ワトソンレースは始まらない   作:虫野律

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序章 ワトソンレースは──


〈たとえ千人の女を殺してでも一人の男を生かせ〉

 

 これは、誰が言いはじめたか、遅くとも古事記が書かれた時代にはすでにあった言葉だ。

 男女比一対千。

 男性が生まれにくくなったのは大昔に起きた地球規模のパンデミックにより人類の遺伝子が変質してしまったことが原因だとされている──このウィルス進化説による解釈は、概ね男女比一対一の群れを前提としているかのような生物的特徴が散見されることと現実の男女比との矛盾を説明できる点で高く評価されているけれど、一方で男性が生まれやすい遺伝子を持つ突然変異体が自然選択により繁栄して男女比が是正されていないのは道理に反するとの声も根強く、定説にまでは至っておらず、通説的見解にとどまっている。

 また、世界的に堕胎への忌避感が非常に強いことが、男女比の調整を事実上不可能にしていた──民法上の人の始まりには出産時の胎児の全部の露出を必要とするのに対して、刑法上は、性別判定のできない時期である妊娠八週を過ぎるだけで足りる。つまりそれ以降の堕胎は殺人となり、刑法第百九十九条が適用される。この法制度はほとんどすべての国に共通している。

 そうして男女比があるがままの姿で受け入れられてきた結果、極端な男尊女卑社会が形成されていった。

 現在、男性に生まれる利点はいくつもある。

 例えば、恋愛において選ぶ立場でいられること。

 例えば、受験や就職で〈男子枠〉なる下駄を履かせてもらえること。

 例えば、女子に対するものよりも非常に厚い児童手当て。

 例えば、刑事裁判における甘い判決、いわゆる男割。換言すると、男性の法益の極端な偏重。

 ──などなど、ぼくら男子は、見目麗しい美男は特に、総じて社会から大切にされ、甘やかされる。ふと冷静になると、まるで出来と趣味の悪いB級コメディー映画でも観ているかのような気分になるほどに。

 けれどそれは、ミステリーを愛するぼくにとってとても都合のいいことだった。なぜなら、一般人──学生の身でありながらフィクションに登場する名探偵のように現実の刑事事件に首を突っ込んでも大目に見てもらえるから。

 どうやら千年に一人の美少年らしいぼくが少しほほえんであげれば、大抵の女性は鼻の下を伸ばして態度を軟化させる。上目遣いに甘えた声でお願いすれば、みっともなく発情してうなずいてくれる。警察官だって例外じゃない。

 ぼく、綾崎(あやさき)千宙(ちひろ)はミステリーが大好きだ。

 だから、この、ひどく不平等でどこまでも狂っている滑稽な世界のことも、やっぱり大好きなのだった。

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