ゼーリエの私室は、大陸魔法協会の最上階にあった。広大な窓からはオイサーストの夜景が一望でき、古書と魔法の道具が整然と並ぶ空間には、数百年の歴史が凝縮されていた。
夕食を終え、マティアスはゆっくりと椅子から立ち上がった。窓から見える月は満ちており、銀色の光が部屋に注いでいた。
「ありがとう、ゼーリエ。素晴らしい夕食だった」彼は微笑み、軽く頭を下げた。「明日も執筆があるから、そろそろ戻ろうと思う」
扉に向かって一歩踏み出したとき、空気が揺れるような感覚があった。振り返ると、ゼーリエが彼の後ろに立っていた。彼女の表情は厳しさの中に、何か言い表せない感情を含んでいた。
「まだ帰るな」彼女の声は命令というより、懇願に近かった。「もう少し...ここにいてくれ」
マティアスは困惑した表情で彼女を見つめた。「もう遅いし、明日は...」
「昔を覚えているか?」ゼーリエは彼の言葉を遮った。「お前が小さかった頃、毎晩共に過ごした日々を」
彼女の瞳に映る炎のような光が、マティアスの記憶を呼び覚ました。戦災孤児となり、孤独だった日々。そしてゼーリエという存在が、彼の唯一の安らぎだった時間。
「覚えているよ...」彼は小さく答えた。「でも、ゼーリエ。もう子供じゃない。大人になったんだ」
「大人?」ゼーリエの声には何か苦いものが混じっていた。「私にとってはほんの一瞬の時間だ。お前の成長など、私の人生の中では瞬きにも満たない」
彼女は一歩近づき、彼の頬に触れた。その指先は、子供の頃に彼を慰めた時と同じように優しかった。
「一緒に過ごそう。昔のように」
マティアスは一歩後ずさった。「申し訳ない、ゼーリエ。でも今夜は...」
彼は振り返り、扉に手をかけた。しかし開こうとしても、扉は固く閉ざされていた。魔法の封印が施されていることに気づく。
「ゼーリエ...」
「行かせない」彼女の声は静かだったが、部屋全体が震えるように感じられた。「私を置いていくな」
マティアスは深く息を吐き、ゼーリエに向き直った。彼女の表情には、大陸魔法協会の創始者としての威厳より、何か深い恐れと執着が刻まれていた。
しばし思い出話をしたのち、ゼーリエをなだめ、マティアスは部屋に戻る。すでに夜は更けており、彼は研究のため机に向かうが、意識は睡魔に負けてしまった。しばらくして彼の部屋の扉が音もなく開いた。ゼーリエが静かに入ってくる。彼が机で眠り込んでいるのを見つけ、一瞬だけ優しい表情を浮かべた。
「マティアス」彼女は彼の肩に触れ、目を覚ますと、「風呂の準備をした」と告げた。
彼が混乱した表情を見せると、彼女は待つことなく彼の手を取り、彼を引き立てた。彼女の握力は強く、抵抗を許さなかった。
「ゼーリエ、もう夜遅いし...」
「湯が冷める」彼女は淡々と言い、彼を連れて部屋をでた。まるで彼を失うことを恐れているようにしっかりと手を掴み、浴室へ向かう。そこでは大理石の浴槽に湯気が立ち上っていた。
マティアスは困惑しながらも、彼女の意志の強さに押され、ついに湯あみをすることになった。ゼーリエもためらうことなく服を脱ぎ、彼の次に浴室へ入った。
「これは...」マティアスは言葉を失った。
「昔と同じだ」ゼーリエは言った。彼女のエルフの肌は月光のように白く、時の流れに一切侵されていなかった。「何も変わっていない」
浴室の中で、彼女は少し距離を置いていたが、やがて彼の背中を洗い始めた。その動作は十数年前と何ら変わらぬほど的確で、同時に不思議な優しさを含んでいた。
「お前は変わった」彼女は静かに言った。「だが、私は変わらない。エルフの時間は人間とは違う」
彼は黙って湯につかっていた。子供の頃、この光景は日常だった。ゼーリエと過ごした日々、彼女が彼を守るように共にいた時間。
「一晩だけ」彼女は言った。「私に与えてくれ」
大きなベッドに横たわり、ゼーリエは彼のすぐ側に身を寄せた。彼女の呼吸は驚くほど静かで、まるで彼の存在だけを感じようとしているかのようだった。
「子供の頃、お前はよく悪夢にうなされた」彼女は囁いた。「私がそばにいないと眠れないと言っていた」
マティアスは天井を見つめながら答えた。「あの頃は...怖かったんだ。一人になるのが」
「今も一人ではない」ゼーリエの声は強く響いた。「私がいる」
彼女の手が彼の手を探り、強く握った。
マティアスは横を向き、ゼーリエを見つめた。月明かりの中、彼女の顔は子供の頃と全く変わっていなかった。黄金の髪、澄んだ瞳、決して老いることのない肌。時間が彼女を通り過ぎていくかのようだった。
「ゼーリエ...」
「眠れ」彼女は命じたが、その声には珍しい柔らかさがあった。「私がここにいる」
マティアスは深く息を吐き、目を閉じた。奇妙な安心感が彼を包み、子供の頃の記憶が蘇ってきた。ゼーリエの存在は、いつも彼に安全を与えてくれていた。何百年も生きる魔法使いの腕の中で、彼はゆっくりと眠りに落ちていった。
ゼーリエは彼が眠りについた後も、長い間彼を見つめていた。彼女の瞳には、神話の時代から奇跡を紡いだと言われる力を持つ魔法使いとは思えない、深い脆さと執着が宿っていた。
「どこにも行くな」彼女は眠る彼に向かって囁いた。「私を一人にしないでくれ」
その言葉は、誰にも聞かれることなく、夜の闇に溶けていった。