秋の涼しさが寒さへと変わるこの頃。トレーナー室の窓を全て閉めては冷気が入らない様にしていた。外から伝わってくる寒さは自分の思考を、キーボードを叩く手を止めてしまう。自分にとっては涼風ではなく、邪魔なものだとそう考えていた。
パソコンに移されているレポート資料と担当のウマ娘のレースやトレーニングのプランニング。それがある程度完成を迎えそうになった時、視界がぐらついた。
最初に感じたのは疲労だった。いや、常に感じていたのだろう。彼女の脚を引っ張ってしまわない様に、ただひたすらに己の体に鞭を打ち、そして疲れを見ない様にしていたのだ。
だが、残念ながら一度それを感じてしまえば、逆らうことは不可能だった。手で体を支えようにも、鉛の様に体は重かった。いつもは力が入る腕も空っぽになってしまったかのようだった。
椅子に座ったまま、机の上に体を預けていく。まだすることは残っているのに。
落ちてくる瞼さえも重く、そのまま身を預けてしまった。
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ふと、意識が暗闇の中から戻ってきた。夢から現実へ。そうは言っても何か夢を見ていたわけではない。目を開けるとそこは真っ暗なままだった。瞼と額に感じる布地。顔の上にタオルをかけられ、光が目に入らない様にしている。
次に感じたのは体の向きが変わっている事。先程までは椅子に座り、そして机に突っ伏すような姿勢だったが、今は仰向けになっている。
少しずつではあるが、靄がかかっていた思考が晴れ始めていく。どうやら自分の体はトレーナー室にあるソファーの上で寝ているようだ。全身に伝わる柔らかな感触と沈み込んでいく心地よさ。
しかし、後頭部に伝わってくるのは明らかな違和感だった。ソファーの柔らかさにしては些か筋肉質に感じる硬さがあった。硬さの中に感じる柔らかさ。明らかにソファーのそれとは違うものだと脳が理解をした。
まさか、とは思い、目の前のタオルを退けようと手を動かせば「起きたのね」と見えない視界から彼女の声が聞こえてきた。
彼女にタオルを取られ、そして光が入ってきた。眩しく白い光に目を細めていき、徐々に慣れていけば視界には特徴的な藍色の髪と大きく長い白色の流星だった。
「…アルヴ?」
「おはよう。体調はどうかしら、トレーナー」
アルヴは手に持っていたタオルと本を机の上に置いては、一度息を吐いた。物憂げな表情をしていた。なるほど、先程から後頭部から感じていたものは彼女の太腿の感触だったらしい。
「体調は…良いというか…これはまずくないか?」
「何がかしら?」
「何が、というより…」
言葉に出そうとする前に体が動いてしまった。担当ウマ娘に膝枕をされるトレーナー、という状況。これを見られてしまえば変な噂が立てられてもおかしくはないだろう。上半身を起こそうとするも、彼女に片手で胸元を押されてしまう。
また後頭部に先程の柔らかな感触が伝わってきた。
「…アルヴにしてはやけに大胆だけれども」
「大胆な私はおかしいからしら」
「おかしくはないよ。ただ…どんな気まぐれかと思って」
「そうね。確かに気まぐれかもしれないわ」
彼女の手は俺の胸元に添えられたまま、視線を合わせてくる。ふぅ、とまた溜め息を吐く彼女。何処か呆れたような表情を浮かべている。
「それでも、気絶するまで働くトレーナーに言われたくは無いわね」
「うっ…」
言葉を返せなかった。事実を口にされてしまえば胸の中でぐさり、と何かが刺さるような感触。視線を逸らして、アルヴを見ない様にしていく。
「それで…どうしてそこまでしていたの」
「えぇっと…言わないと駄目か?」
「そうね。一応契約を結んでいるのだし、またこんな事があったら迷惑だから」
「迷惑、か…」
自己管理も出来ていないものに指導をされたくは無いのだろう。それは当然の考えだ。自分を律することも出来ないものが、他人を律することは不可能だから。
無茶をしていた理由。それを言葉にするのが憚られ、一瞬だけ口を開いて言葉にしようとするも閉じてしまった。妙に背中が熱い。
「…言えない理由なのね?」
「い、いや違う。言えない、というより…」
「じゃあ、なに?」
余計に怪訝そうな表情を浮かべるアルヴ。このまま伝えないのも折角深めた関係に溝が生まれてしまう。元よりトレーナーはウマ娘を導くために存在している。だからこそ、秘めておきたかった。俺の場合は導く、というより彼女に追いつきたかったから。
「…笑わないか?」
「笑わないわ」
「…君に追いつきたいから」
「……追いつきたい?」
アルヴはストイック、という言葉を体現しても良いほどだった。トレーニングに手を抜くことは無い。それどころか彼女自身からトレーニング内容を提案し、それを参考にすることもある。
常に高みを目指すために、自分に厳しく。その彼女に追いつくために、レースやトレーニングプランを見ては咀嚼をして栄養にする。彼女と同じように自分に厳しくし、並び立てるように。
その結果がまさかの気絶、というのは笑い話ではあるが。
「アルヴは凄いウマ娘、だから。俺はトレーナーとして君の横に並び立ちたい。だから、ストイックであろうとして─────」
「それで気絶したのであればそれは間違いよ、トレーナー」
「…そうだね、ごもっともだ」
「まぁ、理由を話してくれただけ良しとするわ」
胸元に添えられていた手はいつの間にか離れていた。これで起き上がれる、と考える間もなく、頭部に感じる優しい感覚。ゆっくり、そして慈しむような、そんな撫でる感触だった。
「…アルヴ?」
「本当、心配をかけないで。今回はたまたま私が直ぐに来たから良かったけれど…。次は倒れるまでしないこと」
「……あぁ、勿論だよ」
「それならいいわ。さて、と…そんな疲れ切ったトレーナーの体力を戻すには何がいいかしらね」
「えっ?」
ソファーの下に置かれている学生鞄。頭部を撫でられる感覚が無くなり、彼女は学生鞄の中を漁り始めた。ことり、と机の上に置かれていく様々な物品。意外と色々持っているようで、やはり年頃の女の子なのだろう。
木製の棒に梵天が付属したものに、琥珀色のブラシ。薄い緑色の液体が入ったガラス瓶に白いハンカチ。そして紺色の小さなポーチ。彼女のプライベートが垣間見えた。
「何をする気なんだ…?」
「…頑張っているトレーナーにご褒美よ」
「…ご褒美?何故…?」
「倒れたことは良くないけれど、頑張っている事に対して。嫌だったかしら」
「嫌では…ないが…」
意外だった。彼女は基本的に自ら接することをしない子だった。誰かに近づくことも、ましてや近づかれたとしても深くまで入る事はしない。勿論、助言はすることはあるが、他人との関係に対して一線を引いているような子だ。
そんなアルヴの口から発せられた『ご褒美』という単語。聞き間違いかと思い、思考を整理してみるが、どうも聞き間違いではないようで。
「驚いた表情をしているわね…」
「そりゃ…驚くよ。まさか君が…」
「…今回だけよ」
アルヴはそういってポーチに手を伸ばした。俺の顔の上で中身を確認しているが、僅かに見えた頬に赤みがかっていた。照れ隠しなのだろう。この子は意外と可愛らしい所がある。
「…あれにしようかしら」と彼女の呟きが聞こえ、ポーチが机の上に置かれた。彼女の手には銀色で先が二つに分かれている物を持っていた。
「…ピンセット?」
「…ご褒美にしては…少し、いえ、大分ね。向こうを向きなさい」
アルヴは一瞬だけ考え込むように視線を伏せた。しかし、直ぐに顔を上げると同時に顎をしゃくらせては、机側に向くように指示をする。
何をするのかが理解は出来ないが、逆らった所で何か良い事がある訳でもない。素直に従っては身体ごと動かして左半身を下に、横向きになっていく。
机の視線を向けると、彼女は先ほどまで出していたものを鞄の中にしまい始めている。代わりに残ったものは耳かき棒とピンセット、そしてティッシュだった。
これではまるで────
「耳かき?」
「……口に出さない。そう言われると何だか恥ずかしいのよ」
「ご、ごめん」
アルヴは手を近づけて、俺の右耳に触れた。冷たい指先。部屋の中は窓を閉め切っていたため、その冷たさが心地よく感じる。優しく揉まれ、何度か形を変えていく。
ぐにぐに、と。自分の耳が少しずつ熱を持ち始めている。彼女の冷たさがより感じられる。
「…指、冷たいな」
「寒いから、ね」
「そっか…」
「…嫌ではないかしら」
「何とも。むしろ少し気持ちいいかも…」
此方を伺うように指の動きが和らいでいく。気遣うように、耳たぶから凹みへ。耳全体を優しい手つきで揉まれ続けている。ふぅ、と思わず息が漏れてしまった。
のんびりとした時間を味わうのはいつぶりだろうか。瞳を閉じては心地よさに身を任そうと考えている最中、思い出すこと。まだレポートやトレーニングプランが完成していない。
「しまった、まだトレーニングプランとか…」
「既に見たわ。パソコンの近くにメモを置いておいたから、あとで目を通して」
「……分かるのか?」
「元々一人で色々していたからある程度。とはいえ、そこまで信用しないで頂戴」
「…何から何まですまないな」
となれば憂いは消え去ってしまった。アルヴに指摘をされるのは果たしてトレーナーとしての存在意義があるのか、が気になってしまう。
そんな思考はとある彼女の言葉で消え去ってしまった。
「耳かき棒、入れるわよ」
その言葉と同時に入ってくる硬い感触。耳壁がヘラでがりがり、と擦られていく。脳内に響き渡る音がやけに心地よく、自分の体が弛緩していった。ソファーへより沈みこみ、彼女の太腿へより溺れるように。
耳壁を擦られていくのが何度か繰り返されると、一緒に掻き出される何か。ざざざっ、という音と共に自分の耳の中から溜まっていたものが取り除かれた。
それらはヘラに纏わりつき、そして机の上に広げてあるティッシュの上へ。とんとん、叩く音に合わせて耳垢が落とされた。
「なんだか…手馴れているね…」
「気のせいよ」
「そうか…」
声に力が出ない。自分の体も心も彼女に解きほぐされている。もし、今ここで立ってみよ、と言われても膝から崩れ落ちる程に力が出ない。それ程までにアルヴに身を預けていた。
また、耳かき棒が耳の中へと入っていく。かりかり、と小気味よい音が響いていた。アルヴが耳介を摘まむと、広げられていく。耳かき棒の動きが止まり、そのままの状態で数秒が経っていた。
「どうした…?」
「なんだか硬いのがあって。動かないで」
「…ん」
頷きもしない短い単語の了承。どうやら余程の大物があるそうで。
「これはピンセットね。もし痛かったら言って」
「わかった…」
アルヴは耳かき棒を机の上に置き、ピンセットを手に取った。「入れるわ」の声と一緒に冷たい金属の感覚。かちり、と耳で響く異音に体を震わせてしまう。
耳の穴を広げられ、そうしてまたかちり、と金属音。恐らくピンセットで摘まんだのだろう。「引っ張るわ」と告げられては、ばりばりっ、と引き剝がされる音が脳内に響き渡った。また金属音。更に引っ張り、ゆっくりと引き上げられるとそれらは外へ。
耳の中が開通し、空気によって妙に通りの良さを感じる。詰まっていたものが無くなったような、それに近かった。
「大物ね」
ピンセットで掴まれたそれらはティッシュの上へ。黄色で、ぱさぱさとした大きな塊。自分の体の中にこんなものが入っていたのか、と。そしてアルヴに見られてしまった、というのが何だか恥ずかしく思えてきた。耳が熱い。
「これが俺から出てきたのか…」
「そうよ」
「…恥ずかしいね」
「はぁ…なら次はちゃんとすることね」
「……そうする」
まるで叱る母親とその子供の様だ。そんな事を考えてしまったが、言葉にすれば怒られることは間違いないだろう。そっと胸の中に秘めておく。
「最後は梵天で仕上げ、ね」
「宜しく…」
ピンセットから耳かき棒へ。彼女が持ち手を変えてはふわふわの梵天を下にしていく。また彼女は「入れるわ」と告げて、ゆっくりと耳の中へ。
柔らかな羽毛が入り、くるくる、と回しながら残った欠片たちを掻き出し始めている。ざざざっ、と音が響き、梵天を数回出し入れを繰り返している。
「うぁ」と小さな声が漏れてしまう。その声を気にせず、アルヴは続けていた。もう体の芯まで蕩け、このまま続いて欲しいと思えるほど。ぶるり、と体を一度震わせてその心地よさを更に享受する。
がさっ、と梵天が外へ出てしまえば至福の時間はお終い。机の上に耳かき棒が置かれ、彼女はティッシュを数枚手に取った。
「最後に仕上げよ」
手にティッシュを被せては、人差し指を伸ばしていく。そうして耳介の凹みを指でなぞるように掻き出し、穴の側に残っている欠片たちを拭いていく。ぐりぐり、かりかり、と。深くまで響かないが、浅めで鳴る音たちでさえ今の自分を溶けさせるのに十分だった。
「これでお終い。次は反対ね」
「……その」
「何かしら」
少しだけ、本当に少しだけ良くない心が芽生えてしまった。担当の子にこんな事を頼むのは些か忍びなかった。だけれど、きっと普段してくれない彼女だからこそ、して欲しい、と思ったのだろう。時計の針が動く音が妙に聞こえる。
「……耳かきの定番で…その…最後に吹きかけるのって…どうかなぁ、と思って」
言葉にしてて恥ずかしく思えてきた。頬が熱い。
俺の言葉に対して無言の返答を返す彼女。呆れているのかもしれない。顔を動かして、どんな表情をしているのか伺いたいが、それ以上に視線を合わせるのが良くない事に思えてしまう。
「いやその、ごめん。忘れ────」
「一回だけ、よ」
気だるげそうな声色。彼女に問い返そうとするも、そこで息を吸う音が聞こえた。そして、ふぅぅ、と優しくもゆっくりとした吐息。自分の体が一瞬跳ねてしまい、そのまま硬直した。あぁ、これは良くない事を頼んでしまった。
「…反対を向いて」
「あ、あぁ…」
体を動かしては一度仰向けになっていく。自分の視界に入るアルヴの表情。
その表情には紅潮していた。いつもは見せない彼女の照れ顔。視線が合わさればさらに赤くなっていき「…見ないで」と一言告げて、口元に手を添えては顔を逸らしてしまった。
言われた通りに彼女の腹部へ顔を向けていく。今度は左耳の耳かきだ。
「アルヴもそんな風に照れるんだね」
「…うるさい」
そう告げてはいるも、左耳のマッサージを始めてくれた。ぐにぐに、と彼女の手の中で形を変えられる。先程まで冷たかった彼女の指先は暖かな体温へ変わっていた。
そのことを言おうと思ったが、これ以上言ってしまうのはアルヴの好意を無下にしてしまう。また一つ、胸に秘めていく。
くぁ、と思わず大きな欠伸をしてしまった。口を閉じると共に目元に溜まる小さな雫。自分の体がまだ休息を求めているようだ。
「眠い?」
「多分…」
「寝ても良いわよ、終わったら起こすから」
「…良いのか?」
「ご褒美、と言ったでしょう」
そう言われてしまえば途端に瞼が重くなっていく。誰かに寄り添われて寝るのは久しぶりな気がする。いつぶりだっただろうか。そんな事を考えていると、体の力が抜け始めていく。
耳に当たっていた手の感触。それが次第に離れていき、そろそろ耳かき棒が入る頃か、などと考えていた。あの引っかかれ、掻き出される音。全てその心地よい音に身を任せよう、そう思うも次に感じたのは頭頂部に手を当てられた感触だった。
「…アル、ヴ……?」
「……今は、ゆっくり…寝てなさい」
「……っん…」
髪を梳かされるように頭を撫でられていく。後頭部まで滑り落ち、一度手が離されてはまた頭頂部へ。そして後頭部に滑り落ちるのを繰り返された。
誰かに頭を撫でられる、というのはここまで身を許してしまうものだったか。もう、一片の力も残されていない。視界も既に暗く、瞼が完全に閉じ切っている、と理解するのに時間がかかった。
思考に靄がかかり、何かを考えようとしても直ぐに消え去ってしまう。発しようとした言葉は欠片へ変わり、取り留めのない粒へ。
これだけは伝えなければ。その散った粒たちを集め、少しずつ当てはめていく。意識を手放す前に伝えたいこと。
「……ありが、と…」
一瞬だけ彼女の手が止まるのを感じた。
それと一緒にいつもの彼女の溜め息。またあの頭を撫でる動きが始まり、彼女の体が動いている。ゆっくりと前屈みになっていくアルヴ。彼女の吐息が耳に当たる。生暖かくも、何処か柔らかく感じる。そうして最後に聞こえた言葉。
「…おやすみなさい。いつも………感謝してるわ」
意識は、その言葉と共に暗闇へ落ちていった