魔法協会の廊下を歩くマティアスの姿を見ると、他の魔法使いたちは目を伏せ、道を譲った。かつては親しげに挨拶を交わしていた知り合いたちも、今は彼に近づこうとしない。彼らの目には明らかな畏怖の色が浮かんでいた。そして、常に彼の側に立つゼーリエの存在が、彼を孤島のように隔絶させていた。
「おはようございます、マティアス様」
若い魔法使いが廊下の角で会釈した。マティアスが笑顔で返そうとした瞬間、彼の背後でゼーリエが若い魔法使いを睨み上げた。若い術師は青ざめた顔で頭を下げ、小走りに立ち去った。
「無駄話は必要ない」ゼーリエは低い声で言った。彼女の指がマティアスの腕にそっと触れ、所有を主張するかのように軽く握った。
マティアスは深いため息を吸い込んだが、声には出さなかった。最近のゼーリエは、以前にも増して彼に執着していた。弟子たちとの一件以来、彼女の保護は狂おしいほどの独占へと変貌していた。
夜、マティアスは自室で詩集の整理をしていた。窓からは満月の光が差し込み、羊皮紙に書かれた詩行を銀色に照らしていた。彼が最後の一枚を閉じると、扉がノックもなく開いた。
「ゼーリエ」彼は振り返らずとも分かった。彼女の魔力の気配はいつも独特だった。「もう遅いよ」
「だからここに来た」彼女の声は普段より柔らかかった。夜の闇に溶け込むような、静かな声。「一緒に眠ろう」
マティアスは体を硬くした。彼女が彼の部屋に泊まることを望むのは初めてではなかったが、ここ数日、その頻度は増していた。
「今夜は一人で休みたいんだ」彼は慎重に言った。「明日の研究のために、しっかり休む必要がある」
空気が凍りついたかのように感じられた。マティアスがゆっくりと振り返ると、ゼーリエの顔には驚愕の色が広がっていた。
「一人で?」彼女の声が震えた。「私と一緒にいたくないということか?」
「そういう意味ではなく...」
「嘘をつくな!」彼女の叫びと共に、部屋の灯りが一斉に揺らめいた。その炎は彼女の怒りを反映するかのように赤く色づいていた。「お前は私を拒絶している!」
マティアスは立ち上がり、彼女に近づこうとしたが、彼女の初めて見せるほどの激情が彼を立ち止まらせた。
「ゼーリエ、落ち着いてくれ。僕はただ...」
「お前は他の者と会いたいのか?」彼女の声は低く危険だった。「誰だ?ゼンゼか?それとも街の女か?」
「違う!そんなことはない」マティアスは必死に弁明しようとした。「僕はただ疲れているだけだ」
「私といることが...そんなに辛いのか?」ゼーリエの声が突然弱くなり、彼女の瞳には何か脆いものが宿った。しかし次の瞬間、それは怒りへと変わった。「私はお前のためにすべてを捧げている。私の愛はこれほどまでに深いというのに!」
マティアスは彼女を落ち着かせようと努めたが、彼女の怒りは収まらなかった。「私と一緒にいるのだ」もはやそれは要請ではなく、絶対的な命令だった。「今夜も、明日も、その先もずっと」
結局、マティアスは彼女の望み通り、彼女と共に眠ることに同意した。彼女の感情の波動が静まり、部屋は再び静寂に包まれた。彼女は彼のベッドに横たわり、彼を強く抱きしめた。その腕の力は、彼が逃げることを許さないかのように強かった。
「私から離れるな」彼女は闇の中で囁いた。「約束しろ」
マティアスは静かに約束の言葉を口にした。彼女の肩の緊張が解けるのを感じながら、彼は天井を見つめていた。居心地の悪さと諦めが、彼の心の中で重く沈殿していった。
数日後の深夜、マティアスは慎重に目を開けた。隣で眠るゼーリエの呼吸が規則正しいことを確認すると、彼はそっとベッドから抜け出した。彼の懐の小型の杖から微かな魔法の光が漏れ、「気配を消す」魔法を発動させる。
この魔法はゼーリエの元から旅立つ際、選別に渡されたものであった。魔族や盗賊から彼を守ってきたこの魔法は、
魔法協会の廊下を音もなく進み、彼は夜の闇に紛れて外へと出た。月明かりの下、彼は一瞬だけ振り返った。巨大な協会の塔は月光に照らされ、荘厳であると同時に、彼にとっては牢獄のようでもあった。
街へ向かう道を歩き始めた彼は、初めて何週間かぶりに自由の空気を吸い込んだ。しかし、彼の心はどこか重かった。彼の不在がゼーリエにどのような影響を与えるか、想像するのも恐ろしかった。
彼が街の外れに着く頃には、夜も更けていた。小さな宿を見つけ、そこで一晩過ごそうと決めた瞬間、遠くから凄まじい魔力の波動を感じた。空が一瞬青白く輝き、大地が震えた。
「ゼーリエ...」彼は呟いた。目を閉じ、魔力に集中すると、協会からの魔力の爆発が続いているのを感じた。彼の不在に気づいたのだ。
彼は宿に入ろうとした足を止め、立ち尽くした。ゼーリエがこのまま大暴れすれば、協会だけでなく、街全体が危険に晒されるかもしれない。彼女の力は、怒りに任せれば恐ろしいものになり得ることを、彼は知っていた。
深いため息と共に、彼は踵を返した。街道を通り抜け、再び協会へと向かった。
協会に戻ると、そこは混乱の渦だった。魔法使いたちが走り回り、ゼーリエの弟子たちが必死に彼女を鎮めようとしていた。ゼーリエ自身は塔の最上階で、まるで嵐の目のように立っていた。彼女の周りには青白い魔力の渦が巻き、窓ガラスは全て粉々になり、壁には亀裂が走っていた。
「ゼーリエ!」マティアスは声を上げた。「僕はここだ!」
彼女が振り返った瞬間、魔力の渦が静まった。彼女の表情には、怒り、恐れ、そして何よりも深い安堵が混じっていた。
「マティアス...」彼女は彼の名を呼び、次の瞬間には彼の前に立っていた。驚くべき速さで距離を縮めたのだ。「どこにいた?なぜ私から離れた?」
彼女の声は怒りと不安が入り混じり、その指が彼の腕を痛いほど強く掴んだ。
「少し一人になりたかっただけだ」マティアスは静かに言った。「すまない、心配させるつもりはなかった」
「心配?」彼女の声が震えた。「私は恐怖に狂いそうだった。お前がいなくなり、もう二度と戻らないのではないかと...」
彼女の言葉は途切れ、突然彼を強く抱きしめた。その抱擁は息ができないほど強く、彼女の体が小刻みに震えているのを感じた。
「もう二度とそんなことをするな」彼女は命じた。「二度と私から離れるな」
その夜を境に、マティアスはゼーリエから離れることを許されなくなった。三日間、彼は文字通り彼女の側を離れることができなかった。食事も、研究も、眠りも共にし、彼女の視線は一時も彼から離れなかった。
彼女は彼の手を握り、その指先から微かな魔力を流し込んだ。魔法で彼に追跡の印を付けていることを、彼は理解していた。これからは、彼がどこに行こうとも、彼女は必ず見つけることができるだろう。
マティアスはその状況を静かに受け入れた。逃げることは、もはや選択肢ではなかった。彼はゼーリエの執着の深さを、真に理解した。それは恐ろしいほどの愛であり、同時に彼を窒息させる鎖でもあった。
ある夜、彼女の腕の中で目を閉じながら、彼は自分の人生がどうなるのか考えていた。彼女との将来、彼女が描いた夢の家、共に暮らす日々—それは彼の選択ではなく、避けられない運命のように思えた。
「眠れないのか?」闇の中でゼーリエが囁いた。彼女の指が彼の髪を優しく撫でていた。
「ちょっと考え事を」彼は静かに答えた。
「何を?」
彼は一瞬迷ったが、真実を口にした。「僕たちの将来について」
彼女の体が微かに緊張するのを感じた。「それで?」
「受け入れようと思う」彼は言った。「君の望む通りに」
ゼーリエの腕の中で、彼は自由を諦めた瞬間、奇妙な平穏が訪れるのを感じた。闘い続けることの疲れが、彼から流れ出ていくようだった。
「賢明な選択だ」ゼーリエの声には勝利の色が混じっていた。「私たちは幸せになる。約束する」
マティアスは黙って頷いた。月明かりの中、彼は彼女の美しい顔を見つめた。時を超える存在であるエルフの大魔法使いが、彼という一人の人間にここまで執着することの哀しさと恐ろしさを、彼は深く理解していた。
「眠れ」彼女は命じた。「明日から、私たちの新たな人生が始まる」
マティアスは目を閉じた。彼の心の中では、自由な魂が静かに涙を流していたが、表面上は穏やかな諦観に包まれていた。これが彼の運命なら、彼はそれを受け入れるしかなかった—永遠の愛と永遠の檻の中で。
いつも読んでいただきありがとうございます。
申し訳ありませんが多忙につき次回更新お休みとさせていただきます。