しとり、と夏を知らせる雨音が空から落ちて、草木が鳴らした。
次いで感じるのは、肌に張り付くような気味の悪い湿気。
トレーナー室の外では雨が降り注いでいる。それは決して涼しさを感じさせる涼雨ではなく、むしろ不快感を与えるものだ。服が肌に張り付くような感覚を逃がすように、指で服を摘んで引き剥がした。
トレーニング日和とはとても言えない日だった。
トレーナーは椅子に座り、モニターを眺めながら調べ物をしていた。対してヴィルシーナはソファーに座り、窓に滴る雨粒を眺めている。
少しだけヴィルシーナはソファーの背もたれに体を預けながら口を開いた。
「今日も……トレーニングは厳しそうでしょうか?」
「そうだね……来週の月曜日なら何とか取れたけど、今週はもう無理かな……」
今週いっぱいは雨模様。本来であれば二人で芝のコースを使用してトレーニングをするつもりだった。しかし、現在のコース場を言うならば泥まみれである。
走れば芝の重さと泥で脚がもつれ、怪我に繋がる可能性がある。仮にそうでなくともこの大雨の中で外を走れば風邪を引くことは間違いないだろう。
トレーナーが溜め息を吐けば、ヴィルシーナは困ったように眉を下げて苦笑いを浮かべた。
「今週はストレッチをメインにしようか。それならここでもできるし……」
「分かりました。焦っては仕方ないですもの」
ヴィルシーナは既にトレセン学園指定の赤と白のジャージに着替えていた。ソファーから立ち上がれば、トレーナー室に立てかけてある青色のストレッチマットを床に引いていく。
その上に彼女が座れば左足を曲げて、右足は真っすぐに伸ばしていく。伸ばした脚に沿うように体を曲げては大きく息を吐き始めた。数秒程曲げた後、体を天井と垂直になるように戻していき、そしてまた曲げていく。
その動作をトレーナーが横目で見ながら、また溜め息を吐いた。
「雨、お嫌いですか?」
「仕事としてはね。やりたい事ができないから」
「まるでプライベートだと違うような……?」
「はは、そうだね。プライベートと仕事はまた違うからさ」
先程の溜め息とは違い、喉の奥でくつくつ、とトレーナーは笑った。
「ヴィルシーナは?雨は嫌い?」
「私は……そうですね、あまり好きでは無いかもしれません」
「プライベートでも?」
「……」
ヴィルシーナは口元に指を添えては、視線を天井に向けた。数秒の無言、トレーナー室には雨音だけが響いていた。そしてゆっくりとヴィルシーナは「そうですね」と続けた。
「プライベートでも予定が崩れてしまいますし、やはりそこまでかと…」
「じゃあ、予定ありきの雨は?」
ヴィルシーナは言葉の意味が分からず首を傾げた。
雨を予期して外に遊びに行く、というのは殆どあり得ないだろう。晴れているからこそ何処かへ出かける、遊びに行くのだ。雨が降っているからこそ、何処かへ、というのは想像し難い。
どうにもヴィルシーナは納得がいかなかった。
「不思議そうな顔をしているね?」
「当然です。普通なら考えられない事ですから」
「なら……」
トレーナーがパソコンで何かを検索し始めたあと、ヴィルシーナに視線を向けながら「今週の日曜日出かけないか?」と口にした。
「えぇ、構いませんが……」
「雨だから傘は忘れないようにね。あ、そうそう、それと持ち物で読みたい本を──」
◇◇
数日後、予定通りの雨だった。空から降ってくる雨粒の一つ一つがコンクリートの地面に叩きつけられ、そして跳ねていく。
時には傘に当たり、一つの塊となって流れ落ちては地面で弾けた。
その弾けた粒に濡れてしまわないように脚を早め、向かった先は都内のカフェだった。
店構えは黒檀で作られており、店内は明るい橙色の照明が照らしている。扉の内側には吊り下げ式の木製のドアプレートがかけられており『OPEN』と書かれていた。
トレーナーが扉を開けていき、ヴィルシーナを先に入れていく。店の中へ足を踏み入れるとより暖かな光を浴びた。外は蒸し暑いというのに、店の中はそんな蒸し暑さは元々無かったように消えていた。
扉の側に置いてある傘立てに二人分の傘を置いていけば、緑のエプロンを着用した一人の若い女性店員が近づいてきた。
「いらっしゃいませ、何名様でご利用ですか?」
「二人でお願いいたします」
「かしこまりました。お席へ案内いたしますね」
女性店員に二人は付いていき、案内されたのは窓側の席だった。ヴィルシーナは入り口の手前側、トレーナーがカフェの奥側へ対面になるように座っていく。肩にかけた鞄を机の下に置いてある木製の籠に入れた。
女性店員が二人の目の前にメニュー表を置き「お決まりになりましたらベルでお呼び下さい」とお決まりの言葉を告げればその場から立ち去った。
トレーナーがメニュー表を手に持ち、二人で見えるように真横に置いていく。そして開いた最初の一ページ目は飲み物がまとめられていた。
「俺はブラックのアイスコーヒーにしようかな。ヴィルシーナは?」
「それでは……私はアイスティーを。砂糖とミルクは抜きでお願いいたします」
「つまめるものは?いらない?」
「大丈夫です、トレーナーさんこそいらないのですか?」
「俺もいいかな。じゃあ、早速呼ぶね」
灰色の丸いボタン、真ん中にベルのマークが印刷されたそれを指でトレーナーが押していくと、ぴんぽーん、という少々高めの呼び出し音が鳴った。
すぐにカウンターの方から元気の良い返事と共に先程の女性が伝票を持って近づいてくる。
トレーナーがメニュー表に指をさしながら注文をし始めた。女性はその内容を頷きながら聞いていき、伝票にペンを走らせていく。
その注文をする声を聞きながらヴィルシーナは窓に視線を向けていた。窓には空から降り続ける雨が当たり、水滴となって垂れていく。垂れた水滴は一筋の線へ変わっていき、続くように次の雨粒が付いた。
「ヴィルシーナ?」
「……あ。どうされました?」
「それは俺の台詞だよ。外、気になる?」
「いえ……その……」
ヴィルシーナは言葉を選ぶように視線をトレーナーから逸らした。天井、机、そして最後にはトレーナーへ向けていき、口を開いた。
「これが……予定ありきの雨でしかできないこと、ですか?」
それを聞くこと自体が憚られるように、重く開いた言葉だった。
店内ではピアノの旋律が響いており、その旋律を聞いている人も僅かだった。雨であるからこそ、このカフェに訪れている人が少ないのだろう。外を見れば傘をさして歩いている人もいるが、多くは無い。
雨であるからこそ外へ出ていき、ましてやカフェで飲み物を飲む、というのは晴れていてもできることだ。
だから、尋ねてしまった。
「……ヴィルシーナにとって、雨っていうのは何だと思う?」
トレーナーの言葉にヴィルシーナは首を傾げた。膝の上に乗せている両手の指を絡ませ、脳内で思案した。
──雨は人の心を沈ませる。
誰かが定義したわけでは無い。しかし、不思議とそう思わせてしまう力を雨というものは持っていた。
雨が降っている時は誰かが悲しんでいる。誰かの心が折れかけている。負の側面が真っ先に思い浮かんだ。
「あまり……良いものではないかと」
一度息を吐きながら、そして重く口を開いた。
予定ありきの雨でお出かけに誘ってくれた彼にこの言葉を告げるのは心苦しい。それは貴方が誘ったのはこんなにも落ち込ませるようなつまらないものなのか、と。そんな意味を持っていてもおかしくなかったからだ。
「俺はそうは思わないよ」
「では、トレーナーさんはどのようにお思いで?」
「そうだね……俺は雨は神秘的なものだと思うんだ」
「神秘的……」
反芻するようにヴィルシーナは呟いた。トレーナーが一つの頷きを見せながら更に続けた。
「確かに雨はお出かけの予定が崩れるし、トレーニングメニューを変えないといけない。良い事ばかりではないのは勿論だよ。だけど、ほら……例えば」
そう言いながらトレーナーはヴィルシーナではなく、店内を見回した。人は疎らで、座っている距離も離れている。一人客が二人と二人組が二つ。閑古鳥が鳴く、というわけでは無いが繁盛しているとは言えない。
実際、カウンターからは何かを調理しているような音も注文をする声も聞こえない。雨の音と店内で流されているピアノの旋律がより静かなことを強調させる。
ヴィルシーナがトレーナーに視線を戻せば、彼は机の下に置いた鞄に手を伸ばしていた。チャックを開けていき、そこから取り出したのは一冊の文庫本だった。
ベージュ色のブックカバーがされており、本の真ん中には紫色の栞紐が挟まれている。
「普段とは違う環境で、それもいつもよりも静かな場所で物語に浸る……なんてお洒落じゃないか?」
本を片手で挟む様に持ちながらトレーナーは見せてきた。
「……だからあの時に読みたい本を持ってきてと仰ったんですね」
「二人で本を読んで、あとで感想を言い合う。お出かけでもたまにはこんなのがあってもいいんじゃないかなって」
トレーナーの言葉を言い終えたタイミングで二つの透明なロンググラスが運ばれてきた。机の上に置かれると、からん、と氷同士がぶつかる音が響いた。
赤白のストローがロンググラスにささっている。彼がストローに口を付けて飲んでいけば、ヴィルシーナも続くように飲み始めた。
氷によって冷やされた液体。それが舌に触れ、喉を通っていけば鼻から抜ける香ばしい匂いと渋み。最後に口内に残ったのは清々しさを感じるほどの後味の良さ。
視線を彼に向ければいつの間にか本を両手で持ちながら、物語の世界に耽り始めようとしていた。
ヴィルシーナも続くように机の下に手を伸ばして、鞄の中から本を取り出した。
その本はトレセン学園の図書館から借りてきたものだ。本のサイズにしては文庫本サイズではなく、教科書の様な大きさだ。物語の本ではない。レース理論の本だった。
この場に合うものでは無く、思わず苦笑いを浮かべてしまう。その本をどうしたものか、と考えているとトレーナーの視線がヴィルシーナの方に向いた。
「あー……ごめん、ちゃんと伝えれば良かったね……」
「いえ、気にしないでください。これもこれで味があると思いますから」
「もう一冊持ってきてるから、貸そうか?」
「良いんですか?それでは……お言葉に甘えて」
トレーナーが鞄に手を入れるともう一冊の本を取り出した。それをヴィルシーナに渡し、彼女も本を開き始めた。表紙を捲り、扉絵を迎え入れ、物語の世界へ入っていく。
本の内容は一人の男性が昔暮らしていた街に再び訪れ、そこで過去を思い返すというものだ。
今日のような雨の日に訪れ、早速と言わんばかりに雨が鬱蒼と感じると書かれている。それに思わず、笑みを零してしまった。
物語を読み進めながら、時にはグラスに手を伸ばして喉を潤していく。外で振り続ける雨、そして雨音とピアノの旋律。時々店内で微かに聞こえる笑い声と話し声。それが心地よい。
視線をトレーナーに向ければ、彼の指が本のページを捲っていた。その視線は物語に向けられ、いつも教本や資料を読み込んでいるような真剣な表情ではない。
何処か遠くの世界に思いを馳せ、深く、己の世界と重ね合わせているように見えてしまった。
言葉を交わしたわけでも無いのに、トレーナーが視線に気づきヴィルシーナに向けた。互いの視線が合えば、ゆっくりと彼は首を傾げていく。
ヴィルシーナが首を小さく左右に振り、また視線は本の世界へ。いつもと違う彼の表情、視線、口元。本の世界で登場した男性を彼と重ねてしまうのは余りにも容易だった。
◇◇
本を半分ほど読み終えた所で、トレーナーが本を机の上に置き、両腕を天井へ伸ばしていく。それが終わりの合図だと分かれば、ヴィルシーナも続くように本を置いた。
外ではカフェに入ってから変わらずに雨が降り続けており、空もより暗くなっている。店内にいた二人組は既に帰ったようで、残ったのは一人客のみ。その人たちも帰ろうと荷物を整えている所だった。
「俺たちもそろそろ帰ろうか。どこまで読んだ?」
「まだ半分ですね。トレーナーさんは?」
「俺も半分程度。続きは帰ってから読もうかな」
「返しますわね」
借りた本を返そうと手に掴んで渡そうとすれば、トレーナーは受け取った。
「続きは良いのか?」
「大丈夫です。また次の機会の時に借りますから」
「君がそう言うなら……」
トレーナーが本を二つ重ねて机の上に置いては、グラスを傾けて珈琲を飲んでいく。三杯目を飲み終えれば、グラスの中の氷は融け切っていた。
「……それで、今日はどうだった?」
「なんというか……不思議でした」
「不思議、というと?」
普段のお出かけでは服を買いに行き、何処かへ遊びに行き、何かを食べたりする。息抜きの側面を持ち合わせつつ、二人で何か楽しかったことを共有するのがよくあるお出かけだ。
しかし、今日のは違う。所謂お互いが同じ空間にいるのに、それぞれの時間を過ごしているだけ。何かの思い出にも残らないような、本当にただの日常の一ページだ。
言ってしまえばわざわざ二人で出かける必要があったのだろうか。
──それでも、心地よかった。
「……不思議なんです。普通ならお出かけだと話したりするのに。それこそ話さないといけないな、なんて思ったりもするかと」
「でも、今日は違った?」
「はい」
強く頷いた。お互いにそれぞれの時間を過ごして、ただ一緒の空間にいる。それだけなのに、悪くないと感じてしまった。むしろ、これも良いのではないか。そう思ってしまう程に。
トレーナーがその言葉を聞けば、瞼を細めては唇に手を添えた。手の向こうの唇は弧を描き、彼が嬉しそうにしていた。小さく「よかった、そう思って貰えて」とトレーナーが告げると、ヴィルシーナは首を傾げた。
「どうしてそう思うのですか?」
「だって俺も同じだからさ。俺もこの静かな時間で、君と一緒にいれて良かったよ」
「……もう、本当にお上手なんですから」
「本音だよ。それにね……」
トレーナーが口元の手を退けて、ヴィルシーナの瞳を見つめた。逸らすことなく、ただ一点に向けては、柔らかな笑みを添えて。
「こういう静かな時間を過ごせるの人とはとても気が許せて、相性が良いって聞いたことがあるから」
「……ぁ、えと……そう、なんですね?」
「そうだよ。だから、俺とヴィルシーナは余程気が許せてるんだなって。それが嬉しくて」
ヴィルシーナはそれ以上トレーナーの瞳が見れずに逸らしてしまう。頬が熱く、熱でも出たかと勘違いしそうになった。瞳だけ向けた後に、また合ってしまう。一度だけわざとらしく咳払いをして、平静を取り戻そうとしたが心臓の鼓動が痛かった。
何か言葉を発しようとしたが、それ以上話すことができず、とはいえ視線を何処に向けるのかも思いつかず携帯を取り出して其方に向けた。
何かを見たいわけでもなく、取り敢えずは明日の天気予報でも見ようかと思い、アプリを開いた。明日もどうやら晴れらしい。だが、来週の半ばから雨の日がまた続くようだ。
「……また、来週も雨みたいです。梅雨は長いですね」
「土日は?」
「雨ですね」
「じゃあ、またきっと良い一日になるね」
良い一日。雨という日は二人で静かに、誰かと寄り添って、でも何かを一緒に体験するわけでは無い。いつもと違うからこそ神秘的で、違う事をしたくなる。
きっと来週の雨も今日みたいに降り続け、涼雨では無いのだろう。肌に張り付くような湿気と蒸し暑さ。多くの人が嫌うこの季節。
──彼とならきっと。
今度は瞳を逸らさずに彼を見つめた。少しだけ息を吸って、胸を膨らませる。
「トレーナーさんとなら、きっと、ですね」
次の雨は、どれだけ心地良いのだろうか。