七〇センチ四方のレジャーシートを二つ。ヘッドライトも二つ。方位磁針が付いた腕時計に防寒用のひざ掛けを一つ。温かい飲み物の入ったタンブラーを二つ。手触りが少しだけ気に入っている、淡いブルーのこぶりなクッションを一つ。
スマートフォンは置いていく。煩いのも、眩しいのも今日はいらない。
必要な荷物をリュックに詰めて、いつもの天体観測へ向かう。三〇日に一度だけ、月が見えなくなるその日に、私はあの子を感じるために高台へ行く。
私だけの秘密の場所。険しい山道を登っていき、その山道を登り切れば、周囲には空を邪魔するものは何一つない。
町の中で聞こえる人々の喧騒も、車のエンジン音も何もかもここでは聞こえない。唯一聞こえてくるのは、風によって木々の葉がざわめく音と虫の合唱。
いや、秘密というには少々違うかもしれない。もう知ってしまった人がいるから。
「アヤベ、あとどれくらいで着くんだ?」
「もう少しよ、頑張って」
「これ……相当だな……」
「だから言ったのに」
私は背後を振り返り、ヘッドライトでその人物を照らしていく。私と契約を結んだトレーナーさんであり、そして今は両手を膝の上に置いて肩で息をしている。
すぐに彼は顔を空に向けていき「よしっ」と呟いた後、脚を進め始めた。彼が私よりも数歩先を行けば、私も続くように脚を進めていく。
あと数分で着くのだ。トレーナーさんの体力が持てばそれでいい。持たなかったら、その時は引きずってでも連れて行こう。元々彼が来たいと言っていたのだから。
それに──
「アヤベ、流星群まであと二〇分だって」
「そうね、急がないと」
今日は天体観測。それでも、いつもと違う。
新月の空、月の明かりが一切照らされず、星々の明かりの中に一筋の閃光が描かれる日だ。
◇◇
山道を登り切れば、そこは木々が生い茂っていなかった。木々が切り取られたかのように円形の広場、それだけがそこにある。
広場といっても遊具がある訳でもなく、かといって外灯もない。更にはベンチのような座るものもない。地面には草木が生えており、たったそれだけの場所だった。
「ここ?」
「えぇ、ここよ」
「君がいつも来る場所も……」
「ここよ」
「へぇ……」
トレーナーさんが広場を歩き回っていき、何度か脚で草木を踏み分けていく。数歩進んだ後、彼の脚が止まった。
その場所は私がいつも空を見上げている時に座る場所だった。
「何処で空を見てるの?」
「今、トレーナーさんのいる所よ」
トレーナーさんが地面に視線を下ろしては「偶然にしてはびっくりだね」と返したあと、一歩だけ左にずれた。
「そうね」それだけを私は返していき、リュックからレジャーシートを二つ取り出しては広げていく。
レジャーシートの間に僅かな隙間だけを開けていく。レジャーシートの上に重ねるようにクッションも置いた。
彼も同じようにレジャーシートの上にクッションを置いた。色は淡いブルー。私のクッションよりも一回り大きいものだった。
「それ、買ったの?」
「そう。アヤベ色」
「……は?」
「ほら、アヤベってなんとなく青のイメージがあるから。勝負服もそうだけど」
「……それでその色を買ったの?」
「そうだよ。えっと、変だったかな」
私は小さく口を開けたまま、トレーナーさんを見つめ続けた。変ね、それだけを伝えようと思ったが口には出さずに心へ留めておいた。
リュックの中から更にひざ掛けも取り出した。私はそれを膝の上からかけていき、クッションに体重を預けていく。彼の方に視線を向ければ、トレーナーとしてのスーツ姿ではなく、もっとラフな格好。
上着一枚だけしか羽織っていない。この時期の夜はかなり冷える。もう一枚ひざ掛けを持ってきても良かったかもしれない。実際、今の彼は両腕を擦っているからだ。
「寒い?」
「大丈夫、ちょっと冷えるけど我慢できるよ」
「我慢って……なら、これでも飲んで」
私はリュックからタンブラーを取り出した。蓋を外していけば、そこから白い湯気が立ち上っていく。トレーナーさんに差し出せば「ありがとう」と彼は返した。
もう一つのタンブラーを取り出していき、蓋を外す。私はそれに口を付けて飲み始めた。何度か嚥下を繰り返し、口を離して息を吐いていく。
吐いた息は白く、そのまま夜の空へと吸い込まれるように消えていった。
「これ、中身はお茶?」
「そうよ。ほうじ茶、少しすれば温まるわ」
「ありがとう、気が利くね」
「気にしないで」
彼からタンブラーを受け取り、蓋をしていく。リュックの中にしまい、左手首に付けた時計へ視線を移せば、時刻は八時五十五分だ。
流星群まで残り五分。空を見上げ、夜の海に広がる星々たちを視界に入れながら、私は膝を抱きしめた。
今日はいつもの天体観測とは違う。大好きな妹とお話をするために来たのもあるが、今日はそれだけではない。
妹は空の向こうで見られるのだろうか。閃光が瞬き、落ちていく一瞬の姿を。
私は地面で見上げ、妹は空から見下ろす。そこにはどんな景色が待っているのだろう。
「流星群ってさ、昔だと不吉な象徴って扱われてたらしいね」
「いきなり、なに?」
突然聞こえてきたトレーナーさんの声に私はウマ耳を傾けた。
「アヤベと見に行くってなったから調べたんだよ。そうしたら、そんな話が書いてあったんだ。アヤベは知ってた?」
「まぁ、そうね。知ってるわ」
流星群の逸話。
古い昔、欧州では流星群は人の死を知らせるものだと言われていた。
曰く、人は空に自分の星を持っており、この星が落ちることで死の瞬間が訪れるのだと。
勿論、そんな事が本当であるはずがない。
私は小さく鼻で笑いながら、空を見上げ続けた。
「でも、日本だと落ちる前に願い事を三回唱えれば叶うっていう、むしろ良い方のイメージなんだよね」
「えぇ、そうね。どれにしても、突拍子も無い話だけれど」
「アヤベは願い事とか無いの?」
「どうしてそんなことを聞くのよ」
「なんとなく。よく天体観測に行くから気になって」
「…………」
私は視線を空からトレーナーさんの方に向けた。彼も私に視線を向けており、小首を傾げてくる。
願い事は、ある。もし妹と話せるならば、いくらでも願おう。
走りたかったこと、一緒にしたかったこと。寂しくは無いか、辛いことは無いか。そんな沢山のことだ。
だけど、それを言葉に出して彼に伝えるのはなんとなく不本意だった。
「そういうトレーナーさんこそ、願い事は?」
「俺? 俺かぁ……」
トレーナーさんが空を見上げていく。私も続くようにして空を見上げれば、暗闇には星が瞬き続けている。
まだ流星群は流れていなかった。
「色々考えてはいるけど、中々絞れなくて」
「欲張りね」
意外と子供っぽいところを彼は持っている。何だかそれがおかしくて、私は小さく喉で笑いながら空を見上げ続けた。
「……っくし」
「はぁ、大丈夫?」
「大丈夫、少し寒いけど」
子供っぽい。いや、本当に子供かもしれない。
トレーナーさんは両手で自分自身を抱きしめるようにしては、また両腕を擦っている。私に心配をかけないように笑顔も添えて。
そんな表情を見せられて、心配をしない方が難しい。
もう一度だけ、私は小さな溜め息を吐きながら「トレーナーさん」と呼んだ。
「なに?」
私はレジャーシートの上を手で軽く叩いた。レジャーシートから軽い音が二回鳴り、その音が消えれば虫の合唱が聞こえてくる。
「大丈夫だよ」そう告げた彼に私は再び叩いた。先程よりも力を込めて、数も一回だけ増やして。
「本当に大丈夫だって」
「貴方に風邪を引かれる方が困るのよ」
トレーナーさんを見つめながら、ただその場で待ち続けた。彼は困ったように眉を下げては私を見つめ返している。
十秒ほど待ってみたがそれでも来ない。その間に彼はまた両腕を擦り続けていた。
視線を下に向ければ、レジャーシート同士で僅かに開いた隙間。あえて私が作ったその隙間を見ながら、もう一度溜め息を吐いた。
クッションから腰を上げ、レジャーシートを引っ張っては隙間を埋めていく。一歩だけ彼の方に近づいては、彼の隣にクッションを置いた。
腰を下ろしていき、ひざ掛けを私にまずはかけていく。次にトレーナーさんの膝元を覆うようにかける。
あまり大きいひざ掛けではないから、体を寄せないと脚が出てしまう。だから、肩が触れ合うように私は寄り添った。
「これで、良いわね」
「……こういう所は本当にお姉ちゃんなんだな」
「こんな弟、私は知らないわ」
「はは、出来の悪い弟でごめんな」
けらり、と楽しそうに笑っているトレーナーさん。肩から伝わる彼の温度はやけに冷たく感じる。
私の体温が上がっているのだろうか。いや、そんなことはないはず。彼の体が冷えているから、そうなっているだけ。
私はなんとなく左手首を目の前まで持ち上げた。
時刻は九時過ぎ。流星群が降り始める時間を過ぎている。
「降らないね」
「そういうものよ。あと少しすればきっと降るわ」
「ちょっと調べて……あ、そうか。置いてきたんだっけ」
ポケットの中に手を入れて、携帯を探すトレーナーさん。気になる気持ちは分かるけれど、ここでは無粋なもの。
人工的な明るい光は、夜空に輝く星の光を吸いこんでしまう。妹が遠くに感じてしまうから、無くていい。
二人で空を見上げながら流星群が降るのを待ち続けた。
二分待っても、まだ降らない。もしかして今日は降らなくて明日が正しかっただろうか。その時はその時で構わないけども。
ゆっくりと私は瞼を下ろしていく。胸を膨らませるほどに息を吸っていき、吐いた。冷たい空気が私の体に入り、指の先まで冷気が伝わる。
次に瞼を開けた時にはトレーナーさんが空に向かって人差し指を伸ばしていた。
「何をしてるの?」
「こう、指でさ。空をなぞったら流れてこないかなって」
「──はっ?」
何を言っているのだろう。
「……正気?」
「正気も正気だよ」
トレーナーさんの瞳は星よりも輝いていた。ちょっとだけ眩しく見えてしまう。
彼の人差し指は空に向けられ続けていた。何かを押し付けるように彼の指には力が入っていた。
夜空のキャンバスに向かって、一筋の線を作るように指を右から左へ。
私はその指の動きを眺めていた。どうせ、何も起きないだろう。
この人は時々、不思議なことをする。不思議なことも言う。だから、いつも通りの延長線上のことだと思っていた。
だからこそ、なのだろうか。私の目の前で不思議なことが起きた。
トレーナーさんの指を追うように星よりも輝き、そして尾を引いたものが一緒になぞられていく。
最後には彼の指を追い越していき、彼方へと消え去ってしまった。
「ははっ、アヤベ見たか?」
彼は声を弾ませながら、指を下ろしていく。一つの流れ星がきっかけとなるように、また一つ、そして二つと流れ始めた。
空を渡るように流星群が流れていき、最後には微かな光となって燃え尽きていく。
私はその光景を見ながら「えぇ、見たわ」とだけ返した。
「これ、偶然かしら」
「偶然だよ」
その言葉を聞きながら、ただ私は空を眺めていた。
「……なら、魔法の指ね」
「魔法なら、俺は相当な魔法使いだな?」
「えぇ、そうね。本当に、変な魔法使い」
私は少しだけ呆れ気味に答え続けていく。
「あ、そうだ。願い事しないと」
トレーナーさんは流星群を眺め、両手を重ね合わせては言葉を紡ぎ始めた。
小さな声で、呟くように繰り返している。律儀に三回呟けば、顔を上げて「言えたっ」と嬉しそうにしている。
「アヤベは?」
「私は別に……」
「折角の機会だよ。してみない?」
「……」
流星群が空を流れ続けている。
妹と話したいことを願い事にしても叶うはずがない。それで叶うのであれば、苦労することはないのだ。
本当にそうだろうか?
今日は不思議なことが起きた。トレーナーさんが空を指でなぞれば流星群が流れ始めた。
たとえ偶然だとしても、目の前で起きたこと。それなら、胸の中で抱えてる衝動に身を任せて、たまには彼の言う通りにしても良いのではないか。
私は手を合わせないで、空を見上げながら心の中で唱えた。
──お姉ちゃんね、今日は変な人の話をするから。ちゃんと聞いててね。
三回も唱えない。一回だけで充分。それだけで妹に伝わることを知ってるから。
「唱えた?」
「えぇ、唱えたわ」
「じゃあ、きっとアヤベの願い事は叶うね」
「そうね、叶うはずよ」
二人で流れ星が流れ続ける空を眺めた。
一つ、二つと落ちていき、夜空を駆けていく星々。
ひざ掛けの下で、私は人差し指だけを空に伸ばした。誰にも見えない様に、ひざ掛けの暗闇をなぞる。
指をなぞるのと同時に、一つの流れ星が私の指を追って夜空に描かれた。