「けほっ…けほっ…はぁ……」
ベッドの中で1人で咳をしては、首元までしっかりと布団を被せていく。いつもは騒がしく、そして楽し気な声が響いている寮の中は全て蝉の鳴き声で支配されていました。
「ヴィブロスにシュヴァル…しっかりやってるかしら…。それにタルマエさんにうつってないと良いのだけれど…」
夏合宿。この時期になれば殆どのウマ娘がバスに乗っては海の合宿場まで行くことになっていました。勿論、私も参加表明をしたのですが、夏合宿前日に熱を出してしまい、今はこうやって自室で横になっていました。
ぴぴぴっ、と機械音が自分の脇から聞こえれば、私は体温計を取り出して確認していく。
38.7度。保健室の先生からは風邪と診断され、薬も出して頂きました。
広く、1人だけ残されている寮内。いつもの自室は広く感じ、誰の声も聞こえないこの空間が余計に寂しく感じてしまった。
幸い、寮では食事を作ってくださる方が居るとのこと。それに保健室の先生も面倒を見て下さるので大きな心配はありません。だけど、こんな時に誰も側に居ない、というのが余計に辛かった。
「けほっ…はぁ…トレーナーさん…どうしてるのかしら…」
彼の事を考えていく。今頃は合宿場に着いていてもおかしくはない時間。
「……寂しい……」
ぽそり、と呟く。
耳に響いている蝉の鳴き声がやけに煩かった。
□■□■□■□■
「えー…132、132…ここか?」
栗東寮廊下。
普段は多くのウマ娘達が寝食を共にする場であるが、今日は静かだった。夏合宿へ移動日ということもあり、殆どのウマ娘は既に移動している最中だろう。
俺は携帯を手にしながら、その番号を探しては目的のナンバープレートを見つけていく。
132。
ホッコータルマエから連絡があり、ヴィルシーナが熱を出してしまったという。昨日の夜から調子が悪そうだったと彼女から伝えられ、朝も同様だった。
俺はフジキセキに連絡をし、寮へ立ち入っても良いか、と聞いたところ快く了承してくれたのは助かる話だった。ヴィルシーナの面倒を診るものが居ないとなれば彼女にとって負担となってしまう。だから、彼女の元へ向かっているのだ。
本来は…ダメらしいが。
目の前の扉をノックしようと手を前に出すもぴたり、と止まっていく。ヴィルシーナは体調が悪く、寝ているかもしれない。その状況で無理に起こしてしまうのは申し訳なさが勝ってしまう。
扉のノブを手で掴んでは、ゆっくりと力を込めると開いていく扉。隙間から覗くようにしては、一つだけ膨らんでいる布団があった。
「……寝てる…?」
音を立てないようにして、中へと入っていく。忍び足で近づいてはヴィルシーナの表情を覗いていくと、彼女は寝息を立てていた。
頬は赤らんでおり、少しだけ寝苦しそうにしている。
「…ノックしなくて正解だったな」
ベッドの近くに置いてある緑色の四角いサイドスツールに腰を下ろし、そして2つのバッグを床に下ろしていく。1つを開いていけば、そこからスポーツドリンクにゼリーにプリンといった簡単に食事が取れるもの。
一応寮には専門の調理師がいるとのことで、その人とも会話をし、簡単な療養食を作ってくれるとのこと。とはいえ、食べれるかは分からなかった。
冷えている方がきっと食べやすいだろう、と思い、小さな冷蔵庫にそれらを押し込んでいく。
「…ぅ……」
「…?ヴィルシーナ?」
彼女から聞こえた微かな呻き声。冷蔵庫からヴィルシーナへ視線を移していけば、唇を噛みしめて、苦しそうな表情をしていた。普段見ないその表情。それが俺の心を締め付けてくる。
彼女を安心させたいという一心で、俺は頭に手を伸ばしていった。
「大丈夫、ここにいるから」
ヴィルシーナに言い聞かせるように、彼女の悪夢が無くなるように囁いていく。そして、ゆっくりと、彼女の青く綺麗な髪を梳かすように頭を撫でていく。さらさらとした手触りの良さ、髪の流れに沿うようにして何度も繰り返していった。
少しだけ、彼女の表情が和らいだように見えた。目元の皺が少なくなり、力みが少なくなった、というのだろうか。
気のせいかもしれないが、そう見えただけでも良かった。
「さて、と…このまま眺めてるのもあれだし…」
看病に来たとはいえ、彼女の様子を丸一日眺めているのは流石におかしな話になってしまう。俺はもう一つのバッグからノートパソコンを取り出していく。二つの机、ヴィルシーナ側にある机の上にノートパソコンを置いては椅子に座っていく。
ひとまずは彼女が起きるまで待っていよう。無理に起こしても迷惑をかけてしまうだけなのだから。
壁時計に視線を移せば時刻は10時30分。昼食を取るにはまだ早い。
彼女が起きるまで、夏合宿前に準備していたものでも見直そうか。
****
「…ん……あれ…トレーナー、さん?」
「起きた?おはよう、体調は大丈夫か?」
キーボードを叩いては夏合宿時に申請していたものを別日に変更や、キャンセルといった書類仕事をしていると聞こえてきた彼女の声。其方に視線を向けると彼女はゆっくりと起き上がろうとしていた。
「どうやって…此方に…?」
「タルマエから連絡があったんだ。それで皆夏合宿に行ってるしさ。看病するために来たんだよ」
俺は立ち上がっては、ヴィルシーナの元へと歩いていき、そしてサイドスツールに腰を下ろしていく。冷蔵庫を開けては、そこから購入したものを取り出しながら
「何か食べるか?お腹空いただろ?」
と袋の中からゼリーやプリンを取り出しては彼女に見せていく。しかし、此方に視線を向けることはなく、小さな声で彼女は呟いた。
「……その…申し訳ございません」
「あー…お腹、空いていないか…」
「違います…」
ふるふる、と首を横に振っては否定をしていく。
彼女の否定の意味が俺には理解ができなかった。ヴィルシーナは視線をただ、下に向けたまま、此方に合わせようとはしなかった。
「私のせいで…トレーナーさんにも迷惑をかけてしまいました。夏合宿で…本当は色々する予定でしたのに…」
「仕方ない事だよ。それに…今はゆっくりと体調を治すのが先決だから」
少しだけ、スツールを動かしては彼女に近づいていく。自分の両手の指を絡め、そして覗き込むようにして彼女の顔を見上げていく。だけど、視線を合わせようとはしてくれず、そのまま下を向いたままに横に動かしていった。
いつもは気高いヴィルシーナ。そんな彼女の、ここまで弱々しい姿を見るのは久しぶりの事だった。
「しかし、珍しいね。君のそんな姿を見るのは」
「ふふっ…そうかもしれませんね…」
自虐的に微笑む彼女。今の様子がなんだか痛々しく、胸が締め付けられそうになってしまう。ヴィルシーナは病気で弱っており、精神も衰弱しているのだろう。それに、今はこの寮にはヴィルシーナだけなのだ。1人取り残される環境。それらが合わさっては彼女の思考は後ろ向きになっている。
だからこそ、今自分がここにいる。
病気の時は誰しも弱っては、人によって自分自身に嫌悪感を覚えてしまうこともある。
今のヴィルシーナが正にそうだった。
「ヴィルシーナ、こっち向いて」
「……っ」
ヴィルシーナは此方に視線を向けることは無かった。視線を合わせることが、悪い事だと、そう思えてしまう程だった。彼女の手に自分の左手を重ねていく。
ゆっくりと彼女は此方に視線を向けてきた。その瞳は揺れており、俺という存在を捉えることが出来ていないようにも見えてしまう。
「俺の目、怒ってるように見える?」
「……見えません」
「つまりはそういうこと。君の事を怒ったり、失望したり、そんなことは決してあり得ないよ」
ヴィルシーナは一瞬だけ、口を開いては何かを告げようと、唇が震えていた。それは閉じられ、彼女の視線は握られている手へ移っていく。俺の手を挟むようにして、彼女は手を重ね合わせていき、そして小さく「暖かい、ですね」と呟いた。
「まずは、病気を治してから。それから夏合宿に向かおう。まだ焦る時間じゃないよ」
「トレーナーさん…」
少しだけ柔らかくなる彼女の表情。俺は彼女の瞳を見つめ続けては、逸らすことなく、ただ真っすぐに見つめていた。
「さて…それはそれとして、何か食べる?それとも他に欲しい物でもいいよ」
今日のヴィルシーナは病気なのだ。その精神的にも、そして肉体的にも弱っている彼女を自分ができる精一杯の方法で安らげたかった。片手で袋の中を漁っては中身を確認していると、彼女は枕の上に頭を乗せていく。
「…?食べないのか?」
「まだ…空いていないので。それに、どちらかというともう少し寝ていたい、気持ちですわね」
寝転がったまま、此方を向いては笑みを浮かべている。その表情は先ほどの様な弱々しいものではなく、いつもの彼女だった。それが見れたことに、俺はほっと、胸を撫で下ろしていく。
「…トレーナーさん」
「どうした?」
「少しだけ…甘えてもよろしいでしょうか…?」
ヴィルシーナは恥ずかしそうに、口元に布団を片手で持ってきては隠すようにしていく。それが可愛らしく、そして甘えたい、というおねだりが俺にとっては嬉しかった。
俺の様子にヴィルシーナは口を尖らせては「おかしいかしら…?」と不服気味だった。
「ううん、嬉しいよ。どうされたい?」
「…その、頭を撫でて頂けませんか?」
「頭?いいけど…どうして?」
「小さい頃に両親にされたことがありまして…」
「なるほど」と1つ呟く。彼女にとって今は安心感を得られるものが欲しいのだろう。同室のタルマエもおらず、そして寮の中は閑散としている。そんな状況で1人、寝静まっているのは中々寂しいものだろう。
俺は右手を彼女の頭に伸ばしていく。そうしてゆっくりと、髪の流れに沿うように掌で撫でていく。頭頂部から側頭部へ、そしてまた繰り返すように。何度も何度も、撫でていく。
彼女の髪はさらさらとしており、手入れされていることがよく分かる。
「こんな感じでいいか?」
俺は確かめるように、ヴィルシーナに告げていく。
「……よしよし、と…言ってください」
ちらり、と此方に視線を向けた後に、彼女は逸らしてしまう。此方の様子を伺うような視線。お願いした自分が恥ずかしいのか、先程よりも表情は布団の中に隠れてしまっていた。
よしよし、と言うとまるで彼女を子供扱いしているような。勿論、彼女自身は子供なのだが、普段はそう感じさせない気品さがある。ヴィルシーナ、という存在は言わば女王なのだ。
その女王が、誰にも見せない、自分だけにしか見せない甘えるという行為。
「今日は甘えん坊だね?」
「病気、ですから」
彼女と俺は一緒に笑い合っては見つめ合う。そうして、また手を彼女の頭頂部へ。ぴくり、と彼女のウマ耳が震えていた。
「よしよし」
「……っ、そのまま…続けてください…」
ヴィルシーナの頬は赤く染められている。その表情を眺めながら、俺は小さな声で、彼女に言葉を伝えていった。
言葉を繰り返している内に彼女は瞳を閉じていく。最初に見たときの苦し気な表情は無くなり、安らかな表情だった。彼女の髪を撫でるのが二桁を迎えそうになった頃。すー、すー、と彼女の寝息が聞こえてきた。
「おやすみなさい。君の事を怒る事なんてしないよ。こんなに頑張っているんだから」
寝てしまった彼女に、既に届くことの無い言葉をただ発している。この言葉を直接届けてしまえば、きっと彼女は否定することだろう。だから、俺は言葉ではなく、行動で示そうと思った。
そしてそれがヴィルシーナにとって届いたのかは分からない。だけど、こうやって安心して寝ている。きっと届いたのだと、そう思いたかった。
寝てしまったのであればこれ以上、彼女の傍に居ても起こしてしまう原因になりかねない。そう思えば右手を離していく。次に彼女の手に重ねている左手。それを離そうと思ったのだが、ヴィルシーナの手でしっかりと握られてしまっていた。
寝ているのに、離れたくない、というように。彼女の左手に包まれるように、俺の左手は動かせなかった。
「…参ったね」
小さくぽつり、と呟いていく独り言。彼女が望むのであれば、それに応えてあげるのがトレーナーという存在だ。とはいえ、これはこれで小恥ずかしさもあるが。
手から伝わる体温。その体温はとても暖かった。
夏だというのに、うざったいものではなく、むしろ自分が安心を覚えてしまうような体温。日はまだ真上に上り切っていない。
たまにはこんな日も合ってもいいかもしれない、と思ってしまう。
誰もいない、静かな。本当に静かな寮内。
この世界に居るのは俺と彼女、2人だけと錯覚するほどの、静寂。蝉の声は、全て鳴き止んでいる。
目を瞑り、その手から伝わる体温に身を任せていく。
気づけば彼女と同じように夢の世界に誘われていた。