秋、という言葉には様々な自立語が付いてくるものだ。
食欲。栗にかぼちゃ、サンマにりんごといった美味しいものが並ぶ頃合いだろう。それらを調理して食べるも良し、そのまま食べるも良し。各々の好む食し方があるものだ。
読書。夏の暑さが鳴りを潜め、暑さを象徴する蝉の声も聞こえなくなる。涼風が吹き抜け、コオロギや鈴虫の心地の良い鳴き声が響く。それらの音色に乗せながら書物を読み進めるというのは風情があるだろう。
そしてスポーツの秋。この時期は涼しくて過ごしやすい季節となる。外で激しい運動をしても熱で体力を奪われることがない。むしろ心地よさを感じてもおかしくはないだろう。
そう、この時期はG1レースが押し寄せてくる時期なのだ。
クラシック級ならば秋華賞や菊華賞による最後の冠の争い。シニア級ならばエリザベス女王杯に、秋シニア三冠を目指すもの達の戦い。
目白押ししかないレースばかりが立ち並んでおり、見るものはきっと魅了されるだろう。
強豪ばかりが集まるレースに向けて、今日もキーボードを叩いていく。疲れで思考がぼやけ始めた脳内をリセットするようにマグカップを掴んでは、珈琲を流し込んだ。口内に広がる苦みと味わい。そしてカフェインを摂っては欠伸を噛み殺していく。
「…ダメだ、集中できない」
秋のレースに向けた申請に報告用の資料。レポートなど事務仕事に担当ウマ娘の指導も重なり、多忙なこの季節。秋は何かを始めるのに適切な季節だとはよく言うが、生憎それとは縁遠いようで。
思考に靄がかかり、何かに手を付けようとしても直ぐに違う事が気になってしまう。恐らくは疲労のせいだろう。
さて、疲労を取ると言えば睡眠である。なのだが、あと三十分程度でヴィルシーナが来てしまうし、仮眠を取ればそれこそ数時間は眠ってしまうだろう。
携帯のアラームを設定することも可能なのだが僅かな時間で取れる疲労ではない。
引き出しに手を伸ばしては開けていく。そこには一つの小瓶が入っており、緑色の毒々しい色をしている液体。それを掴めばちゃぽん、と液体の揺れる音。
食欲の秋、というにはあまりにも不相応なものだろう。
小瓶には『アグネスタキオン特製疲労回復』と書かれたメモが貼ってある。
これはアグネスタキオンから貰った薬だ。彼女のトレーナーを通じて疲労が取れる薬を作って欲しいと依頼したところ、実験の成果を伝えるのを報酬として譲ってもらった。
「えぇっと…確か飲んだら横になって寝る。それで…確か三十分ぐらいで目が覚めて…」
彼女に説明されたことを思い出しながら、自分で確かめるように呟いていく。あの時は疲れていたため、半分程聞き流しながらだった。
小瓶の蓋を外していけば、少しだけ不快感を催す匂い。一瞬だが顔を顰めてしまう。
「…飲むか」と決心し、それを口に付けては口内へ。ごくんっ、と音を立てながら飲み干していけば、強烈な苦み。良薬は口に苦し、とは言うがこれは余りにも苦すぎる。
吐き出しそうになりながらも無理矢理喉を通らせ、そして大きく息を吐いていく。息を吸えば先程嗅いだ匂いが鼻腔へ伝わり、吐きそうになってしまう。
「この状態で…寝るのか…」
その小瓶を机に置いては覚束ない足取りでソファーへ向かっていく。そのまま横になっては自分の目元に腕を置いては簡単な目隠し。
胃の中がぐるぐると回っているかに思えるほど、その液体を本能的に拒絶しているようにも思えた。
ゆっくりと視線を閉じていく。
果たして疲労が取れるのか、それとも逆か。もしかしたら肉体改造されているかもしれない。
そんな憂いを抱きながら、呼吸を繰り返していく。不思議と夢の世界へ誘われるまでには時間がかからなかった。
妙な浮遊感と体に感じる歪な違和感を抱きながら、寝息を立てはじめた。
****
三度、ノックを繰り返す。トレーナー室に響き渡る音。しかし、中からいつも聞こえてくる彼の声が聞こえなかった。数秒待っても返事は無い。
私は不思議に思い、もう一度ノックを繰り返した。返事は無い。部屋の中は電気が付いており、きっと彼は在室だろう。となれば、何故彼は返事をしてこないのだろうか。
返事が無い中で勝手に入るのはマナー違反ではありますが、流石に気になってしまいます。私は扉の引き手に指を引っかけては開けていく。音を立てて開いていく中で、私は二つの異質なものを見つけた。
一つ目。彼がいつも座っている場所に置いてある謎の小瓶。中の液体は殆ど無く、窓から差し込んでくる光を反射させていた。その小瓶には何かメモのようなものが張り付けられており、緑の液体も小瓶の隅に残っていた。
二つ目。これが私にとっては一番理解が出来なかった。
「……どちら様…?」
ソファーの上、そこには一人の人物がいた。だけどそれはトレーナーさんではない。彼ほどの身長は無く、そして表情も文字通り幼かった。つまり、子供なのです。小学生ぐらいでしょうか。
私はその子に近づいていき、顔を覗き込んでいく。どうやら寝ているようで、すやすや、と気持ちよさそうにしていた。
今度は服装に視線を向けていく。ワイシャツとズボン。その子には余りにも大きく、不格好という言葉が似合っていました。
しかし、この服装には見覚えがある。幼くなった顔つきにも面影がある。この子はトレーナーさんなのだ、と。私の中で一つの確信めいたものを感じた。
「これは…どういうことなのかしら…」
トレーナーさんが小さな子供になっているのがまず不思議でならなかった。所謂超常現象というものでしょう。ですが、こうなったのは何か原因があるはず。
次に視線を向けたのは机の上に置いてあった小瓶。私はそれに近づいては手に取っていく。既に蓋は開けられており、そして小瓶に巻き付くように付けられていたメモを見れば、その何故、は自然と理解へ移っていきました。
「タキオンさんの薬を飲んだんですね」と独り言を呟いていく。彼が飲んだ薬は疲労回復という四文字が書かれていた。
つまり、これを飲んだ事でトレーナーさんは小さくなったのでしょう。それはそれで理解が追いつきませんが、一旦は考えない様にしていく。
小瓶を置いて、私は彼の寝ている反対側のソファーに荷物を置いた。その後、私は彼の寝ているソファーへ近づいていき、その寝顔に視線を移していく。
気持ちよさそうに寝ている小さな彼。
良くない。私の中にいる甘やかしたい、という欲が湧き出ている。シュヴァルとヴィブロスにもしている甘やかし、そして面倒をみたい。
小さなトレーナーさんの頭を撫でて、ハグをして、膝に乗せてはお喋りをしたらどれだけ可愛い事だろう。
そして小さな彼はどのように反応をするのでしょうか。今のヴィブロスのようにもっと、とおねだりをしてくるのか。はたまた、シュヴァルのように恥ずかしがってしまうのか。どちらにせよ、私にとっては可愛くもっと甘やかしたくなってしまう。
彼は横向きになりながら寝ており、柔らかな頬はソファーの硬さによって潰されている。今だけしか味わえないこの時間。ちょっとだけ悪さをしたい、という欲に身を任せて私はもう片方の頬に手を伸ばした。
人差し指を真っすぐにし、そしてぷにぷに、とつついていく。指に伝わる柔らかな感触。彼の頬は凹んでいき、指を離せばまた柔らかさを取り戻した。
「トレーナーさんにも…こんなに可愛い時期があったんですね…」
いつもは大人として頼れる彼の姿を思い出す。あそこに至るまでにはきっと色々な人生を歩んできたのでしょう。その人生の一部を垣間見れるのはなんだか得をした気分。
もう一度だけ、と頬をつついていく。ゆっくりと指を離してはまたつつく。
もう一度、またもう一度。もうさせてくれないかもしれない、と心に秘めてはまた繰り返す。
そんな事を繰り返していれば小さな彼は「んぅ…」と寝苦しそうな声を挙げた。
直ぐに手を引っ込めては、私は目を見開いていく。その子は大きな欠伸をしていき、何度か目を擦るようにして起きていく。
寝ぼけ眼で私を捉えながら「お姉ちゃん…だぁれ?」と告げてきた。大人になった彼からは聞いたことも無い高めの幼い声色。
「私?ヴィルシーナって言うの」
彼を怖がらせない様に膝立ちになっては視線を合わせていく。頬を緩ませながら告げると彼は首を傾げた。
「ヴィル…シーナ…?」と彼は確かめるように告げていく。
どうやら小さくなった彼は体だけではなく記憶もその当時に戻っているようです。となればこの反応にも納得がいってしまう。私は彼を見つめながら「そうよ」と相槌を打った。
また、目元をごしごし、と彼は擦っていく。その寝ぼけ眼が開かれては彼の視線は私のウマ耳へ向けられていた。
「ウマ娘さんだぁ!」
きらきらとした彼の瞳。星でも瞬くのではないか、と勘違いしそうな程に輝いており、先程までの眠そうな彼は何処へ行ったのやら。ぽんぽん、と隣を叩くように彼は急かしてくる。
「お話、しよ!僕ね、ウマ娘さん大好きなの!」
「…ふふっ、そうなの。そんなに?」
「うんっ!だってね?脚が凄く早くて、かっこよくて可愛くて…!僕はいつかトレーナーになるんだっ!」
なるほど、彼は小さい頃からどうやらトレーナーを志そうとしていたらしい。私はその子の隣に座っていくと、彼は傍へと近寄ってきた。じっ、と此方を憧憬の眼差しで見つめている。
可愛らしい、そんな事を思ってしまうと私は自然と彼の頭に手を伸ばしていた。
優しく何度か撫でていく。嬉しそうに満面の笑みを浮かべる彼。
駄目よ、今は強く抱きしめたいと思ってしまったけど、それをしてしまえばきっと彼は驚いてしまうわ。ゆっくりと、一歩ずつ着実に歩み寄らないと。
「ヴィルシーナお姉ちゃんは何のレースを走ってるの?」
「私?そうね…エリザベス女王杯に桜花賞…って言って分かるかな?」
「分かるよ!G1のレースだよね!?」
彼は前のめりになって私へと近づいてくる。いつもは大人びた彼が子供になってしまえばここまで活発になるのは少々物珍しさを感じてしまう。
彼の瞳は更に輝きを増しており、それに笑みを零してしまった。
頭を撫でながら今度は頬へと手を映していく。そこをゆっくりと撫でていると彼は「へへ…くすぐったいよ」と首をこそばゆそうに動かした。
「良く知っているわね。偉いわ」
「だって大好きなんだもん。とすると…お姉ちゃんにもトレーナーさんが付いてるの?」
首を傾げて尋ねてくる彼。その疑問に至る事は普通の事でしょう。
私のトレーナーさんは今目の前にいる。しかし、それを伝えたとしても小さなこの子を混乱させてしまうだけ。
「えぇ、いるわよ。とても頼りになって…かっこよくて素敵な」私は彼の瞳を見つめながらそう告げる。まるで君なんだよ、と告げるように。
勿論、小さな彼はそんな事には気づきませんでした。再び彼は満面の笑みで「やっぱり!いいなぁ、トレーナーさんとお話してみたいなぁ…」と彼は呟いた。
「トレーナーさんとお話は出来ないけど…彼の事は話せるわよ」
「本当!?教えて!ヴィルシーナお姉ちゃんのトレーナーさんはどんな人?」
お姉ちゃん。妹2人以外から呼ばれてしまうのは、ましてや彼から呼ばれるのは何処か擽ったさを感じてしまう。
でも、嬉しかった。少しずつ小さな彼の心が解け、私に夢中になってくれる彼が。可愛いその子をもっと、今だけでもいいからより感じたくて、私は膝の上を数度叩いた。
「ここにいらっしゃい。トレーナーさんのお話は内緒だから、小さな声で話さないと」
「そっか。レースの秘密なお話とかあるもんね。失礼します」
ペコリ、と彼は一度頭を下げては警戒することなく私の膝の上に座ってくる。彼の体重は軽く、もし脇の下に腕を入れてしまえば簡単に持ち上げられるほど。
私は彼の腹部に両手を回していき、軽く抱き寄せた。それに反応するように彼も両手を私の手に重ねるようにして楽しそうに鼻歌を歌っている。
「それで…ヴィルシーナお姉ちゃんのトレーナーさんはどんな人なの?」
小さな声で尋ねてきた。私の方に顔を向けさせてはきらきらとした瞳で。
「とても優しくて、私を何よりも大事に考えてくれる人よ」
「もしかして…専属?」
「正解、専属のトレーナーさんね」
何だかくすぐったく感じてしまう。この小さな彼に大人の時の事を隠して話すのは、私は変な感覚を覚えてしまった。
「ヴィルシーナお姉ちゃんはどれくらい勝ったの?やっぱり…三冠は取った?」
「それは…取れなかったわね」
トリプルティアラ、私が最も欲していたもの。既にそれを取ることは叶わず、全ての冠はあの方に取られてしまっている。彼はバツが悪そうに目を伏せては「ご、ごめんなさい」と謝ってくる。
何もこの子が謝る必要は無いというのに。私は慰めるように彼の頭に手を置いては「気にしなくていいのよ」と言葉を紡いだ。
そして「大切なことを教えて貰ったのだから」と続けた。
「大切なこと?」
「そう、とてもとても大切な家族のこと。トレーナーさんに教えて貰ったわ」
シュヴァルとヴィブロスのこと。二人のお姉ちゃんとして、走り続けることをトレーナーさん教えて貰った。こんなことを今更大人の彼に言うつもりは無いのだけれど、何故だか目の前の小さな彼には伝えたくなってしまった。
「トレーナーさんがいたから私は今走れてる。三冠は取れなかったし、悔しいけれど…あれがあったから今があるの」
「そうなんだ…きっとヴィルシーナお姉ちゃんのトレーナーさんはすっごく良い人なんだね」
「そうね」私は彼を抱きしめる力を強めていく。良い人、という言葉で済むほどでは無かった。私にとって大切な人。もしトレーナーさんが傍に居てくれなければきっと私はもう走る事を止めていただろう。
感謝をしてもしきれない。
小さな彼と距離が縮まるとその体温がやけに暖かく感じた。湯たんぽの様に安らぐもの。だからかもしれない。普段はこんなことを話そうとは思わないのに。
また力が強めてしまう。小さな彼をお姉ちゃんとして甘やかしたい、だなんて思考は遠くへ消えてしまっていた。
彼は私の胸元に凭れて、少しだけ擦り寄る様に甘えてきた。首を反らせては上目遣いで「ヴィルシーナお姉ちゃん」と笑顔で声をかけてきた。
「どうしたの?」
「トレーナーさんの事、好きなんだね」
「なっ……」
声が出なかった。自分のウマ耳が天井を突き刺すほどにぴんっ、と立つのが分かる。直ぐに私の頬が熱が集まったかのように熱く感じ、心臓の鼓動も早まった。
彼の表情は笑顔だが、大人のときの面影を感じさせる。それも合わさってか、私の尻尾は忙しなく揺れ始めてしまった。
「違うの?」
当てが外れたように彼は首を傾げた。
当たっている。小さい子の人の感情を察する能力は時折抜きんでることがあるといいますが、まさかここで当てられるとは思っていなかった。否定と肯定の気持ちが入り混じっている。
素直に一言、そうよ、と言えたらどれだけ楽なことだろうか。
「ちが……わないわ」
言葉に出たのは曖昧な言葉でした。好き、という二文字がはっきりと言葉にできず、妙に遠回しな言葉だけ。
「へへっ」目の前の彼は楽しそうに笑っていた。それが何だか恥ずかしく、私は口を尖らせてしまった。
「ヴィルシーナお姉ちゃん…好きなんだね。トレーナーさんのこと。すっごく好きなんだ」
「えっ…と、それは…どうしてそう思ったの?」
「だって、違わないって言うけどほっぺがでろでろだよ?すっごく好きじゃなかったらそんな風にならないもん」
かぁ、と赤くなる。「赤くなった。本当なんだね」その言葉を聞けば私は彼の頭に顔を埋めるように隠していく。
顔の赤みを見られてしまわない様に。今のトレーナーさんは小さな子供。小さな子供でも彼自身であることに変わりはありません。それでも彼から告げられた言葉であることも変わりない事実。
「もう、それ以上言うとトレーナーさんの事、教えないわよ?」
「ぅ、ごめんなさい」
しゅん、と彼は項垂れてしまった。小さい子が素直に謝る姿はどうして母性が擽られてしまうのだろう。「冗談よ」そう告げながら私は彼の頭を優しく撫でていく。それだけで彼はにぱっ、と向日葵が咲いたような笑顔を浮かべていった。
「君は…どんなトレーナーになりたい?」
「僕?そうだなぁ…」
うーん、と唸りながら彼は両腕を組んでは首を傾げている。数秒の間、それを繰り返した後には「ウマ娘さんを幸せにできるトレーナーさんになりたいっ」と私に視線を向けて告げた。
「幸せに?」
「うん。ウマ娘さんが走るのを頑張れーって…応援して、それでねいっぱい勝って欲しいなって思うんだ」
「そうね。勝てたらきっと幸せよね」
「でもね、もしなるならヴィルシーナお姉ちゃんみたいなトレーナーさんになりたいなって」
不思議だった。沢山勝つこと、確かにそれはウマ娘にとって目指すべき道の一つでしょう。むしろ勝てない事を良しとしてレースに出るウマ娘は居ないはず。出走するからには一着を。ただ唯一の栄光を求めて走るのだから。
しかし、この子は私のトレーナーさんになりたいといった。それは小さな彼が成長した姿ではあるのですが、気になってしまって私は尋ねた。
「どうしてお姉ちゃんみたいなトレーナーさんがいいの?」
「だって…ヴィルシーナお姉ちゃん幸せそうだから」
「…えっ?」
「ヴィルシーナお姉ちゃんがトレーナーさんのお話をする時に嬉しそうに話すんだもん。三冠取れなくてもそんなに幸せなら…僕はそうなりたい、なって…へへ」
彼は恥ずかしそうに頬を赤らめ、視線を下に向けていた。直ぐに視線を上げては首を傾げながら「変、かな…?」と更に紡いだ。
「そんなことないわ」自然と私はそう返した。勝利を得ることは勿論大事。だけど、走る理由が最も大事だから。勝利に囚われ過ぎて、本当に見るべきものが見えなくなるのが最も良くない事。私はそれを気づかせて貰った。
大人になったトレーナーさんに。
小さなトレーナーさんは既に理想を抱いていた。それだけで胸が締め付けられ、暖かくなってしまう。あぁ、小さい頃から彼は彼なのだ。また彼を抱きしめる力が強まる。
暖かい。小さな彼の体が熱を持っているだけではない。彼に影響されるように私の体内を巡る血液も熱を持っていた。
「くぁ…」
「あら…?眠くなっちゃった?」
突然小さな彼は欠伸をしだした。大きく口を開けては、閉じると同時に目元を擦り始めている。
体をもぞもぞ、と動かしては此方に振り向いてくる。次の瞬間には彼は私を抱き枕にするように抱き着いていた。
「ヴィルシーナお姉ちゃん…」
「…ふふっ…よしよし」
小さな彼の頭に手を置き、頭頂部から後頭部へ手を滑らせるようにして撫でていく。もう何度彼の頭を撫でたのだろうか。大人に戻ってしまえばさせてくれることは無いだろう。名残惜しむ様に、ゆっくりと撫でているといつの間にか胸元から寝息が聞こえてきた。
体を少しだけ仰け反らせては覗き込むようにして彼を見つめると、安らかな寝顔を浮かべていた。
「おやすみなさい、小さな私のトレーナーさん。私は…貴方にスカウトされて幸せです」
きっとこれは聞こえないのだろう。それでも良かった。大人の彼には言えない。例え寝ていたとしてもこの言葉を発するのは何処か恥ずかしさがあった。
少年となった彼だからこそ、私は告げることが出来たのだろう。
包み込む様に私は抱きしめていく。そうしてこの温もりを楽しもうと考えている最中──────
突然彼の体から煙が出始めた。
私の視界が真っ白になるほどの白煙。顔を逸らしては何度か咳き込んでしまう。
膝に感じていた軽い体重はソファーが沈むほどに重い物へ。私を抱きしめる力はやがて強くなり、細い腕は逞しいものへ。ぶかぶかだったシャツやズボンはきっちりとサイズが合っていく。
背がみるみると高くなり、いつの間にか私が彼の胸元へ抱き寄せられている。包み込まれるようになっていれば、直ぐに私の頭の上から声が聞こえた。
「……あの…ヴィルシーナ…これ…どういう状況…?」
「……えぇっと…………?」
完全に頭の中が混乱していた。思考を纏めようと纏まらない、纏まるはずがない。
先程まで私が見ていた光景が全て塗り替えられてしまっているのだから。
さっきまでのトレーナーさんは少年になっており、今は大人へと戻っている。少年だった彼に抱きしめていたものの、今は包み込むように抱きしめられている。
ぐるぐる、と脳内に流れ出る視覚と触覚、聴覚の情報。全ての情報が脳内へ流れていき、処理を超えてしまった私は彼を見つめながら麻痺してしまった。
「…ヴィ、ヴィルシーナ?離して欲しいかなぁ?」
「……」
彼が何かを言葉にしているも全て耳を通り過ぎている。脳の理解を超えたことが起きれば自己防衛として理解することを止める、と聞いたことがあります。
つまり、これはそうであり、唯一出てきた私の言葉はこれだけだった。
「…ヴィルシーナお姉ちゃんって…呼んで下さらない…?」
「どうして……??」
小さな彼を少しだけ、いえもっと沢山抱きしめて撫でたいと思ったのは私だけの内緒。きっと彼は覚えていないのだから。
もう一度だけ、会いたいためにタキオンさんにお願いにいこうかしらと思ったのも、内緒。