ある時の話です。ヴィブロスとトレーナーさんがトレーナー室で会話をしているのをソファーに座りながら聞き耳を立てていました。
「トレっち~♡新しく出来たカフェでちょ~美味しそうなのがあるの。一緒に行きたいなぁ」
「また今度な、ヴィブっち」
「………ヴィブっち?」
ある時の話です。シュヴァルと一緒に並走を行ってはトレーニング指導をトレーナーさんから受けていた時。
「トレーナーさん…今日はどうでした?」
「良い感じだよ。今度はコーナーの使い方を学ぼうか、シュヴァル」
「……シュヴァル…」
ある時の話です。私がトレーナーさんと次のお出かけで何処に出かけるのを考えていた時。
「では…次は水族館、なんてどうでしょうか」
「いいね。イベントもあるし、楽しそうだよ。行くなら来週の日曜に行こうか。あ、そうだヴィルシーナはさ──────」
「………ヴィルシーナ…」
そう、そうなのです。私だけフルネームでした。ヴィブロスに対してはヴィブっち。シュヴァルグランに対してはシュヴァル。そして私に対してはヴィルシーナでした。
なんだかちょっとだけ、妹2人がずるいと思ってしまいます。あだ名、とは素敵なことだと思います。2人の間だけの呼び名。シュヴァルは違うにしても、フルネームで呼ばれるのと短縮でその人を指す名称は特別感を感じます。
だからこそ、フルネームで呼ばれてしまうのは少しだけ寂しさも感じてしまいました。ヴィブロスに関しては明らかにあだ名です。だからこそ彼に真意を聞きたかった。何故、あだ名を付けてくれないのか、と。
「トレーナーさん、1つお聞きしたいことがございます」
彼が話している言葉を遮るような形で私は話しかけていく。その様子に彼は目を見開いては驚いた様子を見せていました。
「急にどうしたんだ?珍しいね?」
「その…」
恥ずかしさ。これを聞くことは自分があだ名が欲しい、と思っているように思われてしまう。それに妹2人を特別扱いしていると、嫉妬の感情を持っていることを暗に伝えることになるかもしれません。
自分の両手を重ねては、何度か指を動かしては絡ませていく。強く結ばれる唇。
その様子を彼は見つめ続けており、何も発しない私に対して不思議そうにしていました。ふぅ、と1つ息を吐いては、彼を見据えていく。自分の嫉妬を察せられないように、いつもを振る舞いながら
「トレーナーさんは…シュヴァルとヴィブロスにあだ名で呼んでますよね…?」
違います。それを聞いたら気にしているみたいではありませんか。直ぐに私は顔を横に振っては自分の言葉を否定していく。
「ま、間違えました。何故…私にはあだ名で呼ばないのですか?」
これもこれで違います。余計に彼からあだ名で呼んで貰えない事を気にしているだけに聞こえます。二度目の首を振っては否定を重ねようと思っても、次の言葉が思いつかなかった。
頬が熱い。きっと私の顔は真っ赤になっていることでしょう。視線を下に向けてしまう中でトレーナーさんは口を開きました。
「えぇっと…その…気にしてる、よね?」
「………その、はい」
また熱くなってきました。穴があったら入りたい、と思うのはまさにこのことでしょう。自分の気持ちを誤魔化して聞くつもりが、それすら出来ずに彼にバレてしまった。
私の様子を見たトレーナーさんは口元に指を当てて、少し考え始めました。
「ヴィブロスは…トレっち、て呼ぶからそれのお返しなんだよな。シュヴァルはまぁ…シュヴァルグランだと長いから…」
うーん、と唸りながら考えている彼。もしかして私のあだ名を考えてくれているのでしょうか。それはそれで嬉しい結果。だけど、無理に考えさせてしまうのは申し訳なくも思えてしまいます。
ですが、本音を言えば嬉しいのです。妹2人だけでなく、私自身にも付けられるあだ名。あだ名、というのは他の人とは違う扱い、所謂特別扱いに近いものでしょう。シュヴァルは皆から呼ばれてはいますが、ヴィブロスは違います。
一番付き合いの長い私に、誰からも呼ばれないトレーナーさんだけが呼んでくれる名前。
「ヴィル……シーナ………シーナ?」
トレーナーさんがぽそり、と呟いていく。
シーナ。
私の名前の下半分だけ。誰も呼ばない、彼だけが呼ぶ特別なあだ名。ちょっとだけ、尻尾がぱたぱた、と動いてしまった。
「…シーナ、ですか?」
「シーナ。そうだね、なんというか…しっくりくる」
シーナ。彼が付けてくれたあだ名を自分の心の中で噛みしめるようにして呟いていく。とくんっ、とくんっ、と心臓の鼓動が跳ね始めている。
「もう一度、呼んで下さりませんか?」
「いいよ。シーナ」
「……もう一度」
「シーナ」
ぱたぱた、と私の尻尾が揺れているのが分かる。トレーナーさんにそれで呼ばれる度に、自分の心は豊かになり、そして頬も緩んでしまう。また彼に名前を呼んで欲しくては要望をしてしまう。
「…少し、強めに」
「シーナっ?」
「こ、今度はその…無邪気に…」
「はは、どうしたんだ、一体」
少しだけ困った表情を浮かべる彼。今まで呼んでくれていなかった分を今ここで呼んで欲しくなってしまった。妹2人が私よりも先にフルネームでは無い名前で呼ばれている。それがずるく思えてしまった。私は意外と嫉妬深い姉なのでしょう。
だけど、3人の中でトレーナーさんと付き合いが長いのは勿論私です。だからこそ、譲れないものがありました。
「…ふふっ…良いですわね」
シュヴァルとヴィブロス、2人を少し追い越したような気分。あだ名を付けられ、トレーナー契約を一番長く結んでいる。トレーナーさんが一番に想っているのが私であり、そして私が一番に想っているトレーナーさん。そうでなければ悔しかった。
レースでも、学園生活でも、ちょっとしたことでも、彼の心も。
全部私が一番でなければ納得いきません。
「ごめんね。シュヴァル、ヴィブロス」
小さな声でトレーナーさんにも聞こえないように謝罪をする。これは過ちについての謝罪ではありません。勿論、悪い事をしたことによる謝罪でもありません。
「…トレーナーさんの一番は、私のものだから」
この芽生え始めてしまった心に対する、謝罪でした。