「こんにちは、トレーナーさん」
「アルヴ、いらっしゃい」
がらり、とトレーナー室の扉が開く音。いつものようにパソコンでレースの資料を作成している手を止めてはその音に視線を向けていく。音を出した主、アドマイヤグルーヴは扉の前で立っていた。
彼女はトレセン学園を象徴する紫色を基調とした制服を着こなし、肩には学生鞄を提げていた。軽く手を振って挨拶をしても彼女はそれを意に介さず、足音を小さく鳴らしながら近づいてくる。
机を挟んで対面になれば、彼女は鞄から一枚のA4サイズの用紙を取り出した。それを机の上に置き、トレーナーの署名欄に指をさした。
「夏合宿の申請書です。ここに名前をお願いします」
「あぁ、もうそんな時期だっけ…」
机の引き出しを開けていき、中からボールペンを取り出した。ボールペンを握りしめては、紙の上を滑らせるように書いていく。
「……よし、これでいいかな」
自分の名前を書き終えればアルヴに用紙を差し出した。しかし、彼女はその用紙には目もくれず、じっと此方を見つめている。青と紫の二つの瞳。その瞳が見ている先は俺の頭部に集中していた。
用紙を机の上に置いては、頭頂部に片手を伸ばして触っていく。何度か自分の頭を撫でた後に掌を確認したが、何かが付いているわけでは無かった。
「…えっと、アルヴ?」
「はい」
「何か付いてる…?」
小首を傾げてアルヴに問いかけると、彼女の視線と見つめ合った。
「髪、大分伸びていますね」
「え?あ…あぁ、なんだ…そんなことか」
アルヴから問われた事に小さく苦笑いを返した。
言われてみればかなり伸びている気がする。朝起きた時に鏡を見れば、目元が隠れかけてしまうほどの長さだ。自室ではそれが煩わしくてヘアピンで上に止めているが、仕事場でヘアピンで止めるのは妙に恥ずかしくしていなかった。
仕事中は集中しているため気にはならないが、こうやって彼女と話しているだけでも視界にちらつく黒い線が邪魔に感じる。
「ワックスとか付けないんですね」
「付けるときもあるけど…夏場が近づいてるからね。さっぱりしたいなぁ、と思って」
「切りに行かないんですか?」
「時間とか予約があまり取れなくて…」
あはは、とまた苦笑いを浮かべた。本当は時期を見計らってばっさりと切りたいが、この春から夏にかけては忙しいシーズンとなる。GⅠレースの申請や春のイベント毎。トレーナー同士の交流などもあるためあまり時間が取れないのだ。
やっとの事で時間が取れたとしても、美容院は既に予約で一杯。先の予定を見越して、と考えてもキャンセルするのが現実。
「夏合宿前には切るよ。このまま伸ばしたままだとみっともないから」
「……」
「えーっと………今月中には」
「……」
「さ、再来週中には…?」
無言の圧。何を言っても此方から視線を逸らさないアルヴ。少しだけ体を仰け反らせてその視線から逃れようとした。
はぁ、と彼女はが大きく溜め息を吐いた。両腕を胸の前で組んでいき、肩をすくめながら「切りますよ、私が」と続けた。
「え、アルヴが?」
「えぇ。不満ですか?」
「ふ、不満じゃないよ!だけど…その…」
切って貰えるのであれば有難い。自室でして貰えれば移動の時間も減るし、予約する時間などに頭を悩ませる必要もない。
だが、こういった切ってもらう、という行為には些か抵抗感があった。素人が髪を切れば、前髪が横一直線になったり、乱雑な長さで余計に不格好になるのが常だ。
ウマ娘は自分の尻尾の毛を切っては整えることがあるらしいが、それとこれはまた別の話だろう。それ以上答えることが出来ずに言葉に詰まってしまった。
「顔に出てますよ。本当に出来るのかって」
「あー…うん、ごめん。思ってた」
「施設の頃、時々下の子達にしていたので。それなりにはできます」
「本当か?」
瞼を見開いて彼女を見ていく。そうなれば話は別だ。全く切ったことの無い人にさせるよりも、ある程度の信頼は出来る。
「じゃあ、お願いしようかな。いつ頃が良いとかある?」
「こういうのは早い方が良いので。今週の日曜日の午後、トレーナー寮で」
胸元のポケットから手帳を取り出していく。今週の予定で日曜日は何もない日だ。所謂完全オフの日だった。元々ここで髪を切る予約をしたかったが生憎いっぱいになっていたため丁度良いだろう。
一度彼女に頷きを見せては「いいよ」と承諾をした。
「日曜日、行きますので待ってて下さい」
「分かった。楽しみにしているね」
髪を切る約束を終えれば、アルヴは机に置いてあった夏合宿参加の用紙を持ってトレーナー室から出ていった。
椅子に体を預けては、自分の前髪に手を伸ばしていく。視界に見えていた黒い線を摘んでは「アルヴが…してくれるなんてな」と呟いてみた。
**
数日後の日曜日。その日の天気は良く晴れていて、夏の暑さというのを感じさせる日だった。
既にアルヴは自室に訪れており、一緒に準備を進めていた。
髪を切る、というのであればまずは椅子が必要。次いで切った髪が床に散らばってしまうので、椅子の下には新聞紙を広げていく。
美容院で使うような首元から足先まで覆うような布は無い。お風呂に入った後に使っている大きいタオルで代用することにした。
他にも机の上には粘着式のカーペットクリーナーと壁にはワイパーを立てかけてある。髪を切り終えた後の事も全てばっちりだ。
椅子に座り、アルヴが大きなタオルで俺の首元を覆ってくれる。そうして彼女は机の上に置いてある霧吹きスプレーと櫛を手に取った。
「あまり期待しないで下さい。ある程度、しか出来ないので」
「それでもいいよ、こうやってしてくれるだけで嬉しいから」
「…そうですか。髪、濡らしますね」
霧吹きのトリガーをアルヴが引いていくとぷしゅ、ぷしゅ、という水が噴き出す音が聞こえた。頭頂部にから左右の側頭部へ。そして後頭部。頭全体を濡らされては、櫛で髪に付いた水滴を伸ばされていく。
彼女の左手が髪を支え、櫛を持った手で満遍なく。隅から隅まで綺麗に濡らされた。
一通り濡らされた後は、アルヴは霧吹きを机の上に置いた。今度はポーチの中から一つの金属製のハサミを取り出した。
見た目からしてキッチンばさみには見えなかった。よくお道具箱に入っているような安物のハサミでもない。まさかこの為だけに買ってくれたのだろうか。
「それ、わざわざ買ったのか?」
「そんな訳ないでしょう」
「あぁ……え、じゃあそれは…?」
「私が普段尻尾のトリミングで使っている物です。安心してください、消毒はしているので」
彼女の私物だとは思わなかった。流石にそれを使わせるのは頂けない。既にアルヴは俺の正面に立っている。見上げて彼女に言葉を告げようとすれば「動かないで」と強気の口調で制された。
「今から切るんですよ」
「でも、それは君の物で…」
「嫌なんですか?」
「そういう訳ではないけれど…」
「じゃあ、良いですよね?」
そう言われてしまえば反論は出来ない。喉元で低い音を鳴らしながら、そのまま視線を正面に見据え、彼女の邪魔をしないようにした。
「じゃあ、切りますね。長さとか、そういう要望は…流石に出来ないので」
「任せるよ。アルヴの好きなようにしてくれ」
「…分かりました」
アルヴが正面に立ち、櫛で髪を掬い上げては切り始めた。じょき、ちょき、と髪を切られる感触と音。切られた髪はタオルの上に落ちていき、そして流れるように新聞紙の上に滑り落ちた。
ちょきちょき、と手際よく彼女は髪を切り続けていく。頭頂部をある程度切り終えると今度は前髪へ。何度かに分けるように髪を束ねていき、同じように櫛で持ち上げては切っていく。数回繰り返した後には、櫛で前髪を伸ばしていた。額に当たる櫛の感触、それが少し擽ったい。
目に入らないように瞼を閉じているため、彼女のすること全てに身を任せていた。
「……本当に出来るんだな、アルヴ」
「信用していなかったんですか?」
「そういう意味じゃないけれど…手馴れているから」
「下の子達に切る時に少し勉強をしたので」
今度は側頭部。耳付近の髪を持ち上げて、またじょきじょき、と切り始めた。テンポ良く、迷いが無いように切っていく。耳元で響いている音が心地よくて、肩の力が自然と抜けていった。
耳の周囲を切り終えると、耳に金属の冷たい温度が伝わってきた。ハサミの先端で耳にかかっている毛をちょき、と何度か音を立てながら切っている。
「さっぱりしたいって言っていたので。切れる所は切りますよ」
「あぁ…お願い」
アルヴが歩いて、今度は反対側の側頭部へ。同じように音を立てながらハサミで切り進めていく。ハサミを横にしながら揃えるように切ったあと、縦にハサミを入れては切っていく。同じように切り揃えられていくと彼女は後頭部に手を添えた。
「頭、下げてください」
「んっ……」
頭を前へ倒して、彼女にうなじを見せるようにした。そうして後頭部の髪をまた切り始めていく。じょきじょき、と切る音だけが部屋の中で響いていく。アルヴは切っている最中に特に何も話す事はなかった。鼻歌も歌わず、まるでするべき事をこなす、という仕事人のように見えてしまう。
「俺の髪って…どうなんだ?切りやすいのか?」
あまり近い距離で彼女と会話をすることが無いため、なんとなく会話をしてみたくなった。
「そうですね…切りやすいかと」
「切りにくい子とかはいるんだ」
「そういう子はハサミで切ろうとすると整わないというか、終わった後に毛先が揃わなかったりしますね」
その会話の最中でも彼女は手を止めない。襟足に伸びた髪をばっさりと切っては、縦にハサミを入れてまた切っていく。かなりバッサリと切られているが、おかげで頭が少し軽くなった気がした。
頭の全方位を切り終えた後、彼女はハサミを机の上に置いた。そのハサミには自分の髪の毛がしっかりと付いており、地面にも黒くて長い塊たちが落ちている。新聞紙を引いたのは正解だった。
「終わり?」
「まだ終わりではないです」
さらにポーチから取り出したのは同じ金属製のハサミ。しかし、先程使用していたものよりも古めかしく、刃先もギザギザになっていた。アルヴはそのハサミの持ち手に指を通して、此方に見せるように何度か動かしている。
「すきバサミで整えるので」
「そ、そこまでする?」
「最後に整えるならこれしかないでしょう」
彼女は歩き始め、そして背後に立った。櫛ではなく彼女の左手で髪を持ち上げられ、しゃきしゃき、と軽い音で髪を切られ始めた。塊では無く、一本一本の細い髪の毛たちが落ちていく。丁寧に髪を指で挟んで掬い上げられ、そして髪を梳いていく。
まるで本当の美容師みたいだ、なんて思いながら彼女の行動が終わるまで待っていた。
「あともう少しで終わるので」
「本当に助かるよ。至れり尽くせり、だね」
「…まぁ、普段お世話になっているお返しだと思ってください」
「アルヴから…そう言われるなんて、変わったね」
「えぇ、誰かさんのせいですね」
後ろから優しくそして柔らかな声色の喉から鳴らした音が聞こえた。その声に思わず頬を緩めてしまった。
足音を立てながら、彼女が周囲を動いて髪を梳いていると「何か面白い事でも?」と尋ねられてしまった。一言だけ「なんでもないよ」そう告げると「変な人ですね」少々呆れを含んだ声が返ってきた。
髪を梳き始め、数分後。アルヴが櫛で頭の上に乗っている髪の毛を落とし始めた。頭頂部から後頭部や側頭部へ、それらを何度か繰り返していく。
そして彼女が机の上にすきバサミと櫛を置いた音と共に終了を告げる声が聞こえた。
「終わりよ」
「終わったか。んー…」
両腕を大きく上に伸ばしていき、背伸びをしていく。じっとしていた時間はそう長くは無いが、それでも体が硬くなっていた。少しでも柔らかくしようと何度か体を傾けて、しっかりと伸ばしていけば、徐々に違和感が解れ始めた。
「アルヴにこんな才能があったなんてな。将来は美容師かもな」
「ただ慣れているだけ。才能とかではないわ」
首を横に振りながら、アルヴはハサミや櫛に付いた髪の毛を取り始めていた。
早速鏡で出来栄えを見に行こうと椅子から立ち上がると、彼女が何かに気づいたのか立ち上がっては近づいてきた。目の前に立ち、此方の表情を見つめている。
「触るわよ」という言葉の後、彼女が俺の顔に指を伸ばしてきた。反射的に俺は瞼を閉じていく。指は鼻先に付いている髪の毛を取った後、今度は頬や額にも同じようにした。
「結構付いてるわね。後で顔を洗いなさい」
その声はいつもの冷たい声では無かった。小さな子に言い聞かせるような、お姉さんの様な声だった。何処か厳しいけれど、優しさもあった。
「あ……あぁ、分かった」
「…なに?」
直ぐにいつもの調子にアルヴは戻ってしまった。「なんでもない」とだけ答えてはそのまま足早に洗面所へ足を運んだ。
洗面所に備え付けられた長方形の鏡。自分の姿を映しては、髪に手を伸ばして触ってみた。
「おぉ…思っていたより良いな…」
美容院と比べても遜色ないほど髪は整っていた。顔を横に向けたり、背中を向けて襟足などを確認していく。全体の髪のボリュームは減っており、さっぱりとした印象を受ける。変なガタツキや所謂ぱっつんといったものも無い。
このまま人前で出ても恥ずかしくない所か、またアルヴにお願いをしたいくらいの出来栄えだった。
一通り確認を終えれば、リビングへ戻っていく。アルヴはリビングで新聞紙を折り畳み、片づけ始めていた。
「そこまでしなくて大丈夫だよ、俺が片付けるからさ」
「私がしたくてしているので」
「じゃあ……新聞紙はお願い。俺はワイパーで床掃除とかするから」
二人で髪を切り終えた後の片付け。粘着式のカーペットクリーナーで服に付いた髪の毛を取り払い、ワイパーで新聞紙から落ちた髪の毛を取り除いていく。
新聞紙を多めに敷いていたためか、あまり床には落ちておらず、直ぐに掃除は終わった。
やるべきことを終えたのか、そそくさと彼女はポーチに全ての道具をしまい、そして小さな手提げ鞄にしまった。一緒になって向かう先は玄関へ。
「休養日にすまないな、本当に」
「気にしすぎです。別に…良い息抜きにはなったので」
彼女は目を合わせないで靴を履き始めた。靴を履き終えればがちゃり、と扉を開ける音。彼女が外へ足を一歩踏み出し、そして止まった。
歩き出すことなく脚を止める彼女に不思議に思い「忘れ物?」と尋ねていく。
「……また」
「また…?」
「気が向いたらします。髪の毛」
アルヴはそう告げると、視線を俺の方に向けた。顔は真横を向いているが、瞳だけはしっかりと姿を捉えている。その瞳と合うと、彼女は直ぐに体と同じ向きに逸らした。
「……うん、またして欲しい」
本心からの言葉だった。美容院でして貰う、というのが当然ではあるが、彼女にして貰えるのはもっと嬉しいことだ。少しだけこの髪型をエアグルーヴやドゥラメンテにも自慢したい、なんて思ってしまう程に。
それに一番嬉しいのは彼女が俺のためを思って、手を抜かずにしてくれたことだ。だからこそ、また頼みたい、と言葉で伝えた。
一瞬だけアルヴの耳が空へ跳ねた。直ぐにそれは地面と平行になるように畳まれては、小さな声で「………物好きですね」という言葉が返ってきた。目線だけではなく、表情もしっかりと向けて。困ったように眉を下げ、それでも口元を緩めていた。
「お邪魔しました」
それを告げると彼女は扉を閉めて、帰っていった。
玄関で一人取り残されてる。また洗面所に歩いていき、自分の髪型を確認していく。片手で触りながら何度も確かめた。
明日、一番目には誰に見せようか。そんな事を思いながら、髪を触り続けた。