「今日はお疲れ様、トレン。ゆっくり休んで」
「はいっ…!ありがとうございましたっ!アドマイヤグルーヴさん!お疲れ様です…っ!」
トレセン学園、芝のコース場。既に太陽は傾いており、空は橙色へと変わっていた。春の暖かさは夜の闇が近づけば近づくほどに奪っていく。もう三月前半だというのに、この時間帯は身震いをする寒さを覚えた。
長い黒髪に私よりも細長いウマ耳の少女、トレン。ぺこり、と大きく頭を下げては私の横を通り過ぎていく。歩いている中で肩で息をしている。今日はいつもよりも激しい練習をしてしまった。流石に無理をさせてしまっただろうか。
明日はいつもよりもトレーニング量を少なくした方が良いかもしれない。そんな事を考えていると、コース場の離れた所で「お疲れ様でした」と元気よく揃う声が聞こえた。
その声に視線を向ければかつて私を指導し、そして導いてくれた元トレーナーの姿。彼の前には四人のウマ娘が並んでいる。
手をひらり、と振る彼の姿。過去と比べるとやはり年を取り、皺も少しだけ深くなった気がする。それでもあの優しい表情は数年前と変わらなかった。
私は彼に近づいていけば、くしゃり、と芝を踏みしめる音。その音が耳に入ったのか、彼は此方を向いて微笑んだ。
「お疲れ様、アルヴ」
「えぇ、ありがとう。今日はもう終わりかしら?」
「そうだね。後は…シニアの子達のレース登録とか…ジュニアの子もデビュー戦が控えているから…そこらへんをまとめないとなって。君は?」
「私も…トレンの桜花賞に向けて考えたいことがある、くらいかしらね」
口元に手を添えて考えていく。どうやって勝利へ導くのか、どうしたら速くなれるのか。今までは他者に教えることは数える程しかなかった。
常に誰かに教える、というのは難しい。私の中で掴んだイメージを教え、それをしっかりと具現化して伝えるのはどうにも上手くいかない事がある。
一歩ずつ慣れているが、まだ彼には敵わない。
そうやって考えていると目の前の彼は少しだけ喉を鳴らして笑った。それが不思議で「何かしら?」と尋ねると彼は「板についてきたね」と返した。
「…そうかしら」
「最初の頃よりはね。最初の時なんて…」
「も、もういいわよ…恥ずかしい…」
けらり、と軽快に笑う彼。それが不服で私は視線を逸らすも、釣られるように笑みを零した。
そう、私は彼のサブトレーナーとなっている。
トレセン学園を卒業した後、私はトレーナー学校に通っては無事にライセンス試験も合格することが出来た。トレーナーを志した理由は彼が原因だった。
一人で居ようとした私を見捨てず、常に隣に居続けてくれる。私の欲しい言葉を、私が求めた結果を渡してくれた彼の姿に憧れた。
いつかは彼のようになりたい、と。少しでも近づけるようにサブトレーナーとして志願をした。
サブトレーナーとして学びたい、と言った時の彼の表情は今でも忘れることは出来ない。懐かしいトレーナー室の扉を叩き、久しぶりに顔を合わせた時に彼は固まってしまったのだから。
そうして私はサブトレーナーとして勤め、一年が経ったころ。チームにいたトレン、というウマ娘を担当してみないか、となった。
今後走るクラシック級のレース。彼のサポートありではあるが、私のステップアップが目的だった。けれどこれには理由がもう一つあった。
『トレンは、昔の君を見て憧れているんだ』
彼から告げられた言葉。トリプルティアラを争いあったあのレース。そして連覇をしたエリザベス女王杯。私の様に強く、気高く、そして美しくありたい、と。
実際の所、私とあの子では性格は真反対なのだけれど。でも、羨望の眼差しで見られるのは悪い気はしなかった。それに彼女の期待にも応えたかった。
だから、私は引き受けた。過去の私とトレーナーの様に。私とトレンの二人三脚でクラシックを走り抜けようと。
笑顔で了承してくれたトレンの期待を裏切りたくない。その一心でトレーニング内容や走り方なども考えてみたけれど──────────
**
「…これじゃ…駄目ね……」
月が煌々と煌めく夜空。その光と蛍光灯の無機質な光が混じったトレーナー室で私は一人で頭を抱えていた。
椅子に座り、正面に見据えるはパソコンの液晶。その液晶に映っているのは桜花賞に出走を決めたウマ娘達のデータが並んでいる。18人によるレース、その中にはトレンの姿もあった。
頭を抱えているのには理由がある。このままではトレンが勝つことが難しいからだ。
前評判では上位人気のウマ娘が数人。重賞で勝利したウマ娘やチームの実績から既に有力ウマ娘として捉えられている、
それに対してトレンは真反対。重賞を走っても精々掲示板入り。桜花賞の過去のタイムを見てもトレンはなんとか平均タイムに入り切れるかどうか。
このままでは確実に一着を取ることはできない。そう考えては空を仰いだ。残り一ヵ月もない。最後の期間でどこまで伸ばせるかの勝負所。
彼も私を担当していた時はこうだったのだろうか。それを考えるだけで眩暈がする。私自身が何かを言われるのは特に何とも思わない。けれど担当の子に良くない目を向けられる、となると胸の中で妙なものが渦巻いた。
「………あの人なら…どうしたのかしら」
トレーナー室でぽつり、と私は呟いていた。その呟きは欠片となり、月明かりと蛍光灯の光によって消え去っていく。既に彼は帰っており、誰も居ない。
『あまり根を詰め過ぎないようにね』
彼が告げてこの部屋を出ていったのが数分前の事。そう言われて簡単に納得が出来るならばどれほど楽なのだろう。はぁ、と大きな溜息を吐いてしまった。
壁時計に視線を向ければ日付を超えるまでにはまだ時間はある。とはいえ、この部屋の空気が悪いのか思考がぼんやりとしており定まらない。新鮮な空気に当たるついでに珈琲でも買おう。
椅子から立ち上がり、扉へと近づいていく。私の足音に重なるように遠くから、こつっ、と規則正しい足音。廊下から響いてくるそれに私は耳を澄ませた。
──────私以外にも誰かいるのね
最初は帰ろうとする他のトレーナーの足音かと考えた。その人と鉢合わせるのが何となく避けたくては扉から少し離れて止まる。しかし、その足音は徐々に大きくなった。
──────近づいてきている?
不思議だった。この時間帯にわざわざトレーナー室へ来る人物はまずいない。それならば一体誰だろうか。
そんな事を考えていれば、足音が止まった。この部屋の前で。がらり、と扉が開いていけばそこには見知った顔が立っていた。
「帰る所、だった?アルヴ」
「…どうして、貴方が?」
「差し入れと…それと相談に乗ろうかなと。君に根を詰めるなって言っても聞かないと思って」
彼の片手にはコンビニの袋が握られていた。そこから取り出されたのは二つの缶コーヒー。それを見せながら彼は「少し、風に当たろうか」と告げた。
**
水の流れ出る音と時折吹いてくる風が冷たかった。三女神像の周囲に備え付けられた木製ベンチ。そこに二人で並ぶようにして座っていく。周囲は外灯で照らされており、私達が座るベンチはその光を浴びていなかった。
「差し入れ、どっちがいい?珈琲で微糖と無糖を買ったんだけど」
「無糖で良いわ」
差し出される缶コーヒー。それを受け取るとじんわりとした熱が伝わってきた。銀色の蓋を人差し指で引っ掛けては、指を曲げて開けていく。かしゅ、と小気味良い音が響いた。
口に缶コーヒーを付け、そして傾けていく。口内に入り、喉元へと暖かい液体が通っていけばふぅ、と一つ息を漏らした。
隣で同じように彼も飲んでいき、そして同じように息を吐いた。それが何故だか居心地良く思えた。
「それで…トレンのことは順調か?」
「順調ではあるけれど…半分ってとこかしら」
「じゃあ半分の不調は?」
彼に尋ねられると視線を下に向けてしまう。トレンの走りをどうしたらもっと速く出来るのか。トレーナーとしての心構えはどうすればいいのか。そんな事が鍋の中身が掻き混ぜられるように渦巻いている。
言葉として出そうと一瞬だけ視線を彼に向けたが、直ぐに私は逸らしてしまった。
どうにもこの事を言葉として出すのは、怖かった。
「言えない?」
「……そういう訳ではないけれど」
怖いのではない。彼を失望させたくなかったのだ。彼が私を信用してトレンを任してくれた。トレンもそのことに快く承諾してくれて私も引き受けた。
まだクラシックの前半も始まっていない。この時期で弱音を吐くことは果たして正しい事だろうか。
「ちょっとだけ…昔の話をしようか。君を担当していた時の」
「…私の?」
「うん、もしかしたら何かの役に立つかもしれないからね」
彼は何処か懐かしむ様に話し始めた。
私が神童と呼ばれて期待をされていたこと。トリプルティアラを取ることを周囲から望まれ、その重圧に潰されそうになっていたこと。そして、スティルさんに全て敗北をし、失望の目を向けられたこと。
そこから這い上がり、氷の女王になるまでに至った話だった。
「スティルインラブは今でも忘れることはできない。もし、あの時に君が勝っていたら…何度も考えてしまったよ」
彼は視線を空へと上げながら呟いた。小さく、感慨深そうに何度も頷いて。私の方に視線を向けると直ぐに苦笑いを浮かべた。
「周囲の期待、それに押し潰されそうになったけれど…君を信頼したからこそ、最後まで一緒に走り切れたんだ」
「…信頼」
「もし、君がトレンを勝たせられなくても俺も…あの子も信頼を無くすなんてことは無いよ。実際トレンの表情は君に指導されてからより嬉しそうだしさ」
「……そう」
こくり、と缶コーヒーを傾けて飲んでいく。妙に苦く感じた。その苦みを少しでも逃がそうと口の中に残る唾液と共に飲み込んでいく。
缶コーヒーの熱はいつの間にか冷めていた。先程まで感じていた暖かさは何処かへと消え去っている。
「私は…それでも怖いわ」
「怖いのは当然だよ。どんなトレーナーも…怖いって思ってる」
「やっぱり貴方も…?」
「勿論」
「………なんだか意外ね」
昔の彼はそんな弱音を見せていなかった。むしろ毅然とした態度で、私にも笑顔を見せていた。時には指導に熱が入ってしまう程に。今思えば、あれは彼にとって心を隠すための必死な防衛手段だったのかもしれない。
私の言葉に彼は「それはまた、どうして?」と尋ねてくる。丁度今考えていたことを私はそのまま素直に口に出した。
「私が学生の頃はそう感じなかったもの」
「担当の前で表に出す訳にはいかないだろ?そんな不安を感じさせたらトレーナー失格だしな」
やっぱり、当たりだった。それならば私はどうなのだろう。
彼はそうやって前に出さないように必死に自分を繕っていた。今の私は頭を抱えている。トレンの前では見せないようにしている。けれど表情や仕草、言葉遣い、それらは果たしてあの子の前で隠せているのだろうか。
「…私は失格かしら?」
気になってしまった。今ここで彼に告げられたら楽なのでは、そう思えてしまう程に。私は自嘲気味に彼に告げた。その言葉を発した後、胸の中でもやり、とした泥のような気持ち悪さと淀み。それから目を背けるように視線を下に向けてしまった。
彼は唸りながら数秒程、口元に手を添えて何かを考えていた。そして小さな声で「まだ…採点中かな」悩む様に言葉を紡いでいた。
しかし、その後「でも」と逆説の言葉が続いた。
「……でも?」
「今は俺と君はトレーナーとサブトレーナーだから……まぁ…なんだ?お互いに愚痴を吐くなり相談…して欲しいかなって」
視線を上げると彼は頭を掻き、頬を少しだけ赤らめた。瞳だけは私をしっかりと捉えている。お互いに瞳が合えば彼は逸らしてしまった。
その瞳は私を心配するような、昔のものだった。学生時代に無茶をしていた頃、あの時の瞳と変わらなかった。
この瞳に私は惹かれたのだ。
「…ふふっ、えぇ…確かに言われてみればそうね」
ベンチに体重を預けていく。今と昔では違う。私と彼の関係は変わってしまった。
それでも共に歩んでいく、という根本は変わらない。お互いに年を取り、互いに大人になった。だからこそ話せることも共有できることもある。
だからなのだ。大人になった私は共に彼と同じ目線で物事を見たくなった。彼のようなトレーナーに憧れた。隣で一緒に何かを成し遂げたかった。担当ウマ娘とトレーナーではなく、もっと対等に近い関係で。
私はどうも、彼に影響をされ過ぎたらしい。
また一口、缶コーヒーを傾けては中身を飲んでいく。既に中身は少なくなり、先ほどよりも苦みを感じる。後になればなるほど、口の中に残る嫌なもの。そういえばこの缶を振ってから開けていなかった。きっとそのせいだろう。
「貴方の、飲んでもいいかしら?」
甘いもので口の中を洗い流したかった。このまま苦みが残るのは癪で私は彼の握っている微糖の缶コーヒーに指をさした。
彼は驚いたように目を見開き、何度か瞬きを繰り返している。そのまま困ったように眉を下げ始めた。
「えっ?もう口付けたけど」
「いいの。なんとなく、甘いのが飲みたいから」
彼の視線は忙しなく、微糖の缶コーヒーと私が持っている缶コーヒーを行き来していた。目を瞑り、一瞬だけ顔を上に向けた後、小さな溜め息と共に「アルヴがいいなら…」と言葉を吐き出した。
私に缶コーヒーを差し出し、それを受け取る。持っていた無糖の缶コーヒーは横に置いて、受け取った逸それを口に付けて飲んでいく。こくり、と喉を鳴らしてぬるくなった液体が喉元を通っていく。
「意外と甘くないわね」
「微糖だからね…?」
彼の物も暖かくない。甘みも殆ど感じない。けれど、胸の中に冷たい淀みと苦みがまだ残り続けている。
彼は愚痴を吐くなり相談して欲しい、と言っていた。なら、少しだけ今は──────
「………ええっと、アルヴ?」
「何かしら?」
「……ちか、くないか?」
私は腰を動かし、彼の肩に頭を寄せていた。体も擦り寄らせ、ぴったりと隙間が無くなるまで。視線を彼に向けず、私は受け取った缶コーヒーを見続けていた。
肩から伝わる温度。それが暖かくて、懐かしい。瞳を閉じてはその温度に身を任せていく。昔の事を思い出しながら、また肩に頭を擦り寄せた。
彼から喉を鳴らす音とわざとらしく咳き込む音の二つが聞こえる。それを聞こえないふりをして、あの懐かしい暖かさが更に欲しくなった。
「…頭、撫でてくれる?」
「──────えっ」
「一度だけ……してくれたでしょう?エリザベス女王杯の二連覇の時に」
シニア期における出来事。エリザベス女王杯で二連覇をし、私が氷の女王と呼ばれるに至ったあの日の事。私に笑顔を向け、褒めるように撫でてくれた彼の大きな手。ゆっくりと髪を梳かすように撫でられたあれは今でも私の大切な日。
頭を撫でた後に彼は必死になって謝っていたのも、それはそれで大切な日の一つ。それだけ私の事を考えてくれているのだから。
あれがまた欲しくなってしまった。今の私は心が弱り始めている。その弱みを理解してくれる彼にきっと縋ってしまっているのだろう。それでも、昔に戻ってまた欲しくなった。
「……あれはまぁ…その場のノリで……だね?」
「今では、ダメかしら?」
体を引いては距離を取ろうとしたトレーナーを逃がさないように服の裾を掴んだ。ぐいっ、と引っ張り私の方へ体を寄せていく。またぴったりと隙間なく、暖かな体温が伝わってきた。
「立場というものが…だな?」
「今はお互いに大人よ」
「…余計に、な?」
「嫌、かしら……?」
視線をトレーナーの方に向けては見つめていく。お互いに合えば彼は溜め息を吐きながら一度瞼を閉じた。再び開いた時には昔のような優しい瞳。それでも気恥ずかしさはあるのか、頬を人差し指で掻きながら「一回だけ」と告げた。
私の頭に乗せられる大きな手。昔と比べてよりごつごつとした感触。そうして頭頂部から後頭部へ流れるように撫でられていく。ぎこちなさはあるも暖かさは変わらなかった。
私は瞼を閉じ、それを享受していく。あの日の様に抵抗しないで、思い馳せながら。
手に持った缶コーヒーを口に付けては飲んでいく。喉を鳴らして飲んでいけば、口の中に広がるのは甘みだった。柔らかなくどくない甘み。
いつの間にか口の中から苦みは消えていた。