雨の音が窓を打ち、部屋は薄暗かった。マティアスは魔法の灯りだけを頼りに、机に向かって羽ペンを走らせていた。羊皮紙の上に浮かび上がる詩の一節に満足げに微笑む。
「この表現は良いな...」彼は呟き、ペンを置いて首を回した。
扉が軽くノックされ、彼が「どうぞ」と答える前に開いた。金色の髪をなびかせたゼーリエが、一枚の古書を手に入ってきた。
「マティアス、この文献に目を通してほしい」彼女は静かに言った。「旧統一帝国の詩歌の技法について記されている。お前の創作に役立つだろう」
マティアスは驚いて顔を上げた。「ありがとう、ゼーリエ。でも、こんな古い文献をどこで...」
「私の個人蔵書だ」彼女は素っ気なく答え、彼の机に本を置いた。部屋の中を見回し、彼の生活空間を視線で確かめるように隅々まで目を走らせる。「部屋は快適か?何か不足はないか?」
「十分すぎるくらいだよ」マティアスは微笑んだ。「こんな素晴らしい部屋で執筆できるなんて、夢のようだ」
ゼーリエはわずかに満足した表情を見せた。「明日、新しい魔法の研究結果について議論したい。夕食後、私の書斎に来てくれ」
それは質問ではなく、命令だった。
「ああ、でも明日は...」マティアスが躊躇すると、ゼーリエの瞳が鋭く光った。
「何か予定があるのか?」彼女の声は冷たく、部屋の温度が下がったように感じられた。
「いや、特には...」
「では、決まりだ」彼女はそう言い、再び部屋を見回した。「夜遅くまで起きているようだな。体を壊さぬよう気をつけろ」
彼女は去り際、さりげなく彼の肩に手を置いた。
「おやすみ、マティアス」
扉が閉まり、彼女の足音が廊下に消えていった。
二日後の朝、マティアスが新しい章の構想を練っていると、再びノックの音がした。今度は軽やかなリズムで。
「入って」彼が言うと、扉が開き、長い髪を背中で揺らしたゼンゼが入ってきた。
「おはよう、マティアス。久しぶり」彼女は微笑んだ。「オイサーストに来たって聞いたから、挨拶に来たの」
マティアスは嬉しそうに立ち上がった。「ゼンゼ!本当に久しぶりだな。元気だったか?」
「ええ、相変わらずよ」彼女は部屋を見回した。「立派な部屋ね。さすがゼーリエ様からの直々の待遇は違うわ」
二人が幼い頃の思い出話に花を咲かせていると、静かに扉が開いた。ゼーリエが無言で立っていた。
「ゼーリエ様」ゼンゼは一礼した。
ゼーリエは二人を交互に見つめ、特にゼンゼに向ける視線には凍てつくような冷たさがあった。
「マティアス、魔法素材が届いた。すぐに確認してほしい」彼女は言った。
「今?」彼は困惑した表情を浮かべた。「ゼンゼと話していたところで...」
「今だ」ゼーリエの声には拒絶を許さない強さがあった。彼女の指先が微かに震え、部屋の灯りが一瞬揺らめいた。「ゼンゼ、お前には他に任務があるはずだ」
ゼンゼは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに従順な表情に戻した。「わかりました、ゼーリエ様。マティアス、また今度ね」
ゼンゼが去った後、ゼーリエは扉を閉め、彼に近づいた。
「素材の確認なら、後でも...」言いかけると、ゼーリエは彼の言葉を遮った。
「素材はない」彼女は低い声で言った。「ゼンゼとは何を話していた?」
マティアスは驚いて彼女を見つめた。「ただの昔話だよ。何か問題でも?」
ゼーリエは一瞬、言葉に詰まったように見えた。彼女の瞳の奥で何かが揺れ動いていた。
「お前は...ここにいる間、研究に集中すべきだ」彼女はようやく言った。「無駄話に時間を費やすべきではない」
「ゼンゼは幼馴染だ。たまには会って話すくらい...」
「幼馴染?」ゼーリエの声が僅かに上ずった。「彼女がお前に何を知っている?お前の研究を理解できるのか?」彼女は一歩近づいた。「お前を...守れるのか?」
マティアスは言葉を失った。ゼーリエの表情には、彼が今まで見たことのない感情が浮かんでいた。執着と、怒りと、そして何か名状しがたい脆さが。
「ゼーリエ...」
「私はお前の研究に必要なすべてを提供できる」彼女は急に冷静さを取り戻したように言った。「私以外に頼る必要はない。私だけで十分だ」
彼女は彼の机に近づき、彼の書いていた詩に目を走らせた。
「今夜、私の部屋で夕食を取ろう」再び命令口調だった。「一人で食事をするのは...寂しい」
最後の言葉は、ほとんど聞こえないほど小さく、弱々しかった。マティアスはそれが本当にゼーリエの口から出た言葉なのか、一瞬疑った。
「わかった」彼は優しく微笑んだ。「喜んで」
ゼーリエの表情がわずかに和らいだ。彼女は彼の肩に手を置き、まるで彼が消えてしまうのを恐れるかのように、少し強く握った。
「どこにも行かないでくれ」彼女はほとんど囁くように言った。「私を一人にしないでくれ」
そして次の瞬間、彼女はいつもの冷静な表情に戻り、手を放した。
「19時。遅れるな」
彼女は部屋を出ていったが、扉が閉まる前、一瞬だけ振り返り、彼の眼を見つめた。その目には、何百年も生きてきた大魔法使いとは思えない、切なさと不安が宿っていた。
ヤンデレ要素が薄いかもしれません。ひとえに自分の表現力の至らなさです。