月が真上に昇る時間。窓から差し込む僅かな月明かりが寮の自室を照らしていた。
ベッドに腰掛け、その僅かな月明かりの中でサイドテーブルの一番上の引き出しを開けた。そこには白色のイヤホン。ノイズキャンセリング機能付きのお気に入り。
それをウマ耳にはめ込み、指で軽く押しては詰めていく。外から聞こえてくる虫の鳴き声も、隣で寝ているディザイアさんの寝息も全てが聞こえない。今日のお祈りは無いらしい。
この静謐な時間、それが私という心を満たしてくれた。
次に手を伸ばしたのはカーテン。カーテンを軽く摘まみ、そして手を動かしていけば光が全て遮られた。部屋の中は暗闇へと閉ざされていき、まさに全てが無になった。
ベッドに寝転がり、掛け布団を持ち上げていく。私の肩まで覆わせていき、頭は枕に置いた。重力に逆らわず、マットレスに体を沈み込ませては目を閉じていく。
どくんっ、となる心臓の鼓動。何度も規則的に血液を送る拍動を繰り返している。その音が胸の奥深くから耳へと伝わり、脳を心地よく揺らしている。
その鼓動にすらも身を委ね、呼吸を深く繰り返していく。瞼の裏に映る言葉にできない何かでさえも意識を委ね、最後にはぷつり、と全てが途絶えた。
揺らめく私の意識。全てが淡く、形作られるまでに時間がかかっている。
──これは、夢を見る前の揺らぎね。
全てが宙に浮いており、足元も覚束ない。徐々に私という輪郭が形作られ、そして世界が鮮明になっていく。
今日はどんな夢を見るのだろうか。この間の夢はとある散歩道で私がトレーニングをしていて、その中で一匹の犬が付いてきた。あれは中々に良い夢だった。
最初に鮮明となった世界、それはリビングだった。
私の視界に最初に映ったのはテレビとテーブル。テレビはバラエティ番組を映しており、司会者が何かを話しているが理解ができない。日本語を話しているが、何かの暗号の様にも聞こえた。
この景色は見たことが無い。夢、というのは脳の整理として行われると聞いたことはあるが、それでもこの世界はあまりにも日常過ぎる。私が体験したことないのに、妙に心の安らぐような世界だった。
視界の次は触覚が鮮明となり始めた。私の膝の上には誰かが座っている。重くは無いが、しっかりとした体重はある。更に私は両手をその誰かに回し、床に落ちないようにしている。
ぺちぺち、と何度か頬に触れる柔らかな感触。視線だけがやっと動かせるようになれば、その触れた感触を確かめるように瞳を向けた。
細くて垂直に反りたつようなウマ耳。跳ねるように動くそれは何処かで見たことのある色合いをしていた。
次いで視線は下へ。そこには私と同じ青い髪の色をしている小さなウマ娘だった。そのウマ娘はテレビを見ており、楽しそうに両足を交互に動かしている。
私の視線に気が付いたのか、一度体を跳ねさせながら顔を此方に向けてきた。
その子はとても私に似ていた。片方の目は青色、もう片方は紫だが私よりも深い色だ。目元も凛としているが、柔らかさを感じる。私の小さい頃にしては、妙に違和感があるウマ娘だ。
「ねぇねぇ、お母さん」
その言葉を聞いた時、心臓の鼓動が早くなったように感じた。
「おか……あ、さん?」
聞こえた言葉に私はオウム返しをした。夢の中だというのに、意識が鮮明になっていく。ただ、体は動くことは無くそのウマ娘を抱きしめたままだった。
「……? 変なお母さん」
「あ……ううん、大丈夫よ。どうかした?」
咄嗟に私の口から出た言葉は母親のふりだった。夢の中とはいえ、目の前の小さな子に不信感を抱かせるわけにはいかない。
私の言葉を聞いた後、私の娘と思われるウマ娘は言葉を続けた。
「お母さんって、昔凄いウマ娘だったんだよね?」
「……えぇ、そうね」
「私もお母さんみたいになれるかなぁ……」
私みたいに。スティルさんと争い、そして共に駆け抜けた。私は間違えた道を走り続けようとしていたが、トレーナーさんとエアグルーヴのおかげで正しい道に戻る事ができたのだ。
もし、この子がそんな間違った道へ行こうとするならば、私は止めるべきなのだろう。いや、私だからではない、母親として。
「えぇ、きっとなれるわ。素敵なウマ娘に」
そのウマ娘の頭に手を伸ばしては優しく撫でていく。ウマ耳を地面と平行になるように倒しながら撫で続ければ「えへへ」と娘は嬉しそうに声を弾ませていた。
施設育ちで両親もいない。そんな親もいなかった私が子供を持ち、育児をすることになるとは。親からの愛情を知らぬというのに、その愛情を想像しながら、偽りのそれを娘に与えていく。
皮肉なことだ。愛をいらないと言っておきながら、最終的には享受している。挙句には誰かに愛を与える役目すらも果たしている。
私は自分を自嘲するように鼻で笑ってしまった。その様子に娘は首を傾げて見つめてくる。すぐに首を横に振りながら「なんでもないわ」とだけ告げた。
一つだけ気になる事があった。父親は一体誰なのだろうか。母親が私だという事は分かる。
夢の中とはいえ、私は誰かと愛を育み、子を産んだというのだ。こんな私を愛する人物が果たしているのだろうか。
そんな事を考えているとタイミングよくリビングの扉が開いた。膝の上に乗っていた娘は私から飛び降り「お父さん! おかえりなさい!」と小走りしながら向かっていく。
私も自然と其方に視線を向けていけば、その人物はスーツ姿だった。濃紺で揃えられたスーツ姿、白いカッターシャツが良く映えており何処か見慣れた姿だ。
父親が膝立ちになっては娘を抱き返していく。父親が「ただいま、ちゃんと待てたかい?」と柔らかな声色で話しかけた。
これまた何処かで聞いたことのある声だ。いつも聞いたことある声よりも少々低く、年を取ったことを思わせる。
父親が私の方に表情を向ければ、その既視感の理由が腑に落ちた。
「…………と、トレーナー……さん……?」
「ただいま、アルヴ。懐かしい呼び方をするね?」
彼だ。見間違えるはずがない。私と専属契約を結び、今も共に歩み続けているのだから。
毎日のようにトレーナー室で見かけている。トレーニングもレースも、何処かに出かけるときも見てる顔だ。
現実で見た顔よりも少々老けている。それでも若々しさはあり、今の彼の面影も残していた。
私と父親の会話がよく分かっていないのか、娘が顔を上げては彼の方に向けている。自分だけ分からない話で少々不満げに頬を膨らませては「なんのお話……?」と尋ねた。
「お父さんとお母さんの昔の話だよ」
「そうなんだ……ふぁ……」
大きな欠伸をする娘を見て、私は自然と壁時計に視線が向いた。
その壁時計の針は九時を指していた。娘の反応とトレーナーさんが帰ってきた時間を考えるに今は午後の九時、なのだろう。
「眠たい……」と瞼を何度か擦る娘にトレーナーさんは手を差し伸べては、握りしめていく。寝室へと二人で歩いていくのを私は見送った。
ソファーに座り、私は口元に手を添えた。思考を巡らせて、この夢の世界は一体なんなのか、と問いてみる。
今見ている夢は恐らく私とトレーナーさんが結婚したようだ。そして月日が経ち、娘が産まれては大きくなっている。身長や言葉遣いからしてまだ5、6歳くらいだろう。
よりによって夢で家族を持ち、しかもその相手が彼とは。せめてテレビで見た有名人であればもっと夢だと割り切れたのに。
「……まさか知っている人とは、ね」
リモコンに手を伸ばし、テレビを消していけばそのタイミングで寝室の扉が開いた。トレーナーさんが首元を緩めながら此方へと歩いてくる。
既に彼はジャケットを脱ぎ、ネクタイも外している。カッターシャツの袖を捲り上げてラフな格好になっていた。
「ぐっすり眠ってるよ。もしかして帰ってくるの待ってた?」
そう言いながら、何気なく彼は私の隣に座ってくる。お互いに足が触れ合ってしまう程の近さ。私はその距離がどうにも居心地が悪く、腰を動かして少しだけ距離を取った。
「え、えぇ、そうね。待っていたわ」
夢なのだから素直に答える必要はない。それでも彼に嘘を吐くという事ができず、私は本当にそうであったかのように振る舞った。
夕食は食べた?と聞かれたら、食べたわ、と。
娘は今日もいい子だったか?と聞かれたら、良い子だった、と。
今日一日を体験したわけでもないのに、彼に嘘を吐きたいとは思えなかった。
「それで、アルヴ」
彼が仕切り直すように私の名前を呼んだ。
「なにかしら。その……トレーナーさん」
「……またそれだ。今日はなんというか珍しいね?」
「その……」
私はそれ以上視線を合わせられず、顔を逸らした。夫婦なのだから名前で呼ぶのが普通なのだろう。だけど、今の私は現実世界では高等部。夢の世界の私はトレセン学園を卒業し、大人。
その違いのせいでどうにも名前を呼ぶことはできなかった。名前を知らないわけではない、ただ今この時に彼の本名を呼ぶのは気恥ずかしさがあった。
私が視線を逸らしたままでいると、トレーナーさんは体を前のめりにして私の表情を覗きこんだ。柔らかな表情を浮かべている。夢の世界でも変わらないその表情に、私は逸らすことができなかった。
「悩み事?」
「ちが……いえ、違わないわね」
「相談に乗るよ」
一瞬だけ口を開いて、言葉を発しようとした。
──この世界は、なに?
その言葉は飲み込み、空気を震わせることは無かった。言ってしまえばきっと夢は終わりを迎えてしまう。普段の私ならそれでも構わない、と言っていただろう。
だが、今の私の夫は彼だ。名も知らぬ相手ならば、適当にやり過ごしていたが、そうでないなら話は変わってくる。
「……毒されてきてるわね」
「……? なんの話だ?」
「気にしないで、こっちの話だから」
いや、仮に夢の世界といえど私ならば例えトレーナーさんでもやり過ごせていたはずだ。現実の私と夢の私、その境界が曖昧になり、同化をし始めている。
私とトレーナーさんの半身分の空白。手始めにその空白を埋めてみれば、彼は「ん?」と声を漏らした後に微笑んだ。
「やっぱり、珍しいね」
「そうかしら?」
「普段アルヴから来る事はないからね。いつもの君なら恥ずかしがるし」
失敗だった。夢の中の私は、妻となっても近づくことは無かったらしい。
もう一度体を離そうか、と考えてしまったがそれ以上は止めた。
私の脚とトレーナーさんの脚。お互いにくっついて、夢だというのにやけに体温が暖かく感じる。
夢にしては意識や感覚が余りにもはっきりしている。明晰夢、というものだろうか。
夢の中で意識を持って、そして意図的に行動することができる。挙句には夢を書き換えることも、思い通りにすることも可能だと聞いたことがある。
いや、思い通りになるのであればこんな夢は見ないはず。明晰夢ではないと私は心の中で決めつけた。
「それで、悩みって?」
気を取り直すようにトレーナーさんは私に微笑んだ。
「大した悩みではないわ」
「そう言われても、気になるものは気になるけど」
いや、どうせ夢なのだ。夢ならば、聞いてみてもいいかもしれない。
私と彼がどうやって結ばれ、そしてここまで至ったのかを。
「そうね……なんとなく、昔を思い出したくて」
「昔って……俺と君が契約してた頃?」
「それより、少しあとね。どうしてこういう関係になったのか」
彼は「あぁ」と呟きながら、顎に手を添えては顔を上に向けた。次には「なるほど」と何かを納得したあと、私と視線を合わせた。
「なんで今になって?」
「なんとなくよ」
本音なんて答えられるはずがない。
貴方の妻になったけど、この世界は夢だから。どうせならこの関係の経緯を知りたいから教えて、なんて口が裂けても言えるはずがない。
小さく鼻を鳴らしながら、誤魔化すようにしていれば「なんとなく、ね」と彼も同じように鼻を鳴らした。
トレーナーさんはソファーに体を預けながら、ゆっくりと口を開き始めた。
「君とこうなったのは……アルヴが大学生の頃だね」
大学生となると、私が卒業したあとの話。トレセン学園を卒業したすぐ、と言われなかった事に胸を撫で下ろした。
夢の世界の私は進学を選んだ。今の私はまだ将来の夢も、何を目指すのかを決まっていない。既に未来が決まっているこの世界、少しだけ羨ましく思った。
「アルヴが卒業してから、俺もチームトレーナーになってさ。たまに君にOBとして来てもらったり、遊びに行ったりしてた時に君から言われたんだよ」
「……私は何を言ったの?」
「覚えてないのか?」
覚えてるはずがない。そもそも経験してないのだから。
私は首を縦に振っては頷いていく。はは、と苦笑いを浮かべる彼。妻に覚えていないと言われてしまえば、それは傷付くかもしれない。彼に不憫なことをさせてしまった。
表情に出してしまわないように「それで?」と返しながら、胸の中で反省した。
「家族をもたないのかって」
「私から?」
「そう、君から」
彼に聞いた理由はなんとなく分かるかもしれない。瞼を閉じ、夢の世界の私に問いかけてみた。
勿論、そんな事をしても答えは返ってくる筈もない。同化をしているのだから当然だ。だから、私は夢の自分を決めつけていく。
──貴方は、心配だったのね。
きっと私が卒業するまで歩み寄ってくれ、それこそ二人三脚という言葉が似合う程だったのだろう。私に構う時間が長くなれば、トレーナーさん自身の時間は少なくなる。
私が卒業した時には既にいい年なはずだ。彼の同年代であれば、恋人どころか所帯を持っていてもおかしくないはず。
私の人生に入り込みすぎれば、彼の人生が壊れてしまう。チームトレーナーとなればより忙しくなる。私という他者にまで手を差し伸べれば、彼自身の時間は何処へ消え去ってしまうのだろうか。
私は閉じていた瞼を開けて、トレーナーさんに向けた。
「……それで、なんて答えたの?」
「あー……言わなきゃダメか?」
「聞きたいもの、言って」
溜め息を吐きながら、彼は両手で顔を覆った。何度か両手で顔を擦りつけるようにしては、私から顔を逸らしていく。数秒の無言、視線だけ私の方に向いていけば重々しく口を開いた。
「君の隣が心地良いから、これからも一緒にいたいって」
それを告げた後に彼はまた顔を両手で覆っていく。両手の向こうからはくぐもった声で「あー」と言った言葉にならない何かを放っていた。
予想外の言葉だった。その言葉に聞き返そうかと考えたが、聞き返してしまえばもっと不憫な思いをさせてしまう。私は体ごと横に向けては、口元を手で覆った。
「ほら……お互いに恥ずかしいだけだろ」
「そう、ね……」
それ以上は言葉を発することなく、ただ無言の時間だった。
私は彼に冷たくしていた。なのに、返ってきたのはまさかの言葉だ。もしかしてトレーナーさんは変な人なのだろうか。
いえ、きっとそうなはず。そうでなければここまで一緒に歩むはずがないのだから。言葉を飲み込み、何度か頷いて咀嚼を繰り返せば腑に落ちた。
口から息を大きく吐きながら、トレーナーさんに視線を向けようと頭に何かが乗った。
私は体を動かすことができず、ただじっとしている。
その重みがゆっくりと頭頂部から側頭部へ流れ落ちた。重みが落ち切れば、また頭頂部に乗せられ、同じ動作を繰り返された。
私は目を閉じて、その重みを享受した。
「そのあとは知っての通りだよ。同棲して、アルヴが大学を卒業した後に結婚して……昔のことが聞きたかったのが悩み?」
トレーナーさんが話し続けている最中も私の頭を撫でてくれている。現役中には一度も撫でてくれていない。夢の世界から覚めたら、強請っても面白いかもしれない。
存外に悪くないと思ってしまった。本当にこの夢は、私を毒している。
「えぇ、そうね。悩みね」
「昔の……どんな悩み?」
「出会えたことに対して、かしら」
彼と出会えてなければ、こんなにも絆されることは無かった。硬く冷たい氷が今となっては融けてしまい、そして液体へと変わっている。
夢だから。そう割り切ろうとしても、割り切れない私がいる。だから、これは出会ってしまったことに、私をスカウトしたトレーナーさんが悪い。
「酷い悩みだ」
その言葉と共に彼の手が私の頭から離れた。私はその手の行く先を追うように瞳を動かしていき、体ごと彼に向けた。彼は私の方へ体ごと向けており、頬を緩ませていた。
お互いの視線が絡み合っていく。今度は逸らさずに見つめ続けた。
「私が昔の呼び方をしてどう思った?」
「懐かしいなって。昔のアルヴのようで、でも姿は違って。ちょっとだけ変な感じかな」
夢のトレーナーさんにとって私は妻であり、そして長い時間を一緒に過ごしたのだろう。現実の私にとっても夢の彼は現実と離れており、違和感がある。
担当ウマ娘から恋人へ。そして妻へ私は至った。ならば、この夢では妻として振る舞うほうが合理的なはず。
心臓の拍動は落ち着かないのに、妙に頭の中は冷静だった。彼を見つめ、その瞳に反射している私。その私の表情は見えなかった。
「名前……呼んでもいいかしら」
「好きなだけ」
その言葉を聞いたと同時に私は口を開いた。未だ呼んだことのないトレーナーさんの名前。喉の奥から呼び出すようにせり上げれば、眩暈がした。
視界が揺らぎ、体の感覚が離れていく。目の前に広がっていた世界に亀裂が入り、色が崩れ始めた。手を伸ばそうとしても、伸びることは無い。
座っているのか、立っているのか、朧げな感覚に吐き気を覚える。息もできないほどに苦しく、もがくように手足を動かしていると、また視界が開けた。
まず目に入ったのは白い天井だった。体の感覚も戻っており、私は仰向けで寝そべっている。息を少しだけ乱れていて、整えるように大きく深呼吸をした。
「……はぁ」
息を漏らしながら体を起こそうとし、ウマ耳に手を伸ばした。だが、そこにはイヤホンが入っていなかった。枕元に顔を向けると二つの白いイヤホン。
眠っている間に外れてしまったらしい。お気に入りではあるけれど、たまにこうやって外れてしまうのが良くない。買い換えようか、そんな事を考えていると「おはようございます」と声が聞こえてきた。
「おはよう、ディザイアさ……貴方、何をしているの?」
「何って……アルヴさんへのお祈りですが……?」
私がその声の主に視線を向けていく。赤毛の長髪に、彼女のトレードマークでもある聖女のヘッドドレス。大きなアホ毛が左右に揺れながら何か問題でも、という表情で彼女は首を傾げた。
彼女は両手を胸の前で指を絡めて握りしめている。その手は解かれる事がなく、握りしめ続けられていた。
「本日のお祈りはいかがでしたか?」
毎日のように祈られることがあったため、それを遮るために色々と手を施していた。寝るまでに勉強をしていたり、それでも祈りを捧げようとするときは美容パックを彼女に付けていた。
何故か付けると黙り込むため、よく分からないがしている。
そういえば、と思い返してみれば今日はやけに静かだった。寝る前のお祈りも無かったのだ。
ディザイアさんの下瞼、そこはいつもより隈が濃くなっていた。前々から隈はあったけれど、今日はやけに酷い。
「……もしかして」
「何のことでしょうか」
何も知らない、とでも言いたいのか、ただ笑顔を浮かべている彼女。ただ見つめながら、問いただそうと思うも無垢な瞳で見つめ返されると、何も言えなくなった。
「それで、本日の夢はいかがでしたか?」
「……なんで夢を見たことが分かるのかしら」
「アルヴさんが寝ている間、頬が緩んでいましたから」
「──はっ?」
自分の頬に片手を当ててみるが、引き締まっている。
あの夢が私にとって良い夢なはずがない。良い夢ならば、もっと他の夢になるはず。トレーニングをして勝利を掴み、犬と触れ合って、そんな夢だ。
──じゃあ、なんであの夢を受け入れたの?
言いようのない言葉が聞こえた気がした。夢の私が語り掛けてくるようにも聞こえ、すぐに首を左右に振ってはかき消した。
体を起こしてはベッドから降りていく。スリッパを履いていき、棚からタオルを取り出してはディザイアさんに体を向けた。
「もう、祈りは要らないから」
「では……!きっととても良い夢だったのでしょうね……!」
「ちがっ……はぁ、もういいわ」
覚束ない足取りで部屋から出ていく最中「本日も聖女に近づけました……っ!」と声が聞こえてきた。扉を閉めては洗面所へ向かっていく。
最悪の目覚め、すぐに早朝のトレーニングをして、汗を流そう。そうすれば忘れることができるはず。寮の廊下は静かで、起きているウマ娘も僅かしかいない。すれ違う時に会釈をしながら通り過ぎれば、カレンダーが目に入った。
今日は火曜日、トレセン学園の授業日であり、そしてトレーナーさんの指導がある日だ。そのカレンダーを見つめながら、また溜め息を吐いてしまった
「……どんな顔をして会えばいいのよ」
今日一日、いや暫くは最悪の日が続く。
また歩き出した脚が軽いことすらも最悪に思えてしまった。