ワトソンレースは始まらない   作:虫野律

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「え、誰──って、あなた七海なのっ?!」「はぁっ?!」「嘘ぉおっ!?」「どうしちゃったのっ?!」「今日はイケメンが降るんじゃない?」「いやそれはない」

 

 週が明けて月曜日に登校すると、オレを見た、事情を知らないアホなクラスメイトどもがそんなふうに騒ぎ立ててきた。その中の一人、悪魔みたいに攻撃的なネイルチップをしたメグが、自分の席にしんなりと座ったオレに素早く寄ってきて尋問を開始した──その他のやつらは聞き耳を立てている。

 

「急に黒髪にして、スカートも全然折ってないし、何があったの?」

 

「学生のうちに染めるのはやっぱり善くないかなって思って」無理やりにお上品な言葉遣いで答えたオレは、その違和感にサブイボが立つ。「スカートは今までが短すぎたって気づいただけだよ」

 

 しつこく脱色したホワイトブロンドのメグは、未確認生物に変装した自分を撮影する変人を目撃してしまった野良猫のような深い怪訝を満面に広げ、

 

「何の冗談よ」途方に暮れるように言った。「校則とか常識のことなんか弁当に入ってる緑のギザギザ程度にしか思ってないあんたが真面目ちゃんに生まれ変わる? 絶対ありえないわ」

 

 ああ、まったくだ、オレもそう思う──そんなふうに全力でうなずきたいのを抑え、

 

「実は」と打ち明け話のポーズ。「とある小説に感銘を受けたの。それでいろいろと思うところがあってね」

 

「カ、カンメイ? オモウトコロ?」唖然として片言になったメグに、

 

「そうそう」と首肯すると、

 

「そ、その小説というのは……?」と追加で質問される。

 

「え、ええと……」しかしど忘れしたオレは、「『唾と蜜』?」と小首をかしげた。

 

「聞いたことないわね。官能小説か何か?」

 

「何か、男女の数が同じくらいっていう変な設定の十九世紀ロシアが舞台で、陰キャの元大学生がうじうじしたり屁理屈こねたりしてる話」

 

 メグはゴージャスな付けまつ毛を思案げに瞬き、「──ああ、もしかして『罪と罰』のこと?」

 

「それ!」

 

 よくわかったなぁ、と感心の眼差しを送るも、カラコン入りのちゅるんアイに疑わしそうに見返される。

 

「あんたラノベすら読まないじゃない。本当にあれに感銘を受けたの?」

 

「ま、まぁ」

 

「じゃあ主人公の名前は?」

 

分離派(ぶんりは)教徒」

 

 メグは苦虫が奥歯に挟まったような顔になり、「……千歩譲って正解をあげてもいいけど、絶妙に(しゃく)に障ったから第二問ね。その分離教徒ことラスコーリニコフ君が憧れていた英雄の名前は──」

 

「ナポレオン!」これにもすぐに答えられたが、

 

「ですが」とクイズでよくある二段構えで切り返される。「ラスコーリニコフ君の論文で指摘されている、ナポレオンのような非凡な英雄とあたしらのような凡人の決定的な違いは何?」

 

 友輔から聞いたその小説の内容を吟味してオレは、答えた。

 

「サイコパスかそうじゃないかじゃない?」

 

 ──ふふっ。

 

 教室の後ろのほうから軽やかな含み笑いが聞こえ、ちらっと振り返れば、クラスメイトの綾崎千宙がおもしろそうに細めた目でこっちを見ていて目が合った。

 綾崎のことは何とも思っていないが、彼ほどのどえらい美少年とにらめっこして勝てるほど経験豊富じゃない。オレは熱くなりかけている顔の向きを素早くメグに戻した。

 メグも綾崎に気づいたみたいで、そのチークがみるみる濃くなっていく──オレは白けた眼差しをやって、

 

「それで正解は?」と尋ねた。

 

「えっ」綾崎に夢中だったメグは、はっと我に返ったようにオレに意識を戻し、「ああ、うん、いいんじゃない?」

 

(綾崎に比べたらオレのことなんてどうでも)いいんじゃない? ということなんだろうな、と女の友情の儚さを痛感したところで担任の先生が教室に入ってきて──彼女は目を見張った。

 

「夏坂さんっ?! 何事っ!?」

 

 また同じようなやり取りをこなさなきゃならねぇのか?

 

 

 

 

 

 昼休みになるなりオレは、お袋の手抜き弁当を片手に、奇異の目の群れで針の(むしろ)チクチクの教室を飛び出して屋上へ向かった。

 階段を駆け上がった勢いそのままに屋上の扉を開け放つと、夏の熱風が染めたばかりの髪をぶわっと掻き上げた。

 屋上に生徒はいなかった。照りつける日差しを嫌ったのだろう。ベンチすらないフライパンより冷房の利いた教室のほうが魅力的だ、と。

 フェンスにもたれる。疲れた脳がニコチンを求めていた。ポケットから時代遅れの紙巻きタバコの箱を取り出そうとし──空振る。持ってきていないのだった。友輔との約束だ、我慢しなければならない。

 

「はぁ、しんど……」

 

 と、屋上の扉が開いた。まさかの来客だった。

 

「あ、やっぱりここだったんだね」

 

 我らが二年A組の第一王子──友輔は残念ながら第二王子だ──綾崎千宙が、オレを見つけてうれしそうに言った。

 小走りに歩み寄ってきた綾崎に何しに来たか尋ねると、

 

「七海のことが気になったんだよ」

 

 オレはポカンと顎を落とした──こ、告白? 告白される流れなのか? 

 しかしすぐに、いや何でだよ、ねぇよ、と冷静になる。ほとんど絡んだことなかったろうが。

 上目遣いにオレの目を見ていた綾崎が、不意に、にっと白い歯を見せた。

 

「七海ん、期待しちゃたぁ~?」

 

「な、ななみん?」

 

「そう、普通の女の子っぽいでしょ?」

 

「普通より馬鹿っぽくないか、な?」

 

 綾崎はふっと笑みを解いた。

 

「地元で有名な札付きの極悪人である七海んが、突然普通のいい子ちゃんのふりを始めた──こんな滑稽なミステリー、流石に見逃せないよね、推理作家の端くれとしては」

 

 メグの自撮り並みに盛りに盛られた悪評に思わず、

 

「いや、そこまで悪名高くねぇんだが」

 

 と素で答えてしまい、言い直そうとして──やめた。今更取り繕っても無意味だろう。そんなことよりも後半の言葉だ。

 

「綾崎はオレの変貌の理由を知りたいってことでいいんだよな?」

 

「うん、そうだよ」天使かと見紛う可憐なスマイル。「あ、でも待って。ぼくが自分で当てたいから答えはまだ言わないでね」

 

 わかってはいたが、とんでもなくマイペースなやつだ。反抗しなきゃならない理由もないのでうなずくと、綾崎は早速、推理のようなものを口にした。

 

「まぁ当てるといっても、状況的に友輔の不登校と関係があるのは明らか──ここまではいい?」

 

「ああ」

 

「なら、その筋で続けるね。

 見た目に似ず古の時代に生息していたという昭和のヤンキーみたいに情に厚い熱血女で、授業中にもわかりやすい視線をちらちら送るくらい友輔のことが好き好き大好きな七海んは、彼の不登校を何とかしたいと思ったはずだ。そこで近所の彼を訪ねた。

 しかし、友輔は引きこもりをやめるつもりはないと言う。

『じゃあどうすれば出てくんだよ?』君は不貞腐れたようにこう言った。

 それに対して友輔はいくつかの交換条件を出したんだ。七海んがこれこれこの条件をクリアできたら引きこもりをやめて登校する、といった具合にね。

 そして、おそらくその内容はこうだ。

 第一に〈ヤンキーをやめて普通の女の子になること〉、第二に〈当該取引について周囲の人間に悟られないこと〉、第三に〈怪しまれて問い詰められたら小説の『罪と罰』に影響を受けたと答えること〉、そして第四に〈以上の条件を満たしたまま一定期間が経過すること。ただし、当該期間経過後にも継続して条件を満たしつづけなければならず、一つでも満たされなくなった場合は取引は失効する〉。

 その取引を承諾した結果が、今のハリボテの夏坂七海だ。こういう事情でもなければ、ぼくほどじゃないけど我道を邁進する君がヤンキースタイルを改めるとは思えないし、活字嫌いでラノベすら敬遠しておきながらロシア古典文学をその言い訳に使うはずがない。誰の目にも嘘だと明白だからだ」

 

 降参の意味を込めてオレは、やや大げさに肩をすくめた。「見ていたかのように当てるじゃねぇか」

 

「君はだいぶわかりやすいからね」

 

 そうかよ、と負け惜しみめき、ガシガシと頭を掻き回した。「結局、初日でゲームオーバーか」

 

「バレてないことにすれば?」綾崎がいけしゃあしゃあと(のたま)った。

 

「そんなズルできっかよ──」それに、友輔には嘘つきたくねぇし。

 

「真面目だねぇ」綾崎は明らかにからかっていた。

 

 はぁぁー、と当てつけがましく息を吐き、「マジでどうすりゃいいんだよ」

 

 すると綾崎は、ふと真面目くさった顔になった。「本当言うとさ、ぼくの本命は七海んじゃなくて友輔なんだ」

 

「ふぇ?」まさかホm──、

 

「うん」綾崎の大きな瞳が妖しく光った。「不登校だけならまだ短期間だし、そういう気分の時もあるかと流してたけど、この不可解な条件も合わさると途端に謎めいてくるんだ。

 だっておかしいじゃないか。七海んを更生させたいだけなら第一条件だけでいい。仮にその意図が周りにバレたくなかったのだとしても第三条件がお粗末すぎて致命的に矛盾する──ね、そそられるでしょ? だからぼくは、友輔がこんなヘンテコな条件を出した背景が知りたいんだ」

 

「ええと……」オレは当惑し、「つまり何が言いてぇんだ?」

 

「だから、このぼくが友輔引きこもり事件の謎を解き明かしてあげるって言ってるの。その理由──真相がわかれば七海んだって次の手を考えられるでしょ? ぼくも楽しめるし、ウィンウィンだよね? ドゥーユーアンダスタン?」

 

 たしかにそうだが、

 

「何つーか、メチャクチャ自分本位な思考回路してんな」

 

「ぼくって他人を玩具扱いするエゴイストだから。ぼくにとって世界のあらゆる事象は、ミステリーのための舞台装置にすぎないんだよ」

 

 それは俗に言うサイコパスなんじゃねぇか? という率直な感想は胸の裡にとどめた。

 

「一つ聞いておきたいことがあるんだけど」綾崎は言う。「条件の話をした時、七海んは友輔と直接会えた?」

 

「いや、ドア越しだった」

 

「へぇ~」綾崎はおもしろそうに目元を歪めた。「いい感じだね」

 

 そして綾崎は、友輔に関するありったけの情報をオレから引き出した。ポリ公の取り調べを受けている気分だった。

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