死がふたりを分かつまで。
2人の絆はどちらかが死ぬまで続く。一方が死ぬまでお互いを大切にし続ける。生きてる間はお互いに強く、固く結ばれた絆、または愛で結ばれ続けるのだ、と。
そう聞いたことがある。
だが、1つ思ったのだ。一方が死んだ場合は?
その絆は、愛は、果たして消え去ってしまうのだろうか。死んだ相手を想うことは無く、その人を忘れ、次なる絆や愛を求めるのだろうか。
もしそうなのであれば、これほどまでに悲しいものは無い。
残された一方は死ぬまで想い続ける。
死んだ一方がどう思うかは分からない。悲しむかもしれない。嬉しがるかもしれない。だけど、それは誰にも分からないのだ。
その日が来るまで。
****
カーテンから差し込む太陽の光、それで目を覚ますのは果たして何度目だろうか。片手を目の前に持ってきては光を遮っていく。午前7時。壁時計に掛けられた数字にはそう書かれていた。
「…けほっ…もうこんな時間…起きるか」
気怠い体を起こしていき、また一度咳き込んでしまう。胸の辺りが苦しく、その苦しみを押さえるように片手で強く掴んだ。
何度かの咳き込み。前屈みになっては自分の肺と心臓を潰すようにして、無理矢理抑え込んでいく。数十秒後には先ほどの苦しみは和らいできた。
「…薬、飲むか」
バッグの中から取り出すは複数の錠剤。それを木製の机に並べていき、個室に備え付けられた小さな冷蔵庫からペットボトルを掴む。口の中に錠剤を放り込んでは、水で無理矢理流した。
ペットボトルを机の上に置いては正面に見えるカーテン。それを勢いよく開いていくと太陽の明るい光が部屋の中を照らしていく。その光は眩しく、そして身を焦がすほどに暑かった。
「…今日も暑いな…夏合宿、これが続くのか」
ぽつり、独り言を呟いた。
トレセン学園の夏合宿、自分の担当ウマ娘とここに来たのはよかった。しかし、この暑さである。部屋にいるだけで額から汗が流れ、喉が渇いてしまう。二度目の夏合宿だというのに、まだこの環境には慣れなかった。
既に汗で濡れている服を脱いでは着替えていく。夏合宿が始まって一週間が既に経っている。時間は無駄には出来ない。朝食を取って、まずはあの子を迎えに行かなければ。
「今日のトレーニングは…昨日と同じく砂浜の…だっけか」
自分に言い聞かせるように予定を呟いていく。服を着替え終えれば、鍵を掴む。
向かう先は合宿場に備え付けられた食堂。其方へ足を運んだ。
****
朝食を取り、時刻は午前9時。砂浜を照らす太陽はより熱く、そして天高く見渡せる場所に昇っている。まだ昼の時間にはなっていないというのに、これ以上に熱くなる、と予期させるようだった。
「今日は軽めに流そうか。水分補給はしっかりね」
「分かりました。これなら…夜間のトレーニングも考えないといけないですね」
「そうだね」と1つ返していく。既にセパレート型の学園指定の水着に着替えた彼女。深い青色の尻尾と長髪、前髪には白くすこし下に伸びた菱形の流星を携えている。その彼女は正面に向き合うように立っては、首を少しだけ傾げてきた。
「トレーナーさんも体調にはお気を付けて」
「ありがとう、ヴィルシーナ」
一言お礼を告げていく。
ヴィルシーナ。それが彼女を定義する名前だった。
ヴィルシーナをスカウトしたのは1年前。彼女の走りを初めて見た時の話だった。
目を逸らすことを許されないほどの堂々とした走り。既に風格というものを漂わせていた。だが、それでも己を高めようとする姿に見惚れてしまったのだ。ジェンティルドンナを超えようと決めた彼女の意志を、そして妹2人に誇れる姉としていられるために。
彼女を導きたかった。
眩しかった。ヴィルシーナの生き様は。折れることなく、折れそうになっても立ち上がるその姿が眩しすぎたのだ。
自分の体を焦がすほどに。その眩しさに憧れを抱いてしまう程に。
彼女を支えたいと思ったのだ。
「本日も砂浜で走りのトレーニングでしょうか?」
「勿論。来週くらいからは夜間のコースで走れるように準備も進めるよ」
彼女は聡明だった。トレーニング内容を把握してくれ、そして何故しているのか、をしっかりと理解をしてくれる。全てを言わなくても、肌で感じ、自分で咀嚼をして理解をする。最初で最期の担当ウマ娘がこの子で自分は幸せ者だ、と感じてしまう程だった。
タブレットを操作しながら、ヴィルシーナに説明をしていく。彼女は何度か頷いては「わかりました」と告げて、砂浜へと向かっていった。ストレッチを始めたヴィルシーナ。その様子を眺めながらもタブレットで来週のコース場の予約を確認していく。
幸いにも複数日時空いていたため、そこに予約を入れていく。まだ夏合宿は一ヵ月以上あるのだ。この期間が彼女が成長するための大事な時間。ここを台無しにしてしまえば、来たる最後のトリプルティアラ、秋華賞も勝てなくなってしまう。
トリプルティアラ。桜花賞、オークス、秋華賞の三つを制したものだけに与えられる称号。数少ない称号であり、女王を目指すものとしてヴィルシーナは目指していた────────
彼女はもうトリプルティアラを取ることはできない。彼女が超えようと目指しているかの人物。
ジェンティルドンナ。
既に桜花賞、オークスの二冠の栄光についてはジェンティルドンナに取られてしまった。最後の冠である秋華賞。これだけはどうしても勝ちたかった。
女王を目指す彼女に一つでもティアラを、そう願って。
今日も一日を生きていく。
****
それから日にちが経ち、今日はコース場へと来ていた。夏合宿場に備え付けられた芝のコース。今はヴィルシーナとトレーナーの2人だけであり、コース場は照明によって照らされている。虫の鳴き声と月明かり。太陽が出ていた時の時間と比較して、気温は落ち着いており、流れ出る汗は少なくなっていた。
「あと一周!ペース落ちてるぞ!」
「…っ!はいっ!」
ストップウォッチを持った状態でヴィルシーナへ声をかけていく。芝のコースで走っている彼女の足取りは少し重かった。脚を上げる高さは徐々に低くなっており、それでも前へと進めている。ジェンティルドンナに負けた原因は基礎の違いが大きかった。
スタミナ、スピード、脚の使いどころのレース理論。それら全ては一級品と言っても過言ではないだろう。この夏合宿中には基礎を鍛え上げて、彼女に超えられるようにする。
だからこそ、芝のコースで実際に走って貰い、その中でスタミナの消費方法やコースを曲がる時の体の使い方を彼女に指導していく。
最終コーナーを曲がってきた彼女に大きく声を張り上げた。
「最後の直線!スタミナ使って伸ばして!」
「────はぁぁぁぁ!!」
雄叫びを上げながゴール板の前を通り過ぎていく。それと同時に手に持っていたストップウォッチも止めていった。
記録、2分2秒。2000mのコースで、そして何周か走った後の記録。出来としては上々だろう。
ヴィルシーナは両膝に両手を添えては肩を揺らすほどに呼吸を繰り返している。ベンチに置いてあるタオルとドリンクを持っては彼女に近づいていった。
「お疲れ様。タイムとしてもかなりいいよ」
「はぁっ…ありがとうございます。頂きますね」
タオルとドリンクを受け取ったヴィルシーナは汗をまず拭いていった。そうしてドリンクの蓋を開けては飲み始めている。
「この後はストレッチでしっかりクールダウン。そしたら今日はお終い」
「ん…んくっ…ふぅ…。わかりました。中々今回のはハードでしたね?」
「あー…やっぱりきつかった?」
「そうですね…。ですが、此処で立ち止まるわけにはいきませんから。むしろ、強くなっている事が自分でも分かりますので嬉しく思います」
そうしてヴィルシーナはふふっ、と1つ笑みを浮かべる。そう言ってくれるだけで助かってしまう自分がいた。
さて終わりとなるのであれば片づけをする必要がある。といっても今回は芝のコースで走る事を慣れて貰うためであり、機材については借用はしていない。
(照明を消して、コース場の鍵を返せばよかったはずだよな)
そう思い一言、彼女に言葉を告げていく。
「照明、消してくるよ。コース場の入り口で待ってて」
「わかりました」
彼女に背を向けては奥の方へ歩き始めていく。簡易的な観客席の中に1つ備え付けられた一室、その中へと入っていけば配電盤があった。全ての照明を消すスイッチ、それを押していくとパチンッ、という音と共に自分の背を照らしていた光が全て消えていく。
彼女の元へ戻ろうと脚を動かした瞬間───────
苦しくなった。心臓を締め付けられ、肺の空気が全て無くなってしまう息苦しさ。
「…っ…はっ……!」
自分の心臓を片手で掴む様にして押さえ、その場にうずくまっていく。ひゅっ、と細い呼吸音のみが部屋の中に響き渡り、その苦しさを体を丸めては無理矢理抑え込ませる。
額と背中には暑さとは違う汗が流れ出ており、やけに粘着性を持っていた。
「まだ…大丈夫…大丈夫だ……っ」
自分を安心させるように何度も呟いていく。その呟きと共に心臓の苦しみは和らいでいき、自然と呼吸も出来るようになっていった。
生きている人生の中で繰り返される偶発的な発作。もう両手両足を使っても数えきれないほど起こしているが、未だに慣れることは無い。
両足で立ち上がっては、心臓の鼓動を確かめるように掌を当てていく。どくんっ、どくんっ、と自分が生きていることを証明するように動いていた。ふぅ、と安心したように1つ息を吐いていく。
今度こそ、扉を開けては外へと出ていく。
コース場は暗く、唯一の明かりは空に浮かんでいる月明かりのみ。汗をかいていたせいか、夜風が妙に心地よかった。芝を踏み分けながら、コース場の入口へと歩いていく。
少しすれば、座りながらストレッチをしているヴィルシーナが見えてきた。
「ストレッチ中?」
「はい、もう少しで終わりますので」
「じゃあ、終わるまで待っているよ」
「ありがとうございます」と彼女が顔を上げてお礼をしてくる。それに微笑んで返してはヴィルシーナが言葉を続けた。
「そういえば、戻ってくるのが遅かったのですが何かありました?」
どくんっ、と心臓の鼓動が強く跳ねた。
「暗くなった後にちょっと考え事しててさ。それのせいかな」
彼女に悟られない様に必死に繕っていく。自分の笑顔は変では無いか、声は震えていないか。彼女を心配させまいと自分を仮面で覆っていく。数秒後には
「珍しい事もあるんですね」と笑顔を浮かべて返してくれた。
胸を撫で下ろした。彼女に気づかれなかったことに。
生まれつき体が弱かった。それも、運動なんて出来ないほどに。こんな事を言ってしまえばきっとヴィルシーナは気を遣ってしまうだろう。
彼女は優しく、真面目だ。優等生と言葉が似合うほどに。だからこそ、体の弱さのせいで彼女に負担をかけたくはなかった。
「よし…終わりました」
「行こうか」
ストレッチが終わったヴィルシーナと一緒にコース場から出ていく。鍵もかけては2人で横並び状態。コース場は森に囲まれた場所にあるため、歩いて帰るには少し時間がかかるのだ。
「明日はどうしましょうか」
「そうだね…明日は海で水泳でもしようか。今日は脚をかなり使ったから消耗もしたくないし」
「確かにそうですね。では、水着を着て集合でよろしいでしょうか?」
「それで問題ないよ。朝は無しで午後からしようか」
そんな他愛ない話をしながら会話を交えていく。歩いていく中で森を抜けて、海が見える堤防まで出てきた。後はこの堤防に沿って歩けば合宿場まで辿り着く。
夜風は海風へと変わり、それは潮の匂いを運んできた。夏の真っ只中ではあるも夜は涼しく、散歩をするのも悪くはない、そう思えてしまう。
視界を海の方へ向けていく。広く、そして暗い青は月明かりによって照らされており、その光をきらきらと反射させていた。昼とは違い、誰もおらず、水平線まで見えてしまうほど良く澄んでいた。
「海、お好きなんですか?」
「…えっ?」
「ですから、先程から見てらっしゃるので。お好きなんですか?」
「そうだね…。好き、なのかもしれない」少しだけ歯切れの悪い答えが出てしまう。
「かも?」
「かも。多分、好きなんだろうね、俺は」
また歯切れの悪い答えを返してしまう。
それに彼女はおかしそうに笑いながら「変なトレーナーさん」と言われてしまった。俺も困ったように苦笑してしまう。
「私は…海が好きです」
「それはまたどうして?」
「全てを包み込めるほど広く、そして深いからです。後は、きらきらしてとても綺麗で…今の海みたいな。勝負服のモチーフにもするほどですので」
「広く深くね。誰でも受け入れるような、そんな感じかな?」
「はい」ヴィルシーナは1つ、頷いた。
2人で堤防に腕を乗せては、その海を眺めていた。ヴィルシーナは視線を此方に向けては、小さく微笑んでいる。
「トレーナーさんにも海が好きになって欲しいです」
「俺が?」
「えぇ。かも、なんでしょう?もし可能であれば、好きになって時折こうやって一緒に見に来てくれる…なんて我儘でしょうか」
口を少し開けては呆けてしまった。まさかそんなことを言われるとは思わなかったからだ。直ぐにその開いた口を閉じては笑みを浮かばせ「じゃあ、いつかは好きになるかもしれないね」と返した。
「待っていますから」と尻尾の揺れている彼女。
堤防から手を離しては、2人で合宿場に向かって歩き出した。静かな海を眺めた時間。
彼女は受け入れてくれるのだろうか。それとも拒絶をするのだろうか。はたまた心配をするかもしれない。苦労をかけるかもしれない。
そんな深く、暗い海を横目に見ながら、胸の中で思った。
(俺は…多分───────かも、から変わらないんだろうな)
****
夏合宿が終わり秋華賞に向けたとある日のことだった。一か月に一度の定期健診の日。薬を貰うために病院に向かっていた時のことだ。
既に世間は夏休みが終わったというのに、暑さはまだ続いている。外を歩くだけでも額に汗をかき、背中に張り付く服が気持ち悪く感じてしまう。そんな日だった。
今日はトレーニングをお休みにし、電車で総合病院に向かっていた。都心部であるため、駅のすぐ近くにあるのは実際助かっている。いつものかかりつけ医に問診と心電図、血液検査を受けてはソファーに座りながら結果を待っていた。
この定期健診にも慣れてしまっていた。既にこれも数えきれないほどしている。最早日常の一つとなっているのだから。
携帯を手にしながら、ウマッターに流れる内容をただ眺めていく。最初は暇つぶしのつもりだったが、1つ気になってしまう単語が見えてしまった。
【次なるトリプルティアラの誕生か】
秋華賞、という三文字を検索していけば、やはり話題になりつつあった。その殆どが次の勝利はジェンティルドンナと疑っていない内容ばかり。ヴィルシーナについても触れている内容はあったが、どれも二着が順当と行きついていた。
はぁ、と溜め息を吐いてしまう。応援している人はいるものの、その希望に答えられない事。そしてあの子自身の夢を叶えてあげられなかった事に胸を痛めてしまう。
秋華賞に向けてトレーニングをしてはいるも、ジェンティルドンナを研究すればするほどに嫌でも脳裏に二文字が過ぎってしまう。
敗北。その二文字を見えない様にするため、秋華賞についてそれ以上は調べなかった。
【────さん、2番診察室へお越しください】
自分の名前が聞こえた。もうそんなに時間が経っていたのか。携帯の時計を確認すれば待っていて欲しい、と言われて既に30分以上経っていた。
ソファーから立ち上がり、そのアナウンスが指定した診察室へ足を運んだ。
横開きの扉、金属の取っ手を掴んでは力を込めて開けていく。やけにこの扉が重く感じた。
開いた先には白衣を着用し、白髪交じりの男性が椅子に座って此方を見ている。
「あぁ、どうぞ。座って下さい」
指示されるがままに丸椅子に座っていく。座ったと同時に目の前に今回の診察結果が記された用紙を手渡された。
「…書いてある通り、良くありません。心臓の機能の数値があるんですが、見ての通り悪い」
「それは…重々承知しています」
元よりこの体は既に限界を迎え始めていた。小さい頃から体が弱く、大人になったら自然と免疫もついて治るものかと思ったが、現実は違ったのだ。
母親と父親、両方に遺伝性の疾患を持っており、それが見事に遺伝した。しかも早期に発病をしたのだ。先天的に心臓が悪く、まともな運動もできない体。少し走れば息切れを起こし、その場で蹲っては動けなくなってしまう程の病弱。
普通の生活ですら薬が手放せない。薬を飲むことで健康的な体と誤魔化しながら生きている。
それが今の人生だった。
「入院する気は…相変わらず?」
「した所で劇的に治るわけでもないのは知っていますから。それなら残された時間を精一杯生きたいので」
「ふむ…」と困ったように腕を組んでは唸ってしまう。両親は既に他界しており、祖父母も既に同じだった。唯一血縁といえば遠くの親戚だが、殆ど顔を合わせたことが無いのだ。
精々、祖父母が亡くなった時に顔を合わせて挨拶をした程度である。
今更入院をしては無理に生きた所で誰かが喜んでくれるわけでもあるまい。そう思っては自嘲気味に鼻で笑ってしまった。
「どうされました?」
「あぁ…いえ、なんでも。今日もいつも通り薬を出してくれますか?」
「えぇ、一か月分出しておきましょう。また来月来て下さい」
「ありがとうございます」と頭を下げてはお礼をしていく。診察結果の用紙を折りたたんでは小さなショルダーバッグに押し込み、診察室から出ていった。
病院の窓口で会計を行い、それと同時に袋に入った薬を受け取っていく。これが自分にとっての唯一と言ってもよい生命線。
まだ死ねない。
ヴィルシーナの生き様は自分にとって道標だった。彼女の女王たらんとする走りは、自分の人生に光を灯してくれた。元よりウマ娘の走りに見惚れ、そこからトレーナーになったのは良かったが、担当を持つことも出来ずにいた。
そんな中で自分の視界に入ったのがヴィルシーナだった。まだまだ粗削りではあるも、その優雅さと風格は他のウマ娘と比べても比較にならないほどだ。この子と駆け抜けたい、そう思って彼女の事を必死になって調べた。
彼女は妹達2人にとって立派な姉であるために、その姿を見せるために走ると決めていた。家族に女王としての強さを、気高さを見せるために。
既に家族がいない自分にとっては眩しすぎたのだ。だが、その眩しさが既に先の見えない人生に明るく灯してくれた。だからこそ、彼女をスカウトした。
病院のエントランスから出た途端に太陽の熱と宙に纏わりつく湿気が体を襲った。むしむしとした暑さは未だに健在であった。もう9月だというのに秋の訪れは何処へいったのやら。
(さっさと帰ろう。トレーナー寮に帰ったら…新しいトレーニングの論文が出てたしそれでも読むかな。いや、それかレースでも見てヴィルシーナに合いそうな理論を構築できないだろうか?)
一度思案すれば考えてしまうのはレースの事ばかり。それも全て彼女が起点となっている。歩きなれた道を人の流れに逆らわないで駅へ向かっていく。視界の端に映る人々を焦点に捉えず、ただ背景となって流れていく。
暑い。人が多いせいか妙に体が蒸されているような気がした。少しだけ歩幅を速めていく。帰ったらまずは飲み物でも飲んで──────
「─────さん」
誰かの声が聞こえた。何処か聞いたことのある声だったが、気のせいかもしれない。聞き間違いだと思い、歩幅を速めればその速めた脚を制止するように腕を掴まれた。
「トレーナーさんっ!」
「……ヴィルシーナ?」
振り向いた先には彼女がいた。トレセン学園の制服を着ており、肩にはバッグをかけている。彼女は一度、ふぅ、と息を吐いた後に笑顔を浮かべた。
「奇遇ですね。何処かへお出かけしていたのですか?」
「あ、あぁ…そうなんだよ。ちょっとレースの教本を買いに行っててさ」
直ぐに袋を自分の背後に隠していく。彼女に自分の秘密を見られない様に。
その行動を彼女は不思議そうに首を傾げては言葉を紡いだ。
「教本、ですか。どんなものですか?」
「そんな見せるほどじゃないよ。また今度でいいかな?」
「……何か変なものでも買ったんですか?」
じと、と瞳を細めては見つめてくる。その視線に合わせては、必死に笑顔を繕った。
「変なものなんか買うわけないよ。それにほら、秋華賞も迫ってるんだから教本で変な事をヴィルシーナが覚えるより、俺が考えた方がいいだろ?」
「それはまぁ…そうかもしれませんが」
「そうそう。あ、ところでヴィルシーナはどうしたんだ?」
このまま会話を続けるのも憚られる。彼女に悟られない様に話を変えようと質問をした。
「秋服を見ようと思いまして。気になったブランドが新作を出しているので、それのチェックですね」
「…こんな事言うと失礼だけど、ヴィルシーナってオシャレ好きだよね」
「ふふっ、自分らしさを出せますから」
口元を隠しては上品に笑う彼女。歩道の真ん中で話すのも邪魔になるだろう。2人で隅へと歩いていき、日陰へ足を運んでは会話を続けた。
「というか見に行くなら俺と話していていいのか?」
「…そこは一緒に行って下さる、わけではないのですか?」
「俺と?」
「えぇ」こくん、と彼女は頷く。
一緒に行った所でどうにもそういったファッションやブランドからは縁遠い。彼女に連れられたとしても殆ど分からないだろう。そんな分からない人物と一緒に行ったとして、果たして彼女は楽しいのだろうか。
「詳しくないよ。ファッションとか」
「構いません。私が一緒に行きたいのですから。あ、ですがトレーナーさんの用事もあるかと思いますし無理にとは言いません」
片腕を組んでは少しだけ考えていく。トレーナー寮に帰ったとしてもトレーニングの事を考える一日。勿論、それは重要なのだが夜にしても大きな問題ではない。それに息抜きであるならヴィルシーナに付き合っても悪くは無いだろう。
彼女のことをより知れるのなら良い機会だ、と考えては1つ頷きを見せた。
「いいよ、一緒に行こうか」
「本当ですか?では早速行きましょうか」
彼女と横並びになり、人込みの流れに沿っては歩いていく。思わぬ予定外の出来事。だけど彼女に誘われてしまうことに嬉しさを感じた自分もいる。
ヴィルシーナに見えない様にその袋をショルダーバッグへ無理矢理押し込んでいく。診察結果の用紙がくしゃくしゃになる事を気にしない様に、強く押し込み、チャックを閉めた。
****
一ヵ月が経ち、秋華賞を迎えた。ヴィルシーナを見送った後にシュヴァルとヴィブロスの2人の元へ。既に2人とも一番近くで見れる場所を陣取っており、俺もその横に並んだ。
「凄い人だね、迷わなかった?」
「大丈夫だよ、トレっち。お姉ちゃんのレース、ちょ~楽しみ♡」
「はは、ヴィブロスはいつもそれだね」
うんうん、と嬉しそうに頷いた後に彼女は手をヴィルシーナへ大きく振っていく。パドックにいる彼女はそれに気づいたのか、控えめに手を振り返してきた。それに俺も合わせては振り返す。自分の隣にいるシュヴァル。彼女は深く帽子を被っては僅かな視界で、ヴィルシーナを捉えていた。
「…トレーナーさん」
「どうした?」
「……姉さんは…勝てますか?」
此方に表情を向けてくるシュヴァル。いつもの何処か怯えた表情、だけど彼女の瞳は違っていた。何か闘志でも宿ったような、そんな瞳だった。
「勝てるよ、きっと。それに2人の応援があればヴィルシーナはもっと頑張れるはずだから」
「…僕なんかの…」
「いるよ。ヴィルシーナはお姉ちゃんなんだから。妹に応援されて嬉しくない姉はいないよ」
小さく、彼女を諭すように言葉を告げていく。片手でシュヴァルは帽子のツバを指で挟んでは、表情を隠してしまった。きっと彼女なりの照れ隠しなのだ。不器用なシュヴァルのそれに思わず頬が緩んだ。
今日のレース、秋華賞はまさに熱狂という言葉が似合っていた。数少ないトリプルティアラ、それが目の前で見たいとレース場には人で溢れ返っている。そして、そのトリプルティアラを阻止するべくヴィルシーナに期待する人もいたのだ。
赤と青、一着と二着。2人を対比する色と着番が常に同じであること。
まさに運命の悪戯と言っても過言では無かった。
レースの神様がどちらに微笑むのか。
紅き豪傑と蒼き風格。二番手がついに栄光を掴むのか、それとも一番手が全てを薙ぎ払うのか。最早今回のレースにおける一番の注目はそこだった。
この秋華賞のレースは負けられなかった。ヴィルシーナにトリプルティアラの1つである冠を渡したかったからだ。妹達の為に頑張る彼女の想いに応えたかった。しかし、それは春のレースではできなかったのだ。
となればすることは1つだった。
ヴィルシーナの為に最大限に出来ることを。自分の体を犠牲にしても良い。元より長くはない命だった。それならば、小さく燃えている命の蝋燭を、彼女の道を照らすための大きな光へと変えよう。
毎日、ジェンティルドンナを研究した。彼女に勝つために。その強さに何度も目を背けたくなったが、それでも逸らすことはなかった。
ヴィルシーナの為に指導を惜しむ事は無かった。昨日の彼女より、小さな一歩でも強くなれるように本を読み漁り、過去のティアラ路線を走ったウマ娘からレースの傾向を掴んだ。
そしてそれに反応するように蝕まれる自分の肉体。時折苦しくなり、トレーナー室で悶えることもあったがそれがむしろ嬉しかった。自分の肉体が滅びに近くなれば、それだけジェンティルドンナを超えることが出来る。その一歩を踏み出せている。
そう思えたのだ。
パドックのウマ娘達は挨拶を終えてゲートへ向かっていく。周囲の歓声は更に熱を帯び、思い思いに声を挙げては応援をしている。その歓声が耳に入っているのに、心臓の鼓動が聴覚を支配していた。耳鳴りがする。鼓動は強く、早く、吐き気すら催しそうだ。柵を握る手に力が入る。
「頑張れー!お姉ちゃーん!!ほら、シュヴァちも!」
「が…頑張れーっ…!」
控えめながらも声を張り上げるシュヴァルと嬉しそうなヴィブロス。視線がヴィブロスと合えば彼女は少し不満そうな表情を浮かべた。
「トレっちも!」
「あぁ…そうだな。頑張れっ!!ヴィルシーナ!」
声を張り上げては応援する。この心臓の鼓動を押さえるほどに強く、そしてゲートへ入った彼女に届くように声を張り上げた。
きっと、勝てるようにと願いを込めた───────────
────────運命というのは残酷なものだ
たとえ応援しても、どれだけ命を賭しても、まるでそれを嘲笑うかのように世界は突き放すのだ。これが決められた人生だ、と。
【ジェンティルドンナっ!!一着!!トリプルティアラウマ娘が今ここに──────】
聞きたくなかった。耳を塞ぎたかった。自分の少ない命を賭けても、ヴィルシーナに恩返しができないのか、と。家族を想い、走る彼女に一体何が足りないのだろうか。
全てを薙ぎ払うような力?
それとも別のなにか?
今見ている世界がゆっくりと進んでいる。早く終わって欲しいのに、無限に続いていくようなそんな時間だった。
今、ヴィルシーナはどんな顔をしているのだろう。そう思って視線を動かしては、彼女を探す。
しかし、視界に彼女を捉えれなかった。
「──────ごほっ…!かはっ……!」
いつもとは違う咳。両手で押さえては咳き込むのを必死に止めようとする。咳は収まった。だが、自分の掌には赤黒い塊のようなものが付着していた。粘着性があり、それがぼとり、と地面に落ちていく。
それが落ちたと同時に膝から力が抜けてしまう。
「トレーナーさんっ!!」
「トレっち…!?」
シュヴァルとヴィブロスの声が聞こえる。多くの歓声の中で、2人の声だけがやけに脳内に響いた。
******
目が覚めた。白く清潔な天井、先程まで見えた青く晴れた空では無かった。意識が戻る前に聞こえていた歓声は無くなっており、時計の針が進む音と本の捲れる音が響いている。
状況を確かるために視線をゆっくりと横へ向けていくと、そこには見知った顔が居た。
「…ヴィルシーナ…?」
「トレーナーさん…!起きたんですね、少し待っていてください。直ぐにお医者さんを呼んできますから!」
本を読んでいた彼女は病室から出ていってしまった。倒れる前に感じていた胸の苦しみ。それは既に無くなっている。自分の心臓に手を当てれば、とくんっ、と鼓動をしていた。
なるほど、どうやらまだ生きているらしい。死ぬにはまだ早い、と神様が言っているのだろうか。
次に扉の開く音が聞こえた時にはヴィルシーナとかかりつけ医だった。其方に向くために力を入れて起き上がろうとするも、違和感を感じた。
「今の日付は分かりますかな?」
「……どれくらい、なんでしょうか」
医者からの問いに答えることが出来なかった。彼女が携帯を取り出しては日付を見せてくる。
11月1日。つまり、一週間以上寝ていたのだ。やけに力が入らないかと思えばそういうことだったのか。自分の体が限界を迎え、そして眠りについた。時間が経っては体力が回復したのと同時に眠りから覚めたということだろう。
素人感覚ではあるも、そう理解した。
「…トレーナーさん…本当に大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫だよ。なんともないから」
腕を広げては大袈裟に振る舞っていく。実際の所、快調といっても良いほどだった。今なら運動をしても咳き込むことも、ましてや無理をしても問題ないのではないか。そう思えてしまう程に。
しかし、そう振る舞っていてもヴィルシーナは表情を和らげなかった。
「…トレーナーさん…あの─────」
「あっ!トレっち起きてる!大丈夫!?」
ヴィルシーナが言葉を出そうとした時に、病室の扉が開いた。そこにはヴィブロスとシュヴァル、そして彼女達の両親も来ていた。
「大丈夫ですか、トレーナーさん」いつもの豪快さとは違う、厳かな父親としての表情。それに思わず驚いてしまった。
「あぁ…はい、ご心配をおかけして申し訳ありません」
一度頭を下げてはお礼をしていく。来てくれたことは嬉しかった。だが、まさかご両親すら来るとは思っておらず、変に緊張してしまう。
「もう、本当に心配したのよ。ヴィルシーナちゃんのトレーナーさんが倒れたって聞いて…お世話にもなってるから顔を見に来たのだけど…」
「はは…嬉しい限りです」
自分の笑顔が強張っているのを感じる。これは遠慮からなのだろうか。それとも違う何かか。
ヴィルシーナの家族一同が集合したことに医師は少し困ったように表情を曇らせた。
「あー…患者さんに説明、あと起きたばかりなのであまり無茶をさせないでください」
「それは失礼しました。顔も見れたことだし…トレーナーさん、後でお話できれば」
「分かりました」
ヴィルシーナの父親からそう言われてしまえば気が引き締まってしまう。自分の大事な娘のトレーナーを今後任せるのか否か。きっとそれの見極めなんだろう。
部屋から家族一同が出ていく瞬間、ヴィルシーナが此方に視線を向けてきた。お互いに視線が合ってしまう。一瞬だけ、口を開こうとする彼女。だけど直ぐに閉じては、そうして何事もなさそうに廊下へと出ていった。
残される2人。トレーナーと医師のみが部屋におり、先に口を開いたのはトレーナーだった。
「あと、どれくらいですか」
「……分かってるんですね」重く、口を開く。
「自分の体の事ですから。あと、どれくらい生きられますか」
「長くて、一年ですね」
「短いのもあるってことなんですね?」
「……まぁ、そうなります。」
空気が重かった。ある程度は覚悟はしていた。既に自分の命の蝋燭はいつ消えてもおかしくなく、そして揺らいでいることを。近い将来、自分の命の灯は消えるのだと。
「短いと───」
「大丈夫です。分かるので」言葉を遮るように俺は答えた。
「入院はされないんですね。延命に専念すればもう一年は長くは生きられますが」
「それはつまり、ベッドの上で死を待つだけの人生ってことですよね。前も言いましたが…精一杯生きたいので」
「分かりました」と言われては医師は諦めたように去っていった。悪い事をしてしまったかもしれない。あの人なりの気遣いなのだろう。しかし、ただベッドの上で何かに没頭することもなく、来たるその日まで待つのはあまりにも惨めに思えてしまった。
それならば、この命がある限り好きなように生きよう。好きな事に使おう。
もう一度、心臓に手を当てていく。その鼓動は掌を押し返すように伝わってくる。まだ生きている。死んでいないのだ。この鼓動を感じるたびに自分が生者なのだと実感をした。
その時、こんこんっ、と小気味の良い音が扉が聞こえてきた。
「どうぞ」と一言告げると、扉を開けて入ってきたのは、ヴィルシーナの両親だった。
「ご足労をかけました。まずは来ていただいたことに感謝を」
「堅苦しいのは大丈夫よ。私達が来たかったのだから、ね?」
ヴィルシーナの母親は笑顔を浮かべ、父親に話しかけていく。父親は笑顔を何度か頷いた後に、ゆっくりと口を開いた。
「まずは感謝をしたい。娘が世話になっています」そうして頭を下げてきた。
「い、いえ…!ヴィルシーナさんには…助けられていますのでそんな…」
過去にヴィルシーナとハグをしていた親馬鹿の一面ではなく、厳格な1人の大人としての挨拶。その対応の落差に驚いてしまう。
「…体の方が…良くないようで?」
「…分かりますか?」
「スポーツ選手なもので。人より体の気遣いをしないといけない職業柄、嫌でも分かりますとも」
ヴィルシーナの両親の視線。それは同情とも取れるような視線が自分の心に刺さってくる。
いや、同情ではない。これは心からの心配なのだ。憐れみ、そしてその境遇を悲観しているのではなく、無垢な心配に近いものだ。
だからこそ、刺さった。
「自分は大丈夫ですから。慣れっこなんです」笑顔を浮かべていく。人に心配された時の上辺の繕い。
誰かに同情されるのが嫌だった。体が弱い事を可哀想と捉えられ、そして常に哀れな子だと思われる。弱い体の人間、そのレッテルが自分にとっては苦痛でしかなかった。ただ精一杯生きたいと人生を歩んでいるのに勝手に悲観される。辛く、苦しい人生だと決めつけられる。
だからこそ、誰にも話したくなかった。
「…お強いですね、本当に」
「……えっ?」
ヴィルシーナの母親から聞こえた言葉。それに思わず聞き返してしまった。
「す、すみません。ちょっとどういう意味か…」
「そのままの意味ですよ。本当に、お強いなと思ったのです」
視線が定まらなかった。2人を視界にいれようとしても無意識に避けてしまう。まさかそんな風に言われるとは思っていなかったのだ。ヴィルシーナの家族は全員で揃えば、それこそ人の目を気にすることなく皆で楽しくお喋りをし、団欒をしていく。
その光景は自分には既にないものだった。
誰かがふざければ、それに誰かが乗ってくる。誰かが悲しめば、必ず慰める。そうして最後はお互いに抱き合っては笑い合う。
それが何処か遠い世界にも見えてしまった。だからこそ、ヴィルシーナを通して憧れたのかもしれないが。
「ごめんなさいね。ウマ娘なもので…お話は聞こえていました」
「…あぁ…そう、だったんですね」
人よりも聴覚の良いウマ娘。そう言われてしまえば2人の態度がやけに真剣なのも納得できた。
「あの話を聞いても…憐れむことはしないんですね?」
「そんなことありませんよ。可哀想、だとは思っています。でもそれ以上に…強いな、と。私とこの人で思ったのですから」
母親は視線を父親に向けていく。2人で笑い合うように視線を合わせている。
(この2人は本当に仲が良いんだ。すこし、羨ましい)
この2人の親にして子がある。だからこそ、ヴィルシーナは妹2人を大事にしている。大好きな両親に愛情を注がれて育ったのだから。
「余命のことは…ヴィルシーナには言わないでください」
「分かっていますとも。このことは娘達には言いません。それが、貴方の願いなのでしょう?」
「…ありがとうございます」
上半身を曲げるほどに深々とお礼をしていく。なんだか2人の暖かさが胸に染み入る。初めて同情ではない言葉。自分の体の事を知っているのに、それを憐れまず、むしろ尊重してくれることが嬉しかった。
「明後日ぐらいには問題なく動けるようになりますので、それだけヴィルシーナにお伝えいただけますか?」
「えぇ、勿論です。ヴィルシーナのこと…宜しくお願いします」
2人は返すように深々と頭を下げてくる。それに対してはまた俺も会釈をしていく。
ヴィルシーナの両親からの言葉は深く、とても深く突き刺さった。それは棘としてではなく、1つの道標の旗として。
■□■□■□■□■□
「───────えっ…余命?」
病室に行ったきりの両親を迎えに行こうと思い、トレーナーさんの病室へ足を運んだ。彼の容体を気にしていましたが、それを聞く前に病室から追い出されるような形で出ていきました。
両親が帰ってこないのを良い事にそのまま話そうと思い、そうして辿り着いた病室。開けようとしたときに扉越しから聞こえてきた会話に思わずウマ耳が向いてしまった。
【余命のことは…ヴィルシーナには言わないでください】
トレーナーさんの声だった。そしてその声に反応するような言葉。娘達には言わない、と了承するお父さんの声。
分からなかった。直ぐに理解をすることは出来ない。咀嚼をしては飲み込んでも吐き出しそうになってしまう。理解することを拒むような強い嫌悪感。
何故彼が余命という言葉を使っていたのか。それが分からなかった。
確かにトレーナーさんの体はあまり良い方とはお世辞にも言えませんでした。
運動をすることも基本は無く、暑いのが嫌いだと。ですが、それは個人の趣味嗜好のお話だと思っていました。運動が好きではない人もいます。暑いのが嫌いな人もいます。
───────彼のそれは違うのでは?
そう結論に至りそうになる。
聞き間違いだ、と頭を横に振ってはその思考を消そうとする。しかし、一度こびりついたその言葉は離れることなく、むしろ余計に思案してしまいます。
余命。残された時間を決める単語。何度聞き違いだ、と自分の中で繰り返しても消え去ることは無く、より大きく主張してくる。
心臓の鼓動が早い。レースを走った時よりも強く鼓動を繰り返している。
そうして辿り着いた答えは一つだった。
近いうちに彼は死ぬ、ということに
****
ジャパンカップを迎え、ジェンティルさんの走りを見ました。走っている時のあの方の表情。それはとても楽しそうで、私に見せたものと違うもの。それは衝撃でした。私が勝手にライバルと思い込んでいたのが恥ずかしくなりそうなほどに。
そしてそれと同じくらい、私の心に衝撃を走らせたものがありました。
トレーナーさんの余命。
あとどれくらいの命かは分かりません。彼に聞こうと思ってもきっと誤魔化すでしょう。彼は強く、優しいのだから。
ジェンティルさんの走りを見ては折れそうになった。心の音が折れるのが聞こえる程に、強く。それでも折れなかった。妹2人のために走るのだから。2人のお姉ちゃんとして私は走り続けなければならない。
そして、もう一つ理由があった。
トレーナーさんのために。私をスカウトする時に彼は前を向かせてくれました。一度ジェンティルさんに負け、心が弱くなっていた時に必死の言葉と行動で私を繋ぎとめてくれた。
相手が強いから引くのではない。強いからこそ、越えなければならない。
女王という頂点に輝くために。
前を向かせてくれたトレーナーさんに恩返しをするために。私はまだ何も返せていない。彼にトレーナーとしての名誉も喜びも何も。トリプルティアラを勝てず、そしてシニア級を迎えてしまった。
ならば、折れるわけにはいきません。
ぱんぱんっ、と二回手を叩いていく。両手を重ね合わせていき、自分の瞳を閉じました。その後に考える願い事。
(今年こそはきっと…家族のために、そしてトレーナーさんのために勝てますように)
心に秘めた願い事。自分の唇が少しだけ強く結ばれてしまう。そしてもう1つ、自分の願望を思っていく。神様にお願いするのは1つだけ、と何処かで聞いたことがある。だからこれはお願い事ではありません。
(トレーナーさんの体調が…余命が良くなりますように)
重ね合わせていた手に力が入ってしまった。そう、これは思っただけ。でも少しだけ、もし神様の願い事に添えることができるなら、叶えてくれますように。
両手を離しては、真っすぐに神社を見据えていく。一礼。頭を下げた後に私とトレーナーさんは列から外れていきました。
「ヴィルシーナは何のお願い事をしたの?」
「レースに勝てますように、と。トレーナーさんは?」
「俺は君がレースに勝てて頂点に立てる様にって。似たようなものだね」
彼は笑みを浮かべて話していく。その表情は何処か力なく抜けているものでした。
今日はお正月。トレーナーさんと2人でシニアに向けた願掛けをするために神社に訪れていました。私とトレーナーさんはそれぞれ私服で神社に集合をし、2人で初詣。周囲には同じように沢山の人が集まっており、中には和服に着替えている人もいました。
彼と同じ願い事をした。それだけで何処か嬉しくなっている自分がいる。尻尾がぱたぱた、と揺れてしまう。
「それでこれからシュヴァルとヴィブロスに会いに行くんだよな?」
「えぇ、そうです。おせち料理を食べようかと思いまして。シュヴァルとヴィブロスが私のために予約をしていたそうなんです。ふふっ、嬉しい限りですね」
「とすると、俺はお邪魔ものかな?」
「そんなことありません。むしろ、トレーナーさんには来ていただきたいので」
不思議そうに首を傾げた彼の姿。自分が行っても良いのだろうか、と眉を下げては申し訳なさそうにしていました。
「家族の団欒に俺はいるのか…?」
「いりますよ。だってトレーナーさんも頑張っているんですから」
本当に少しだけ、彼の瞳が見開かれる。直ぐに瞳はゆっくりと閉じていき、彼が頷くように、私の言葉を咀嚼するようにしていた。
「…そうか、そうだね。じゃあ、お邪魔させてもらおうかな」
「はいっ」
思わず頬が緩んでしまった。
彼とこうやって歩める時間は少ない。彼の余命については詳しくは聞けてはいません。それを無理に聞くことは彼の優しさを裏切る事になってしまうのだから。
ほんの少しでも彼と横で歩みたかった。
そんな中で1つの声が聞こえてきた。
「甘酒ー!甘酒いかがですかー!?」
熱心に声を出している1人のウマ娘。その子は赤と白の巫女服を身に包んでおり、そして見知った顔でした。
「…タルマエさん?」
「ヴィルシーナさん!奇遇ですね、初詣ですか?」
「えぇ、そうなの。タルマエさんは…」
「ボランティアですっ。神社で募集をしていて、何か力になれないかなぁって思って」
「そうだったんですね。では、2つ頂けますか?」
「はいっ」と元気よくそして素敵な笑顔で応えてくれるタルマエさん。鍋から紙コップにとろり、とした液体が注がれていく。その一つを私に手渡してくれた。
「どうぞ、ヴィルシーナさん。熱いので気を付けてくださいね」
「ありがとう」
「ヴィルシーナさんの…トレーナーさんですよね?いつもヴィルシーナさんからお話は聞いています。凄く頼りになるって」
「も、もうっ…そんなこと言わなくていいんですからっ!」
トレーナーさんの手にもタルマエさんが注いだ甘酒が手渡されていく。彼が一言「ありがとう、頑張ってね」と告げると嬉しそうにタルマエさんは返事を返した。
邪魔にならない様に2人で離れた場所でその甘酒を飲んでいく。紙コップの中から湯気が昇っていき、掴んでいるとその暖かさが冷たくなった手にじんわりと伝わる。ひと口、こくり、と飲んでいけば口内に広がる甘さ。それが喉に通ればふぅ、と1つ息を吐いた。
「あの子、頑張ってるね」
「えぇ、私も負けてはいられません」
トレーナーさんの視線は甘酒を配っているタルマエさんに向いていました。私も続くように其方に向けると、彼女は笑顔で参拝客に手渡しており、ロコドルの明るさを発揮していた。
彼女は視線を感じたのか、此方に振りむくと小さくひらひら、と手を振ってくれる。それに合わせて私とトレーナーさんも振り返していく。
「普段見ない服装ってなんだか新鮮だね」
「と言いますと?」
「巫女服、とか。ほら、普段は着ないけどこういう時にしか着れないものって特別な気がしてさ」
「……つまり見たい、と?」
「…そう捉えられるか」
タルマエさんを見ている彼に小さな嫉妬。確かに普段見ることのない服装は特別感があります。見れないからこそ、沢山見ては思い出にしようとする。だけどそれは私であるべきなのでは、と考えてしまった。
「では、来年見せます」
「えっ」
「それなら…良いでしょう?」
「うーん…まぁ、その時覚えてたらね?」
苦笑しながら彼は笑っていた。果たして来年まで生きられるのか、そんな事を思わせるような。彼の視線は私を見ていましたが、違うものを見ているようにも見えました。
こくり、と甘酒を飲んでいく。その視線を振り払いたく、全て飲み干してしまった。
何処か、ほろ苦い。
彼もそれに合わせては飲み干していき、ゴミ箱に捨てていく。時間を確認すると時刻は11時。今からトレセン学園へ戻って妹2人と会う時間には余裕がありました。
「少し早いけど戻ろうか」
「そうしましょう。早めに戻ってトレーナー室の大掃除もいいかもしれませんね」
「確かに。それはありかも」
2人で笑顔を浮かべながら神社から出ていく。小さな日常。きっと普通の人であれば思い出にも残らない小さな出来事。
それを沢山積み上げましょう。私とトレーナーさんの2人で。
貴方を支えるために。
■□■□■□■□
お正月から時間が経ち、次なるレースに向けた準備も整い始めたとある日。ヴィクトリアマイルへ向けた準備を進めてはトレーニングをしていく中で1つの出来事があった。
バレンタインデー。
好きな人へ、お世話になった人へ、友人への贈り物。それらは全てチョコで送られるというイベントだ。ヴィルシーナと契約を結び、そしてシニア級となった中で彼女から貰ったのはハイカカオのカップケーキだった。
食べた時に感じたチョコの苦みと仄かな甘み。彼女なりの愛情が籠ったものであり、それがとても嬉しかった。まさか自分のために手作りで渡してくれるとは思っていなかったからだ。
そうして一か月後に訪れるとあるイベント。バレンタインデーで貰ったものを異性へお返しをするという。チョコでもよし、他のお菓子でもよし。または物でもよし。
そう、ホワイトデーである。
「……お返しってどうすればいいんだ」
頭を抱えながらパソコンに向かって1人呟いていく。ホワイトデーまで残り数日。ヴィルシーナへのお返しとして色々と考えるもどうも思いつかなかった。
お返しというとやはりここはお菓子が定番なのだろう。だが、手作りしてくれたものに対して既製品のお菓子で返すのは果たして誠実だろうか。いや、そうではないと考えてしまったのだ。
では、此方も手作りで返すのはどうだろうか。そう思い立ち、調べてみた。
「出来る気がしない」
なにせ凝った料理をすることはないのだ。だからこそ頭を悩ませてしまった。下手なものを作っては彼女に渡すのも不誠実だと。愛情があれば大丈夫、とサイトには書かれているが美味しくないものを渡して気を遣わせる方が良くないと思った。
となれば残った選択肢としては物を渡すということになる。お菓子とは違い、形に残るもの。形に残ると言えば果たして何が適切なのか。
頭を抱えて二度目のこと。
そうして考え付くのはアクセサリー。私服の彼女はネックレスを着用し、ウマ耳にはリボンを結んでいる。アクセサリーと言えば彼女にも着用して貰えるし、なによりきっと似合うはず。
「指輪、ブレスレット、耳飾り、香水──────」
指折りながら数えては思考を巡らす。手作りに相応しいお返しとして果たしてこの中でどれなのだろうか。
「いやでも…指輪とかは無いよな」
お返しとはいえ、高級なものでお返しするのはそれはそれで気を遣わせてしまう。だからこそ、迷いどころだった。
「…ブレスレットなんてどうだろうか」
1つ言葉にしていく。ブレスレットならオシャレが好きな彼女にとってはアリではないか。それに元々誕生日も近い。ヴィルシーナの誕生日プレゼントを渡せていなかったのでそれと併せて送るのはどうだろうか。
お返しにしては少し値段が高い。だけど、誕生日と併せてなら別の話になるはずだ。
「それはそれでいかがなものかという気もするけど…」
誕生日とお正月を一緒くたにしているような、なんだか申し訳ない気持ちも出てしまう。とはいえ、誕生日プレゼントを渡せていないのは事実であり、お返しもしっかりしたい。
そう考えてしまえば、既に行動に移していた。
彼女に、女王に相応しいプレゼントとなれば────────
**
「ヴィルシーナ、ハッピーホワイトデー」
「もしかしてお返しですか?」
「勿論。あんな素敵な頂き物を貰ったんだからお返しはしないと。あと…少し遅いけど誕生日プレゼントも兼ね合わせて。当日に渡せなかったから」
「…ふふっ、ありがとうございます」
少し呆けてしまった彼女。直ぐに表情を緩ませては頬を綻ばせている。手渡したのは1つの長方形の薄い箱。青と白色で装飾され、白のリボンで結ばれたものだ。
ヴィルシーナはそれを受け取り、不思議そうに眺めている。お菓子で返されなかった事に彼女は首を傾げている。
「お菓子、では無いんですね」
「誕生日も兼ねて、だからね」
「開けてみても?」
「いいよ。気に入ってくれるといいんだけど」
リボンを丁寧に解いていき、開けられた箱の中からは銀色の細くチェーンの様に繋がれたブレスレット。そのブレスレットの真ん中には指輪が付けられていた。
ヴィルシーナはそれを持ち上げては、小さな声で「綺麗…」と呟く。そうして付けるは彼女の左手首。手の甲側に指輪が来るように付ければ、彼女にぴったりの大きさだった。その指輪を撫でるようにして右手を添え、彼女は見つめている。
「…指輪に青い宝石?」
「宝石というか…誕生石だね。アクアマリン。3月の誕生石で…君に合うかなと思って」
一瞬だけ目が見開かれていく。また頬を嬉しそうに、そして少しだけ紅潮させている。ヴィルシーナの尻尾がいつもよりも大きく揺れており、彼女が喜んでいるのが分かり嬉しかった。
指輪についているとても小さな青い石。アクアマリンの名前の由来はラテン語であり、その意味は海水だった。
海水、つまり海を連想させるのだ。彼女は海が好きだと言っていた。勝負服のモチーフにもするほどに。それならば、この誕生石を送るのに相応しいのではないか。そう思っては選んだのだ。
「ありがとうございます。ずっと、ずっと大切にしますから…」
その付けたブレスレットを胸元に寄せては右手で包み込む様にしている彼女。アクアマリンはとても小さく、外れることがあればきっと見失ってしまうだろう。それほどまでに小さな輝きだ。
だけどその小さな輝きは彼女をより輝かせる存在へ引き立たせてくれるはずだ。ヴィルシーナを想い、考えては選んだお返しのプレゼント。
「気に入った?」
「とても。今までで一番嬉しいプレゼントです」
「そんなに?沢山悩んだ甲斐があったよ」
彼女はその小さなアクアマリンを指でなぞるように撫でていた。愛おしそうに、慈しむ様に。その視線は何処か悲しそうにも見えてしまう。
アクアマリンはただ、淡く青色の光を反射させていた。
******
ヴィクトリアマイル。芝1600mのレース。本日の天気模様は清々しいほどの晴れ。
シニア級最初の走りを見せるにはうってつけと言っても良いほどの晴天でした。
「主役不在とは…良く言われたものですね」
「俺としてはそうは思わないけど」
控え室で2人で携帯を眺めながら今日のレースの熱量を見ていく。ジェンティルさんが出ておらず、今日のレースを見に来た人たちやそれこそ前評判はこう言われていました。
【主役不在の見所がないレース】
所詮は二流同士が争い、その女王の座を奪い合うだけのつまらないもの、という評判。それを言われてしまえばむしろ燃えてしまう自分が居ました。
主役不在?二流?それがどうされたというのでしょうか。周囲の声をひっくり返し、ヴィルシーナという女王が今ここに誕生するのを見届けさせるには十分な状況です。逆境だからこそ、余計に闘志が出てしまいます。
「燃えてるね」
「えぇ、とても。それに周囲の声など関係はありません。私は私たらしめる走りをするだけですから。その上で判断をして貰えばよいことなので」
「さすが」
ははっ、と彼も笑っていました。私の実力を疑う事のないその表情。それだけで心が救われてしまう。ジェンティルさんに全て敗北をし、それでもなお、私を見限ることはなく、私に寄り添い続けては常に私の事を考えてくれていた。
しかし、そんな中で1つ疑問に思ってしまった。
何故私、ヴィルシーナという存在に彼は一緒に歩んでくれるのか。
その答えが出なかった。トレーナーさんが私をスカウトした時に彼はこう言っていた。
私の走りに見惚れ、そしてその家族を想う力に寄り添いたかった、と。
こう聞けば確かに彼が寄り添ってくれる事に納得は出来る。だけど直ぐに二つ目の不思議が出てしまう。余命が決められている中で何故、なのか。
余命宣告をされるということは元より体の調子が良くなく、トレーナーさん自身も理解はしていたはず。では何故常に二番手である私を選んだのか。あの方ではなく、私である理由。
トレーナーとしての栄誉を得るのであれば私では無くても、もっと強いかたがいたはず。嫌ですね。こんな事を考えてしまう自分に、ちくりとした嫌なものが刺さってしまいます。
一度、息を吸っては大きな深呼吸をしていく。はぁ、と大きく息を吐いた後で彼から声をかけられた。
「緊張してる?」
「それなりには」
少しだけ誤魔化すように答えた。貴方の事を考えたのが原因だと、本音を告げるわけにはいきませんから。
壁時計を確認すると既に出走時刻が迫り始めていた。もうパドックへ向かわなければ。2人で控室をあとにしていく。パドックに繋がる通路、そこから射す光がなんだか心地よかった。光の眩しさに少しだけ瞳を閉じていく。あの光は私が目指していた光。女王として、頂点としての輝きの光だ。
「行ってきます、トレーナーさん」
「行ってらっしゃい。君が勝てることを祈っているよ」
「ふふっ、その祈りは本当になることを見せてあげます」
私は彼に背を向けて歩き出す。きっとこの光を消すほどに私の輝きが増せると信じて。
パドックへ辿り着き、私は挨拶をしていく。1つ、お辞儀をしていけば多くの観客から声援を浴びせられた。今日の一番人気は私。これでも主役不在というのであればそれら全てを塗り替えてみせましょう。
パドックで手を振りながら、その中で良く見知っている2人を見つけた。ヴィブロスとシュヴァル。大きく手を振っているヴィブロスに手を振らないで恥ずかしそうに視線を逸らしているシュヴァル。私が手を振り返せば嬉しそうにヴィブロスは反応していた。
それが微笑ましく思わず頬が緩んでしまう。今までのレースに2人は毎度来てくれた。応援をしてくれた。トリプルティアラだけではない。デビュー戦もそしてこのヴィクトリアマイルも。
今ここで強いお姉ちゃんとしての姿を見せるから。
挨拶を終えては後ろに下がり、他の出走ウマ娘が挨拶をしている中で、1人が呟いた。
「…やっぱり私達って期待されてないのかな」
そんな呟きが聞こえてきた。それに反応するようにもう1人が返した。
「そんなことないよ!私達だって…その…頑張ってるんだし!」
「でも、ジェンティルさんが居ないなら…」
「それはっ!そう……かもしれないけど」
2人で項垂れるように視線を下に向けてしまう。私は2人に近づいていき、声をかけた。
「不満、かしら?」その声に2人は顔を上げた。
「それは…不満です。だって私達だって頑張っているのに、まるで…違うみたいに言われて」
途切れ途切れの言葉を告げる1人のウマ娘。私だって同じ気持ちでした。主役不在、そう言われて不満に思わないウマ娘はいないでしょう。
ただその言葉が本当であるかのようにいつもより観客の数は少なかった。観客席には人が詰め寄っているも、奥の方を見れば空白のスペースがある。秋華賞のパドックから見た景色、ジャパンカップで観客席から見た熱量。それらとは比にならないほどでした。
周囲を見渡し、他のウマ娘も何処か上の空になっている子がいる。先導する実力のあるウマ娘がおらず、それが伝搬している。まるで超えるべき強者がいない、というように。
「見ていなさい」
「えっ…?」
「私、ヴィルシーナが女王としてこの歓声を湧かせましょう。主役不在という言葉が間違っているのを思い知らせますわ」
これは自分の決意表明。もし負けてしまえば愚者として後ろ指をさされることでしょう。だけど、それ程までに負けたくなかった。ここで負けてしまえばトレーナーさんの期待を、想いを裏切る事になってしまう。
「行きましょう。私に付いてこれば自ずと分かるはずですから」
勝負服を靡かせながら背を向けて歩き出していく。向かうはゲートだった。
ゲートへ辿り着けば、11番と書かれた所に入っていく。出走合図が聞こえるまでに、先程のウマ娘の声が聞こえてきた。
「私だって…私だって強いんだ…。絶対、負けたくないっ…!」
小さな囁き声。隣同士だから聞こえてしまう。そう、それでいいのです。闘志を燃やし、今ここにいる観客全てに。そして来なかった人を後悔させるような。燃えるようなレースをしましょう。
ゲートの中で構えていく。静寂。全ての音が聞こえなくなり、誰かの呼吸音だけが聞こえてくる。脚に力を溜めては開くのを待っている中で、その焦らしが終わりを告げた。
【スタートしました。17人によるウマ娘が一斉に走り出しました。ぽんっ、と前に出たのは11番ヴィルシーナと3番ジョナーヴィル。本日は良バ場となっております。青々としたターフで本日栄光を掴むのは果たして誰なのか】
まずは溜めた力を前に出していき、良い位置へ付くことができました。内側へ流れ、少しでも体力の消耗を押さえていく。桜花賞以来のマイルレース。あの時のジェンティルさんの走りを思い出しそうになってしまう。
公式戦で感じた全てを薙ぎ払うような強い力。前に立つことすら許されない、ねじ伏せ、蹂躙するような威圧感。脳内に浮かぶあの方の幻影を振り払うように私は脚を速めていった。
【一番前にはジョナーヴィル。続くようにヴィルシーナがここにいます。三番手にはロックオブミュー。一バ身離れて中団の先頭にはホールサマー。一番前から最後方までおよそ10バ身となっています】
少しだけ背後を伺うように視線を動かす。各々得意な場所に付けたのか、伺うようにして脚を動かしている。残り1000mの所で第三コーナーに入る。そこで少しでも前に出られるように最内側ではあるも、横に逸れながら調整をしていく。コーナーに入ってから整えていると下手をすれば中団に呑まれてしまう。
脚を斜めに芝に叩きつけながらコーナーを曲がり始めた。
【600mを通過して34.2秒となっています。本日一番人気のウマ娘、ヴィルシーナは二番手で出方を伺っています。最後方に位置していますノイネルサークルは上がってきて、続くように並び始めています】
コーナーを曲がり切れば、そこからは500mを超える直線とそして坂が待っている。背後から聞こえる芝を蹴り上げる音は近く、そして大きくなってきていました。まだ、溜める。まだ力を出す時ではない。焦っては駄目。
【第4コーナーを通過して中団が膨らむように────おっと!最後方にいたノイネルサークル上がってきた!上がってきた!それに合わせて、ホールサマーも来た!最前方にいるジョナーヴィルを捕まえようとしている!】
第4コーナーを曲がり切れば私も合わせて前の方に出ようと脚に力を入れていく。背後から更に近づく足音。負けない。負けてなるものですか。ここで負けてしまえばあの方を超えるなんて本当に夢のまた夢の話。あの方が迫る足音、それらに比べれば─────怖くないっ!
【ヴィルシーナ!ヴィルシーナが伸びてきた!一番手となり、凄い勢いで置き去りにしていく!ジョナーヴィル苦しいか!ノイネルサークルとホールサマーも追うが間に合うか!ヴィルシーナ早いぞ!距離が1バ身、2バ身と離れていく!】
この勝利を両親のために、妹2人のために、そして私を支え続けてくれたトレーナーさんのために。絶対に負けられない。脚を何度も何度も前へ伸ばしては地面に叩きつけていく。芝を蹴り上げる力が脚に伝わるたびに、自分が昔と比べて強く、そしてもっと前へ踏み出せる。そんな気がした。
女王としてより前へ。頂点を、頂きを取るために脚を踏み出していく。一度見えた紅き幻影はまだ私に背を見せている。
【ヴィルシーナ独走!ヴィルシーナ独走です!既に3バ身以上離れている!後続も脚を伸ばしているがこれは苦しそうだ!残り200m!】
あの赤き幻影を追い越すために、私の目の前から振り払うために脚を前へ踏み出していく。レースを走る前の決意表明。今この場にいる全員に映っているこれを振り払い、蒼き幻影を刻み付けましょう。これは私が這い上がるための最初の一歩。
【ヴィルシーナ!1着はヴィルシーナです!ついに栄光を掴みましたヴィルシーナ!シニア級にてついに1着を掴みました!頂点へ至る走りを見せ付けましたヴィルシーナ!】
ゴール板を通り過ぎたのと同時に大きな歓声が上がる。額から流れ出る汗を拭いながら、観客席の方に振り向いていけば私を呼ぶ声が聞こえた。だけどあの時の歓声にはまだほど遠い。トリプルティアラをジェンティルさんが取った時の歓声には、まだ。
だけど構いません。これはまだ始まったばかりに過ぎません。私、ヴィルシーナが頂点たる女王の座に相応しいウマ娘として這い上がる第一歩。
とてもとても大きな第一歩でした。
****
ウィニングライブを終えては私は控え室へと戻ってきました。そして制服に着替え、帰る準備をしていた時のことです。トレーナーさんと一緒に控え室で荷物の整理をし、忘れ物がないかの確認をしていた時でした。
「ヴィルシーナ、大丈夫そうか?」
「えぇ……問題ありません。忘れ物もないですね」
レースから帰ってきた時、トレーナーさんは迎えに来てくれました。その時に沢山私を褒める言葉を浴びせ、少し照れてしまった。そんな中で祝勝会をしようとなり、シュヴァルとヴィブロスも来るとのこと。彼の興奮は冷めやらぬまま、帰りの準備を進めていました。
祝勝会と言っても、お店を予約するわけでもなくトレーナー室で小さなパーティをするものでした。ですが、それでもとても嬉しかったのです。
「よしっ…!じゃあ、早速今日の祝勝会で君の初G1を───────ごほっ…!」
私が控え室から出ようとしたときに背後から聞こえてきた咳。彼は片手で口元を押さえながら、そして何度か苦しそうに咳き込み始めた。
「トレーナーさん、大丈夫ですかっ!?」私が彼に近づくと、手を前に出しては来ない様に制止した。
「ごめ…っ、ごほっ…すぐ収まるから…!」
そう言葉を放つも収まることは無く、むしろより酷くなっていく。最初は空気が吐き出される音が聞こえた。何度か咳を重ねている内に今度は詰まったものを出すような音。
彼は前のめりに蹲ってしまう。こんな状況で何かできるわけでも無く、ただトレーナーさんに声をかけることしかできない無力な自分が嫌でした。
「かはっ…こほっ…」ひゅー、と細い呼吸音。それが何度か続いたのちに彼は顔を上げては、弱々しい笑顔を浮かべ、言葉を紡いだ。
「ほら……大丈夫…」
彼が口元から離した手には赤黒いものが付着していた。どろり、と垂れそうになれば彼はそうならないように強く手を握りしめる。まるでそれを私に見せない様に。
「嘘を言わないで下さい!そんな…っ」
「ヴィルシーナ…本当に、大丈夫だから。よくあることだよ…」
その付着したものをトレーナーさんはティッシュで拭いていき、ゴミ箱へ捨てていく。彼は自分の心臓に手を添えては何度か深呼吸を繰り返し、そして笑顔を浮かべた。先程の弱々しいものとは違い、今度はしっかりとした笑顔でした。
「行こう。シュヴァルとヴィブロスが待ってるから」
そう告げては控え室から出ようとするトレーナーさん。私は手を伸ばし、彼の腕を掴みました。今ここで行かせてしまえば、きっと話してくれない。何か力になりたいのです。貴方が苦しんでいる時に見ている事しかできない、私にできることを。
腕を掴んだ時、困ったように眉を下げては彼は見つめてきた。
「…トレーナーさん。先に謝る事があります」
「どうしたんだ?珍しいね?」
両親とトレーナーさんの間の秘密。本当は私が聞いてはいけない秘め事。それを今ここで話します。貴方の苦しみを理解したいから。
「余命について聞きました」
トレーナーさんにそれを告げると彼は目を見開き、次にはゆっくりと閉じていきました。小さな、とても小さな声で「そっか」と呟くのが聞こえた。彼が瞳を開いた時、その視線は私を映しているのに、違うものを見ているようでした。
「ご両親から聞いた?」
「いえ、病室でトレーナーさんと両親が話していた時に聞こえてしまったので」
「あの時か」
彼は自分の頭を掻いていき、視線を逸らしていく。言葉を選ぶように何度か口を開いては、直ぐに閉じるのを繰り返していました。
きっとトレーナーさんが秘密にしていたのは私に心配させまいと、彼の優しさからなのでしょう。だからこそ辛かったのです。私に隠し事をする貴方の事が。彼の想ってくれる気持ちが私にとってはより心を締め付けるだけ。
私を信頼して欲しいだけなんです。私を頼って欲しい。
ただ、それだけでした。
「ヴィルシーナには関係のないことだよ」
「関係あります。貴方は私のトレーナーです。貴方を心配することがそんなにおかしい事ですか?」
「……心配は嬉しいよ。だけど、君まで背負う必要はないんだ。さっきも言ったけど俺個人の問題で─────」
「どうして、ですか?」
「………」
彼は黙ってしまった。トレーナーさんの事を知ろうとすれば彼は突き放してくる。より真に迫ろうとすれば、それを探られたくないのか彼は心を閉ざしてしまう。
それが私にとって一番辛いことなのに、どうして?
私の為に頑張ってくれる貴方が、私の為に指導をしてくれる貴方が、私の為に沢山考えてくれる貴方が、私の為に────────
私は貰ってばかり。
やっと、やっと小さな恩返しが出来たのに。私は彼の心に寄り添う事すらも許されない。
「私は、私はトレーナーさんの力になりたいんです。沢山恩返しもしたい。支えてくれた貴方を支え返したい。そう思うのは可笑しなことでしょうか…?」
「その気持ちは素直に嬉しい。本当に。これは嘘偽りのない言葉だよ。だけどね、ヴィルシーナ。俺は………」
彼は言葉を返そうとした。だけどそこで止まってしまう。唇が震え、強く結ばれてしまう。言葉に出すことが出来ないほどに強く。
「…ごめん。心配させて。祝勝会は…寮でして欲しい。俺はトレーナー室ですることがあるから」
「トレーナーさん…」
「…ありがとうね。もうこの話はお終いにしよう」
「ですが─────」
「ヴィルシーナ」
「…っ。分かりました…」
彼の心の拒絶。本心に近づきたかったのに。私のしたことは早とちりだったのでしょうか。何か大きな間違いだったのでしょうか。
一緒に控え室から出てはバス停まで歩いていく。いつもより少し離れている距離。
夕日が二つの影を作り出す。その影と影の間に空いた空白は、とても広く見えてしまった。
****
小さな祝勝会を終えては私は寮の自室へと帰ってきました。扉を開けて部屋に入っていくと既にタルマエさんがおり、笑顔で迎え入れてくれた。
「あっ、おかえりなさい。ヴィルシーナさん!ヴィクトリアマイルおめでとう!見てたよ、流石だね」
「えぇ、ありがとう。タルマエさん」
私は笑顔を浮かべてお礼を言っていく。荷物を置いてはベッドの上に座った後にふぅ、と1つ息を吐いてしまった。その様子にタルマエさんは不思議そうに見つめながら
「珍しい」
と一言告げられた。その言葉に私は呆けてしまう。何に対しての珍しいという意味なのかが私には分からなかった。
「それは…どういう意味でしょうか?」
「溜め息を吐くのが珍しいなぁって。ヴィルシーナさんは普段そんなことしないから。もしかして何かあったの?」
「えぇっと…」
まさかそこまで見られているとは思っていなかった。タルマエさんとは同室であり、ちょっとした相談や何てことのない世間話。それこそお出かけもすることもあった。だけど、この小さな溜め息でそこまで見られてしまうとは思いもしませんでした。
「もし、言いたくないなら大丈夫だよ」
対面に座るようにしては笑顔を向けてくれる。その笑顔が私のもやもやとした心を楽にしてくれていた。タルマエさんは聡明なウマ娘です。無理に聞こうとはせず、辛い事があれば相手に寄り添おうとしてくれる。私の話も笑顔で聞いてくれ、そして自分の事のように嬉しそうにする。そんな方でした。
「…もし、です。もしもの話ですよ?」
「うん」
「……とても、とても大切な人が…苦しんでいたらどうしますか?」
それを聞いたタルマエさんは呆気に取られたように、表情を作り出す。直ぐに彼女は口元に手を当てては、視線を上に向けて何かを考え始めました。数秒の沈黙。その沈黙はタルマエさんの言葉で破れていきました。
「私は…そうだなぁ。心配はするけど、そっとしておくかも」
「そっと…しておくんですか?」
タルマエさんの答えが納得がいかなかった。つまりそれは苦しんでいる人を助けず見殺しにする、という選択にも思えてしまう。私は体を前のめりにして尋ねました。
「苦しんでいるんですよ。それをどうして…」
「苦しんでいるけど…それは助けを求めているのかな?」
助け。誰かに救いを求める言葉。
確かにトレーナーさんは咳き込み、そして苦しんでいた。だけど言われてみれば彼は助けを求めていない。笑顔を作り出し、私を心配させまいと平常心を装っています。
私がしたことは、彼にとって迷惑だったのでしょうか。
「……確かに求めてはいませんが…強がりってことも考えられませんか?」
「うーん…それも考えられるけど………もしかしてこの話、ヴィルシーナさんのトレーナーさんのお話?」
「うっ……はい…そうです」
確信に迫る発言をされては私は頷くことしかできなかった。ここで誤魔化したとしても話が拗れてしまうだけ。もう見破られてしまったなら彼女にお話ししましょう。
「タルマエさん…その、改めて聞きたいことがあります」
「私とヴィルシーナさんの仲なんだから。なんでも言って?」
柔らかな笑みを浮かべるタルマエさん。それに少しだけ胸の淀みが取れていくのを感じました。
一度だけ、ふぅ、と息を吐いていく。溜め息とは違う、決心するための呼吸。
そうして口を開いては事の顛末を彼女に伝え始めました。
**
「そっか…確かにそれは溜め息の1つは出てもおかしくないね」
タルマエさんに今日の出来事、そしてトレーナーさんの体が良くない事をお伝えしました。余命の事も全て。そうしてタルマエさんは何度か頷いた後に「ありがとう。話してくれて」と言葉にした。
「それを含めてもう一度聞かせてください。タルマエさんなら…どうしますか?」
「答えは変わらないよ。そっとしておくかな」
「それは…どうして?」
「きっとヴィルシーナさんのトレーナーさんは凄く優しい人だと思うんだ。病院で秘密にして欲しいって言うくらいで、しかも目の前で咳き込んでも気丈に振る舞おうとしてる。そんな人が助けを求めてると私は思わない、かな」
助けを求めているわけではない。求めていなくても苦しんでいるのであれば助けるのが普通では無いでしょうか?むしろそれを放置し、取り返しのつかない事になる方が問題だと、私は思ってしまった。
「だけど、苦しんでいるなら…!」
「それはその人を無下にしていると思うよ」
無下にしている?そんなはずはありません。助けたいと思うのが普通であり、それを支えたいと思うのが当たり前の話ですから。
「無下にしているわけではないです。ただ弱ってる彼を…」
「ヴィルシーナさん、そこなんだ。トレーナーさんはきっと、普通に扱って欲しいんだよ。変に気を遣われるより、変に意識されるより、1人の個人として接して欲しいんだと思うよ。病気とか抜きにして、ね?」
「──────そ、れは…」
言葉が出なかった。否定をしようとしても、それ以上は喉に引っかかり出ることはなかった。普通に接して欲しい。1人の個人として、病気など関係なく、ただトレーナーさんとして接する。それを私は出来ていたのでしょうか。
無理に彼から真意を聞こうとした。それは果たして彼にとって助けになるのか、分からなかった。
いえ、分からなくない。思い当たる節があった。
初めてジェンティルさんに負けた時のことだ。桜花賞より前の、彼にスカウトされる前の話。あの時に私は心が一度折れかけてしまった。もし彼が私から無理に聞き出そうとすれば、きっと私は拒絶をしていたことでしょう。
だけどトレーナーさんはシュヴァルとヴィブロスを通じて、私の事を知ろうとしてくれた。私の走りだけではない、私個人を見ようとしてくれた。
だから、彼のスカウトを受けた。
ヴィルシーナという存在の走りだけではない。ヴィルシーナという、私個人を想ってくれたのだから。
私は、彼にそれが出来ているのか。
「…私は間違ってた…のかな…」
小さく零してしまう。タルマエさんにも聞こえないように、自分の心を確かめるような小さな言霊。目を閉じていく。あの時の彼はどんな表情をしていたのか思い出す。
喜んでいない。何処か悲しそうな表情だった。
あぁ、私はトレーナーさんを見ていなかったのだ。彼個人ではなく、彼に付属する病気を見ていた。
だから彼は拒絶をしたのだと、分かりました。
「ありがとうございます、タルマエさん」
そうして私は頭を下げてはお礼をしていく。私は彼の心を傷付けていただけ。タルマエさんに初めて言われて気づけたこと。まだまだ私は未熟なんだ、と自分で自嘲気味に心の中で笑ってしまいました。
「ううん、いいの。ヴィルシーナさんの力になれて嬉しいから」
優しい微笑み、その表情が私の心の苦しみを和らげてくれる。
明日になったら暫くトレーニングはお休み。夏合宿に向けて体調を整える必要もあります。彼と会える日にちも少なくなってしまいますが、次に会うときに自分の気持ちの整理をしなければ。
「…ヴィルシーナさん、本当にトレーナーさんの事が好きなんだね?」
「──────ち、ちがっ……わなくはないですけど…」徐々に声が小さくなってしまった。
「ふふっ、トレーナーさんと仲直りできるといいね」
「そうですね。きっと、ううん、絶対に仲直りしますから」
私とタルマエさんの小さな笑い声が自室に響いていく。これは彼を理解するための、本当に彼に寄り添うための小さな一歩。
私はまた一つ、強くなれた気がしました。
□■□■□■□■
春の暖かな空気は身を焦がすほどの熱気へと変わっていく。去年と同じようにカーテンから差し込まれていた太陽の光。その光が閉じている瞼に当たれば、自然と目が覚めてしまった。その光を遮るようにしては、ベッドから体を起こそうとする。両腕を使い、力を込めようとすれば妙に震えていた。
力が入らない。いや、違う。腕に力を入れてはいるが、震えてはその力が逃げてしまっている。体を支える手まで伝わらず、ぐらぐらとした不安定な支え棒。一度、強くベッドの上に手を垂直に叩きつけるようにすれば、自然と収まった。
その勢いで立ち上がり、カーテンを開いていく。開かれたそこからは白い光を放つほどの太陽の光と熱気。ガラス越しだというのに自分の身を焦がされるのを感じる。
「暑い…」と一言呟くと同時にカーテンを閉め、その光を遮っていく。僅かな光さえも通さない様に、ぴったりとくっ付けた。
三度目の夏合宿。ヴィルシーナのジュニア級、クラシック級、そしてシニア級と全てを通して参加をした。だが、ここまで太陽の光は眩しかっただろうか。
それほどまでに自分の体を焦がされるのを感じた。
熱で奪われた水分を取り戻すように冷蔵庫を開けていく。中身が半分しか残っていないペットボトルを手にしては、薬と一緒に中身を飲み干していった。乾いた体が満たされていく。消えそうな
自分の心臓に手を当てる。鼓動は小さく、しかしそれは手を跳ね返すほどの強さを持っている。今日もまだ生きている。
しかし去年とは違い、鼓動の強さは弱くなっていた。日に日に体が衰え始めている。咳をする回数も増えた。血を吐く回数も多くなった。日が進めば進むほどに飲む薬の量は増えている。去年は服用してなかった薬を手にしては、体に入れていく。
そうして、また今日も普通の人生を誤魔化して歩もうとするのだ。
嫌でも分かる。もうこの火は消えかかっていることが。いつかは終わりを迎えることが。だけどまだ倒れるわけにはいかない。ウマ娘にとってとても大事な三年。この三年を迎えるまでは火を燃やし続けよう。
残された時間はあと───────半年。
また今日も生きていく。
****
「夏祭り?」
「はい、この近くで夏祭りがあるとお聞きしたんです。一緒に行きませんか?」
「うーん…」
砂浜で彼女のスピードを鍛えるトレーニングをしている中でヴィルシーナが提案をしてきた。今は休憩時間。2人で砂浜から離れ、近くの木陰に入り、並ぶように座って話していた。
そういえばそんな催しがあるとトレーナー寮で耳にした気がする。今この場にいる会話に耳を傾ければ、確かに浴衣がどうとか、花火がどうとか。夏祭りに関連した単語が飛び交っていた。
腕を組んではヴィルシーナの提案に思案していく。確かに夏祭りは魅力的ではあるも次のレースに向けた準備を進めたいと考えている。次のレースはエリザベス女王杯。彼女に二つ目の栄光を取らせたく、レース展開を見極めたいとこなのだが…
「だめ、でしょうか?」
ヴィルシーナは首を傾げ、そして少しだけ眉を下げていた。此方の顔色を伺うような視線。駄目、というわけではない。というより彼女と一緒に何かを行動するのが遠慮したかった。
ヴィクトリアマイル後に見せた彼女の心配。あれは過去自分がされたくなかった事に等しかった。ヴィルシーナは心からの心配をしてくれたのだろう。だが、自分の病気を探られるような、彼女の言葉が心に引っかかり続けている。
この夏合宿に来ても、そして来る前も彼女に距離を取るようにしていた。あれをされるくらいなら近づかない方が良い、とまで考えてしまったのだ。
だからこそ、この夏祭りの誘いを即座に頷くことは出来なかった。彼女の事は大切に想っている。想っているが故に心配をかけたくない。もし、夏祭りで倒れることがあったら、苦しくなることがあったら。そんなまだ始まっても無い可能性を考えてしまう。
「…俺はその…大丈夫だよ。シュヴァルとヴィブロスで行っておいで?」
出した結論はこれだった。彼女に寄り添いたいと思っても、やはり心の何処かでは遠慮してしまっている。ホワイトデーにあんな贈り物をして、そして2人で出かけることもあるのに。今更こんな態度を取っている自分に辟易してしまった。
「私は…トレーナーさんと行きたいんですっ!」
「えぇっと…」
彼女の声が大きく張り上げられる。普段聞くことのない声量。それに圧倒されてはまともな返事を返せなかった。
「嫌では、無いんですね?」
「まぁ…嫌ではないね」
「では一緒に行きましょう。きっと楽しいですから」
「分かった」と生返事。半ば無理矢理決められてしまった夏祭りの予定。
ヴィルシーナが休憩を終えては砂浜に歩いていくのを見送ってく中で、大きな溜め息を吐いてしまった。
****
夏祭りに行くと決まり、数週間が経った当日。既に空には白く輝いている満月が照らされている。夏合宿場から離れたとある神社。そこで今日夏祭りが行われるというのだ。
ヴィルシーナと本当は一緒に行くつもりだったのだが、彼女は浴衣を着るらしく着付けに時間がかかるという。神社の入り口でもある赤い鳥居の前。そこで彼女を待っていた。
携帯で彼女から少しだけ遅れるという連絡。いつもは集合時間の前に来る彼女が遅れるというのは珍しい事だった。
折角の夏祭りとのことで、紺色の甚平に着替えている。近くで貸し出しをしているお店があったため、そこで着替えてきた。あれだけ彼女から誘われた事に何とも言えぬ返事を返したというのに、いざ祭りとなれば服まで雰囲気に合わせている。
どうやら自分は思っていたよりも楽しみにしていたらしい。
携帯の時刻を確認すれば18時と書かれていた。ヴィルシーナとの集合時間だった。
彼女からの連絡があった通り、周囲を見渡しても彼女の姿は無かった。あるのは他のウマ娘や一般客の姿のみ。もう一度携帯を確認していく。彼女からの連絡はあれから1つもない。
遅れるとあったのだ、もう少し待っていよう。
そう思っては顔を上げては空に浮かんでいる月を眺めた。白く光る満月は雲によって邪魔されることなく、地上を照らしている。太陽の光とは違う輝き。あの輝きと比べて眩しくはなかった。
「トレーナーさんっ、お待たせしました」
ふと、自分の左耳に聞き覚えのある声が入ってきた。何処か息を切らしたような、でもしっかりと発声をしている。其方に視線を向ければ彼女が立っていた。
─────────とても綺麗だった。
そんな月並みの言葉しか出ないほど、彼女は輝いていたのだ。
ヴィルシーナの浴衣は青色を基調としていた。その中で白色と薄い黄色が差し込まれた向日葵が散りばめられていた。
似合っている、なんて言葉では言い表せないほど──────見惚れていた。
「トレーナーさん…?」
「────えっ、あ…あぁ、俺もさっき来たばかりだから気にしないで。遅れるって言ってたのに、そこまでだったね」
「ごめんなさい、素敵な浴衣が沢山あって色々見ていたら…」
「大丈夫だよ。行こうか」
彼女と横並びになっては歩いていく。既に神社内は人混みが出来ており、気を付けて歩かなければぶつかってしまう程だった。
「ヴィルシーナ、大丈夫?」
視線を彼女へ向けていく。少し離れていた所に彼女はいた。手を伸ばせば届くほどの距離。だけど俺と彼女の間には空白があった。
視線を下に向けると直ぐに理由が分かった。彼女は下駄を履いていたのだ。普段とは違うそれに慣れていないのか、何処か歩きづらそうにしていた。
「大丈夫です。その内慣れますから」
そう強がってはいるもこのままでははぐれてしまう。誘われた身として、そして一緒に来ている者として彼女に気を遣わないのは可笑しなことだろう。
自然と彼女の左手に手を伸ばしては掴んでいた。
「そ、その…」
「離れたら危ないから。これなら一緒にペースを合わせられるしさ」
「そう、ですね」
彼女の背後にある青毛の尻尾。それがやけに揺れている。2人で手を繋ぎ、離れないようにしては屋台を巡るようにして歩き始めた。
彼女に近づかない様にしよう、そう思っても近づいてしまっている。余程ヴィルシーナという存在が自分にとっては大事なのだろう。だけど彼女には心配をかけさせたくない。大事にしたい、でも心配はさせたくない。そんな矛盾を抱えていた。
彼女に親身になればそれは叶わぬというのに。
ヴィルシーナの左手を握った時に気づいたことがあった。そこには自分が送ったブレスレットを付けていたのだ。それが視線に入れば心臓の鼓動が少しだけ早くなる。
きっとこの感情は嬉しいのだ、と。それだけは違わなかった。
**
2人で屋台を巡った。リンゴ飴を食べては、焼きそばを食べ。射的で一喜一憂をし、盆踊りにも参加をした。久々にレースと関係の無い時間。ヴィルシーナと共にただ一緒の時間を過ごしたのは久しぶりのことだった。
時刻、19時30分。花火が始まる時間が迫っていた。花火が良く見える場所を知っているとヴィルシーナから言われては、彼女に付いていった。
「穴場スポットなんですって。人は多少多いですが…よく花火が見えるそうなので」
「誰から聞いたんだ?」
「タルマエさんからです。行くならそこがおススメ、と。もう少しで着きますよ」
5分程、人の歩く流れに逆らわずに流されていると広く開かれた場所があった。既に多くの人がそこで陣取っており、既に見る体制が整っている。ヴィルシーナと共に座れる場所が無いかを探しては歩き回り、少し狭いが2人で座れる場所があった。
その場所に2人で座っては、彼女と身を寄せ合う。他の人の邪魔にならないように、出来る限り、だけど少しだけ空白を空けた。
「花火、楽しみですね」
「そうだね…」
一言返していく。花火が打ちあがるまでの時間は少しだけある。2人の間に広がる無言の時間。聞こえてくるのは周囲の話し声のみだった。
「ヴィルシーナ」「トレーナーさん」
彼女の名前を呼んだとき、たまたま同じになってしまった。
「トレーナーさんが先で良いですよ」
「俺も大丈夫だから…ヴィルシーナが先で」
「いえ、トレーナーさんが先です」
「ヴィルシーナから」
「もう、キリがないですよ?」
そう言われてしまえば確かに、と心の中で思っていく。彼女が面白そうに笑顔を浮かべるのを見れば、自然と笑みが零れてしまった。
彼女に聞きたかったことがある。それは今自分に対してどう思っているのか、だ。可哀想な人間と思われているのか、はたまた別の何かなのか。それが気になってしまった。普段は気にすることは無いのに、何故かヴィルシーナに対してどう思われているのか。それが自分にとって重要な事だと思えてしまったのだ。
「じゃあ…俺からでいいか?」
「はい、どうぞ」
ヴィルシーナは1つ頷きを見せて承諾をする。一度大きく深呼吸をしていく。そうして彼女を見据えながら言葉を紡いだ。
「俺の事をどう思う?どんな言葉でもいいから知りたい。決して怒らないから」
いざ言葉にしてみると背中がむず痒く感じてしまう。あまりにも直接的な言葉。自分の口元に手を添えては一度考え直す。
「いや、ごめん。今のは聞かなかったことに─────」
「とても…とても気高くて、そして憧れです」
彼女の言葉が耳に入った。そうして視線を彼女の方に向けていく。既にヴィルシーナは此方に向いており、柔らかな笑顔を浮かべていた。
「憧れ…?」
「はい。沢山…トレーナーさんから大切なものを頂きました。だから憧れています。頂点たる女王を目指すために、貴方に憧れています」
そんな事を言われるとは思っていなかった。視線が定まらなかった。自分がヴィルシーナの憧れ。何度も彼女の言葉を噛み砕き、そして脳内で反復させ、処理を重ねた。可哀想な人ではない、ましては弱い人間ではない。憧れている人。その言葉が胸に広がった。
「俺は…そんな憧れるような事をしていないよ」
「しています。ジェンティルさんに勝つためにトレーニング指導をしてくれました。レースの研究もしてくれました。私の為にしてくれたことが…全て嬉しいのです。そんなトレーナーさんに憧れるのはおかしいことでしょうか?」
「それは……違う、ね」
自分も彼女の走りに見とれてしまった。初めて見た時の彼女の堂々たる走り、そしてその走る理由が眩しかった。その眩しさを支えたかった。
あぁ、そうか。俺も彼女に憧れていたんだ。彼女の生き様が自分には無くて、手の届かないもの。だからこそ、彼女を支えたいと思った。より深く、自分の人生を賭けてもいいと思うほどに。
ヴィルシーナの言葉に否定することが出来なかった。それを否定してしまえば、自分を蔑ろに、そして彼女を無下にするのと一緒だった。
「勿論、それだけではありませんよ」
「他にもあるのか?」
「えぇ、そうです。私はトレーナーさんの事が──────」
大きな花火が上がった。その花火の音が鳴るのと同時に歓声が上がり、彼女の声が聞こえなかった。隣に居て、距離も近いのに聞こえなかったのだ。ヴィルシーナが意図的に小さくしたのではないか、そう思えてしまう程に。
また花火が上がった。
「えっ?ごめん、聞こえなかった。もう一回…」
「ふふっ、ダメです。これは一回だけしか言いたくありませんから」
「なんだそれ…」
ヴィルシーナは嬉しそうに頬を綻ばせ、そして花火を見始めた。彼女の横顔が色とりどりの花火に照らされていく。
暗い空に一瞬だけの輝き。その輝きは彼女を照らし、そしてまた消えていく。ヴィルシーナの瞳に映る花火の輝き。あれは彼女にはどう見えているのだろうか。
綺麗なのだろうか。儚いと思うのだろうか。それはきっと彼女にしか分からない事だった。
その時ヴィルシーナが此方に視線を向けた。お互いの視線が絡み合い、そして見つめ合ってしまう。彼女は座っている自分の膝を抱え、顔をそこに埋めては
「花火ではなく、私ですか?」
と無邪気な表情を見せてきた。
自分の心臓が跳ねる。鼓動が早くなり、体に熱を帯びるのを感じてしまう。
「君が綺麗だったからね」
と仕返しをするようにしては返した。ヴィルシーナの瞳は見開かれ、そうして直ぐに細められていく。彼女の表情が赤くなっていく。赤色の花火が打ちあがり、その明かりのせいか。はたまた彼女自身のものかは定かではなかった。
「では、浴衣の感想を頂けますか?」
「感想?」
「えぇ、一度も頂けていないので」
「言ってなかったか」
鳥居の前で出会った時の事を思い出す。確かに彼女の装いを褒めることはしていなかった。心の中では感じていた想いを彼女に伝えていない。
「とても綺麗だよ」
「…っ、誰よりも?」
「誰よりも。花火よりも綺麗だ」
心からの本心。やはり言葉にしても月並みの言葉しか出ない。
いや、むしろそれで良いのかもしれない。変に着飾る言葉で伝えるよりも、直接的な言葉で伝える方がより想いが籠るはず。
ヴィルシーナは一度顔を膝に埋めてしまう。何度か顔を擦りつけるように動かした後、此方に視線を向けては頬を緩ませた。
「もうっ…本当に…ずるいです」
彼女の表情は赤く暖かった。
この赤さはきっと花火ではないと、彼女自身のものだと。
そう思えた。
****
「ジャパン…カップ?」
「はい」
夏合宿を終え、緑の葉が鮮やかな黄色へと変わっていく季節。
その移ろいの中でトレーナー室に二人いた。
ヴィルシーナとトレーナー。迫るエリザベス女王杯前に1つの提案をされた。
「ジェンティルさんが今年も出走するそうです」
「なるほど、つまり…勝ちに行くんだね」
こくり、と頷きを彼女は見せた。エリザベス女王杯の次のレース。ヴィルシーナが常にライバル視をしているジェンティルへ遂に挑戦をする。なのだが、最近のジェンティルはどうやら調子が良くなく、ここ最近勝ちから離れている。
宝塚記念3着、天皇賞・秋2着。どうにも最後の一歩が届かない成績を残していた。
ジェンティルドンナの終焉、とまではいかないがそんなことも囁かれ始めている。
「あの方はきっと立ち上がります。前回勝ったジャパンカップをバネにし、二連覇を目指し、そして復活を遂げると」
「エリザベス女王杯から日程が少ないのは理解はしているよね」
「勿論です」
「厳しい戦いになるよ」
「それも理解はしています」
珍しく強情な彼女だった。無理のある日程とまではいかないが、疲労が抜けきるまでには時間がかかる。連続のレースというのは本来の力を発揮できない可能性があるため、あまり推奨はしたくない。疲労が抜けきっていない状態で、そしてG1という大舞台は集中力も使う。
それは下手をすれば怪我をする事にも繋がるのだ。
「有馬記念はダメなのか?」
有馬記念であれば一か月ほど猶予がある。この日程であれば問題なくレースも可能だと思ったのだが、ヴィルシーナは首を横に振った。
「ジェンティルさんからお聞きいたしました。今年はジャパンカップを最後のレースにするのだと。来年に向けて調整などをするそうです」
「なるほどね」
腕を組んでは思案していく。今年最後の挑戦。ジェンティルドンナとレースで戦えるのが今年最後であり、そしてある意味自分とヴィルシーナという関係で最期のチャンスだろう。
これを逃したくないのは彼女と同じ気持ちだった。ならばエリザベス女王杯を出走せず、ジャパンカップに集中する、というのも考えられるがそれは良くない提案になってしまう。女王を目指すウマ娘として、エリザベス女王杯とヴィクトリアマイルは外せなかった。これを逃してしまえば、彼女の目指す女王像からは離れてしまうだろう。
とすれば、だ。することはエリザベス女王杯を終えた後のクールダウン方法をしっかりと考え、トレーニングも軽いものにしつつ、本番に備えたものを用意する必要がある。
連続のレース出走は疲れとの戦いだ。だが、緊張感とレース感を衰えさせない二つの状態で挑めることはある意味利点でもある。それを存分に利用するしかない。
「分かった」と言葉を返していけば、ヴィルシーナの表情は明るくなった。
「ありがとうございます、トレーナーさん。私、必ず勝ちますから」
「ジェンティルが気になる気持ちも分かるけど、まずはエリザベス女王杯からな」
「勿論です。手を抜くことは一切致しませんから」
胸元に手を当てて、自信満々に応える彼女の姿。それが頼もしく見えてしまう。
エリザベス女王杯まであと1か月。そしてその2週間後にはジャパンカップだ。同じ中距離ではあるため、トレーニング内容は大きく変更はないが、過去のレースを見直して走り方を考えなければ。
胸の中で自分の小さな灯が燃え盛るのを感じる。
これは、良い兆候だ。
******
エリザベス女王杯を迎え、無事に1着を取ったヴィルシーナ。その走りはまさにシニア級の女王として、全ての人を魅了するような走りだった。次走、ジャパンカップ。既に一週間が経ち、残りの期間をどう過ごしていくのかをトレーナー室で1人考えていた。
「出走メンバーは…ジェンティルドンナにトーセンジョーダン、エイシンフラッシュ…中々厄介だな…」
ジェンティル自体も強敵ではあるが、それ以外のウマ娘も出走を決めている。どうやら彼女だけを警戒していれば良いわけでは無さそうだ。
自分の視野の狭さを少しだけ悔やんでいく。ジェンティルドンナという存在に目を奪われ、それ以外が疎かとなっていた。先行に差し、追い込みの強者の揃い踏み。
「…まぁ、むしろそっちの方が燃えるか」
ジェンティルだけを意識していれば勝てるようなレースではない。海外からも、そして他の有力ウマ娘も出走を決めている。その中で勝つことで初めてヴィルシーナは頂点たる女王となれるだろう。いや、なれなければ可笑しな話だ。
パソコンの画面から視線を壁時計へ映していく。短針は8という数字を指していた。次に向けたのは窓ガラス。目が妙に疲れを感じている。電子機器の見すぎか、目が渇いているような、そんな感覚を覚えてしまう。
既に外は月が昇ってはいるもその明るさは何処か遠く感じた。月明かりの中で照らされている黒い影。どうやら薄い雲が月を隠そうとしているらしい。
窓を開ければ、ぴゅう、と音が聞こえた。その音と同時に入ってくる冷たい風。頭もついでに冷やそうと考えたが、想定外の寒さだった。
あの倒れた時から既に季節が1年経っている。気づけばそんなにも時間を過ごしていたのか、と改めて感慨深く思えてしまった。自分の胸元に手を当てていく。その生きている証はまだ鼓動していた。しかし、去年とは違い、ゆっくりとした弱い鼓動。
余命宣告を告げられた日付からは既に通り過ぎた。
1年。医者の言うそれは些か信用ならないな、と心の内で笑ってしまう。
「さて…少し気も紛れたし…また始めるか」
独り言を呟いては自分のスイッチを切り替えていく。椅子に手を伸ばしては座ろうとしたとき、扉が突然開いた。
開いた先に見えた人物。今この時間帯に、この場に居ることがありえない人物がそこにいた。
「ヴィルシーナ…?」
「やっぱり…まだお仕事なんですね」
ヴィルシーナは困ったような表情を浮かべていた。小さな子供を叱ろうにも叱れない、そんな複雑な表情をしていた。
彼女は紺色を基調とし、胸元には大きな白いリボンが結ばれたパジャマを着ていた。その上には薄紫の上着も羽織っている。ソファーへ近づくヴィルシーナ。その手には小さな袋を持っていた。
「どうしたんだ、こんな時間に」
「トレーナーさんと分け合いたくて。いけませんか?」
袋から取り出したのは小袋に入ったクッキーだった。何も装飾されていないシンプルなもの。1つ分かるのは掌に収まるほどの大きさであり、そして既製品にしてはやけに包装も味気ないものだった。
「手作り?」と尋ねながら彼女に近づき、隣に座っていく。
「はい」と彼女は答えた。
その包装を破り、中から取り出されたのは二枚のクッキーだった。それを1つ受け取り、かじっていく。バターと小麦の甘い匂いと口に広がる僅かな甘未。少しだけしっとりとしていた。
「ん、これ美味しいね」
「ふふっ、そう言って下さり光栄です」
彼女も続くようにしてはかじっていく。
先程まで脳を使っていたせいか、この甘みが疲れた頭と体に広がり、妙な安らぎを覚えた。その安らぎを求めるようにしては、また一口かじっていく。
「というかヴィルシーナ…いいのか?寮に戻らなくて」
「まだ時間はありますから。それに…きっとトレーナーさんも色々と頑張っていますからそのご褒美に、と思いまして」
「それでこれを?」
「えぇ、そうです」
「気持ちは嬉しいが…しっかり休まないと駄目だろう?」
「それでしたら、トレーナーさんも休むべきですよ」
「俺はいいんだ。レースを走るわけじゃないんだから」
体を使うものと脳を使うもの。いや、彼女の場合はその両方だ。俺は彼女の様に体を使って走ることは無い。だからこそ休息は必要無いのだ。
ヴィルシーナは違う。怪我をすることもある。だからこそ、彼女には俺よりも彼女自身を大切にして欲しかった。
「トレーナーさんはいつもそうです。私の為に頑張ってくれます。私の為に知恵を絞ってくれます。だけど…どうしてそこまでしてくださるのですか?」
「昔言ったかもしれないけど君の家族を想う気持ち、そして女王として目指すその姿を支えたいと思ったからだよ。ただ本当に──────それだけなんだ」
「そう、なんですね」
ヴィルシーナは一度笑顔を浮かべた。その笑顔は何処か無理をした笑顔だった。
違う、これは彼女が求めている答えではない。なのにまた誤魔化そうとしている。
静かな無言の時間。空いた窓から風の鳴る音と時計の針が進む音。それだけがこの静寂を支配している。気まずく、手に持ったクッキー全てを口に放り込んだ。
ヴィルシーナは一度視線を此方に向ける。それは憐れみではなかった。此方を心配する純粋な視線。彼女の両親が見せたそれと一緒だった。
「………ヴィルシーナ」
何かを話すつもりではないのに、この時間が耐えられず名前を呼んでしまった。彼女は「どうされました?」と首を傾げている。「なんでもない」と返してしまえば、彼女は1つ笑みを見せてくれた。優しく、そして暖かな笑顔。先程の作ったものではない。
それに絆されてしまう自分がいる。この時間が来ることはきっとこの先もないのだろう。
だから、彼女に想いの内を、全てを話すのが最後だと感じた。
ヴィルシーナに話すことは正しいことだろうか。
彼女に話してしまえば抱えてしまわないだろうか。もし、抱えて無理をすることがあればそれは取り返しのつかない後悔へ繋がってしまう。
話そうと口を動かせば、喉に言葉が引っかかる。心臓の鼓動が早くなり、それが正しい選択なのか、と何度も問いかけている。
「無理をされなくてもいいんですよ」
彼女の言葉が聞こえた。
その一言が胸の中に小さく入っていく。彼女はただそれだけを言って此方を微笑んで見つめていた。その視線がとても、とてもずるくて、そして吸い込まれてしまった。
「…もう死ぬ命だったんだ。余命も去年の11月に残り1年って言われて」
一度口に出てしまえば止まらなかった。止めようとした想いは、溢れ始めた。
「トリプルティアラを取ることも出来ないどころか一つも…。だから悔しかった。俺の力不足で君の夢を壊してしまったんだ」
溢れた。ヒビが入った。溜めて溜めて、吐き出さないようにしていたそれはもう壊れ始めていた。
ヴィルシーナはただ言葉を発さず、ただ見つめている。彼女が近づき、自分の手に添えてくれた。
「ヴィクトリアマイルの時に勝てて嬉しかった。やっと君の理想像に近づけさせれたって。エリザベス女王杯も勿論…君が女王に近づくために」
ヴィクトリアマイルとエリザベス女王杯の勝利は、心が高鳴るなんてものでは表せないほどに嬉しかった。彼女に恩返しが出来たと思ったからだ。
「俺は…君を導きたいと言ったよね。あれは本当だ。だけど…家族がどうとか、女王がどうとかそんな崇高なものじゃないんだ」
淀み。彼女を命を賭けてまで導きたいと思った理由。一瞬言葉が止まった。また喉に詰まってしまう。必死に喉を絞っては声を出した。伝えなければ。伝えなければ彼女に誠実ではないと思ったからだ。
「俺には家族が…いない。ヴィルシーナの家族には暖かさがあった。俺にはなくて、君にあるもの。それが羨ましかった。眩しかった。そして負けたことへ挫けない君の力が…憧れだった」
持たざる者と既に手にしている者。自分には二度と手には入らないあの世界が羨ましかった。だからこそ、求めてしまったのだろう。遠くからでも、もしかしたらそれを手に入るのではないか、と。余りにも幼稚で、余りにもくだらない。そんな突拍子もない理由だった。
「俺も君に憧れているんだ。君の強さ、気高さ。それら全てに。君が憧れた俺は…こんな…くだらない自分の欲求を満たすために無我夢中で抗うだけの…弱い人間だよ」
最後には彼女に対して笑った。きっとこの笑顔は苦し紛れの、その場しのぎの笑顔。こんな話をしたのに、彼女に心配させない様に笑顔を浮かべている。矛盾している自分が気持ち悪かった。彼女に視線を向けているのに、それは捉えてなかった。
今、ヴィルシーナはどんな表情をしているのだろうか?
「トレーナーさん」と彼女の呼ぶ声が耳に入る。その呼ぶ声で視界が定まり始めた。彼女の表情はただ笑顔を浮かべていた。変わらぬいつもの笑顔で。
腕を伸ばされては、彼女の胸元に抱き寄せられた。優しく頭を撫でられる。頭頂部に伝わる柔らかな感触が後頭部へいき、それを繰り返された。
「幻滅…しないのか?」
「しませんよ」
「くだらないって思わない、のか?」
「思いません。私は貴方に憧れていますから」
「…弱い、だろ」
「強いです。誰よりも」
強く抱きしめられる。彼女の心臓の鼓動が聞こえるほどに。彼女の鼓動に合わせて自分の心臓も鼓動している。まるで共鳴しているようだった。
「トレーナーさんのそれは弱さではありません。人に本心を話すのは…とても勇気のいることです。私は、貴方を称えます。貴方を称賛します。貴方を──────尊敬します」
胸の内に広がる暖かなもの。今まで求めていたそれとは違う形。だけど、似ていた。唇が震えている。ヴィルシーナは何度も何度も頭を撫でてくれていた。その行為だけが心を解かしてくれた。
あぁ、そうか。彼女は海が好きだと言っていた。全てを包み込めるほどに広く、深い。彼女はそれなのだ。全てを受け入れてくれる。勝手に自分から否定をし、そして離れようとしていたのは自分だと。
愚かだった。気づいたとしても時間は残されていないのに。
少しだけ彼女に擦り寄る。もう少ない時間を惜しむ様に。
「…ありがとう、ヴィルシーナ」
「どういたしまして、トレーナーさん」
彼女の優しい声が聞こえた。自分の視界は暗く、何も見えない。深海に沈んだと思えるほど、暗かった。
だけどそれがとても暖かった。
□■□■□■□■
あの日から一週間が経ち、迎えたジャパンカップ当日。
既に勝負服に着替えた私は控え室でトレーナーさんと会話をしていた。
「今日は中々の大盛況らしいよ。かつての好敵手同士の戦いを楽しみにしているって」
「ふふっ、嬉しい事ですね」
出走の時間までまだ時間はある。これが今年最後のレース。そして恐らく、いえ、本当に彼と共に走り抜けられる最期のレース。二つの意味を持ったこのジャパンカップだけは絶対に負けられなかった。
これが私が出来るトレーナーさんへの恩返し。
心臓が強く高鳴っている。緊張と興奮、それらが入り混じった感情は私の全身へ回っていく。ここまでの高揚はかつてないほどでした。
まだ焦る時ではありません。心を落ち着かせるように、左腕に付けているブレスレットを右手で覆うようにして触っていく。彼がくれた贈り物。不思議と心臓の鼓動が収まっていくような錯覚を覚えました。
「やっぱり緊張してる」
「分かりますか?」
「もう何年も契約を結んでるからね。分かるよ」
「そういうトレーナーさんこそ、緊張されてますよ?」
さっきからトレーナーさんは壁時計へしきりに視線を動かしていた。2人して同じ感情を抱えている。その事実が嬉しく、2人で笑みを零した。
あぁ、こうやって笑い合える時間も。話す時間も。緊張する時間も。
これからは1人になってしまう。まだ出走していないのに、涙ぐんでしまう。
もし走らなかったら彼は死なないのだろうか。彼を生きさせることはできるのだろうか。そんな不浄な事を考えてしまう。
その感情を振り払うように一度、首を大きく横に振っては取り払った。
「大丈夫?」とトレーナーさんの声が聞こえた。私の事を心配してくれる彼の声。必死に笑顔を浮かべては彼に普通を装っていく。
「大丈夫です」と。
その言葉を聞いた彼の表情は何処か憂いを帯びたものだった。
「ヴィルシーナ」
「はい────────えっ?」
彼に名前を呼ばれたかと思えば強く抱きしめられた。そうして優しく撫でられる頭。ウマ耳を倒すように、優しく柔らかなゆっくりとした動作。
突然の事で私の頭は真っ白になってしまった。脳内は混乱で支配されており、言葉にしようとしても出なかった。
「そ、その、トレーナーさん、これは…」
「君の表情が暗かったから」
その言葉の後には抱きしめられる力が強くなった。彼を考え、その暗くなり始めていた心には明かりが灯り始めた。先程までの不安は全部何処かへ消し飛んでしまい、求めてしまうのは温もりだけ。一度、胸元へ擦り寄ってみた。
応えてくれるように頭をまた撫でてくれる。それだけで嬉しかった。
「ありがとうございます。もう、大丈夫ですから」
「本当に?」
「はい。もう悩みはありません」
二度目の彼の表情は憂いではなく、優しい眼差しをしていた。
お互いの体を離していき、見つめ返していく。彼の表情を胸にしまい、この暖かさをレースへ持っていこうと、そう決心する。
壁時計を見ると出走時間が迫っていた。どうしてこんなにも時間が経つのは早いのだろうか。名残惜しくも私は控え室の外へ向かおうと脚を進めていく。
トレーナーさんも付いていくようにして。一緒に出ていった。
「いってらっしゃい。ヴィルシーナ」
「行ってきます」
トレーナーさんに見送られる形で私はパドックへ向かっていく。
「ヴィルシーナ!」
珍しく彼の大きな声が聞こえた。視線を其方に振り向かせ、脚を止めた。
「君が帰ってきたら、伝えたいことがある」
「っ…。私も…私も伝えたいことがあります」
唇が強く結ばれてしまう。彼の伝えたいことは何かは分からなかった。でもそれは私にとって最も欲しい物かもしれない。
そう思える程、私とトレーナーさんの心は繋がっているように思えた。
脚をパドックへ進めていく。
長い通路から出ていけば私の名前を呼ぶ歓声が上がった。その呼ぶ声には聞いたことのある声も一緒に届いた。
声の主を探すように観客席を見渡していく。そこには私の家族全員が揃っていた。視線が合えば4人とも手を振ってくれる。胸が暖かくなる。小さく手を振り返せば、ヴィブロスが跳ねて喜んだ。シュヴァルは帽子を被って照れている。可愛らしい2人の妹。
両親も私を見ては笑みを浮かべている。2人が沢山愛情を注いで育ててくれたからここまで来れました。私は感謝してもしきれません。だからこのレースは二つの意味を持っています。
家族への恩返しとトレーナーさんへの恩返しを。
パドックへ上がり挨拶を終えれば、ジェンティルさんが近づいて来ました。
「ほほ、凄い人気ですこと」
「貴方こそ」
「また、叩き潰されにきたのね」
「いいえ、違います」
叩き潰されにきたのではない。貴方に勝つために来た。全てを敗北し、今まで前に立っても嘲笑うかのように追い抜かれ、後ろから狙えば置き去りにされていた。
だけど今日だけは違う。ジェンティルさんという存在に勝つために私はここにいる。
「貴方に勝って、頂点たる女王となります」
「そう。それではその脚…止めさせてあげましょう。あの時のように」
あの時。私の走りが一度止まった。初めてあの方とマッチレースをした時に私は追い抜かれ、その足音と圧力に負けてしまった。
心が敗北したのです。レースは最後まで分からないのに、あの瞬間に私は負けを認めてしまった。
だけど今は違う。私の心には家族が、トレーナーさんがいる。もう止まる事はありません。
パドックからゲートへ向かっていく。今日は1枠2番。私の数字を物語るようなそれだった。対するジェンティルさんは1枠1番。運命が決めているようなその数字。
見ていなさい。今この数字を全てひっくり返してみせますから。
ゲートが閉まる音が聞こえた。風の音と呼吸音だけが良く聞こえる。このレースは私にとって忘れることの出来ないものになるでしょう。
歓声も聞こえないほどに集中している。自分の神経を全て尖らせ、銀の壁が開くの待っていた。
最後のゲートが閉まる音が聞こえた。数秒にも満たない時間が経ち、ついに開いた。
【スタートしました。ジャパンカップ、本日は17人で出走となっています。先頭を行きますは2番、ヴィルシーナ。それに続くように1番ジェンティルドンナと8番トーセンジョーダンとなっています。本日は良バ場。さぁ、ヴィルシーナは雪辱を晴らすことは出来るのでしょうか】
一番前を走ってはまずは前方の争い。走り始めたと同時に観客席からは歓声が湧き、応援の声が良く聞こえた。
一番前で誰にも正面にはいない。いつもは少し後ろから伺う形が常でしたが、どうやら今日は違うみたいです。むしろ新鮮で、誰も居ない独り占めの光景。そのままコーナーへ入っていきました。
【さぁ、各自第1コーナーへ入っていきます。先頭から本日二番人気、ヴィルシーナ。一番人気のウマ娘のジェンティルドンナはその後ろにぴったりとくっついています。続いてトーセンジョーダン。1バ身離れてアノコルイド。並ぶようにシャノース。前方はここまで、中団からはソニムアンドサファイアが続きます。】
コーナーを曲がり、背後の足音が聞こえてくる。あの方は私の背後にぴったりと付いてきており、まるで私を弄ぶかのようでした。時が来ればきっと力を全て出し、追い抜こうとしてくる。まだ焦る時間ではありません。
【向こう正面へ周り、1000mは1分2秒です。少々スローペースではありますが、大きく遅いというわけでは無いでしょう。ウマ娘達も固まり互いに様子を見ております。前方から後方までおよそ…10バ身ほどでしょうか。直線へ入り、ここからどう動いていくのか】
直線に入り、このペースで暫くは維持をすることになる。スローペースで入れたことは幸運でした。最初はジェンティルさんを恐れ脚が早まり、ハイペースになるかと思いましたが、遅い展開であれば前方の方が有利です。
どうやら私は思っていたよりも落ち着いているのでしょう。このブレスレットのおかげか、はたまた控え室のおかげか。それとも今までのレースの経験なのか、家族の応援か。どれかは不明ですが、結論付けるなら全てでしょう。
視線を一瞬だけジェンティルさんへ向ける。彼女は前を見据えており、私の走りを伺うような形でした。いつ来るか分からない不気味さと、いつでも抜けるという自信。私にとってそれらは絶対に負けたくないという闘志へと変わっていく。
【第3コーナーへ入りました。正面から大きく変わってはいませんが後方のウマ娘達は仕掛け始めています。中団後方、エイシンフラッシュが外から伺うように走り始め、それにノキサンナイトも上がってきている。坂を下っては直線では坂があるぞ、スタミナは持つのか!】
コーナーを曲がり、そして勝負の直線が見えてきた。歓声も良く聞こえ、背後のウマ娘達もギアを上げているのか足音が勢いづいている。体を曲げながら、勢いよく直線へ躍り出れば少しだけ膨らんでしまった。
「それでは…行かせて頂きましょう。余興はおしまいです」
どんっ、と一際大きな足音が響いた。芝が抉れるほどの強みと圧力。
これだ。あの時もこの足音で負けてしまった。見えてない圧力に屈した。
思い出しそうになる。恐怖を。屈しろという命令に逆らえない圧力を。
だけど、違う。今は私には家族のため、トレーナーさんの為に走っている。愛おしい妹2人の強いお姉ちゃんとして。両親が誇れる娘として。
そして──────────トレーナーさんに憧れて貰えるウマ娘として。
「負けて───────たまるものですかぁぁ!!」
【ヴィルシーナ先頭!ヴィルシーナ先頭を維持しています!ジェンティルドンナとの距離は変わらず1バ身を保っている!後方エイシンフラッシュとトーセンジョーダン、そしてソニムアンドサファイアが狙っているが離されていく!2人の独壇場だ!!】
進める。脚を前に出し、あの足音を消すように地面に脚を叩きつける。
逃げるのではない。勝ちに行くのです。女王としてあるために。頂点を目指すための一歩、いえ、頂点たる女王の走りをここで見せつける!
【残り200m!1バ身から変わらな…いや!離れている!ジェンティルドンナ離されていく!追いつけない!ヴィルシーナ先頭!ヴィルシーナ先頭だ!】
走れ!走れ!脚を前に進めなさい!挫けている暇があればそれをバネに、恐怖心が生まれたのであればそれを燃料に変え、脚を前に進めなさい!
女王となるのであればこの程度で音を上げてはなりませんっ!
残り100m。
不思議と足音は全て聞こえなくなり、最後に聞こえてきたのは歓声だけでした。
【ヴィルシーナ!ついに…ついにヴィルシーナがジェンティルドンナを破りました!雪辱を果たしましたヴィルシーナ!見事な走りです!まさに蒼き女王が今ここに誕生したことでしょう!】
息を切らしていた。ゴール板を通り過ぎた後には自分の息を荒げる呼吸音が耳を支配していました。苦しい、けど心地良い。
勝利したことへの喜びが全身に回っていく。観客席からは大勢の声が、私の名前を呼ぶ声が聞こえていた。それがまた前進に駆け巡り、より栄光を掴んだことを実感させる。
芝を掻き分ける足音が聞こえた。其方に視線を向けるとそこにはジェンティルさんがいた。
「…完敗ですわね」
「珍しいですね。ジェンティルさんがそんな事を仰るなんて」
「強者には賛美を。ただそれだけですわ」
そうして彼女は左手を差し出してきた。
「これで終わるつもりはありません。来年こそ必ず見せつけてあげましょう」
「ふふっ。えぇ…そうですね……それは楽しみです」
私はその手を握り返して握手をしていく。左手の握手には意味には敵意という意味が込められている。つまり私に対して、負けたことを悔しがっているのでしょう。
その握手を見た観客は湧き上がり始める。私の想いの内などを知らずに。
来年はもう、叶わぬというのに。
ここまで苦い勝利は初めてでした。
****
ウィニングライブを終えては控え室に戻ってきた。トレーナーさんは私の家族と一緒に観戦をしていたとのこと。控え室でそんな会話をしながら、私は帰宅の準備を整えていました。
「本当におめでとう、ヴィルシーナ」
「もう、何度目ですか?既に3回以上は聞いてますよ?」
「何度だって言うさ。ジェンティルドンナに勝てたんだから。遂に君が頂点たる女王の座を取ったのに褒めない方がおかしいだろう?」
「ふふっ、ありがとうございます」
トレーナーさんの賞賛の言葉。それを聞けば頬は緩みっぱなしになってしまいます。彼がそれだけ私を想ってくれ、そして私の目指す姿を待っていてくれた。
だけどそれは今年までの話。来年からは違います。トレーナーさんの命は既に尽き欠けている。いつ倒れてもおかしくはありません。
「さて、帰ろうか。君の家族も待ってるしね」
「えぇ、行きましょう」
少ない時間を大事にしなければならない。今年はレースの出走も終わりです。来年から、来年からどうしましょうか。いえ、そんな事はありません。彼の余命宣告は過ぎているのにまだ生きている。きっと彼はまだ生き続ける。根拠はありませんがそう思えました。
控え室の扉を開けては一歩廊下へ踏み出していく。
「あ、トレーナーさん。そういえばレースがおわっ─────────た…?」
トレーナーさんは音も無く倒れていました。
「トレーナーさんっ!」
彼に近づいていき、肩を揺さぶっていく。それをしても反応は無く、瞳は力なく閉じていました。何度も何度も彼の名前を呼んでいく。大きな声で呼んでも、反応は返ってこなかった。
「いや…誰か…!誰か来て…!!」
ただ叫ぶ。悲鳴にも近いそれを。
こんなのは、残酷でしかありません。
彼にまだ伝えていないのに。
□■□■□■□■□■□■
死ぬときには花畑を見る、三途の川を船で渡っている、などと言われる。花畑ならば綺麗で鮮やかな色彩に見惚れることだろう。三途の川であれば自分に縁が近い人物が待っていると、そう聞いた。
実際に死んだ者がそれらを伝えたというわけでもないのに知れわたっている。所謂一種の願望なのだろう。死んだ世界では無ではなく、天国に似た世界が待っているのだと。これらに当てはまらなくてもきっと他にも綺麗な世界が待っていることだ。
では、何もない世界に来た俺はどういう意味を持っているのだろうか。
「…暗いし…寒いな」
これが死後の世界と仮定するのであれば、静かで暗くて寒かった。語られる話とは違い、むしろ孤独、という二文字が直ぐに浮かんでしまうほどだ。
「三途の川も無し。花畑も天使もいない。これが最期とは、ね」
自嘲気味に笑ってしまう。もし家族との縁が残っていれば三途の川で待っていてくれたのだろうが、生憎そういったものも残っていないようだった。
ただこの暗闇を歩いていく。両手を伸ばしても当たるものは無く、空を切るばかりだった。
脚を前に踏み出し、そして地面と思われる暗闇につけていく。感覚は無かった。だけど前へと進んでいる奇妙なもの。宇宙空間で歩こうとするならばこんな感じだろうか。それほどまでに不思議な世界だった。
どれほど歩いたのだろうか。数分か、はたまた数十分か。時間の感覚は狂っている。もしかしたら数時間歩いているのかもしれない。
不思議と歩いているのに脚は疲れる事は無かった。少しだけ走るように脚を動かしても不思議と息切れはしない。
手を胸元に当てては心臓の鼓動を確かめていく。小さな鼓動。今まで感じた中でも一番小さかった。不思議だった。動いてるという事は死んでいないということだろうか。
自分の掌を返すほどの動きではない。しかし動いている。そうなればこの世界はどう定義すれば良いのだろうか。
「───────さん」
「…?」
何かが聞こえた。自分を呼ぶ声だと思った。声は背後から聞こえ、其方に振り向いた。
白く小さな光が差し込んでいた。日の出のような暖かな白い光。それを求めるようにしては数歩だけ脚を動かした。
「──────ナーさん」
また聞こえた。まだ途切れてはいるが、この声色は聞いたことがある。
ヴィルシーナだ。
彼女の声を求めるようにして、俺は走り出した。その光が逃げてしまわない様に。
「───トレーナーさん」
3度目ははっきりと聞こえた。彼女の優しい声が。脚を走らせ、その光に片手を伸ばしていく。近づけば近づくほどに光の輝きは増していき、自分の全身を包み込んでいく。
「ヴィルシーナっ!!」
彼女の名前を叫んだ。暗い世界を破るように、喉から叫んだ。あの光は、この暖かなものを求める様に強く手を握りしめた。
次の瞬間、目を覚ました。
視界は先程の暗闇ではなく、白の天井を映していた。先程の寒い世界ではなく、自分の体は毛布で覆われては暖められている。
視線を動かしていく。左腕を確認すると点滴をした後のようで、肘の内側には四角い絆創膏が貼られていた。
ふと、自分の右手に重みを感じる。今度は其方に顔を動かすとヴィルシーナがいた。彼女は右手に寄り添うように顔を乗せており、そして瞳を閉じていた。小さな寝息が聞こえる。彼女の温もりが懐かしいようにも思え、右手を動かしては頭を撫でた。
「…んんっ」と彼女は声を漏らした。そうしてゆっくりと顔を上げてはぱちぱち、と何度か瞬きを繰り返しては「トレーナーさん!」と叫び、そうして強く抱き着かれた。
「えぇっと…ヴィルシーナ…?」
「本当に…本当に心配させないで下さい…!」
胸元に彼女の顔を押し付けられ、そうして何度も擦りつけられる。彼女を慰めるように頭を何度か撫でていく。
視線を外へ向ければ木々の葉は茶色く、僅かに残っている程度だった。今回はかなり眠ってしまったらしい。まだ外は明るく、暗くなるまでに時間はありそうだった。
「一ヵ月…一ヵ月も…眠っていたんですよ…」
「そんなにも…眠ってたんだね」
「お医者さんを…呼んできますね?」
「ありがとう、お願いするよ」
彼女は離れていき、足音を立てながら扉の外へと歩いていった。
自分の心臓に手を当てていく。とくんっ、と鼓動をしていた。しかし、それは余りにも小さな鼓動の繰り返しだった。
以前であれば手にしっかりと伝わるほどの鼓動だった。だが今ではしっかりと聞かなければ分からないほどに弱く、いつ聞こえなくなるかも分からないほどだ。
だが、そんな心臓の鼓動の弱さとは裏腹に体は調子が良かった。過去一番、という程ではないが、咳もする気配も、ましてや発作が起きる気配も感じないほどだった。
(あぁ、そうか────これが最期か)
ずっと付き合い続けてきたことだから分かってしまった。この瞬間が僅かな灯なのだと。線香花火の最後の輝き、命の蝋燭の僅かな光。例えることは可能だった。それほどまでに実感してしまったのだ。
(案外落ち着いてるんだな。もっと焦るものかと思ったけれど)
死後の世界を見たせいか、はたまた死を意識していたせいか。もしくはやるべきことを全て終え、未練が無くなったのか。いや、きっと全てなのだろう。死にたくない、と喚かないほどに自分の人生に納得が出来ている。
一度だけ目を閉じた。この最期の時間はどうしようか。
レースに関わってきた人生。最後に何かのレースを見届けるなんてどうだろうか。それとも来年のヴィルシーナを考えてトレーニングメニューを渡そうか。
いや、ここはヴィルシーナの走りを見るなんてどうだろうか。待て、彼女はジャパンカップを走って休暇中なはず。無理に走らせることはよくない。
そしたら何処かに出かけるのはどうだろうか。外の風景とヴィルシーナの言葉からしてもう12月だ。彼女と日帰りの温泉で休む、なんてありかもしれない。2人で頑張ったご褒美として。
「──────ははっ」
思わず笑いが零れてしまった。
自嘲では無い。楽しく、そして心が温まるようなそんな小さな笑みを零した。最期の時をどう過ごすのか。それを考えていれば自然と答えが決まってしまう。
ヴィルシーナと共に過ごしたい。
契約をして3年。されど3年。余りにも長く、余りにも短い時間。それでもヴィルシーナという存在が自分の胸の中に入り、そして暖めてくれる存在となるには十分すぎた。
彼女はかけがえのない存在になっていたのだ。
「…嫌だなぁ」
ぽつり、と1人零していく。誰にも聞かせない最期の弱さ。
もう死ぬんだ、と達観していたのにいざ思い返せばもっとしたいことが出てきてしまう。意外と自分は生きたがりのようだ。
「ヴィルシーナ」
死んだ後も忘れない様に彼女の名前を口にしていく。記憶の中ではない。体に、心に、魂に刻み込むように口に出した。
不思議と涙は出なかった。
□■□■□■
「本当に良いのですか…?」
「いいよ!折角退院できたんだし、それに凄く体の調子が良いからね。今日は待たせた分、ヴィルシーナにとことん付き合うからさ」
お医者さんを呼び、彼の部屋に戻った後、トレーナーさんとお医者さんの2人で話すことになりました。その間、私は部屋の外で待つことになりました。
2人が話している内容。それが全て聞こえてしまいました。ウマ娘であるが故に耳が良く、嫌でも聞こえてしまう。
彼の命はもう尽きてしまうことを。
トレーナーさんはあの後お医者さんに無理を言って退院させて貰ったそうです。この少ない時間を病院のベッドで過ごすくらいならば外を出歩きたい、と。傍から見れば迷惑な患者だ、と思うかもしれませんがどうやら彼は前からそうだったようで。
お医者さんも長い付き合いで入院についてはもう諦めているようです。
そうして時間は流れ、時刻は16時。最後に彼はお医者さんにお礼を言って、荷物を持って病院から一緒に出ていきました。
トレーナーさんが私と一緒に過ごしてくれるのはとても嬉しい事でした。ですが、その最後の時間を私の為に使ってくださるのは本当に良いのか、と。そう尋ねましたが彼は笑顔で「構わない」と返してくれた。
「では…イルミネーションなんていかがでしょうか?」
「イルミネーション?良いけど、そんな季節なのか?」
「えぇ、実は今日クリスマスなんですよ」
「……それは…またこう…色々と奇跡だね?」
「ふふっ、本当に…素敵なクリスマスプレゼントです」
2人で並んで歩いていく。
今日は12月25日のクリスマス。彼が目覚めたのが偶然か必然か。そう疑ってしまう程だった。
「足元、大丈夫ですか?」
「大丈夫。寝たきりだったけど、意外と衰えてないみたいだ」
「それでも無茶は駄目ですよ。トレーナーさん」
私はそう言って、左手を差し出していく。支えなくとも問題は無さそうでしたが、トレーナーさんの足取りは少し重く、ぶつかってしまえば倒れてしまう事も考えられる。そうならない様に私が杖となり、支えようと思いました。
その手を見た彼は私の掌に重ね、そして握りしめてくれる。暖かく、柔らかな彼の手。何処か安らいでしまうような、そんな手でした。
「エスコート致しますわね」
「ありがとう。優しいね、ヴィルシーナは」
また隣同士で歩きはじめる。私の左手首には彼から貰ったブレスレットを付けている。このブレスレットは学校生活以外では毎日付けています。これを付けることで彼が近くにいるような、そんな気がしたからです。
そのブレスレットが視線に入った彼は「かなり気に入ってる?」と尋ねました。
「とても大事なプレゼントですので」と返せば彼は頬を少し赤くしてはにかんだ。幼く見えるその表情が可愛く、私は釣られてしまった。
****
「最後が海で良かったのですか?」
「最期、だから見たかったんだ」
時刻20時。既に白い月明かりが空を支配し、星々が瞬いていた。空が澄んでいるのか、その星たちは良く見えている。最後に来たのは海だった。
夏合宿場で訪れた場所とは違いますが、それと良く似た風景。2人で砂浜に降りていき、そして堤防に背中を預けて2人で座り込みました。
「…やっぱり寒いね」
「12月ですからね。誰も居ませんし、私とトレーナーさんの貸し切りですね」
周囲に視線を見回しても人は誰もいませんでした。肩で触れ合う程度に寄り添い、ただ静かに海が凪いでいる音だけが聞こえる。夏合宿場で見たあの時の海と同じくらい、いえ、それ以上に澄んでいました。
私とトレーナーさんの呼吸音だけが良く聞こえる。2人だけの世界。そう思えるほどに静かでした。
「……ヴィルシーナ」
彼の声が聞こえた。
「どうされたんですか?」
そう返しては視線を向けていく。彼は海を眺めたまま口を開き始めた。
「今日は…ありがとう。君とこうやって一緒に過ごせて良かったよ」
「私もです。イルミネーション…綺麗でしたね」
「あんな風にクリスマスを誰かと歩くなんて初めてかも」
「私もです」
2人で町中を装飾しているイルミネーション。クリスマスツリーに数々の煌びやかなその光たちは心を躍らせ、魅了された。歩いている中で小腹が空いたという事で、2人でとあるお店に立ち寄った。そこはスープ専門店であり寒い季節にはぴったりだった。
彼はコーンスープを。私も同じものを共有したくて一緒のものを注文し、それを飲みながらお店の中で会話をした。
その会話の中でトレーナーさんが海を見に行きたいと言ったのだ。
「今日の夜ご飯、スープだけじゃ足りないだろう?」
「そんなことありませんよ。トレーナーさんと一緒だから気になりません」
「無理に合わせる必要はないのに」
「無理ではありません。トレーナーさんと一緒に居ることはどんなことであれ、苦ではありませんから」
笑顔を浮かべながら話し続ける。けれど彼は視線を此方に向けてくれない。彼の瞳には海が映っていた。月明かりに反射され、光り輝く海を。
2人で歩く日々は何度来るのだろうか。2人で会話が出来る日々は何度来るのだろうか。2人で過ごせる日々は何度来るのだろうか。
どれだけ想っても、きっともう来ることは無い。
それを感じたくなくて、それに思考を支配されたくなくて、私は必死に言葉を紡ぎ続けた。
「明日はどこに行きましょうか。そういえば、有馬記念見ていませんでしたよね?凄いレースでしたよ。私は現地では見れてはいませんが、レースの資料なら────」
「ヴィルシーナ」
トレーナーさんが視線を此方に向けた。その表情は今まで見た中で柔らかく、まるで全てを悟ったような表情だった。
貴方のその表情を見たくなかった。続きの言葉を聞きたくなかった。
「そ…そうです。それにほら…初詣を覚えていますか?あの時のタルマエさんに巫女服を私も着ようかと思いまして──────」
「…ヴィルシーナ」
「来年はヴィクトリアマイルとエリザベス女王杯の連覇!それに向けたトレーニングだって必要ですし、トレーナーさんには付き合って─────」
「ヴィルシーナ」
彼がそっと頬に手を当ててくる。ゆっくりと私は彼と視線を合わせられてしまう。
嫌だ。見たくない。触らないで下さい。見ないで下さい。
今の私はきっと、とても情けない表情をしています。
「聞いて。ヴィルシーナ」
「わた…しは…嫌です…。聞きたくありません…」
聞いてしまえば本当に別れが訪れてしまう。それが訪れないで欲しい。そう願っては何度も私は首を横に振っていく。初めてここまで彼の事を拒絶しました。
「…海を好きになって欲しいって…君が言ったのを覚えてる?」
「覚えて…ます…」
「俺はあの時、ずっとかも、から変わらないって思ったんだ」
「えっ…?」
彼の返答を思い出す。何処か歯切れの悪く、答えることを濁すような言葉。
「俺は君が見せてくれたそれが…縁遠いものだと思ってたんだ。だから、かも、だと答えたんだろうね。君にあって、俺には無いもの。それが…あの暖かさで…光だったんだ」
私の頬を優しく撫でながら、彼は言葉にし続ける。私は彼の瞳を見つめ続けている。彼の瞳に映る今の私はどんな表情をしているのだろうか。
「俺には二度と手に入らないから、かもとしか言えなかった。だけど今は違う。はっきりと言える。俺は海が好きだ。包み込んでくれるような、大きくて深い海が」
「…っ…嬉しいです」
「あの暖かいものは…既にヴィルシーナに沢山貰っていたんだ。君の行動1つ1つが俺の事を暖めてくれた。家族でなくとも、それがあるんだって初めて分かったんだ」
トレーナーさんはゆっくりと手を離していきました。彼の温もりが離れるのが怖くて、私は思わず手を掴んでしまった。その離れた手が遠くに行ってしまわない様に、強く両手で挟みこんだ。
「私は…トレーナーさんと一緒でなければ嫌です。もう…ずっとずっと一緒にレースを走り抜け、日常も過ごしてきました。貴方が…いない人生なんて考えたくありません」
「…俺もだよ」
来年の初めには彼はもう居ないかもしれない。それが訪れるのは一週間後かもしれない。明日かもしれない。
────────今日かもしれない
だからこそ私は離したくなかった。この手を離してしまえばトレーナーさんとは二度と会えない、そう思えたのだから。
「死んだ後の世界って…意外と暗くてさ、寂しいなって思ったんだ」
「…どういうことですか?」
「そんな夢を見たんだよ。あれがきっと死後の世界なんだなって。誰も居なくて、暗くて、静かで。そんな世界だった」
「そ…んなの…」
余りにもむごすぎる。彼を待っている者は誰もおらず、ただ冷たい死の世界で彼は1人で居続ける。それがここまで頑張ったトレーナーさんの行き付く先だとは思いたくなかった。でも、それは嘘ではない。だって彼の瞳はそう告げているのだから。
死んだ後は天国に行くのではないのでしょうか?暖かな花畑で幸せに過ごすのでは?頑張った彼に訪れるのが無なのであれば、何のために彼は一体。
「私が…私が一緒に逝けば…きっと…!トレーナーさんと一緒に────」
「ヴィルシーナがそれを選ぶなら俺は君を嫌いになる」
胸を締め付けられ、心臓の鼓動が止まるほど苦しかった。最後まで彼と共に寄り添うことも許されない。彼を癒すことも支えることも許されない。それ以上に彼に嫌われることが最も嫌だった。
心中することであの世で一緒に過ごせるのだと。何処かで聞いたことがあります。だからこそ、選択肢の一つに入ってしまった。家族も全ていなくなり、1人となった彼と共にいられるのは私だけだと。
「どう…してですか…」
「…ヴィルシーナには家族がいる。ご両親に大好きなシュヴァルとヴィブロス。それにタルマエやジェンティルドンナだって。君には長く生きて欲しいから」
「ずっと…ずっと一人かもしれないんですよ…」
「…そうだね」
「なら一緒に…」
「俺は…君の暖かさを知れたから。海の暖かさを。あの世界なら…より感じれて、君を待つこともできるよ」
言葉が出ない。私の頬には涙が流れ出ており、止まらなかった。何度も止めようとしても、腕で拭っても止まることは無い。
お願いです。神様。彼が長く生きられるためには私はどうすればいいですか?
そんな事を考えても誰も答えをくれなかった。
「そんなの…あんまりです…。私は…どうすれば…」
「君が年老いて死んだとき、俺に会いに来て。その時に沢山思い出を話して欲しい。だってヴィルシーナと話すのは大好きだから。ヴィルシーナという人生を、君の口から話して」
「わたし…は…でも……」
「レースをして、家族との思い出を歩んで、大人になって、夢を叶えて、時には誰かを好きなるなんていいかもしれないね。もしそうなったら、少し悲しいけど」
彼は頬を赤くしながら笑みを零した。私の人生。彼とはもう歩めない、1人の人生。家族が居ても、友人が居ても、私は貴方と一緒に歩めない事の人生が一番苦しい。
何度も何度も首を横に振っていく。拒絶。小さな子供のように繰り返し続けた。
「…いや、いやです…お願いです…」
「…今日は一段と強情だね」
「強情になります…我儘になります…だからもう…お願いです…」
これ以上は、
その言葉が出なかった。伝えないといけないのに、それを伝えることがトレーナーさんにとってどれだけ残酷なのか。それを考えてしまった。
ただ首を振り続けて拒絶する私にトレーナーさんは一度近づいた。そうして、彼は抱き寄せてくれる。暖かなこの感触も。彼の匂いも。鼓動も。全部無くなってしまう。
消えないように私は顔を擦りつけていく。
その中で1つ、髪に違和感を感じた。彼の少し硬い唇が押し当てられ、離されていく。
「トレーナー…さん?」
「君に…沢山想いを乗せた呪いだよ。死ぬときにこういうのは良く効くみたいだからね」
「笑えないです…」
「…じゃあ…もう一つ笑えないクリスマスプレゼントを」
「……?」
トレーナーさんが両手を離していき、私のブレスレットに手を伸ばした。それを外していき、ブレスレットに付いている指輪を右手に持っていく。彼の左手が私の左手に添えられていく。
私の左薬指、そこにアクアマリンの指輪をはめられた。
「…っ!」
「…君が好きだ。心から好きだ。死んでもずっとずっと…最期にこんなことをしてごめん」
「そんなこと、ありません…」
嬉しかった。私もトレーナーさんの事が好きです。私の事を想ってくれ、私の為に沢山考えてくれ、何をするにしても私を一番に想ってくれた貴方が大好きです。
「私も───────大好きです」
言葉にした4文字。それを聞いた彼は一瞬瞳を開かせ、柔らかな表情へ変わっていった。いつもの彼の表情。私が一番大好きな、笑顔でした。
「ありがとう」と一言彼はそう告げた。
とても、とても重くて、素敵な呪いをかけられてしまった。こんな呪いをかけられた私は一番不幸で、一番幸福なのでしょう。
最期に彼に我儘を言いたかった。想いが伝え合ったのであれば、きっと許してくれるはず。
「トレーナーさん」
「どうした?」少しだけ彼は首を傾げた。
「…髪にしてくれたお返しです」
指輪を付けられた呪い。
それならば私もトレーナーさんに呪いを返します。貴方がこの世からいなくなっても、私を忘れることの出来ない呪いをかけます。
両手で彼の頬を包み込んでいく。彼が逃げてしまわない様に。
そうして私は彼の唇に、自分を重ねた。
**
「トリプルティアラ、取れなくて悔しいですね」
「そうだね…」
「ジャパンカップのジェンティルさんは…強かったですね」
「そうだね…」
2人で海を見ながら寄り添っていく。私の左手と彼の右手は指を絡ませ、繋ぎ合っている。決して離れない様に強く、深く。彼の肩に私は頭を乗せていき、言葉を紡ぎ続けた。
「初めてトレーナーさんが入院した時は…びっくりしました。もう駄目なのかと」
「…そうだね」
「あそこで…すれ違い始めましたね」
「……そうだね」
2人で思い出を振り返っていく。彼と歩み続けた3年間を忘れない様に。
私と彼の心に刻み付けるように。
「でも…その後に見た花火は綺麗でしたね。トレーナーさんは私を見てて…ふふっ」
「………そうだね」
「ホワイトデーで頂いたこれも…ずっと大切に致します。そういえばバレンタインデーも近づいていますね、早いものですね」
「…そう、だね」
トレーナーさんの言葉がゆっくりと小さくなっていく。彼の視線は海を見続けており、時折私の方を見ては微笑んでくれた。
冬の海は寒い。彼の体温が無くなってしまわない様に、私は更に寄り添い、上着を一緒に羽織るようにした。
「ヴィクトリアマイルとエリザベス女王杯…そしてジャパンカップ…どれも…女王となるため、忘れられないですわね」
「………そう…」
「…今日のクリスマスは…私の人生で一番素敵な…出来事でした」
「………」
一度彼は頷いた。その頷きと共に彼の視線は海ではなく、砂浜に映ってしまう。
私は彼の胸元に耳を当てていく。とくんっ、と小さな鼓動。まだ生きている。とても綺麗で、輝いている彼の命の灯。私はそれが少しでも長く灯るように、正面から彼を包み込むように抱きしめた。
私は海が好きです。全てを包み込めるほど広く、深い。だから、そんな何事も包み込めるほどのウマ娘としてありたかった。
それが強いお姉ちゃんとして、頂点たる女王へ目指す道だったから。
彼の体温は暖かった。その温もりが忘れてしまわないように、ただ彼の肩に顔を埋めた。
「ずっとずっと貴方のことを愛しています。死んでもずっと」
きっとトレーナーさんに怒られてしまうでしょう。だけど怒ってください。呆れてください。それでも構いません。
それほどまでに私は貴方に強い呪いをかけられてしまったのですから。
海の凪ぐ音が良く聞こえた。海風が運ぶ潮の匂いが、肺へ、全身へ行き渡る。
私は海でも深海となりましょう。深い場所であれば暖かく、彼に冷たさを浴びせなくて済むのだから。光が届かないなら、その深海まで私が届けに行きましょう。
貴方に孤独は感じさせたくないから。
私は彼を抱きしめながら、夜へ融けた。