ワトソンレースは始まらない   作:虫野律

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「結論から言って、雨ヶ谷先生が挙げていた容疑者──赤林鈴、青山心羽、黄倉沙月の三人は犯人じゃないね」綾崎はチルドカップのカフェラテ──わたしもよく飲む、有名コーヒーショップの──にストローを刺しながら言った。「もちろん白黒都和でもない」

 

 最後まで黙って聞くつもりだったがたまらず、

 

「それなら誰が──」

 

 しかし、「まぁまぁ、そう慌てないで」となだめられ、しぶしぶ口を閉じた。

 

 柔和に苦笑して綾崎は、続ける。

 

「一人ずつ潰していこうか。まず白黒都和については、雨ヶ谷先生の推理どおり、目撃されるのも憚らずに脅迫状を職員室のデスクに置いていることと英語が苦手なことから、差出人である可能性はないと見ていい。つまり、彼女はストーカーではない。

 そして、同じく英語が壊滅的な青山心羽も除外できる。また、彼女の場合は、アンダーヘアをすべて剃っているらしいことも例の女性器と口紅文字の写真と矛盾するから、やはりストーカーとは考えにくい」

 

 わたしがうなずくと、

 

「残りは赤林鈴と黄倉沙月だけど、赤林鈴は強迫性障害と専門医に診断されてるんだよね?」

 

「ええ、それは間違いないわ」

 

 学校での赤林への配慮について彼女の主治医とも相談していて、その病気や症状についても聞いている。

 

「念のための確認なんだけど、赤林鈴の症状は、不潔なものへの恐怖と蓋や蛇口などを完全に閉めることへの強いこだわりってことでいいんだよね?」

 

「そのとおりよ。汚れを過剰に遠ざけようとしたり、必要以上に手を洗ったり、蛇口の栓や鍵がしっかり閉まっているか執拗に確認したり、といった感じ」

 

「であれば、赤林鈴もストーカーではないだろうね。二通目の手紙には、ゴミを漁って雨ヶ谷先生の生理周期を知った、とあったみたいだけど、学校を休むほど強く強迫性障害の不潔恐怖の症状が出ている人間にそれをやるのは難しいんじゃない? 脅迫状の洋封筒の口が糊付けされていなかったこととも矛盾するし」

 

 これも腑に入る理屈だった。否定せずに首肯して続きを促す。

 

「黄倉沙月がストーカーではありえないのは、三通目の手紙──ハンバーグの日のことを考えればわかる。その日は雨ヶ谷先生は生理痛がひどくて午後から学校に顔を出した。換言すれば、午前中は自宅アパートで休んでいたってことでしょ?」

 

「ええ。午後零時半まではアパートにいたわ」

 

「うん。ということは、手紙とハンバーグを仕込んだ犯行推定時刻は当日午後零時三十分から雨ヶ谷先生が帰宅した午後五時三十分ごろの間だ。でも、その日も黄倉沙月は朝から出勤していて、かつ放課後には演劇部の練習を見ていた。昼休みのうちに雨ヶ谷先生のアパートに行って事をなしてくるのも時間的に厳しい。つまり、彼女には明確なアリバイがある。したがって、彼女もやはり犯人ではないと言える」

 

「共犯の可能性はないのかな」

 

 重箱の隅をつつくようなその問いにも綾崎は淀みなく答えた。

 

「ないね。手紙から窺えるストーカーの執着心や独占欲の強さから共犯は成立しそうにないから。

 また、共謀のない偶然の複数犯──法学的には同時犯っていうんだけど、その可能性も無視していい。こんなにも雨ヶ谷先生のことをつぶさに監視しているストーカーなら、ほかに自分と同じことをしている人間がいれば気づくだろうし、その不届き者によろめかれたら大変だから警戒するように注意するはずなのに一切言及されていないから。

 したがって結論は変わらず、さっき挙げた四人はストーカーとは関係がない」

 

 理路整然とした隙のない推理だ。心底そう思う。

 けれど、だからこそ不思議でならない。今、冷徹に否定された容疑者たちのほかに思い当たる人物がいないのだから。

 焦れた心が、体をそわそわと不穏にさせ、

 

「真犯人は誰なの? 早く教えて」

 

 と尋ねさせた。

 

「この」とテーブルに置かれた脅迫状に一瞥を投げて綾崎は、「──脅迫状を送った人物の特徴として、第一に英語の作文(ライティング)能力がネイティブスピーカーに迫る水準であること、そして第二には白黒都和の生真面目な性格と英語の成績を知っていることが挙げられる。言い換えると、彼女なら委員長という立場もあって中身を見ないで届けてくれるだろう、万が一中身を見られても理解されることはない、と推測できた人物が該当する。つまり、同じ一年B組の生徒が最も怪しい。

 で、その内容だけど、要するに、このぼくに近づくな、というのが一番伝えたいことだろう。

 これを雨ヶ谷先生は、〈雨ヶ谷涼に執着している女が、雨ヶ谷涼を独占するために綾崎千宙を遠ざけようとした〉と解釈した」

 

「違うの?」

 

「うん、全然違う。まぁ差出人が意図的にミスリードしたんだけど、実際は逆なんだよねー」

 

 逆?──意味がわからず首をかしげた。

 

「そそ、差出人の狙いは雨ヶ谷先生じゃなくてぼくなんだよ」

 

「……」二、三秒考え、言葉の意味は理解した。「わたしから綾崎君を遠ざけようとしたのではなく、綾崎君からわたしを遠ざけようとした──つまり、脅迫状を寄越したのは、わたしのストーカーじゃなくて綾崎君のストーカーだった?」

 

「うん、そう」

 

 前提から覆されてますます混乱するわたしを哀れに思ったのか、とうとう綾崎は真犯人の名を口にした。

 

「ストーカーの正体は一年B組の転校生、二之宮至だよ──動機には納得できるでしょ?」

 

 うなずかざるを得なかった。

 というのも、二之宮が転校してきたのは前の学校で彼が同性愛者であることが発覚したことが原因だからだ。

 レズビアンが広く受け入れられているのとは反対に、人権だとか道徳だとかの建前を抜きにするとゲイは差別──ヘイトの対象になる。ウィルスの影響により男性が少なくなったこの世界では、伝統的に、多数の女性を幸せにするのが男性の責務という価値観が根付いている。

 その根底にあるのは、優遇されている男が、数が多くて雑に扱われているわたしたち女を幸せにしないのは許せない! というような黒い感情──女たちの嫉妬心と甘えだ。

 女性にとって男性とは、〈おいしいご褒美〉であり〈自己の存在価値を確固たるものにするトロフィー〉であり……〈夢〉であり〈希望〉なのだ。

 それなのに男性同士で完結されると、ただでさえ少ないパイが更に減ってしまう。ゲイは女性にとって極めて不都合な存在で、社会の構成員のほとんどが女性である以上、それは取りも直さず〈悪〉ということになる。

 過去にはゲイの男性が集団でリンチされ、男性器を焼き潰されたり細切れにされたりした挙げ句に殺害されるといった事件もたびたび起きている。そこまでいかずともいじめられることは確定だ。二之宮はそういったことを恐れて自分を知る者のいない夜這星高校に転校してきたのだ。

 しかし、元来の性的指向は簡単に変えられるものではない。新たな土地でも彼は男性に恋をしてしまった。綾崎千宙という傾城傾国の美少年の虜になってしまった。

 そして、綾崎を独占したいがために脅迫状をしたためた。

 

「日本トップクラスの偏差値の二之宮至なら手紙の英語くらいどうとでもできるでしょ?」綾崎はその推理を傍証する。「白黒都和とも同じクラスだし、彼女の性格と能力も知ってる。女性器の写真だって合成で作れるし」

 

 それはそのとおりだと思うけれど、

 

「二之宮君がゲイだということは生徒には伏せられているはずよ。なぜ綾崎君は彼がそうだと知っているの?」

 

 綾崎はあきれ顔になった。

 

「そりゃわかるって。

 二之宮至は十五歳の一年生だから入学からたったの二箇月程度で転校したことになる。名探偵でなくとも訳ありだって察せられるよ。

 そのうえで明示的ではないにしろ間近で恋情を向けられるんだから、よっぽど鈍感な人間でなければ気づかないなんてことはないよ」

 

 説得力のある説明だった。

 しかし、ここでわたしは致命的な矛盾に思い及んだ。

 

「二之宮君が綾崎君と出会ったのは六月になってからだよ? わたしの部屋に手紙が置かれたりするようになったのが五月下旬からという事実と矛盾すると思うのだけど」

 

 綾崎は、すっと細い鼻梁を指先で掻き、「まさか雨ヶ谷先生は、六月になるまで二之宮至が引っ越しせずに前の町で暮らしてたと思ってるの?──違うよね。普通は新しい学校に正式に通いはじめる前に引っ越しをすましてる。実際、彼は五月の連休前には転校を内定させていて、連休明けからこの町で生活しはじめたと言っていた。

 おそらくその時に雨ヶ谷先生が元彼とデートしてるところを目撃したんだろうね」

 

 たしかにその可能性はあるかもしれないけど、わたしと晴輝のデートを見たから何だというのだろう?

 そういう不理解が顔に出ていたのだろう、綾崎は更に説明を加えた。

 

「二之宮至の立場になって考えてみればわかるよ。

 自分は、望んだわけでもないのにゲイに生まれてしまったせいで転校を余儀なくされたりとたいそう苦労しているのに、女は異性愛も同性愛も自由に選べる。

 何て理不尽な話だろう。羨ましい。妬ましい──二ノ之宮至はそういう負の感情を抱えていた。

 そんな二之宮至が、いかにも女からモテそうな男性的魅力さえ(そな)えた雨ヶ谷先生が男と仲良くしてるのを見てしまったら、どう思うかな?

 ──うん、そうだね、いい気はしないだろうね。

 もっと具体的に言えば、雨ヶ谷先生のことが〈異性とも同性とも大手を振って恋愛を楽しめる自由な女の象徴〉のように見えた。つまり、雨ヶ谷先生を最も忌むべき存在──矛先を向けるべき敵と認定した。

 もうわかったよね? 要は、八つ当たりとしてストーカー行為に偽装した嫌がらせをしてたんだよ」

 

 理解はした。しかし、まったく予想していなかった斜め上からの非常に困った真相だ。わたしの存在自体が動機を惹起しているというのなら、

 

「どうすればいいんだろ……」

 

 話し合いの場を設けてわたしが頭を下げてお願いしたところでやめてはくれなそうだ。しかし、事を公にして自暴自棄になられるのも怖いし、副担任としてできるだけ穏便にすませたい気持ちも、二之宮への同情もある。

 そんなふうに当惑するわたしに、綾崎は助け船を出してくれた。

 

「大事にはしたくないんだよね?」

 

「ええ、できれば」

 

「それなら二之宮君にはぼくから言っておくよ。ぼくの言葉なら彼も聞き入れるでしょ」

 

 願ったり叶ったりだけど、綾崎には世話になりっぱなしだ。こんなに甘えてしまって、

 

「いいの?」

 

「まぁぼくも当事者だからね」

 

 そうして二之宮の対応は綾崎に任せると決めたところで予鈴が鳴った。お昼を食べそこねてしまったわたしのお腹が、安心したからか、ぐぅ、と元気に不満の声を上げた。

 綾崎に笑われ、わたしも照れ笑い。

 こんなに穏やかな気持ちは久しぶりだった。

 

 

 

 

 

 

 それからというもの、綾崎が上手いこと言い含めてくれたらしく毎日のようにあったストーカー行為──手紙や写真などはパタリとやんだ。

 綾崎に改めて感謝を伝えると、

 

「気にしなくていいよ、たまには珍味も悪くなかったし」

 

 と、よくわからないことを言っていたが、その意味は教えてくれなかった。

 しかし、程なくしてわたしはすべてを理解することとなった。

 悩みが消え去りよく眠れるようになって数日、小暑(しょうしょ)が目前に控えた暑い夜のことだった。アパートでゆっくりしていたわたしは、もう解決したんだから早く忘れるためにも手紙や証拠の写真は処分しよう、とふと思い立った。

 そうして手始めにスマホを立ち上げて画像を確認した。と、

 

「あれ……」

 

 手紙の画像もほかのものもどこを捜しても見つからなかったのだ──いや、正確にはそれらしきものはあった。ただし、

 

「手紙が写ってない……?」

 

 手紙もハンバーグも写っておらず、何かを掴んでいるような格好ながら何も掴んでいないわたしの手や何も入っていない電子レンジの画像があるばかり。

 どういうこと?

 戸惑いながらも、保管していた現物を確認しようと引き出しを開け、

 

「……」

 

 やはり影も形もなくなっていて──ある推理がふと脳裏をよぎった。

 冷静になった今、改めて考えてみれば、転校前にこの町に来ていた二之宮がたまたまわたしを見かけて嫌がらせの対象にしたというのは、無理があるように思う。

 それに、仮にその不自然さに目をつぶったとしても、嫌がらせすることを決めてからピッキングを習得するまでが早すぎるし、それに並行してわたしのことを調べ上げるというのも方法的にも時間的にも不可能に近いのではないか。

 ……情報収集に関しては探偵に依頼する?

 いや、そのお金を親に出してもらう上手い口実が想像できない。探偵への説明はもっと難しいだろう。例えば、わたしに一目惚れしたからアプローチのために情報を集めたい、とそれらしく繕っても、男性なのだから普通に声を掛ければいいじゃない、と訝しげに返されてしまうだろう。

 そして、生理周期についてはそもそも知りようがない。手紙が始まる前の直近の生理が終わったのが二之宮がこの町に来たという連休明けより一週間以上前なのだから、わたしを見かけて以降毎日ゴミを漁ったところで五月の生理時点ではそれ以前の生理のことはわからず、だから当然普段の生理周期もわからない。

 ……実際にはもっと前、例えば不動産の内見の際にでも見かけていた?

 いやいや無理でしょ、とすぐに否定する。その時には親も一緒だったはずだから、わたしの家を特定するために尾行を始めるわけにもいかないだろうし、のちの調査のために写真を撮っておくというのも相当な幸運が重ならない限り無理だろう。仮にそこをクリアしたとしても、普段の生理周期を知るにはまだ足りない。もっと前から監視していないと推測できない。

 やはりすべてを二之宮の犯行とするのは現実的ではない。

 つまり、二之宮の犯行だと言えるのは最後の脅迫状──おそらくわたしと綾崎の会話を立ち聞きして得た情報から推測し、わたしのストーカーの犯行に偽装した──だけで、それ以外のものは彼とは無関係。

 そして、二之宮以外の思い当たる人物──赤林、青山、黄倉、白黒──も全員が犯人ではありえない。

 とすると事件は再び振り出しに戻ったかに思えるけれど、証拠品がなくなっていることを併せて考えるともう一つの可能性──もう一人の真犯人が浮かび上がってくる。

 

「手紙も写真も料理も全部わたしの妄想だった……」

 

 わたし自身がストーカーを作り出していた。そう考えると辻褄が合うのだ。

 わたしの妄想なのだからわたしのことに詳しいのは当たり前だし、ピッキング云々も妄想ならそもそも必要ない。

 きっかけにも思い当たる節はある。大学生のころに心に植えつけられたトラウマが、晴輝に振られたショックで黒い花を咲かせてしまったのだ。もしかしたら学生から社会人への環境の変化もストレスとなって悪影響を与えていたのかもしれない。

 考えれば考えるほど得心がいく。

 珍味とは言いえて妙だな、と微苦笑が零れ、それとほとんど同時に、スマホの画像を見た時点ですべてを悟っていたであろう綾崎がそれを伝えなかった真意にも思い及んだ。心が、ぽぅーっと温かくなっていく。

 きっと綾崎はこのように考えたのだろう。

 心労が祟って妄想症状が現れている人間に対していきなり理詰めの否定から入って現実を叩きつけても、受け入れてもらえず、それどころかもっと頑なに心を閉ざされるかもしれない。それなら、初めのうちは妄想を肯定し、一定の効果が期待できそうなストーカー対策を行わせたり、具体的な犯人を挙げて解決したりするという儀式を経ることによるプラシーボ効果──思い込みによる妄想症状の緩和を狙ったほうがいい。もしも万が一わたしが自分で妄想に気づけなかったとしても、そのころにはストレスが軽減していて人の話に耳を傾ける余裕くらいはできているだろうから、それとなく専門家のカウンセリングなりを勧める。

 実に合理的──恐ろしくスマートだ。そして、

 

「君って優しいんだね……」

 

 こんなわたしのために茶番劇に付き合ってくれるなんて。

 胸裏でくすぶっていた火が、ふと気づけば大きく燃え盛っていた。脈動も大きくてうるさい。

 駄目。わたしは教師で彼は生徒なのよ? 本気になってはいけない。

 そんなふうに自戒しようとしても、かえって恋情は増していく始末。

 ストーカーの気持ちが少しだけわかった気がして、

 

「……はは」

 

 再び微苦笑した。

 本当に何をやってるんだろうか、わたしは。綾崎ほどの美少年が振り向いてくれるなんてありえない妄想──空想に(ふけ)るのも程々にしないと。馬鹿だなぁと自分にあきれる。

 でもとりあえずは、美容院に予約を入れよう。

 緩んでしまう口元でわたしは、ショートにするのはいつぶりだったかな、と転がした。褒めてくれるとうれしいな。

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