胸元の大きな白いリボン。濃い色や淡い色の紫を織り交ぜた秋冬用の制服。軽く体を捻って動かしていけば、ふわりと広がるスカート。
今日の着こなしはばっちり。肩に提げている学生鞄から手鏡を取り出し、髪の毛の確認。前髪も問題なし。手鏡をしまえば、今度は携帯を取り出して時間を確認した。
時刻は十三時二十五分。予定の時間まであと五分ある。ふぅ、と息を吐きながらトレセン学園の校門に背を預けた。顔を上に向ければ、青々とした晴れ空。
十月中旬、この時期は時雨と呼ばれる雨が降ると言われているが、そんな事はお構いなしというような晴天だ。
「お兄ちゃん……本当に着てくれるかな……」
まだ来てもいない人物の事を思いながら、私は空へと呟いた。
私よりも年上の幼馴染。トレーナー室で私が我儘を言った時の彼の表情がどうにも忘れられない。困ったように眉を下げて、でも何処か嬉しそうに瞳は笑っている。そんな表情でさえも、胸を躍らせてしまう私。
もう一度携帯を取り出し、時間を確認した。時刻は二十六分。あれから一分しか経っていない。早く来ないかな、と視線をトレーナー寮の方に向けていく。
向けた先の道路、そこには一人の黒い学ラン姿にマスクをしている男性が小走りで此方へ向かってきている。
学ラン姿なのに学生には見えない、妙に大人びていた。
私の姿を見つけると、その男性は自らの髪を手で何度か掻き乱しながら、近づいてきた。私の正面まで来れば、眉を下げている。
マスク越しだというのに気恥ずかしそうな表情をしているのが一目で分かった。
「本当に……着てくれたんだ……」
「ブエナが言ったんだから。なんだか懐かしい気分だよ」
私の幼馴染でお兄ちゃん。トレーナーさんの懐かしい姿だ。彼は窮屈そうに首元を手を差し込んで緩めていた。
私の隣に立ち、二人で歩いたのは近くのバス停。数分もしない内にバスが来て「行こうか、ブエナ」と彼は声をかけてくれた。
「……うんっ」と声を弾ませて頷きながら、バスに乗り込んでいく。バスの中は殆ど人が乗っておらず、私とトレーナーさんは二人用の席に座った。
お互いの肩の距離、少しだけ離れているけれど、それを埋めるように彼の方に体を寄せた。
今日は、トレーナーさんとお出かけをする日。でも、いつもと違うお出かけ。
こうなった事を私は思い返していく。彼に無理をさせてしまったかもしれない。それでも応えてくれる彼の気持ちが嬉しかった。
◇◇
とあるドラマがトレセン学園のウマ娘達の間で流行っていた。内容としては至極単純。同年代のウマ娘と男の子が恋愛をし、二人で仲睦まじく過ごすというものだ。
クラスでもその話題で持ちきりになっていて、雑談となれば次の放送が、とか。あの子とあの子のこの場面が尊い、とか。そんな話で溢れている。
私も例に漏れず、そのドラマを見ていた。そして数日前のことだ。
そのドラマで制服デートのシーンがあった。学校帰りに二人でショッピングセンターに行っては、買い物をしたり、カフェでのんびりしているもの。私はそのシーンを見ていて、思ったことがあった。
──お兄ちゃんとしてみたい。
私と彼は年が離れている。仕方のない事だけれど、彼と制服デートというのはしたことが無い。
休日にお出かけとなればお互いに私服へ着替えて、仮に放課後に出かけるとなれば私は制服でトレーナーさんはスーツ姿。デート、というよりは付き添いの先生と生徒のようなもの。
もし、私と彼が同年代だったら、そんな事を考えてしまえばやはり欲求というのは湧き出てしまう。
だから、私はトレーナーさんを誘おうと思った。
思ったのだけれど。
「どうしよう……」
トレーナー室のソファーに座りながら、私はその呟きと共に大きな溜息を吐いた。外では小雨が降っており、窓ガラスへ当たるたびに小気味よく音を鳴らしていた。
今日のトレーニングは中止になり、私は時間を潰すために携帯でSNSを開いた。SNSでは公式アカウントがドラマのシーンを切り抜いた動画を出しており、それが携帯の画面に映されている。
トレーナーさんはパソコンの前でキーボードを雨音と共に鳴らしており、私の方に目線だけ向けていた。
「どうしたの、ブエナ」
柔らかく笑みを浮かべながら告げてくるトレーナーさん。私はその声に顔を向けた。お互いの視線が合えば、小首を傾げて不思議そうにする彼の表情は私の胸に小さなもやり、としたものが浮かんだ。
これは私の願望でトレーナーさんにとって迷惑ではないか、と考えてしまった。彼にとって制服を着るというのはコスプレのようなものだ。その服装で道を歩くとなれば変な目で見られてしまう可能性だってありえてしまう。
それだけじゃない、トレーナーさんが嫌がることだってある。普通のお出かけならば彼は二つ返事で応えてくれる。だけど、これは普通ではないお出かけだ。
私はそれ以上、彼と視線を合わせることができずに逸らしてしまった。
「な、なんでもないよ。トレーナーさん」
「本当に?」
「うん、本当に」
今度は彼と目線を合わせてしっかりと頷いた。
「そっか」とトレーナーさんが応えれば彼の視線はまたディスプレイへと向けられた。先程まで見せていた柔らかな表情は消えていき、何かを考え込む様に口元に指を添えていた。
私はソファーに体を預けていき、また携帯に視線を移していく。携帯は既にドラマの切り抜き映像が終わっており、次の映像が映されていた。
画面を指でスワイプしていき、もう一度先程の画面へ戻していく。二人の男女が手を繋ぎながら、プラスチックのタンブラーを男の子が持っている。タンブラーからはストローが伸びており、男の子が口を付けた後、ウマ娘の子が飲みたそうにしていた。
男の子が彼女の口元へストローを近づければ嬉しそうに飲み始めていく。その映像を見ながら、私は二度目の溜め息を吐いた。
「それ、人気のやつだよね?」
「えっ!? と、トレーナーさん!?」
いつの間にかトレーナーさんはソファーの背もたれに両腕を乗せて、携帯の画面を覗いていた。私は素っ頓狂な声を挙げてしまい、それに彼は喉を鳴らすように笑っている。気恥ずかしさを隠すように、私は前髪を指で弄り始めた。
「学園内でも話題になってるの、よく聞くよ」
「そ、そうだよね。うん、すっごく今人気で……私も見てるんだ」
「俺も見てるよ。前の話、良かったよね。ああいうの憧れるなぁ」
「……そう、なんだ」
憧れる、という言葉が脳内で反芻した。トレーナーさんもしてみたいと思っている。そうであれば、むしろ誘ってみるべきなのではないか。
ぐるぐると脳内でどう誘うかの言葉が巡り続けている。彼に迷惑をかけるのでは、という考えはとうに消え去っていた。
「ブエナ?」
トレーナーさんの言葉に視線をあげ、ソファーから私は立ち上がった。大きく深呼吸をしては「トレーナーさん」と名前を呼んだ。
「その、私としてみない……?」
「何を?」
「制服……デート……」
言葉尻が小さくなってしまった。私の視線はトレーナーさんからソファーへと向けてしまう。頬が熱く、今すぐにでも顔を覆ってこの場から立ち去ってしまいたい。顔を上げて言葉を紡ごうとすれば、「いいよ」と予想外の言葉が返ってきた。
私は呆気に取られてしまい、口を小さく開けてしまう。ゆっくりと開いた口を閉じては、一度生唾を飲み込んでいく。
「えっ……いいの?」
「うん。というか、どうしてブエナが驚くんだ」
「だ、だって……トレーナーさん……嫌かなって」
「嫌ではないよ。恥ずかしい、ってのはあるけど……」
どこか照れくさそうに頬を赤く染めている彼。その赤みを誤魔化すように人差し指で頬を掻いていた。
私の心臓は跳ね上がり、思考が妙に冴え渡っていく。いつの日にしようか、どこへ行こうか。そういえば彼の制服はまだ着ることがそもそもできるのだろうか。
制服デート、といえば放課後にするのが普通なはず。だって、ドラマでは放課後にしていたのだから。わざわざ学校の無い日に制服を着て出かける、というのも変な話。
あれやこれや、と指折りながら考えていれば、トレーナーさんの方から口を開いた。
「いつしようか?」
「今週の土曜日! なんて、どうかな?」
少しだけ食い気味に答えてしまった。また頬が熱い。
「土曜日っていうと……たしか午前だけトレーニングの日か」
「そのトレーニングが終わって、午後から集合はどう? トレセン学園の校門前で」
「……俺は制服に着替えて?」
「うん……」
「まぁ、そうなるか……」
流石に学生服でトレセン学園へ入るのは色々と彼への迷惑となってしまう。それだけじゃない、休日でもトレーニングをしているウマ娘はいる。もし、見つかってしまえば、それこそ不審者として通報もされかねない。
その不審者の正体が学生服姿のトレーナーさんとバレてしまえば、彼も気まずいと思う。だから、それは避けるべき。
とはいえ、校門前で待って貰うのも中々のハードルだ。集合時間よりも早く私がその場にいなければ。
「じゃあ、お昼ご飯を食べて集合かな?」
「そうだね。午後一時半でいい?」
「うん、大丈夫」
駄目だ、私の尻尾が揺れ過ぎてる。
◇◇
そうして、私とトレーナーさんが向かったのはショッピングセンター。
トレセン学園からショッピングセンターまで数十分ほどかかる。二つ目のバス停に止まったところで、バスの席が埋まり始めた。
私とトレーナーさんの肩は既に隙間が無いほどにくっついており、私の視線は彼のマスクへ向けた。
「それで、どうしてマスクをしているの?」
トレーナーさんが私に視線を向ければ、眉を下げては私のウマ耳に顔を近づけた。周囲に聞こえない様に小さな声で、マスクの奥でくぐもった声が聞こえてきた。
「二つ、理由が合ってね」
「どんな?」
彼の息を吸う音が聞こえる。ウマ耳を両方とも彼の方に倒して、彼の声を聞き逃さないようにした。
「一つは同期とかに会った時、上手く誤魔化したりするよう」
「……あぁ」
そう言われてしまえば、私は吐息にも似た声を漏らした。次には苦笑いも添えて。
マスクを付けた所で果たして誤魔化すことができるのだろうか、という考えを私は他所に置いて「二つ目は?」と尋ねた。
「……コスプレに見えないように」
「なにそれっ」
トレーナーさんからの言葉を聞いた瞬間に私は思わず吹き出しそうになった。
「いやいや、笑い事じゃないよ」
「私からしたら笑い事だよ」
私は口元に手を当てて笑っていく。彼はそれに対して、頬に人差し指を当ててはゆっくりと掻き始めた。
彼はもう立派な社会人だ。他の人の視線から逃れるための唯一の方法なのかもしれない。
「俺も大人の仲間入りだからさ。マスクをすればこう……勘違いしてくれないかなって」
「高校生とかに?」
「そう」
マスクで隠れていない目元、そこに視線を向ければまだあの頃の面影が残っている。確かに目元だけなら多少は幼く見えるかもしれないが、それでもやっぱりあの頃の彼よりも大人びている。
私を見つめながら首を傾げる彼のその様子は、何処か自信があるように見えてしまった。
「ふふっ」
「あ、笑った」
「だって、お兄ちゃんがそんな風に考えてると思わなくて」
「これでも真剣だよ?」
「はーい、分かってます」
二人で雑談を交えながら、バスに揺らされ続けた。数分もすれば、バスが着いた先はショッピングセンター。
席から立ち上がり、二人でバスを降りていく。私達に続くように他の人たちも降りていけば、ショッピングセンターの中へと入っていった。
ショッピングセンターの中は家族連れや友人同士、恋人同士にも見える人たちで溢れ返っていた。私達は一緒にその人の間を縫うように歩いていき、目的の場所へ向かっていく。
その場所はアパレルショップ。私とトレーナーさんで一緒に買い物をすることはあるけれど、こうやって服を買うことは殆ど無い。大概は同期の子達と出かけることが多いのだ。ジェンティルさんと一緒に服を見に行ったことはあるけれど、高級路線のものばかりで私は目が回ってしまった。
二階へ足を運べば、アパレルショップが連なるように並んでいた。個人店にチェーン店、メンズやレディース。とはいえ、私自身がお気に入りのブランドがあるわけでもなく、歩きながら横目で眺めていた。
どの店もマネキンに服を着させ、ポーズを取っている。トレーナーさんも私の歩く速さに合わせてくれ、その中で一つの服が目に留まった。
マネキンに着せられているベージュのニットセーター、それに近づいては私は触り始めた。手に伝わってくる柔らかな感触、指で摘まんで何度か擦るように動かした。
手触り、シンプルなデザインのニットセーター。お店の中を見回せば、私の好きそうな色合いで溢れてる。
「ここにしよ、お兄ちゃん」
店の前で丁寧に折り畳まれたニットセーターも手に取って、隣で見ていた彼の腕を引いては店内へ入った。
店の奥側には秋物の服がまとめられており、店内の殆どは冬物で占められている。一つずつ飾られている服を見ながら、私は時折手に取って広げてみたりした。鏡の前に立ち、さっき手に取ったニットセーター。それを首元に当てながらうーん、と唸った。
このニットセーターに合わせるものなら、何が良いだろうか。寮のタンスに入れてある私の服を思い出しながら、あれやこれやを考えてみる。
「これ、どうかな?」
なんとなく気になって私はニットセーターを首元に当てたまま彼の方に視線を向けた。
「良いんじゃないか? 似合ってるよ」
「本当? 変じゃない?」
「変じゃないよ。というかブエナなら何でも似合うし……」
「そ、そっか」とだけ告げては私は鏡へ視線を戻していく。私の頬が赤くなり始めているのが見えれば、鏡の前から体を退けた。
こういうのは試しに着てみるのが一番良いかもしれない。ニットセーター以外にも手に取っては「ちょっと着てみるね」とだけ告げて、試着室へ向かった。
彼も一緒に付いてきて、私が試着室に入るのを見届けようとしている。なんだかむず痒い。
「えぇっと……服、見なくていいの?」
「俺は元々付き合いに来ただけだから、ブエナが楽しいならそれでいいよ」
「むぅ……そっか」
尻尾が左右に揺れた。それはそれで寂しいけれど、仕方ないかもしれない。
試着室のカーテンを開けていき、ローファーを脱いで中へと入っていく。狭い室内で制服のボタンを外していると試着室の外から声が聞こえてきた。
「すみません、今の彼女さんでしょうか?」
「えっ……? あー……」
ボタンを外す手が止まった。トレーナーさんの反応に困っている声と女性の声。きっと彼は店員さんに話しかけられているのだろう。
声の聞こえる方にウマ耳を向けていき、音を逃さない様にした。
「あ、失礼いたしました。もしかしてご家族で……?」
「あはは、まぁ、そんな所です」
私は急いでセーラー服を脱いでは、その流れでスカートも脱ぎ始めた。
本当に恋人か、と聞かれてしまえばそれは違うけども、それ以上に家族と思われてしまうのはもっと嫌。白いシャツを着ては、上からニットセーターを羽織る。下は濃いブラウンのフレアスカート。私の膝下まで伸びたものだ。
「お兄さんは何か見られるご予定は?」
「今日は付き添いなんですよ」
「あぁ! そうだったんですね。お兄さんが妹想いな方できっと妹さんも幸せですよ~」
「そ、そうですかね?」
まだ話してる。それどころか本当に兄妹になりつつある。いや、なってるかも。
試着室の鏡の前で何度か体を捻り、変な所が無いかを見ていく。スカートも膝下でふわりと舞っていき、色合いも問題なし。
「うん、いい感じ」と私は呟いた後にカーテンを勢いよく開けた。
「あ、ブエ──」
トレーナーさんの言葉が言い終わる前に私は彼の腕に自分の両腕を絡めていく。しっかりと引き寄せ、私の体に密着させ、女性の店員さんに視線を向けた。
「この人は、私の……」
それ以上の言葉が喉の奥で引っかかってしまった。店員さんに向けた視線を右往左往しながら、最後には「妹です……」と力のない言葉で返事をした。
「妹さん、とても似合っていますよ」
「ほ、本当ですか?」
「えぇ、本当に。ねぇ、そう思いませんか?」
店員さんがトレーナーさんに問いかけるように首を傾げた。トレーナーさんは私に絡められた腕を離すことは無く、顔ごと此方に向けては困ったように眉を下げていた。
「離れてくれないと……全部見えないかな」
「あ、そ、そうだよね! ごめんね」
私は両腕を離しては、数歩歩いて彼から距離を取った。私の両腕に残った彼の温もり。その温もりが名残惜しくも感じる。
私は両腕を自分の背中に回し、脚を肩幅まで広げて軽くポーズを取った。体を軽く前屈みにするのも添えた。
「うん、良く似合ってるよ。可愛い」
「……そ、そっか」
尻尾が左右に大きく振れて、ウマ耳も自然とぴこぴこと跳ねてしまう。
『可愛い』という言葉が何度も脳内で繰り返して再生された。店内は暖房が付けられていないのに、妙に体が熱い。きっとこのニットセーターのせいだ。
「これ、買います」
「ありがとうございます!」
店員さんにそれだけを告げて、私は試着室へと戻っていった。カーテンを閉めて、トレーナーさんから見えない様にすれば、その場で両膝を抱えて蹲った。
鏡に映る私の姿。顔はりんごのように真っ赤になっていて、唇も強く結ばれている。それ以上見ることができずに鏡から視線を外しては、ニットセーターを脱ぎ始めた。ニットセーターを脱いでも、まだ体は熱かった。
◇◇
「お買い上げありがとうございました」
トレーナーさんの右手には私が買った服が入っている白い大きな袋。歩くたびにがさがさ、と袋が音を鳴らしている。
結局あの後に他の服も着ては流されるがままに色々と買ってしまった。買い過ぎてしまった事に反省。
お店には一時間ほどいた。まだまだ二人で居られる時間は長い。店の外に出ればより人が集まっており、私ははぐれてしまわないように彼の左手側に体を寄せた。半身分の空白、これでも充分過ぎる程だ。
「次は何処に行こうか」
「うーん……そうだね、次は……」
ドラマの事を思い返しながら、私達はあてもなく脚を進めた。
この後はカフェで一緒にのんびりするのもいいかもしれない。待って、確かゲームセンターに行って二人で遊んでいたのもあった。もう少し買い物をしてもいいかも。二人だけで共有できる何か、なんて。
そんな事を考えながら、脚を進め続けているとトレーナーさんに突然腕を掴まれた。
「ごめん、こっち来て」
「えっ……えっ!?」
彼に連れられて向かった先は隣の雑貨屋さん。小物が多く取り揃えられていて、可愛らしい絵柄の動物や、ハニワの形をした置物まで。
天井にも何かが吊り下げられており、少しだけ不気味という言葉が似合っていた。
店の通路も狭く、二人で横並びに通ろうとすれば相当身を寄せ合わなければいけないほどだ。そこに脚を進めてはすぐに曲がり角で、私はトレーナーさんに強く抱きしめられた。
私は彼の胸元に顔を押し付けられ、何がなんだか分からない。頬に伝わる心臓の鼓動だけがやけに煩かった。
全身が温もりに包まれ、私と彼の体温の境目が分からなくなるほどに。私の両手は自分の胸元に添えて、少しでも空白を空けようとした。
「おにい……ちゃん?」
私は顔を挙げていき、彼の表情を見つめた。しきりに彼は店の外を眺めており、明らかにその表情は何かを警戒しているものだ。数十秒程経てば、トレーナーさんは大きな溜息を吐いて、私の背中に回されていた温もりが無くなった。
「ごめん、ブエナ。いきなりで」
「う、ううん。大丈夫。でも、どうしたの?」
「それがその……」
口元を何度か開けては飲み込んだ後に、小さく「知り合いがいて……」と重々しそうに口を開いた。
「もしかして、同期の?」
「あぁ、そうなんだ。だから、さすがにまずいと思って」
「そ、そっか。そうなんだ」
私は彼から離れることなく、両手が彼の胸元付近を彷徨っていた。この手の行方はどうしたらよいだろうか、それ以上は何かをするわけでもなく、私の体へと戻してしまった。
店内は静かで、ピアノの旋律が聞こえてくる。だけど、それ以上に私の心臓の鼓動が煩かった。さっきの彼の鼓動よりも数倍と言っても良いほどだ。
「ブエナ?」
トレーナーさんに名前を呼ばれると私はすぐに顔を挙げた。お互いの視線が絡み合い、彼の瞳に吸い込まれそうになってしまう。それ以上見ることができなくて、私は合わせずに「なんでもないよ」とだけ告げた。
「行こうか」
その声が聞こえれば、私は脚を前へ踏み出そうとした。だけど、脚が進まなかった。
あんな風に抱きしめられたのはいつぶりだろうか。もうこの年になってして貰うことは無かった。当たり前だからこそ、ちょっとだけ寂しい。
「……ブエナ?」
二回目の呼ぶ声で私はトレーナーさんと視線が合った。
「お兄ちゃんはさ……私のこと、どう思う?」
「どうって、つまり?」
私の事を妹のように扱っている。だけど、さっきまで抱きしめてくれた腕の力強さは本当にそれだけなんだろうか。
こうやって一緒に制服を着て、デートもしてくれる。そうでなければ『可愛い』なんて言ってくれないはず。
私だけずっとどきどきして、でも彼はしていない。今まで私が感じていたのは、もしかして全部勘違いなんだろうかって思ってしまうほどだ。
「こうやって出かけるの、私は好きだよ」
「俺もだよ」
「じゃあ……お兄ちゃんは私のこと、本当に妹だって思ってる?」
トレーナーさんの目が一瞬だけ見開かれた。あー、という言葉と共にマスク越しの頬に指を当てては、何度か掻き始めた。
照れくさそうにするその仕草が何処か嘘っぽくて、私の胸の奥でずくんっ、と痛んだ。
嫌な事を聞いてしまった。聞かなければよかったのに、どうして聞いてしまったのだろう。
「変な事聞いてごめんね、行こっか」とだけ告げて、私は隣を通り過ぎようとした。トレーナーさんの横を通る瞬間に私の手が彼に掴まれた。
「妹だって思ってないよ」
その声と共に私の手が彼の胸元に当てられた。その手を跳ね返すほどに鼓動が伝わっており、私と同じくらい早かった。
「本当に妹だって思ってるなら、隠れてないし……それに可愛いなんて言わないよ」
「っ、ほん、とうに?」
「本当だ。これでも分からないかな……?」
どくん、どくんと彼の鼓動が伝わり続けている。私はその手を離すことができずに、ただ身を任せていた。
私の心臓の鼓動も早くなっている。自分の心臓に手を当てていないのに、彼と共鳴するように鼓動していた。
それだけなのに、鼓動が早いだけで胸が締め付けられる。でも、この締め付けは苦しくなくて、心の底から湧き上がるようなものだった。
「まだまだ楽しもう、ブエナ」
「……うん」
私はトレーナーさんの胸元から手を離していき、一緒にお店を出た。人の波が途切れることなく続いており、その波に逆らわないように二人で歩き始めた。
今度は肩の距離を近づけて、肩同士がくっついてしまう。学ランの袖に手を近づけては、そっと摘まんだ。
「近くない?」
「もう、妹だって思われたくないから」
それだけを告げれば、私は彼と横並びで歩いていく。
あ、そういえばさっきの雑貨屋さんで何も買ってない。あれだけ滞在したのに何も買わないのは変な居心地の悪さがある。
指に力を入れては、何度か袖を引っ張っては「さっきの雑貨屋さんで何か買わない?」と告げれば「いいよ」と彼は返してくれた。
反対側を向いて、今度は人の流れに逆らって歩いていく。はぐれてしまわないように通路の隅へ寄り、摘まんだ指は離さなかった。