目が覚めた時に見えた光景。それはトレセン学園だった。トレセン学園と言えども、普通では無い。背後を振り向けば靄によって道は隔たれている。左右を振り向いても同じ。真正面に脚を進める以外、選択肢は無かった。
空は晴れている。それでも朝日というには眩しくなく、太陽自体が無いようにも見えた。しかし目の前の光景に対して脳は昼の時間、と認識している
「…不思議ね」
小さく私は呟いた。脚を動かすもいつもと違う妙にふわつく感覚。脚を地面に付けても、それは硬さを感じることは無かった。脚を付けていない感触。それでも体は前へと進んでいく。
視線を自分の体に向ければ制服姿だった。長袖タイプの冬仕様。トレセン学園を訪れるのであれば当たり前の服装。それでも一つの違和感を更に感じた。
「寒く…無いわね…?」
夢の中で記憶を探っていく。確か今日は一月一日。新年最初の日だ。この時期はよく冷たい風が吹く。その風は身体を冷やし、手を摩りたくなるはず。不思議な事にその気は起きなかった。
「…初夢にしては変な夢……」
トレセン学園の中へ足を踏み入れていく。人の気配は全く感じられない。夢なのだから当然ではあるけれど、少しだけ不気味。夢は人の心を思い浮かばせる、と聞いたことがある。誰も居ない世界が私にとって何を指しているのだろう。
廊下を歩いていけば足音が響いていく。人の話し声や他の音が無い世界。私が出す音がここまで聞こえるものかと怖さも覚える。
更に脚を進めていき、自然と辿り着いたのはトレーナー室の前だった。扉の引き手に手を近づけ、ゆっくりと開けていく。すんなりと開くその扉、そして視界に映ったのはいつものトレーナー室と彼の姿だった。
「えっ…トレーナーさん…?」
「…?ヴィルシーナ?どうして?」
いつものスーツ姿だった。彼は窓の側に立っており、先程まで外を眺めていたことが伺える。私がトレーナーさんに近づいていけば、彼も歩み寄ってきた。近くなるお互いの距離。あと一歩まで、という所で止まり「まさか君がいるなんて」と話しかけてきた。
「本当ですね。…夢にしてあまりにも……」
言葉を出そうとしても引っかかってしまう。明晰夢にしては、夢の理解度が高い。夢というのは意識が曖昧だったり、仮に曖昧でなくても目の前に見える光景ははっきりとしている。
「現実的過ぎる?」
「そう、ですね…まるで普通の世界のように思えました」
「俺もだ。もしかして……俺とヴィルシーナの夢の世界が繋がっていたり…は流石にあり得ないか」
こんな提案をしてくる時点で夢とは思えない。もしかしたら本当に現実世界にいるのでは、と錯覚してしまう程だ。明らかに彼は思考をし、私も出来ている。夢の無意識が故の行動ではなく、思考をして考えたが故の行動。そして言葉。
夢という感覚を持ち続けている。本当に不思議な世界。それでも夢の世界でもトレーナーと出会えた、ということに嬉しくなってしまった。浮かれているのかも。ぱたり、と尻尾が揺れている。
「もし…夢が繋がっているのであればどう思われますか?」
「そうだね、とても面白くて…嬉しい事だよ」
そう笑顔で告げるトレーナーさんの表情は柔らかく、それだけでまた尻尾が揺れた。「……私もです」と小さな言葉で彼に返していく。それだけこの夢が嬉しい事なのでしょう。
一度わざとらしく咳払いをし、二人で外を眺めていく。やはり学園の外は真っ白な靄で包まれており、トレセン学園が世界から隔離されているようだった。
これは夢。それも貴重な初夢。となればいつかは覚めてしまう。それならば彼とこの状況を楽しむのもいいかもしれない。視線を彼に向けると自然と合ってしまう。
「まだ夢で覚めないなら…探索致しませんか?」
「学園を?」
「えぇ、そうです。誰も居ないからこそ、です」
「はは、なるほど。夜の学校探検みたいだね」
無邪気に笑う彼に私も釣られてしまった。二人で窓に背を向けては歩き始めていく。お互いに歩幅を合わせながら扉を開けて廊下へ。二人の足音を響かせながら「何処か見たい所はありますか?」と私は聞いた。
「うーん…そうだな……君の教室に行ってみたいかも」
「私の?」
「この年になってから行くことが殆ど無いから。それにトレーナーと言えど…というのもあるかな」
「ふふっ、分かりました。此方ですよ」
私はトレーナーさんを案内するように一歩だけ前を歩いていく。廊下を曲がり、数分もしない内に辿り着いた。教室の扉に手を添えて、力を込めていくと自然と開いていく。どうやら鍵は掛かっていない。
がらら、と無機質な音が教室に響いていく。中に脚を踏み入れても誰かが居るわけでもなかった。彼も付いてくるように入れば「おぉ」と声を漏らしては周囲を見渡している。子供のように周囲を見渡す彼が可愛く思えた。
「そんなにですか?」
「何だか感慨深いなぁ、と思って。こんな感じなんだ」
「そういうものなんですね」
私は自然と自分の席へ座っていく。彼は私に付いてきて、隣の席へ同じように腰を下ろした。隣同士の席だ。
「教壇の方ではないのですか?」
「それだといつもの俺だからね。たまには生徒側の目線に立って見るのも悪くないかな、と」
「…今日のトレーナーさんはいつもと違って変ですね?」
「そうかな?夢で浮かれてるのかも」
子供っぽさを孕ませている彼の表情は何処か儚さも含まれている。もし、今私がここで目を瞑ったらどうなるのだろうか。世界が壊れ、そして落ちていき目が覚めるのか。はたまた、ただ目を瞑るだけで覚めないのか。
二人きりの世界。全てから隔絶され、誰にも邪魔されることのない、静かな世界。もし、そんな世界があったなら私は彼とどうしたいのだろう。
どうも私自身も浮かれている。こんなことを考えてしまうなんて。首を横に振っては、その思考をかき消そうとした。
その首を振る様子に彼は「どうかした?」と尋ねてきた。まさか聞かれるとは思わず、声が詰まってしまう。こんな事を考えていた、と素直に言えば彼はきっと変だと思う。
夢の中と言えど、例え彼が本物では無くともそう思われたくない。私は誤魔化すように「なんでもありません」と笑顔を浮かべて告げた。
「……嘘っぽいけれど」
「…そう見えました?」
「そう見えたね」
「…ふふっ、少しだけ……私も浮かれているのかもしれません」
彼に嘘は通用しない。これ以上誤魔化そうとすれば心配をさせてしまう。其方の方が嫌で私はゆっくりと口を開き始めた。
「トレーナーさん、今から変な事を聞きますね」
「…?あぁ、いいよ」
「もし、世界が私とトレーナーさんの二人だけになったらどうしますか?」
そう告げると彼は口元に手を添えては考え始めた。唸る声が教室に響いていく。数秒の無言、私に視線を合わせて彼は口を開いた。
「色々な景色を見たい、かな」
「景色…ですか?」
「そう。二人だけの世界になったら…きっととても寂しいけれど、その時の景色を見てみたい」
二人だけで見る世界の景色。人の足音も鳴らない、声も聞こえないトレセン学園。公園に行けば風の吹く音だけが聞こえる。いつもの騒がしい通学路はアスファルトを踏みしめる音のみ。静かで、何処か幻想的にも思えてしまった。
もしトレーナーさんと一緒なら、その静かな世界はどんな彩りを見せるのだろうか。誰も居ないからこその私と彼の世界。少しだけ見てしまいたい、なんて思ってしまった。
「ヴィルシーナは?」
「私ですか?」
「そんな事を聞いてくるから君もあるのかなって」
「そうですね…」
机にもたれかかるように私は身体を預けた。二人だけの世界。トレーナーさんと私だけ。愛おしい二人の妹も、大好きな両親も、ジェンティルさんやタルマエさんもいない。
そんな世界で私がしたいこと。自分の指で机の上をなぞる。その指の動きを視線で追っていき、最後にはその机の向こう側に辿り着いていく。
「……私も…トレーナーさんと同じです」
それだけを伝えるとトレーナーさんは瞳を細めた。柔らかな表情を浮かべ、最後には小さく「よかった」と呟く彼。その呟きが聞こえれば胸の中で暖かなものが溢れ始めていた。
レースも無い、授業も無い。ましてや誰かとの関わりもない。きっとその世界はとても寂しくて、でも幻想に満ちている。彼と二人きりで歩けるのであれば、どんな風に見えるのだろうか。
今の夢のように真っ白なのか、それとも違う世界を覗かせるのか。
「そういえば…今思ったけどこれって初夢か」
彼は何かを思い出すように呟いていく。一月一日の夜に見る夢を初夢、と定義するそうで。
私とトレーナーさんはまだ今年は一度も会っていない。去年の初詣は彼と一緒に行っていたが今年は違う。家族一同で向かったから。
夢で会えたが、所詮は幻。初夢で見てしまう程に私は焦がれているのだろうか。出会えていない時間はそんなに長くないはずなのに。
「初夢だと…有名なのは一富士二鷹三茄子、ですね」
「だね。まぁ…どれも当てはまらないけど、この夢を見れて良かったよ」
「それは…どうしてですか?」
私は身体を起こしていき、彼を見据えた。体ごとトレーナーさんは私に向けてくる。お互いの視線が合っていけば「ヴィルシーナにこうやって出会えたから」と告げられた。
言葉の意味が分からず、私は呆けてしまった。告げられた言葉の意味を脳で何度も噛み砕き、そして飲み込んでいく。頬が妙に熱かった。
その熱さを隠すように「私は富士でも鷹でも…ましてや茄子でもないですよ?」と返していく。
「それでもだよ。大事な担当の子に夢で会えて話せたんだから」
「…そう、なんですね……」
「ヴィルシーナは……家族の方が嬉しかったかな?」
眉尻を下げる彼の表情。私は思わず立ち上がって声を張り上げてしまう。
「そ、そんなことありませんっ!私は…その……」
それ以上の言葉が出てこなかった。トレーナーさんに告げようと思っても、喉からそれ以上に出ない。夢であっても、幻想であっても、彼は彼なのだから。
いや、だからこそ。もし朝起きた時の記憶が無くとも、今目の前にいる彼が仮に覚えていようとも伝えよう。伝えなければ伝わらない。夢だからこそ。
「………大切なトレーナーさんと……話せてよかったです」
「……ありがとう、嬉しいよ」
一瞬、彼は驚く表情を見せた。視線を地面に伏せていき、ゆっくりと一度頷いていく。次に表情を見せた時にはいつもの姿に戻っていた。
心臓の鼓動が煩い。どくん、どくん、と何度も血液が送られ、今まで感じることの無かった体温の熱さがより鮮明となっている。大きく深呼吸をしては、私は教壇へと歩いていった。
「トレーナーさん、探検の続きをしませんか?」
「いいけど…夢から覚めないと寝坊するかもしれないよ?」
「構いません。それに、明日はトレーニングも出かける予定もありませんから。むしろトレーナーさんは?」
「俺も一日家でゆっくりするつもりだよ」
「なら…もう少し楽しみませんか?」
彼と二人きりの世界。誰にも邪魔されることのない、白くて空白なトレセン学園。この夢から覚めるのが勿体なく感じてしまう。覚えていないなら、二度と体験できないならもっと、と求めてしまった。
「いいよ、折角の機会だ。楽しもうか」
「えぇ、折角、なんですから」
トレーナーさんも立ち上がり、二人で並んでは教室から出ていく。向かう先は決まっていない。既に見慣れた廊下も、教室も、外の風景も今だけは新鮮に感じる。
もし今だけ、夢の世界で叶うならトレセン学園以外の世界も彼と一緒に見てみたい。二人きりの世界は果たしてどう見えるのか。
彼に悟られないように心の中で願ってみたが、トレセン学園の外に広がる靄は晴れなかった。
それでよかった。もしこれ以上広がってしまえば、私は更に求めてしまうから。更なる欲求は次回に夢であった時に置いていこう。
まばらに足音が響いていく廊下。二人で話す喋り声。トレーナーさんとの隣はやっぱり居心地が良い。足音を揃えてみたくて、脚の動きを彼に合わせる。
一緒になった足音。重なり合うように響いていく。
あぁ、まだ覚めないで。