎ続けていく。一回と言っているのに、何度も繰り返すように私は匂いを嗅ぎ続けている。
あぁ、きっと今の私は優等生からかけ離れているのでしょう。
「んん…っ…」
「……っ!?」
寝ている彼の声、それが聞こえれば私は飛び跳ねるようにして離れていく。先程まで落ち着いていた私の心臓は早くなり、そして呼吸が何度も繰り返されてしまう。
もぞり、とトレーナーさんは身動ぎをした後に顔を上げては、周囲を見渡している。私の姿を見つけると、眠そうな瞳で「おはよ…来てたんだ」と小さく挨拶をしてきました。
「お、おはようございます。トレーナーさん…」
「なんだか……顔が赤いけど大丈夫…?」
自分の両頬に手を当てていくと確かにそこは熱を持っていました。これはきっと彼が起きたことで驚き、その緊張のせいでしょう。
「も、問題ありませんよ。気のせいではないですか?」
「…そう?ならいいけど」
私は平静を装うように、トレーナーさんにバレてしまわないように必死にいつもを繕っていく。これは私だけの秘め事。もし露見してしまえば、幻滅されてしまいます。それだけは絶対に避けなければ。
既に肺の中には彼の匂いが残っておらず、名残惜しくも思ってしまう。
えぇ、大丈夫ですとも。今回は気の迷いです。確かに良い匂いでしたが
───────できますよね?
****
「すぅ……はぁ…」
駄目でした、逃れることが出来ませんでした。一度覚えてしまったこの良い匂いは私にとって、麻薬であり、心を落ち着かせるアロマとなっていました。
初めて嗅いだ次の日にはまた同じようにトレーナーさんは眠っており、そして我慢することが出来なかった。最初は耐えようとしました。ですが、一度吸ってしまったそれは、彼に近づくだけでより濃く感じてしまったのです。
そして気づけば首元に近づけて、私はトレーナーさんの匂いを嗅いでしまっている。
彼が寝ているのを理由にして。彼が寝ているのが悪いと、人のせいにして。
そして今日もまた嗅いでしまっている。ここ数日間は彼の匂いを肺の中に貯めては、そのふわふわとした心地よさを味わうのが、トレーニングに行く前のルーティンの1つになっている。
トレーニング中に明日は止めよう、本当にばれてしまう、と思っても止められずにいた。
次の日になっては…また、彼の匂いを嗅いでしまっている。
数日間、毎日のように眠っているトレーナーさんの匂いを嗅いでいると、更に濃いものを求めてしまいたい欲望が出ていました。
もし、彼の腕に包み込まれ、そしてその胸元に顔を寄せて匂いを嗅いだら?私はどうなってしまうのでしょうか。
ヴィブロスやシュヴァル、そして両親に抱きしめられ、家族の匂いを感じたことはあります。皆、どこか安らぐような、心落ち着かせる匂いでした。
トレーナーさんの匂いも同じような匂い。だけど家族の匂いと比べて中毒性があり、一度嗅いでしまえば理性が揺らぎ、もっと求めてしまう。
良くない事だと分かっているのに、彼に包まれて、嗅ぎたいと思う自分が居ました。
「……起こさないと」
一言、呟いた後に最後として、肺一杯に彼の匂いを溜めていく。自分の肺からその匂いが血液に乗って、まるで包まれたかのような、そんな感覚。
所詮は疑似的な感覚です。疑似的なものだからこそ、余計に求めてしまう。
本物を。
****
「こんにちは、ヴィルシーナ。今日は起きてるよ」
「あっ…起きて…らっしゃるんですね」
「さすがに毎日寝てるのは良くないからね。それに忙しいのも落ち着いてきたからさ」
トレーナー室の扉を開けて最初に目に入ったのは起きているトレーナーさんの姿でした。いつものように机に突っ伏して寝ておらず、笑みを浮かべながら私に手を振ってくれる彼の姿。
つまりこれは、私が密かに行っていたルーティンが出来なくなる、ということ。彼の匂いを嗅ぐという行為を封じられている。
「今日のトレーニング内容は準備するから待ってて。最後にこのレポートだけ書き上げちゃうからさ。」
「はい…」
私はソファーに座り、鞄から教科書を取り出しては今日の授業の簡単な復習をしようと思いました。きっと、今日ぐらいは大丈夫です。これをきっかけに彼の匂いを吸うのは止めましょう。良いタイミングなのですから。
1日だけ、今日を我慢すれば今後も耐えることが出来るはず。そう考えながら教科書を手にページを捲っているも、視線は何度もトレーナーさんの方に向いてしまった。私の視線はトレーナーさんの首筋。いつも嗅いでいる、そこに。
「ヴィルシーナ?俺に何か付いてる?」
「い、いえ…何でもありません…」
「そうか?何かあったら遠慮なく言ってくれていいからね?」
言えるわけがありません。トレーナーさんの匂いを嗅ぎたいから首を貸してください、なんて言ってしまった日には彼に幻滅されてしまうでしょう。
……もしも、です。何か都合の良い理由を付けて、彼の匂いを吸うことが出来たら?匂いを吸うことを理由にするのではなく、他の事を理由にして彼に近づくことが出来たのなら?
優等生とは思えないような悪い考えばかりが思いついてしまいました。
私は家族に抱きしめられるのが好きです。お父さんの力強い抱擁が、お母さんの包み込む優しい抱擁が、ヴィブロスの無邪気な抱擁が、シュヴァルの控えめな抱擁が。
トレーナーさんには?
一度もされたことがなかった。
彼はどんな風に抱きしめてくれるのでしょうか。その抱きしめて貰う、というのを理由にして、彼の胸元で吸っていく。過去してみたいと思ったことが、こんな形で叶ってしまうのは早計でしょうか。
いえ、むしろこれは好機と捉えるべきなのです。そう思ってしまえば、私は彼の方に体を向けていました。
「トレーナー、さん。…お願いがあります」
「珍しいね。どうしたんだい?」
キーボードを叩くトレーナーさんの手は止まり、私のほうに視線を向けていく。優しく、柔らかな表情を浮かべ、私が不純な事を考えているのに気づかない無垢な彼。その無垢が故に、ずくり、と胸が重たく感じてしまう。
「……その、よく家族にぎゅってされている…ではありませんか」
「そうだね。仲が良くて羨ましいって思うよ」
「……トレーナーさんに、ぎゅっ、てされたいと言ったら…怒りますか?」
「───────えっ」
勇気を振り絞って彼に告げていく。本当は彼の匂いを吸いたくて、抱擁をして欲しいという嘘と本音を交えて塗り固めていく。
「か、家族以外にされたことが無くて、ですねっ!信頼できるトレーナーさんにされたら、どんな感じなんでしょうかって思って…しまい…」
言い訳をするように、そして最後には声が小さくなってしまう。彼に視線を合わせることが出来ず、そのまま下を向いてしまいました。ちらり、とトレーナーさんに上目遣いで見つめていく。
彼は少しだけ困ったように頭を掻いており、うーん、と唸る声。数秒後、トレーナーさんは椅子から立ち上がっては私の方へと近づいて来ました。
「まぁ…一回、だけね?」
「ほ、本当ですか…?」
「あまりこういうのは良くないけど、君に信頼されているから」
トレーナーさんはそう言いながら両腕を広げていました。
彼に包み込まれる。彼から腕を広げて、待っていてくれている。先程まで胸に刺さるような重い感覚は消えていました。
ソファーから立ち上がり、そうして、吸い込まれるようにして彼の胸元へ。
私の頭は自然とトレーナーさんの胸元にすっぽりと埋まるようになっていく。
そうすると彼は両腕で抱きしめてくれました。家族の誰とも違う、優しくて、でも強くて、心地よくて安心できる、トレーナーさんの抱擁。
包み込まれては私の心臓はどくんっ、どくんっ、と体を揺らしてしまうほど強く鼓動している。
そして、本来の目的である彼の匂い。胸元に自分の鼻を当てては、ゆっくりと吸っていく。彼の匂いを、いつものように肺一杯に吸って─────────
あ…待って、これは─────良くないです。
いつもより、心臓が動いて、体中に直ぐに彼の匂いが支配して────────
頭が、ふわふわして────
ぱちっ、ぱちって弾けるような音が聞こえて──────
幸せな気持ちが、頭に、体に、全部包まれて─────
「───────ーナ?」
トレーナーさんの声が、遠い。聞こえているのに、内容が理解できない。
また、吸ってしまう。首元で吸っていた時よりも深く、いつもより濃い彼の匂い。
大好きな匂い。
「──大丈夫かっ?」
「……え…は、はい!?」
トレーナーさんに肩を叩かれては直ぐに意識を取り戻していく。
私は…先程まで…?
先程までの自分の行いを振り返っては、私の頬が熱くなるのを感じていき、彼から急いで離れていく。私は、私は、とんでもないことを…!
彼に抱き着くだけではなく、匂いを嗅ぐだけではなく、あまつさえ溺れてしまうだなんて。本当にこれは良くありません…!
「あ、ありがとうございますっ…その…た、大変貴重な経験でしたっ!」
「そ、そうか…それなら良かったけど…」
困ったようにトレーナーさんは眉を下げている。当たり前の反応です。抱き着いてはそこから離れることもなく、意識が宙を舞っては飛んでしまうだなんて、彼からしたら驚きでしかありません。
この場に居ても立っても居られず、私は足早に荷物を持っては「さ、先に着替えてきますね!コースで待っていますからっ!」と一方的に告げてはトレーナー室から去っていく。
「ヴィルシーナ、まっ────」
「失礼いたしますっ」
彼の言葉を遮るようにしては、私はトレーナー室から出ていく。廊下を早歩きで、少しでもそこから離れたくてとにかく脚を動かしていました。私は階段を数歩降りた後に、ぴたり、と脚の動きが止まってしまいました。
「あぁぁぁ…どんな顔をして会えばいいのよ…」
1人、誰も居ない階段の踊り場で呟いていく。
こんな事があった直後にトレーニング指導だなんて考えることもできません。自分の欲望を叶えるために行動したことが今になって後悔として襲ってきている。
トレーナーさんの匂いを嗅いだことがバレていないでしょうか。私が抱擁以外もしたかったことがバレていないでしょうか。そんな事が頭の中で思いついては、新しくまた出てきてしまう。
「次こそ…次こそはもうしないわ……!これ以上は本当に……!」
本当に、何?
あのふわふわした状態が続いていたら、私はどうなっていたんでしょうか。倒れていたのでしょうか、それとも幸福に包まれ愉悦に浸っていたのでしょうか。それは誰にも分かりません。
におい。
好きな匂いであれば、嗜好として嗅ぐこともあると言います。
そして、異性のにおいが好みであれば、相性が良いという噂。
我慢をすればよかった。だけど、それが出来なかった。毎日後悔をし、毎日反省をし、そして毎日、彼の匂いを嗅いでいた。
気が付けば、脚はまたトレーナー室へ戻ろうとしていました。進み始めたこの脚は戻る事はなく、求めてしまうように、急ぎ足で。
トレーナー室の扉を開けては、少し驚いたようにトレーナーさんが此方を向いてくる。一歩、脚を部屋の中へ踏み出しては、小さく、私は口を開いていきました。
「トレーナーさん。あの…ですね…」
彼の匂いを定義するならば麻薬。
「もう一度だけ────────」
手放すことができなかった。