ヴィルシーナがエイシンフラッシュにお菓子作りの秘訣を教わる話
栗東寮の一室。113と書かれた数字を見ながら、私は一つ深呼吸をしていく。今日は休日であり、寮には多くのウマ娘達が談笑をしている。その会話が良く聞こえている中で私だけ緊張の面持ちで扉をノックした。
数秒後、部屋からは優しい声で「どうぞ」という声が聞こえてきた。
また、深呼吸をする。扉のノブを掴んではゆっくりと開けていき、部屋の主に私は声をかけた。
「エイシン…フラッシュさん、ですよね…?」
「…貴方は、確か…」
黒鹿毛の彼女は文庫本を手にしており、予想外の訪問者である私を驚いた様子で見つめていた。それもそうでしょう。普段関わりのないウマ娘が部屋に訪れる、なんて事があれば誰しもきっと不思議に思うのだから。
「ヴィルシーナです。初めまして」
一度会釈をして挨拶をしていく。ぱたん、と背後で扉が閉じる音がした。
**
「なるほど…お菓子作りを教えて欲しいんですね」
「はい。フラッシュさんはご家族がケーキ屋さんを営んでるとか…。それで、ハロウィンも近いのでお菓子作りを教えて頂ければ、と」
お互いに椅子に座り、向き合っている。突然のお願いで私はフラッシュさんに視線を合わせてはいるも果たして受け入れてくれるのだろうか。
普段関わりが無く、訪れるなりお菓子作りを教えて欲しい。そんな事をいきなり告げるのは不躾かと思われるかもしれません。ですが、私には一つの焦りがあった。
「構いませんよ。それに元より今日は作る予定があったので。良ければご一緒致しますか?」
「良いんですか!?ありがとうございますっ」
椅子から立ち上がり、頭を下げてお礼をしていく。トレセン学園でも名が知れているほどの菓子職人。嫌な顔一つもせずに二つ返事で了承してくれたことが嬉しかった。
フラッシュさんは視線を壁時計へと向けていき「少々時間は早いですが、問題は無いですね」と焦げ茶色の手帳を取り出しては、その中身を見ながら呟いた。
二人で部屋から出ていき、向かうは厨房。廊下を並びながら歩いている時、彼女から声をかけられた。
「ヴィルシーナさんはどうして私にお菓子作りを?」
「えっと…それは、その…」
言葉が詰まってしまう。足取りが少しだけ遅くなり、横並びだったものは私だけ後方へ下がっている。フラッシュさんはそれに合わせるように脚の進みを遅くし、また横に並んでくれた。
「私の知る限りでは確かヴィルシーナさんもお菓子作りや料理が得意だったはず。何か困りごとでも?」
小首を傾げながら心配そうに覗き込んでくる。彼女の青い瞳に映る私は情けない表情を浮かべていた。
私の焦り。それは─────
「上手く…作れなくて…」
そう、上手にお菓子を作ることが出来ない。ヴィブロスやシュヴァルに味見をお願いし、二人とも美味しいよ、と感想をくれました。しかし、私が食べたそれは違う感想を持っていました。
──────これは私が求めている味ではない
ハロウィンまであと数日。それまでに様々な試作品を作りました。クッキーにマフィン、グミやマドレーヌ。ハロウィンということでカボチャを織り込み、時にはカボチャでない秋が旬の果物を混ぜてみたりもした。
「実はトレーナーさんに日頃の感謝としてお菓子をお渡ししようかと思っていて。ですが、どれも納得出来る味ではなかったんです」
「…なるほど。レシピ通りには?」
「勿論作っています。時々アレンジも加えますが、基本はレシピに忠実にしていますよ。それでも…」
納得の出来る味では無かった。味見として食べた時、しっくり来るものでは無かった。甘味が足りないのでは、と考えて砂糖を足すこともあった。風味が足りないのでは、と考えてバターを足すこともあった。バニラエッセンスにシナモン、時には柑橘の皮も加えたりもした。
それでも全て納得が出来なかった。
トレーナーさんに渡すには相応しくないお菓子だと、私はそう思ってしまった。
彼に渡すからには完璧で、そして満足の出来るお菓子を。感謝を伝えるのだから、それに適したものを。それを意識して作り、時には作り終えた後に納得したとしても、食べれば首を傾げてしまったのです。
これではない、と。
だからフラッシュさんを訪ねました。ケーキ屋の家族を持ち、そして時折皆に振る舞ったり、お菓子教室を開いている彼女に助けを求めました。
この原因が何なのか。
「それでフラッシュさんなら何か分かるかと思い、今回お願いさせて頂いたわけなんです。急なお願いで厚かましいですが…」
「問題ありません。それに私もトレーナーさんに渡す予定でしたので」
「そうなんですね。あっ、材料とかは…」
「既に厨房の冷蔵庫にしまってあります。量についても気にしないでください。作った後にトレーナーさん以外にも振る舞う予定でしたから」
二人で廊下を歩きながら、フラッシュさんは頬を緩ませながら返してくれた。私の言葉にも笑わず、ただ頷きながら私の苦しみを理解するようなその返答に胸が少し軽くなった。
廊下を歩いては数分もしない内に厨房へと辿り着いた。寮で過ごしているウマ娘達に解放された一室。今日は誰もおらず、私とフラッシュさんの貸し切りでした。
私とフラッシュさんはそれぞれ自前のエプロンを付けていく。彼女は髪と尻尾の色と同じ黒鹿毛。私は紺色のエプロン。
一回り以上もある大きな冷蔵庫を彼女が開けては袋を取り出しては白いカウンターの上に置いていく。袋の中から取り出したのは、りんごに小麦粉、シナモン、卵。ベーキングパウダーにアーモンドプードルというアーモンドを粉末状に加工したものまで。
この材料を見ては、私はとあるお菓子が導き出された。
「これは…アップルケーキ…?」
「正解です。ドイツでは
「アプフェルクーヘン…」
フラッシュさんが告げた言葉を確かめるように私は口にした。そしてハロウィンに渡すお菓子にしては、こんな事を考えるのは些か失礼ではありますが「こう…普通なものなんですね?」と出てしまった。
ハロウィンというからにはカボチャを使ったお菓子だと私は考えていた。だけども、実際に出てきたのはアップルケーキ。肩透かしに似た何かを感じてしまった。
「実は…ドイツではあまりハロウィンは有名ではなくてですね」
「えっ…!?そうなんですか?」
「行事としてはあるんですが、そこまでポピュラーなものでは無いんですよ。小さい子がお菓子を強請りに来ることはありますが…日本のように仮装とかはしないですね」
フラッシュさんのお手伝いをするために私はまな板や包丁、型を用意していく。対して彼女は秤を取り出し、その上にボウルを乗せていく。0と書かれたボタンを押した後、バターを取り出しては封を開けていく。
バターをカウンターの上に置いては、指を親指と人差し指で間隔を測っているのが見えた。そうして、バターを四等分に切り分けた後には三つをボウルの中へ。
秤が指した数値は150gぴったり。満足そうにフラッシュさんは頷いていた。
私はその間に小麦粉やベーキングパウダーの粉類を手に取り、ふるいにかけようと考えた。
「小麦粉は150g、ベーキングパウダーは2gでお願いします。1gも狂いなく、ですよ」
「えぇ、勿論です。完璧に、ですね」
ボウルを一つ用意し、秤に置いていく。0のボタンを押した後にまずは小麦粉の袋を開けて中へと注ぎ始めた。ゆっくりとカウントが進んでいく秤の数字。それが150という数値を指したと同時に入れるのを止めた。
続いて計量スプーン。ベーキングパウダーの袋の中へと入れて掬っていけば、それを半分程戻していく。そしてそれをボウルへと入れていけば数値は152となった。
ぴったり。
ボウルの中に集まった粉ものを軽く混ぜていき、今度は粉ふるいを手に取った。その中へ、先程の混ざったものを入れては、とんとん、と手で叩いてはふるい始めていく。
フラッシュさんはアーモンドプードルをふるいにかけ始めていた。
「この後はバターをゴムベラで滑らかにしていきますよ。手順は都度お伝えいたしますね」
「お願いします」
少しだけ緊張の面持ち。折角の機会なのです。フラッシュさんは快く私のために教えてくれ、そして急遽時間も作ってくれた。トレーナーさんへあげるためにも、彼女の心遣いを仇で返してしまわないように、完璧に仕上げないと。
粉をふるい終え、バターの入ったボウルを手に取っていく。ゴムベラで押しつぶすようにしては混ぜていき、少しずつ粘着性を持ち始めた。
フラッシュさんはその間に卵を溶き始めており、私のサポートに徹してくれている。流石ケーキ屋の娘、といったところでしょうか。
「良い感じですね」彼女はボウルの中身を覗きながら告げた。バターは既に溶けきっており、いつの間にか準備されていたグラニュー糖を投入。ホイッパーを手渡されては「よくすり混ぜてください。その後に卵を数回に分けて入れていきますよ」
その言葉を聞いては私はホイッパーを動かし始めた。腕を使い、しっかりとボウルにホイッパーを押し当てながら材料を混ぜていく。黄色のバターは混ざり、やがて色味が抜け始めていた。
「しっかり…すり混ぜて…」
「えぇ、そうです。大変かもしれませんが。卵、入れますよ。そのまま混ぜ続けてください」
フラッシュさんが既に溶きほぐされた卵を入れ始めた。
さて、ここからが大変。空気を入れて混ぜることで生地の味わいが変わってきてしまう。より完璧に、人に手渡すのであれば妥協をしては駄目。何度も何度もホイッパーを動かしては混ぜ始めていく。
「ヴィルシーナさん」
「なんで、しょうか」
ボウルを抑えながら、必死に私はホイッパーを動かしていると彼女が手を添えてきた。その手に驚いては動かすのが止まってしまう。
「えっ?ど、どうしたんですか?」
「大切なものを一つ忘れていますよ。貸してください」
そう言われて私はボウルとホイッパーをフラッシュさんへ渡していく。彼女は手馴れた動きで中の卵とバターを掻き混ぜ始めた。
「卵を」と言われ、私は先程の彼女と同じように卵を入れていく。入れた直後に掻き混ぜ始めながら、フラッシュさんは口を開いた。
「お菓子作りで一番、大切なことは何だと思いますか?」
「…完璧に作る、ことでしょうか?」
フラッシュさんはその答えを聞き、ふふっ、と一度笑みを浮かべた。直ぐに「半分正解ですが、半分不正解です」と返された。
半分不正解、その理由が私には分からなかった。お菓子作りで、特に他人にあげるのであれば完璧でなければいけないのでは。1mmの誤差も許さない彼女が不正解に挙げた理由が思いつかなかった。
「…その、半分不正解の理由は何でしょうか?」
「そうですね…。今の私の表情を見ても分かりませんか?」
彼女の表情を見つめていく。私とは違い、安らかな表情でホイッパーを動かし続けている。最後の卵を投入して、それでも混ぜ続ける彼女は何処か嬉しそうにも見えた。
これはきっと普段から手馴れている者とそうでない者の違いでしょう。それしか私は分からなかった。
「分からないです…」
「ふふ、それでは一つ秘訣を教えましょう」
「秘訣?」
ボウルを置いてはシナモンとナツメグ、アーモンドプードルを加えるフラッシュさん。それを混ぜながら「ある事を考えるんです」と告げる。先程まで黄色の中に主張されていた茶色のそれらはいつの間にか混ざり合っていた。
フラッシュさんはボウルを置き、そしてベーキングパウダーと小麦粉が混ざったそれを投入した。そうして私へと近づけていき、まるで今度は私の番、というようだった。
ボウルを支え、ホイッパーを掴んでいく。ある事、それが何であるかを考えながら混ぜ始めていると、フラッシュさんは「まず、家族の事を考えてください」と口にした。
大好きで大切なシュヴァルとヴィブロス。そしてお世話になっている私のパパとママ。四人の事を思い浮かべながらただ混ぜていく。
「家族はどんな表情をしていますか?」
「笑顔、ですね。私が好きな、そんな表情です」
家族皆でハグをして、そして笑いが絶えないあの世界。豪快な笑いも、控えめな笑いも、照れくさそうな笑いも、全部全部幸せに満ち溢れている。
「では、次はトレーナーさんの事を思い浮かべてください」
「トレーナーさんを…」
視線はボウルを見つめながら、だけどそれは捉えておらず、彼の姿が目の前で鮮明に浮かび上がるほど。笑顔。それは勿論浮かび上がってきた。家族と同じその表情が。
そして次に浮かんできたのは彼の真面目な表情。トレーニングやレースを考えている時のものだった。続いては喜んでいる表情。笑顔とは違う、レースに勝って私と一緒に喜んでいる。
最後に自然と『ヴィルシーナ』と彼の呼ぶ声が聞こえた気がした。
「…ふふっ」
「何がを思い浮かべました?」
「色々な。そう、とても色々です」
ボウルの中を混ぜながら、答えていると既に粉は全て混ざり切っていた。
何故でしょう。今までで一番安らいでいたような気がします。
「えぇっと…フラッシュさん。この次は?」
「型に全て流し込んでください。その後はリンゴをくし切りにして、オーブンも予熱を。私はリンゴを切っていますね」
「分かりました」
こくり、と頷きを見せてはボウルの中身を型へと流し込んでいく。背後からはリンゴの皮を剥く音が聞こえていた。
「良い表情でしたよ、ヴィルシーナさん」
「えっ?良い表情…?」
「えぇ、とても。先程までは半分不正解でしたが、今は満点ですよ」
型に流し終えた後、自分の頬を触ってみた。次に口元。触って分かったことがある。私の表情は和らいでいる。自分でも気づかないほどに自然に緩み、少しだけ頬が熱くなってしまった。
「…まさか…こんな恥ずかしい姿を」
自分の頬を両手で包み込んでいく。これではまるで恋焦がれている乙女。それを心の内で理解してしまえば、頬が更に熱くなるのを感じた。
きっと私の頬はあのリンゴのよりも真っ赤なのでしょう。鏡で見ていないのに、そう思えてしまった。
「恥ずかしくありませんよ。至って普通のことですから」
「そ、そういうフラッシュさんは何を?」
「勿論、家族と振る舞う友人。そして一番はトレーナーさんです」
さらり、と告げる彼女に驚いてしまう。
まるでこれではフラッシュさんも私と同じようにトレーナーさんのことを─────
それが脳裏に過ぎり、オーブンの方に歩いては設定を始めながら「もしかして…フラッシュさん、その…トレーナーさんのこと────」しどろもどろに尋ねると
「えぇ、好いています。とても」と返された。そしてすぐさま「ヴィルシーナさんは違いますか?」と尋ね返された。オーブンの予熱設定を行い、ぴっ、という機械音が聞こえたと同時に振り返る。
小さな声で私は「……好きです、フラッシュさんと同じで」と。
「ならば良いではないですか。お互いに好きな相手を想い、そしてお菓子を作る。それだけできっと素晴らしいものが出来ますよ」
「本当、でしょうか」
「ケーキ屋の娘が言うんですから間違いありません」
リンゴを切り終えたフラッシュさんはそれらを型に注がれた生地へ押し込み始めた。私も横に並んでは手伝うようにして、並ばせていく。少しだけ指で押し込んでは、沈めていく。
これも家族の事を、そして一番に彼の事を考えながら。
「後はオーブンに入れたらお終いです。ここは私がしますね」
「お願いします」
フラッシュさんはオーブンを開けては型を中へと押し込んでいった。閉じられた扉、彼女がボタンの操作をしているのを見れば、どうやら40分ほどかかるようで。最後にスタートと書かれたボタンを押せば、オーブンが音を立てながら動き始めた。
その間に私とフラッシュさんは使った物品を洗っていく。包丁にまな板、ホイッパーなど水で流しては、スポンジに洗剤を付けてしっかりと。最後まで抜かりなく終えるのがお菓子作り。
全て洗い終えてはそれをタオルで軽く拭いていき、全てを棚の中へと戻した。
エプロンを外して二人で焼きあがるのを待つのみ。私は彼女の方に視線を向けては、頭を下げた。
「ありがとうございました」
「気にしないで下さい。私も元々作る予定だったのですから」
「そんな事はありません。何処かでお礼をさせて下さい」
「お礼、ですか…そうですね…」
フラッシュさんは口元に指を添えては考え事をし始めた。数秒の沈黙。何か思いついたのか、一度宇杏機を見せた後に「それでは、改めて作り直したときにトレーナーさんからの感想を教えてください」笑顔で告げられた。
「と、トレーナーさんからの?」
「えぇ。ただ美味しいだけ、ではありませんよ?貰ってどう思ったのか、食べてどう感じたのか、そういった感想を待ってますから。是非とも、それをヴィルシーナさんの口から聞かせてください」
それはとても恥ずかしいことなのでは。そう思える程だった。ただの感想ではない、貰ったが故の感想。味の感想であればきっと彼は『美味しいよ』と答えるだろう。しかし、貰ったことに対してや味以外の食べたことに対する感情は、とても恥ずかしくて────────
「…もし貰えたら、嬉しいですね……」
「だから、これは私とヴィルシーナさんの共有です。二人でお菓子作りをした、お互いの好きな人の共有。きっと胸を躍らせますよ」
「そう、ですね。きっとそうです。というより、今でも─────」
それを考えるだけで胸が暖かくなる。どんな感想を貰えるのか、きっと彼の表情はどうなのか。それだけで心臓の鼓動が早くなり、目も瞑ってしまう。幻想の中の彼はどう答えるのか。
嬉しがってる、それとも恥ずかしがっている?それでもいい。
もしかしたら凄く褒めるかもしれない。案外、お返しを考えるのかも。それも、いい。
早く焼きあがって欲しい。これが私が食べて納得できるものなのか確かめたい。
オーブンの時間を見てもまだ5分経ったところ。こんなにも待ち遠しい、と思ったのは初めてかもしれない。
そういえば、フラッシュさんとこうやって会話をするのは初めてだった。私よりも年上で、そしてとても大人びている。私なんかでは比にならないくらい。
もし、私にお姉ちゃんという存在がいたのならフラッシュさんみたいな人が嬉しい、そう思える程だった。
隣に並び立っては、彼女へ視線を向けていく。
「焼きあがるまで、お話致しませんか?」
「構いませんよ。何から話しましょうか?」
「そうですね…」
話すこと。レースの事、日常の事、家族の事、友人の事。それら全てを聞いてみたかった。どんな事を思いながら過ごしているのかを知りたかった。だけど、それ以上に気になってしまう事があった。
「では、初めてトレーナーさんと出会ったことを」
「────えぇ、良いですよ」
今のフラッシュさんの表情、私はとても綺麗だと思った。
**
「その時に私は言ったんです。トレーナーさん、ジェンティルさんは─────」
かちん、というタイマーが終わる音が聞こえた。気が付けば30分以上も話し込んでいたらしい。お互いにトレーナーさん同士の話をしては共感し、時にはアドバイスも貰っていた。
二人でオーブンの方を見た後には次に壁時計へ。顔を見合わせて、自然と笑みが零れてしまった。
「早いものですね、時間が経つのは」
「楽しいからですね。取り出しましょうか」
「はい」
私はオーブンミットを取り付けては、開けていく。開けた瞬間に漂ってくる良い匂い。砂糖とリンゴの甘い匂い。アーモンドやナツメグの香ばしい匂い。食欲がそそられてしまう。
用意したお皿、型から取り出しては置いていく。
アプフェルクーヘン。別名、アップルケーキが出来上がった。
「最後に粉砂糖をかけることもあるのですが、今回はこのままにしましょう。旬のリンゴは甘くて美味しいですから必要はありませんしね」
「では…切り分けますね?」
「火傷をしないように」
「勿論です」
ケーキナイフを取り出しては、人差し指と親指で支えるようにしてはゆっくりと切り分けていく。8等分に切り分けては味見用に二つ、私とフラッシュさんのお皿の上に乗せた。ケーキナイフを置いては、フラッシュさんからフォークを受け取る。アプフェルクーヘンの先端をフォークを添えるようにして切り、そして刺していく。
口に運ぼうとしては一瞬手が止まる。過ぎったのはもし納得がいかなかったらどうしようか、という恐れ。フラッシュさんから教えて貰っても駄目だったら、その可能性を考えてしまう。
そんなことはない。きっとよく出来てると思える。
自分に言い聞かせるようにしては口の中へと運んだ。しっとりとしたリンゴの食感に甘み。口を動かしては歯で嚙み潰すとバターの良い匂いとほろほろと生地が崩れていく。
また、一口分を切り分けては食べていく。美味しい、という言葉では表せない。食べれば食べる程に胸が満たされていくような、心が安らぐ味。そう、これが────────
「…これ…えぇ、これです…!」
「納得、いきました?」
「はいっ…はいっ!」
私は頷いた。何度も何度も。
求めていたものは、これだった。足りないものは私の想いだった。ただ完璧に作る事に囚われ、結果だけしか見ていなかった。誰かを想っては作る事、その過程が一番大事だというのに忘れていた。
直ぐに私はこれをトレーナーさんに食べさせたいと思ってしまった。ハロウィンまでまだ数日あるというのに。これを早く食べてもらいたくて私は立ち上がった。
「フラッシュさん…その、これ今からトレーナーさんに届けたくて」
「ふふっ、いいですよ。そこまで納得できたのに駄目、とは言えませんね」
「ありがとうございますっ!」
そうしてタッパーの中に一切れを入れていく。本来であれば装飾をしては渡すべきなのでしょう。それよりも彼に食べて感想を貰いたい、その欲が勝ってしまった。何より、このアプフェルクーヘン以上のものがハロウィン当日に出来るか分からなかった。
今満足できるものが出来たからこそ、チャンスを逃したくなかった。
「あ、その、残った洗い物は…」
「大丈夫ですよ。私がしておきますから。ヴィルシーナさんはトレーナーさんの所へ」
「本当に何から何まで…必ずお礼はしますから」
「えぇ、楽しみにしていますよ」
優しい笑顔だった。門出を見送るような、そんなものだった。
今日は休日、恐らくトレーナーさんは寮にいるはず。ならば電話をして確認をし、寮にいるのであれば彼の元へ。いない場合はその時はその時、です。
私はタッパーを片手に廊下へ向かっていく。扉を開けては出る前にもう一度、フラッシュさんへお辞儀をした。彼女もそれに合わせるように小さく返してくれた。
扉を閉め、そして少しだけ早歩き。
タッパーの中に入っているアプフェルクーヘンが冷めてしまわないように脚を速めた。
「可愛らしい、ですね。本当に」
一人、呟いた。ヴィルシーナさんはトレーナーさんの元へ行かれ、私は佇んでいる。厨房は焼きあがったアプフェルクーヘンの甘い匂い。お菓子作りで誰かの力になれるのなら私にとっては嬉しい事です。
最初にヴィルシーナさんから困りごとの内容を聞いていた時、私は直ぐに原因が分かってしまった。だけどそれを直接伝えたとしてもきっと彼女は納得はしないでしょう。
いえ、するかもしれません。表面上ではきっとそう返答するのかも。しかし、それでは真の理解へ繋がる事はありません。言葉よりも自分で考え、感じる。これがとても大切な事だから。
彼女を見ていると昔の自分を思い出してしまう。全て完璧に、予定通りに。そうであることがエイシンフラッシュというウマ娘を形作り、存在意義と見なしていた過去に。
今も勿論そうではありますが、今は予定外も楽しめるようになっています。
そう、彼のせいで。
さて、冷める前に一口味見をしなければ。トレーナーさんに渡すアプフェルクーヘンがヴィルシーナさんにとっては納得できるものだった。しかし、私はどうだろうか。
勿論、そんな事を気にする事は必要が無いほどに確信を持っている。
フォークを手に取り、切り分けていく。リンゴと生地を一緒に口の中へ放り込んでは、咀嚼を繰り返した。
リンゴの僅かに感じる酸味。そしてバターとシナモンなどの香辛料が奏でる良い匂い。くどく感じない丁度良い甘み。
これは確かに──────
「納得がいきますね。えぇ、とても。今まで作った中でも最上位に入るほどです」
きっとこれならば彼女の想いも届けられるだろう。当然です。だって二人分の想いを込めているのだから。
さて、確かにこれはトレーナーさんに渡したい、と思ってもおかしくはありません。だって私もそう思ってしまうのだから。ただ今は片付けと他のウマ娘に渡すように分けなければ。
そう思い、また一口食べていく。
今はこのアプフェルクーヘンを楽しむことにしましょう。しっかりと味わい、そして飲み込んでいく。作り終えた後の静かに一人で嗜む時間。食べて欲しい人たちを想いながら、口に運んでいく。
二度、三度運んでも美味しい。きっとこれは他の人たちもそう思ってくれるはず。
これは二人分の愛情が籠っているのだから。