オイサーストの協会敷地の一角、古い石の腰掛けに座ったマティアスは、物思いに耽りながら静かにタバコに火を点けた。吐き出された煙が夕暮れの空に溶けていく様子を眺めていると、突如として冷たい風が吹き抜け、煙と共にタバコが彼の指から消え去った。
「体に悪い」
振り返ると、ゼーリエが彼の背後に立っていた。彼女の指先からはまだ微かな魔力が漂っていた。
「ゼーリエ...」マティアスは驚きを隠せず、空になった指先を見つめた。「いきなり何をするんだ」
「お前の体を守っているだけだ」彼女は冷静に言った。しかし、その瞳には普段見せない心配の色が宿っていた。「タバコは寿命を縮める。私は...それを見過ごせない」
マティアスはため息をついた。「僕の体のことは僕が決めるよ。それに、たまのことなんだ」
「たまでも許されない」彼女は一歩近づき、彼の肩に手を置いた。何か魔法を使ったのか、その指先から温かな魔力が流れ込み、マティアスの体内に残っていたタバコの成分が浄化されていくのを感じた。「お前の命は...大切だ」
その言葉には、彼女の地位からは想像できない切実さがあった。マティアスは反論できず、ただ黙って夕日を見つめた。
数日後、マティアスは研究の疲れを癒すため、街の酒場を訪れていた。木製のカウンターに肘をつき、琥珀色の酒を口に含む。店内には魔法使いや商人たちが溢れ、温かな喧騒が漂っていた。
「もう一杯いかがですか?」若い女性の店員が微笑みながら近づいてきた。「今夜の特製蜂蜜酒は評判ですよ」
彼が答えようとした瞬間、店内の空気が凍りついたように変わった。扉が開き、一人の女性が入ってきた。金髪をなびかせたゼーリエの姿に、店内の会話が一瞬で途切れた。
彼女は真っ直ぐにマティアスの元へと歩み寄り、彼の隣に立った。ゼーリエの視線は店員の女性に向けられ、まるで冬の氷のように冷たく鋭かった。
「マティアス、もう十分だろう」彼女の声は静かだったが、命令の響きを含んでいた。
「ゼーリエ?なぜここに...」驚いて立ち上がりかけたマティアスは、ゼーリエの雰囲気が違うことに気が付く。
「お帰りですか?」店員の女性が無邪気に尋ねた。「またのお越しをお待ちしていま...」
「彼は戻らない」ゼーリエが言葉を遮った。その声には普段の冷静さの下に、何か危険な感情が潜んでいた。「彼にはもう用事がある」
彼女は店員からマティアスへと視線を移し、その瞳には明らかな不満と、何か別の感情―嫉妬と呼べるものーが宿っていた。
「ゼーリエ、まだ一杯も...」
「十分だ」彼女は彼の腕を掴み、強く引いた。「協会に戻るぞ。お前には明日の研究がある」
マティアスは抵抗しようとしたが、彼女の握力は驚くほど強く、その目には拒絶を許さない意志が宿っていた。背後では、店員の女性が困惑した表情で二人を見送っていた。
酒場を出ると、ゼーリエは足早に彼を引っ張っていった。月明かりの下、彼女の表情は厳しいままだった。
「必要なのは協会の図書室だ。酒場の女ではない」彼女は低い声で言った。「お前の時間は...貴重だ」
マティアスはただ、その言葉の裏に隠された感情に困惑していた。
翌日の午後、マティアスは協会の中庭の片隅でゼーリエの弟子たちと話していた。ゲナウとレルネンがいつもの静かな口調で彼の質問に答え、ゼンゼは腕を組んで横に立っていた。
「ゼーリエは最近、僕に対して少し...過剰に干渉してくるんだ」マティアスは慎重に言葉を選んだ。「昨日は街の酒場まで来て、無理やり連れ戻されたよ。僕だってもう成人しているのに」
「ゼーリエ様が?」ゲナウは驚いた表情を見せた。「協会の外まで?」
「それは珍しいわね」ゼンゼは長い髪を指で弄りながら言った。「ゼーリエ様が自ら外出するなんて、数年に一度あるかないかよ」
レルネンは思慮深げに頷いた。「ですが、あるいは...」
彼の言葉が途切れた瞬間、中庭全体が突如として冷たい風に包まれた。木々の葉が震え、魔力の波動が大気を震わせる。全員が振り返ると、そこにはゼーリエが立っていた。
彼女の瞳は危険な光を帯び、金髪が風もないのに激しく揺れていた。弟子たちは一斉に硬直し、恐れの色を浮かべた。
「ゼーリエ様...」ゲナウが口を開いたが、ゼーリエの一瞥で言葉を失った。
「何をしている?」彼女の声は氷のように冷たく、しかし同時に炎のように燃えていた。「お前たちには任務があるはずだ」
「私たちは...」ゼンゼが言いかけたが、ゼーリエは彼女の言葉を許さなかった。
「ゲナウ、北の塔の魔法障壁を強化せよ。レルネン、西方への偵察報告をまとめろ」彼女の命令は絶対だった。「そして...ゼンゼ」
彼女は特にゼンゼに冷たい視線を向けた。「お前には南方の魔物調査を命じる。今すぐ出発せよ」
「南方ですか?」ゼンゼは驚いた。「でも、それは一週間はかかる任務で...」
「質問があるのか?」ゼーリエの声はまるで氷の刃のようだった。
弟子たちは互いに視線を交わし、そしてマティアスに一瞥をくれると、静かに頭を下げた。彼らの表情には、単なる服従以上の、驚きと困惑が混じっていた。彼らが去っていく間、ゼーリエの姿勢は少しも崩れなかった。
中庭に二人だけが残されたとき、ゼーリエはマティアスに向き直った。彼女の表情には怒りの痕跡が残っていたが、同時に何か別の、より深い感情も見え隠れしていた。
「なぜ彼らと話していた?」彼女の声はもはや激しくなく、むしろ傷ついたように聞こえた。
「ただの会話だよ、ゼーリエ」マティアスは冷静に答えようとした。「君のことを理解したかっただけだ。最近の君は...」
「私のことを?」彼女は一歩前に出た。「私を理解したいなら、なぜ私に直接聞かない?」
「だって君は...」言葉に詰まった。「最近の君は近づきにくい。何かあるたびに干渉してくるし、僕の自由を奪うように感じる」
ゼーリエの表情が僅かに揺らいだ。彼女の瞳には、普段は決して見せない脆さが浮かんでいた。
「自由?」彼女は静かに言った。「お前は自由に行動して...私から離れていくつもりか?」
彼女の声が震え、マティアスは驚いた。大陸魔法協会の創始者、伝説の大魔法使いゼーリエが、今彼の前で感情をあらわにしていた。
「ゼーリエ、僕は...」
彼が言葉を探している間に、彼女は突然前に進み出て彼を抱きしめた。その腕の力は驚くほど強く、彼の息が一瞬止まるほどだった。
「どこにも行くな...」彼女の声は彼の胸に向かって囁かれ、風にかき消されそうなほど小さかった。「私から離れるな、マティアス」
彼女は顔を上げ、彼の目を真っ直ぐに見つめた。ゼーリエの瞳には、この世界で最も強いといわれる魔法使いとは思えない、純粋な恐れと執着が映っていた。
「お前は私と共にあるべきだ」彼女は言った。その声には命令ではなく、祈りに近いものがあった。「私はお前を...必要としている」
マティアスは言葉を失った。ゼーリエの腕の中で、彼は彼女の体が微かに震えているのを感じた。何百年も生きてきた彼女が、今、彼の前でこれほどまでに弱さを見せていることに、彼は深い衝撃を受けていた。
静かな中庭で、月光だけが二人を照らしていた。ゼーリエの金髪が風に揺れ、まるで二人を包み込むようだった。彼女の抱擁の中で、マティアスは徐々に腕を上げ、おそるおそる彼女の背を抱いた。
短編三つでお茶濁します。完結までは頑張る予定です。