文化祭。
大半の学校で耳にする言葉である。秋の学校行事の1つであり、普段は真面目な先生もこの時だけは羽目を外すだろう。食事や何かを催し、そしてライブをする。学校全体がそんな遊びという世界で包まれるのだ。
そしてトレセン学園もそれは例外では無かった。大半の学校と同じように羽目を外し、この時は皆レースの世界から離れ、思い思いの世界を構築していく。唯一違うとするならば、この学園では文化祭、ではなくこう呼ばれている。
聖蹄祭、と。
今日はそんな聖蹄祭当日の日だった。基本的にはウマ娘達が出し物をし、交代交代でお店の運営や出し物、ライブといった内容を行っていき楽しんでいくのがメインだ。勿論、それはトレーナーも一緒になって楽しむことはある──────のだが。
「まさかトレーナーさんが執事カフェをするだなんて…」
既にこの執事カフェでは行列が出来ており、出てくるウマ娘は幸せそうな表情をしていました。私達のクラスではメイドカフェをしており、今は休憩時間。シュヴァルとヴィブロスの出し物を見に行き、そして最後に訪れたのは執事カフェ。
ヴィブロスから凄い人気だよ、と聞いてはいましたがまさかここまでとは。
「休憩時間…はまだありそうね」
携帯を取り出しては時間を確認する。確かに行列ですが、人の捌きは早いようで。これならば時間内に戻る事も可能でしょう。
そうこうしているうちに、既に私の順番まで回ってきました。時間にして30分。カウンターにて、執事服を着た女性のかたが名簿を渡してくれます。
「お帰りなさいませ、お嬢様。此方の名簿から好きな方を選んでいただけますでしょうか」
「は、はい…」
私よりも身長が高く、すらりとしたスレンダーな体系。女性の私でも見惚れてしまいそうはほど素敵で、呆けてしまった。
渡された名簿の中には写真だけが貼られており、写真の下にはご対応中、ご休憩中と書かれているものもありました。その中で見つけた彼。私のトレーナーさんの写真がありました。
彼の下には記載は無かった。その写真を指差しながら私はその女性に向けて言葉を告げていく。
「この方を…お願いできますか?」
「かしこまりました。中の2番のお部屋にてお待ちください」
「分かりました」
にこり、と笑みを浮かべられ、手を広げられては中に入るように指示を促された。教室の中へ入れば黒いカーテンで仕切りを作られており、その中で給仕を受けているようです。その仕切りは4個であり、黒板側に配置されていました。
2番、と書かれたその仕切りへ足を運んでいき、黒いカーテンを開けていく。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
私の姿を見ては一瞬驚いたように視線を揺らがせるトレーナーさん。しかし、笑みを浮かばせては右手を胸元に添えては会釈をしていく。
彼の服装は膝まで伸びたチェスターコートに、中にはグレーのベスト。首元には白いシャツとそして濃紺のネクタイが付けられていました。ズボンは少し明るめの縞模様が入ったグレーのズボン。両手には白いく薄い手袋をしていました。
「…………っ…」
「お嬢様?」
「…あ、いえ…その…」
彼の姿はとても格好良かった。普段見せることのない凛々しい表情。だけど何処か柔らかな優しさも含んでいる。
服装に至っては普段見せないその姿。スーツ姿を見たことはありますが、それとは比較にならないほどの似合いっぷり。いつもしているのではないか、と疑ってしまうほどに彼の所作は優雅であり、着こなしていた。
髪型もワックスで少し固めており、幼さを含んでいた彼は今は1人の執事として、女性を際立てるための存在となっていました。
そう、見惚れてしまったのです。
普段見ることの無いトレーナーさんの姿だからこそ、見惚れてしまった。
小さな声で呟くように、自分から出たとは思えない「かっこいい…」という言葉。
「ありがとうございます。お嬢様」
どうやら彼に聞こえていたようで頬を緩ませては返事をしてくれた。それだけで私の頬は熱くなってしまう。
ここから出てきたウマ娘達は何処か夢現の表情をし、そして幸せそうにしていました。その理由がはっきりと分かってしまう。だって今まさに自分の心臓は早く鼓動し、そして頬も緩んでしまっている。きっとだらしない表情を私はしているのでしょう。
「此方へどうぞ、お飲み物はいかがいたしましょうか」
トレーナーさんは私の手を添えるようにして握り、白い椅子へと案内していく。その椅子を彼は引いて、座りやすいようにしてくれた。
促されるまま椅子に座っては渡されるメニュー表、そこには紅茶やコーヒーといった飲み物が書かれていました。
「申し訳ございません。お飲み物にお付けいたしますスコーンなどは本日終了していまして」
「…本当に人気なんですね?」
「えぇ、嬉しい限りです。勿論、ヴィル…いえ、お嬢様に来て頂いたことも私は嬉しいことですから」
一瞬だけ私の名前を呼びそうになった。直ぐに訂正をしては、執事としての振る舞いを続けていく。自分の名前ではなく、お嬢様、という呼ばれ方がくすぐったいですが、これはこれで悪くありません。
さて、この中で選ぶのであれば紅茶にしましょう。私はメニュー表を見せながら「これを頂けますか?」と口にしていく。
「かしこまりました」とトレーナーさんは一度お辞儀をした後に仕切りから出ていった。1人残されるこの空間。横からは黄色い声援とも取れるような声も聞こえてくる。
「はぁぁ…これは…良くないわね…」
普段の装い、表情、それらとは違う。だからこそ余計にトレーナーさんの事を意識してしまう。トレーニング指導をしている時の彼も凛々しさはある。それは走りに対して無邪気な表情も含んでいます。
しかし、これは違います。凛々しさだけを携えている彼。私の心を揺り動かすには十分すぎました。事実、私の心臓は早く鼓動しています。
一度大きく深呼吸をしていく。そう、私はお嬢様。彼が執事というのであれば、彼は私を引き立てる存在です。女王であるならば、むしろ少し強気でも良いはず。そんなことを考えていると彼が仕切りの向こうから帰ってきた。
「お待たせいたしました。此方、アールグレイとなります」
机の上に置かれた白を基調とし、青色の模様で装飾されたマグカップ。そのマグカップにガラスのティーポットから茶色の液体が注がれていく。
とぽとぽ、と音を立ててはマグカップから湯気が立ち、それと同時に匂いも立ち込めていく。
「頂きますね」
そう告げてはマグカップを手に取り、まずは匂いを味わっていく。私の鼻腔を擽る良い匂い。それを味わっていけば、今度はマグカップを口に付けて舌で味わう。舌先に伝わり、口内を支配していく仄かな甘みと茶葉の爽やかさ。
こくん、と喉を鳴らしながら飲み、マグカップを机の上に戻した。
「………」
「どうされました?」
視線をトレーナーさんへ向けていく。彼は私の動作を眺めてはそのまま無言の状態を貫いていた。
「あぁ、その…絵になるなぁ、と思って」
「絵になる?」
「そう、気品があるというか…所作が綺麗だと思って」
そんな風に褒められるとは思っておらず、頬が熱くなる。こほん、と1つ熱さを誤魔化すように咳をしてみては彼の方に視線を向けた。
「口調が執事ではないですよ」
「────あっ、失礼いたしました。お嬢様とご一緒していると、心が安らいでしまいますので」
彼の丁寧な言葉遣い。ですが、これは彼が執事として話しているようにも聞こえた。所謂リップサービスなのだ、と。トレーナーさんの事だからそんな事はないと思えるのに少しだけ、私の心に影がかかった。
「それは本心…?」
「えぇ、本心ですとも」
いけないのに。彼は私に対して執事をしっかりと振る舞おうとしている。その執事という仮面を剥がし、私だけのトレーナーさんとして、その言葉が欲しかった。
「………それは執事として?」
「執事だけではなく、私個人として、です」
彼は胸元に手を添えながらしっかりと視線を向け、逸らすことのない真っすぐなものだった。それが聞け、そして彼の瞳と視線が絡まれば、尻尾が無意識に揺れてしまう。
これは本心なのだ、と。そう理解しても影はまだ晴れることは無い。
執事といえば御使いする相手を称賛するもの。つまり、トレーナーさんは他のウマ娘にもしているはず。それが彼の本心であろうとなかろうと耳障りの良い言葉が他のお嬢様に聞かせているのは、気持ちの良いものではありません。
嫉妬。執事という振る舞いをしているが上で仕方ないことではあります。ですが、それでも私だけのトレーナーさんだと、何か証明が欲しかった。
とはいえ、その証明をして貰う方法が思いつかないのは悲しい現実ではありますが。
そのもやもやしたものを少しだけでも無くそうと、紅茶をまた一口飲んだ。
「さて、こうやってお話するのも良いですが、お写真も撮る事が可能でして。ご一緒にいかがでしょうか?」
「写真?」
「えぇ、チェキ…というわけにはいきませんが携帯でツーショットになりますね」
「……ツーショット…」
「どうされますか?」
あぁ、嫌だ。またもやもやが強くなってしまう。仕方ないことなのに。私以外とそういった振る舞いをしているトレーナーさん。それが私の影を更に濃くしてしまう。
視線がどうしても彼ではなく、地面を見てしまう。折角彼が振るまってくれているのに、それを楽しめていない自分にも辟易してしまう。
そうして出した答えは1つだった。
「大丈夫です。その…ありがとうございます。そろそろ交代の時間ですので戻りますわね…」
****
「たのし…めなかったわね…」
執事カフェを出て来ては1人、ぽつりと呟いていく。最初はトレーナーさんの執事姿が新鮮で胸を躍らせている私がいました。しかし、時間が経てば経つほど、彼と話せば話すほどに考えてしまうことが1つ。私意外とそれをしている彼の姿でした。
胸の中のもやもやは晴れる所か余計に曇っていくばかり。妙に足取りも重くなっていくのを感じてしまう。
携帯を取り出しては時間を確認していく。休憩時間の終了までまだ時間はある。本当であればきっとまだあの場に居たことでしょう。そして彼との時間を楽しみ、きっと笑顔溢れるものになっていたはずです。
現実は違いましたが。
はぁ、と1つ大きな溜め息を零してしまう。私が気にしすぎなだけでしょうか。彼の本心。執事姿で口にした言葉1つ1つはきっとそうなのでしょう。けれども執事カフェ、という場所だからか、私が屈折した考えをしているのか。
どうしても私自身の本音で受け取ることが出来なかった。
「早いけど…戻ろうかしら…」
時間としては十分ある。とはいえ、元々見たいものも一通り見終えている。このままただ時間を浪費するのであれば手伝いに戻り、この気持ちを考えない様にしたかった。
周囲の楽しそうな声が木霊するなか、私だけは違う。
折角の聖蹄祭をこんな感情で終わりたくなかった。
そんな時、携帯からLANEの通知音が鳴り響いた。その内容を覗くとトレーナーさんからでした。
【後夜祭の時にトレーナー室に来てくれないか?】
その内容を目にしては私は目を丸くしてしまう。
後夜祭は聖蹄祭が終わった後に開かれるもの。外で出し物や体育館でライブなどトレセン学園の生徒だけで行われるお祭り。それらのどれかに参加するも良し、参加しないで友人達と親睦を深めるも良し。そんな自由なものでした。
後夜祭でトレーナー室に来て欲しい、という彼からのお誘い。
そのお誘いに私は直ぐに返事を返してしまう。
【分かりました】
さっきまでのもやもやが何処かに消えてしまいそうな、だけど残り香として残っている。唯一分かるのは足取りが軽くなったことだけでした。
****
聖蹄祭がアナウンスで終わりを告げ、そして後夜祭を迎えた。既に太陽は傾いており、その日は橙色へと世界を染め上げている。既に多くの人たちは各々好きなように過ごすこの時間。
そんな中で私は人の気配が少ない場所へと向かっていた。
「トレーナーさん…待たせてしまったわね…」
休憩後の仕事は裏方をしていたので、服装は制服姿のまま。遅れてしまった理由としては学園祭が終わった後に後片付けを手伝っていたから。
彼に会いたい一心で廊下を早歩きで脚を進めていく。向かう先はトレーナー室です。
この区画は特に出し物も無く、聖蹄祭とはかけ離れた様相だった。聞こえてくるのは体育館から僅かに聞こえてくるライブの音楽と学園内の残った話し声。
自分の足音だけが一番耳に聞こえる程、静かな時間。先程まで騒がしく、活気あふれた学園とは思えないほどだった。
トレーナー室に辿り着けば、戸を開けていく。がらら、と廊下に響き渡るその音と同時に聞こえてきたのは彼の声でした。
「来たね、ヴィルシーナ」
「…えぇっと、遅れてしまい申し訳ありません。ですが…その恰好…」
彼の姿はあの時の執事姿のままだった。扉を閉めては私は彼へと近づいていく。
「どうされたんですか?もう後夜祭なんですよ?」
「それはそうなんだけど…」
彼も合わせるように近づいてくる。お互いに向き合う程近づけば、彼は突然跪き始めた。片膝立ちになり、私を見上げるトレーナーさん。
突然跪く彼の行動が不思議で私は少しだけ呆然としてしまった。
「…お手を借りますね」
彼が手を伸ばしては私の左手をそっと包み込む様に握ってきた。どくんっ、と心臓の鼓動が跳ねるのを感じる。ゆっくりと私の左手は彼の視線の先まで持っていく。
何をされるのか、何故彼がこんな事をしているのか。その疑問は直ぐに解消されることになりました。
トレーナーさんが私の手の甲に唇を付けました。数秒にも満たない短い時間。私の手の甲に伝わる少し硬くも柔らかい唇の感触。
ゆっくりと離されては手を添えられたまま、彼が見つめてくる。
「な、なにを…っ?」
「来てくれた君を楽しませることができなかったから」
「それ、は……」
「言葉だけじゃ伝わらないかなと思って。これで伝わった?」
私の頬が熱くなる。彼に付けられた部分も同じように熱く感じる。言葉ではない、行動による彼の証明。カフェから出た時に感じていた憂いは全て何処かへと消え去ってしまう。
「手の甲へは尊敬とか…忠誠、の意味って聞いたから。俺だけの女王様を悲しませたのであれば、それを証明する必要があると思って。今だけは、ヴィルシーナの執事だよ」
尻尾が揺れてしまう。だけ。私だけの執事。私だけのトレーナーさん。今は誰も居ない静かな2人だけのトレーナー室。
心が暖かくなる。私に忠誠を誓う彼の姿は、とても美しく、そして独占したいと思ってしまう程だった。他の人にも見せたくない、そんな事を考えてしまう。
「この証明をするために…トレーナー室に呼んだのですか?」
「それとプラスで後夜祭を一緒に過ごしたいと思って。一番はこの為だけどね」
彼は手を添えたまま見つめてくる。微笑んでいる彼の表情は何処か赤く、照れ隠しをしているようにも見えた。
後夜祭を一緒に巡りたいというのは私も同じ気持ちでした。だからこそより証明が欲しくなってしまう。見せつけるというわけではありません。私の心の中で、トレーナーさんという存在自体が私のものだという証明がより分かる形で、秘めるように欲しかった。
「…今のトレーナーさんは…私だけの執事なんですよね?」
「そうだよ。明日からは普通のトレーナーに戻るけども」
「……では、もう一つ証明を頂けますか?」
「いいよ」と彼は言葉にしていく。その言葉を聞くと同時に私は彼にそのもう1つを告げた。
「左手の薬指、そこに先程と同じのを…」
「薬指?いいけど…そこは賞賛とかだよ」
「構いません、して頂きたいので」
彼は1つ頷きを見せると、顔を私の指に近づけていく。指に伝わる唇の感触。ゆっくりと彼の体温が離されていけば私を見上げて「これで…満足かな?」と尋ねてきた。
「満足です」と返せば私はその左手を離していく。薬指に付けられた彼の証明。誰にも気づかれることの無い、小さな証明。目を凝らしたとしても見えないほどのそれは私にとってとても大事なもの。
その薬指を眺めていると彼は立ち上がり、不思議そうに見つめていた。その視線に気づき、彼の方を見つめ返していく。
「トレーナーさん」
「なんだい?」
「…よく見てて下さいね?」
私は悪い子だ。彼を困らせてしまうかもしれない。だけどそれでもこの証明を大事にしたかった。
薬指に唇を重ねたその場所、同じ所に私は唇を付けていく。自分の柔らかな感触。そこは熱を持っているような気がして、私の唇を通しては体全体に証明が伝わる。
唇を離した後にトレーナーさんを見つめれば、彼は驚いたように瞳を開かせていた。
「証明、頂きましたので」
「……女王様は中々強欲なようで」
「私だけのトレーナーさんにしか見せませんよ」
彼は口元を手で覆うようにしては視線を逸らしている。手で隠れ切れていない彼の紅潮。日に当たってそう見えるだけかもしれませんが、それでも私の心は踊ってしまう。
私という女王を寂しがらせ、そして嫉妬をさせたのです。だからこれは彼へのお仕置き。証明をくれただけでは私は満足できませんから。
「行きましょう。後夜祭、色々出し物もあるそうですよ」
「あ、あぁ、そうだね」
そうして私は彼へ左手を出していく。
「エスコートして頂けますか?執事さん」
「…分かりました。女王様」
彼の右手が私の左手に重ねられていく。重なれば私はその手を握りしめ、トレーナーさんと横並びになるようにトレーナー室から出ていった。
少しだけ彼と握る手を強めていく。彼は反対に手を握る力が弱まっていった。
「……離したら怒る?」
「えぇ、とても。それはもう怒ります」
「…今日の女王様は…本当に強欲なようで」
強欲で構いません。私は貴方に証明を付けられてしまったのですから。証明を付けられたのであれば、貴方は私だけのトレーナーなのだ、と。私だけの大事な人なのだ、と見せつけなければ。
他の人が寄ってこない様に。
また握る手が強くなっていく。今度の彼の手は呼応するように握り返してくれた。
足取りは軽く、そして速くなった。