ワトソンレースは始まらない   作:虫野律

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【四月八日】

今日から二年生だ。また七海と同じクラスだった。小学生のころからずっと一緒なものだから、もはや驚きはない。顔を見交わして、やっぱりね、というように小さく笑い合ったくらいで、取り立てて話題にすることもなかった。

それよりも僕には、成長の速い七海がどんどん大人になっていくことのほうが重要だった。

七海の変化が少し怖い。いつまでも子供のままでいてほしい。

そう思ってしまう自分が嫌いだ。

 

【四月十六日】

教室で、親といつまで一緒に風呂に入っていたか、という話をしているグループがいてちょうどよかったので、綾崎君に、「綾崎君はいつまで母親と風呂に入ってた?」とさりげなく聞いてみた。

記憶力にも優れる彼にしては珍しく、「ええと……いつだったかな。たぶん小二くらいまでじゃなかったかなぁ」と自信なげに答えた。そんなこと今の今まで気にしたこともなかったというような口ぶりだった。

「何、友輔は今も一緒なの?」揶揄のニュアンスで綾崎君が聞いてきた。

彼は勘も鋭い。

 

【四月十七日】

母さんに、「風呂は一人で入りたい」と言ったら、泣かれた。

「わたしのことが嫌いになっちゃったの?」

そう言われると返答に困る。嫌いではあるけど、嫌いになりきれていないから、だから僕は、「そうじゃなくて恥ずかしいから」と本音の上辺だけを言葉にした。

母さんはほっとしたように表情を和らげて、「恥ずかしくなんかないわ。ゆう君の体は赤ちゃんのころから見てるんだから、わたしは何も気にしないわ」と言った。

僕が気にしてるって話なんだけど。母さんとは、ときどき会話が成立しない。

気持ち悪い。死んでくれないかな、あの女。

 

【四月三十日】

朝、クラスの女子が、昨日彼氏と初体験を終えたと話しているのが聞こえてきた。

「どうだった?」「気持ちよかった?」「本当に痛いの?」「血は出た?」

周りの女子からの矢継ぎ早の質問にも余裕の態度のその経験済み女子は、得意げに語っていた。

いろいろしゃべっていたけど、僕が気になったのは、「気持ちいいとかはよくわからなかった」という感想だった。

本当に?

 

【五月三日】

うっとりと、ねっとりと僕の陰茎を舐めすする母さんのつむじをぼんやりと眺めていて、ふと、初めて彼女が口淫してきた日のことを思い出した。

僕は小学一年生だった。そういう知識はまったくなく、ひどく驚いて恐怖したのを覚えている。汚いとも思ったし、そういえば泣いてしまったかもしれない。

「大丈夫、これはいいことだから」

母さんは猫撫で声で僕をなだめたけれど、「誰にも言っちゃ駄目よ」と低い声で脅しつけもして、僕はやっぱり怖くて震えていた。

それを都合のいいように解釈した母さんが、「気持ちいい?」とうれしそうに尋ねてきて、彼女が得体の知れない化け物になったように思えて吐きそうになった。

それが、今では何も感じないのだから心底笑える。

嘘だ。

 

【五月四日】

仰向けに寝そべる僕に跨がって腰を振る母さんは、いつも気持ち良さそうで、とても醜い。年々増える皺や弛んでくる皮膚、獣の唸り声のように低く太い良がり声、そのすべてが不快で仕方ない。

目を閉じてほかのことを考えようとすると七海の顔が浮かんで、思わず顔をしかめた。

「イキそっ? 我慢しなくてっ、うふぅっ、いいからねっ」

行為中は特に僕の観察を怠らない母さんが、それなのにまた的外れなことを言う。

曖昧にうなずいておくしかない。

射精できたのはそれからだいぶ経ってからだった。陰茎の感覚にがんばって意識を集中させなければならないから、セックスは精神的にとても疲れる。

 

【五月二十一日】

母さんはかわいそうな人だ。まともな恋も知らずに一人で生きてきて、実の息子で自分を慰めることでしか幸福を感じられない。

そんなふうに母さんを不憫に思う僕が、いつも僕を苦しめる。

拒絶したいのに、できない。喜ぶ母さんなんて見たくないのに、愛撫されれば勃起し、膣で扱かれれば射精する。それをわずかでも気持ち良く感じる自分がたまらなく気持ち悪くて母さんを殺したいのに、振り上げた拳はたちまち力を失い、彼女の乱れた髪をぎこちなく梳くだけ。

愛情は鎖だ。最低最悪な粘膜の鎖。か弱いはずなのにぬるぬると滑って引きちぎれない。

 

【六月一日】

街で声を掛けられた。

新興宗教の〈神の下の平等推進委員会〉の勧誘だった。普段なら適当にあしらって逃げるのだけど、今日は〈男女平等〉という言葉が気になって足を止めた。男女平等の社会なら恋愛の機会も平等になるはずで、母さんのような人はいないのではないか、という妄想が脳裏をかすめたのだ。

話を聞いてみると、何やら立派な理想を並べ立てていたけど、具体的な実現方法についての説明は少なくて頼りない感じだった。

けど、思想自体は悪くないと思った。

それに、優しかった。もしかしたら僕のことについて察するものがあったのかもしれない。

 

【六月二十六日】

母さんが妊娠したらしい。僕の子だとうれしそうにはにかんでいた。産むつもりでいるようだった。

「僕は兄弟はいらないよ。母さんと僕だけの暮らしのほうがいい」

僕は何とか堕ろさせようとしたけれど、母さんは頑なで、仕舞いにはヒステリーを起こしたようにおこりだした。

「子供が欲しくないのっ!?」とか、「赤ちゃんがかわいそうじゃないのっ?!」とか、「あんなに愛し合ったのにわたしのことを捨てるのっ!?」とか、「わたしを愛してないのっ?!」とか、思考が謎すぎて何を言ったらいいかわからなくて、結局、いつものように僕が折れた。

だから、子供と弟か妹が同時にできることになる。

自分の部屋に戻ると、家系図を想像して爆笑した。

ひとしきり笑うと、吐き気が込み上げてきた。頭も痛い。

もう疲れた。母さんも僕も世界も何もかも狂ってる。みんな大嫌いだ。誰も知らない遠い所へ行きたい。それがかなわないならもう死にたい。

なぜか七海の顔が瞼の裏にちらついて

 

 

 

 

 

 

 最後のページの端が少しごわついていて、親指の腹で撫でると胸が痛んだ。

 オレは混乱していた。本当に友輔が書いたのか、と信じたくない気持ちは、見覚えのある少し薄くて柔らかい字が打ち消し、悲しさとか、いかりとか、あと何かよくわからない切なさとかが胸の中で暴れていて、訳がわからない。

 

「七海ん、これ、友輔の字だよね?」綾崎に動揺はない。いつもと何も変わらない。

 

「あ、ああ、オレにはそう見える」自分の声が耳に硬く響いた。

 

「やっぱり本物か……」綾崎はささやくと、顎の先を軽く掴んで思案している様子。

 

「な、なぁ」口が乾いていて、しゃべりにくい。「友輔はどこにいるんだ?」大丈夫だよな? またすぐ会えるよな? と、すがるような思いだった。

 

「ん、どこにいるかは判然としないかなー」綾崎はどこまでも日常的。「でも、何でわざわざAIで周りを欺こうとしたかは見当がつけられるよ」

 

 そういえば何でだ? というように目を向けると、

 

「まず友輔が、可能性は低いけど、失踪していた場合。それに気づいた第三者に行方不明者届を出されて警察が動くと警察が先に友輔を見つける可能性が高い。そうなると、警察が『なぜ失踪したのか』と友輔に理由を尋ねてこの性的虐待の事実が明るみに出るかもしれない。それを避けるために、AIを使って結子が自分で見つけ出す時間を稼ごうとした」

 

 次に、と綾崎は淡々と続ける。

 

「自殺していた場合は、自殺の理由を探られないように自殺自体を隠蔽したいのに加えて、お金も目的だろうね。これから子供が生まれるから友輔の分の男子手当てが欲しいんだ。その額がかなりのものだってのは知ってるよね?──うん、だいたい女の子の十倍くらいだね。

 そして結子が友輔を殺していた場合。これはちょっとおもしろくて、発覚防止と金銭目的に加えて、何らかのトリック──例えば死亡推定時刻を曖昧にしたり、腐敗を進めて死体に残った殺害の痕跡を誤魔化したりのために時間を稼ぎたいって可能性もある。

 あとは、結子が友輔をどこかに監禁している場合も隠蔽と金銭が目的」

 

 ざっとこんな感じだね、と綾崎は推理を締めくくった。

 

「なぁ綾崎」オレは八つ当たりのような気分で聞く。「何でお前はそんなに冷静なんだ? 友輔とは友達じゃなかったのか?」

 

「取り乱す理由がないから」言ったでしょ、と綾崎は言う。「ぼくにとってはすべてが舞台装置なんだ。本質的にはすべてが些事で──」

 

 オレはわざと乱暴に綾崎の胸ぐらを掴んだ。「だったら、今ここでお前を殺してもいいんだな?」

 

 本気ではない。ただ、わからせたかっただけだ。イキんなよ、お前だって本当はナポレオンなんかじゃないんだろ、と。

 だが、綾崎は薄ら笑いさえにじませ、

 

「いいよ」もしかしたらそれは、愉快な新種を発見した学者が浮かべる好奇の表情のようなものなのかもしれない。「被害者視点もおもしろいからね。でもどうせやるなら警察がびっくりするような前代未聞のミステリーを仕掛けようよ! 実はこんなこともあろうかととっておきのトリックを──」

 

「ああ、もういい」オレはたまらず手を放した。「わかった、オレが悪かった」

 

 感性が違いすぎて、まともに向き合おうとすると目眩がする。こいつはオレとは違うんだ、理解しようとしても無駄だ、と無理やりに納得することにした。

 

「ふうん、あ、そ」綾崎はそっけない。切り替えが速いのか、人の気持ちに興味がないのか。「じゃあ話を戻すけど、最近の友輔や結子に何か変わったことはなかった?」

 

 そんなのあったか?

 ないような気はするが、記憶を漁っていく──と、

 

「そういや」と思い当たるものがあった。「カレーだ」

 

「カレーライスのカレー?」

 

「ああ、友輔も結子もカレーが苦手なのにこの前来た時に結子が食べようとしてたんだ」

 

 会社の人のお土産らしいこと、なぜかダイニングではなく和室で食べようとして零していたことを伝えると、

 

「へぇ」と綾崎は興味深そうに洩らし、「見に行ってみよう」

 

 そして和室に移動すると、綾崎は敷居のその染み──直径五十センチくらいか──を観察し、ふいとオレに顔を向けた。

 

「七海ん、肩車」

 

「またかよ」

 

 とぼやきつつ綾崎を肩に乗せ、立ち上がった。染みの上の欄間障子(らんましょうじ)──鴨居の上の小さな障子──を調べたいらしい。

 

「何かわかったかー」期待しない声を頭の上にやる。

 

 しかし、

 

「うん、当たりだったよ」

 

「マジ?」思わず欄間障子を仰ぎ──、

 

「おわっ」「あはっ」

 

 ぐらついてしまったが、右足に力を込めて踏みとどまった。

 畳に下ろすと綾崎は、

 

「友輔は自殺だ。欄間のレールに紐のこすれたような跡があった。たぶんここで首を吊ったんだ。そう考えると、カレーをここに零したのは、おそらく死体から垂れた糞尿の跡を誤魔化すためだったとわかる」

 

「い、いや、でも」に続く反論は思い浮かばない。

 

「残りの謎は死体がどこにあるかだけど……」綾崎は宙を見るでもなく見て思案し、「くんっ、くんっ」唐突に鼻を鳴らした、犬のように。

 

「警察犬の真似かよ」からかいまじりに聞いたら、

 

「友輔の死臭しないよね?」鼻先であしらわれるかのように無頓着に聞き返された。

 

「だったら何なんだよ?」

 

「ぼくが結子の立場なら友輔の死体はできるだけ早く処分する。自殺自体を隠蔽したいなら死体がないほうがいから。

 ただ、日記によると、結子は友輔にかなり執着しているみたいだった。ぼくには、結子のそれはネクロフィリアに耽溺(たんでき)しそうなくらいに思えた」

 

「つまり、遺体はまだ結子の手元──この家の中にあるって言いてぇのか」

 

「そう。でも、おそらく友輔が自殺したであろう六月二十六日から夏場で十日以上経ってるのに死臭がしない」

 

「じゃあ間違ってんじゃねぇの」

 

「いや、たぶん外れてない。単に腐らない場所に保管してるだけなんだと思う」

 

「それって……」正直に言うと思い当たる節はあった。

 

「うん、一般家庭でその条件に当て嵌まる場所は限られてる」

 

 綾崎はそれ以上は語らずに和室を出て、キッチンと一体となったリビングダイニングに移動した。

 そして、オレのうちのよりもずっと大きい冷蔵庫の前に立った。

 この中に友輔がいるのか……。

 そんなふうに心の準備を整える暇はなかった。綾崎の野郎が断りもせずに冷凍室を引き出したからだ。

 

「──っ」オレは口元を押さえた。

 

 そこには、バラバラにされて透明な食品保存袋に小分けに詰め込まれた友輔がいた。

 

「な、な、え、おい、友輔……?」頭ん中がつららで掻き回されたみたいにぐちゃぐちゃで、答えられるはずのない生首に問いかけていた。

 

「ふうん」綾崎は生首とその横の下腹部の袋を見下ろしながら言う。「結子にとっては顔と男性器が一番大事だったんだね」

 

「は、はぁあ?」語尾が、握りしめた拳が困惑と怒りで震えている。

 

「だって一番取り出しやすい所に置いてあるんだもん。普通はそう思わない?」

 

 取り出しやすい……? 取り出して、それで結子は友輔を……。

 その、おぞましく痛ましい光景を想像したら、もう無理だった。堪忍袋の緒が切れるとかそんなレベルじゃなかった。

 爆発だ。

 目の前で赤い閃光が瞬き、思考が殺意に染まる。

 気がつけばオレは、愛車のエリミネーターに乗り結子の会社へ向かって爆走していた。

 絶対に許さなねぇ……! 殺すっ! 殺してやるっ……!!

 

 

 

 

 

 

 結子の会社──ビルに入り、階段を駆け上がる。すれ違うスーツ姿がぎょっとしたような顔をした。

 

「君、待ちなさい」

 

 女の声がしたが無視。

 オレを追ってついてきているようだが、どうでもいい。結子をぶち殺すだけだ。殺す殺す殺す。それしか考えられない。

 やがて結子のいる部署──友輔から聞いていた──に到着すると、オフィスに視線を走らせた。

 と、すぐに、デスクでパソコンに向かっているクソアマを視界に捉えた。

 大股で向かっていくと目が合い、驚いた顔の結子に飛びかかった。勢いのままにそのツラに拳を叩き込むとどこからか耳障りな悲鳴が聞こえたが、間髪を容れずに首を鷲掴みにし、椅子から引きずり下ろして思いっきり床に後頭部を叩きつける。ごんっ、と硬い音が立った。

 ぐったりとした結子に馬乗り──マウントポジションになる。

 このまま殴り殺す。

 そう思って右手を振り上げた時、

 

「やめなさい!」

 

 強い声が耳元で響き、その手首を掴まれた。

 ちっ。舌打ちしてオレは、

 

「邪魔すんなっボケッ!! オレはこいつを殺さなきゃいけねぇんだよっ!!」

 

 今度はその声の女──警備員に躍りかかった。

 警備員はそこらの堅気よりは強いのかもしれないが、オレの敵ではなかった。火事場の馬鹿力というやつなのかもしれない。

 

「くぅっ……」腹を殴られた警備員は、苦しげに呻き、膝を折った。うずくまって動かない。

 

 いつの間にか遠巻きに囲んでいたギャラリーを見回せば、みんな目を逸らした。

 雑魚どもは引っ込んでろっ。

 そう吐き捨て、倒れた結子のほうへ視線を戻すと、彼女はふらふらと立ち上がったところで、明らかに逃げ出そうとしていた。

 

「待てやゴラァァアッ!!」

 

 オレの怒声にビクッと身を震わせた結子は、入り口のほうへ駆け出した。だが、ダメージのせいか何度もつまずき、スピードも遅い。

 オレは急がなくても、すぐに入り口の所で追いつくことができた。後ろから(ふく)(はぎ)を踏みつけると、

 

「ぎゃっ」

 

 結子は無様に転がった。振り向いてオレを見る目に強い恐怖が浮かんでいる。足首を挫いたのか膝が震えてか、立てないようだった。

 あとは、ゆっくり確実に殺すだけだ。

 が、不意に現れた華奢な影──追いかけてきたらしき綾崎が、

 

「はい、ストップ」

 

 結子を庇った。

 クソアマが被害者面して綾崎にすがりつく。

 

「た、助けてっ、殺されるっ」

 

 その様がいっそうオレの気を逆撫でした。

 

「そのゴミを渡せ」自分でもぞっとするほど冷たい声が出た。

 

 綾崎はそれには応じず、「ナンセンスなことはやめたら?」

 

 余裕の口ぶりが(かん)に障った。

 

「うるせぇえっ!!」喚くと同時に手が出ていた。

 

 ──ごりっ。

 

 拳に硬い感触があり、ぶたれた綾崎の頭が勢い良く横を向き、肩に下げられたスクールバッグが揺れた。

 構わずに結子に手を伸ばすと──綾崎に掴まれた。

 

「放せ」

 

 と言ったオレを、表情のない綾崎がまっすぐに見据えた。目尻の辺りが赤くなっている。彼は唇の端をゆらりと吊り上げて邪悪な笑みを浮かべた。

 

「な、何だよ」オレは不覚にも気圧された。何でこの状況で笑えるんだよ? と。

 

「えへへ、実はぁ~」

 

 綾崎はうきうきとしてスクールバッグのファスナーを開ける。その隙間から覗いたものが、オレの思考をフリーズさせた。

 綾崎は取り出して掲げた──保存袋に入った友輔の生首を。

 結子の喉から、古い蛇口を閉める時のような奇妙な音が出た。

 静まり返るオフィスに綾崎は高々と発表する。

 

「この首はこの蓮見結子が切り落とした息子の友輔のものでぇーーすっ!!」

 

 助けてくれると思った少年の突然の告発に結子の顔はみるみる真っ青になっていき、

 

「ちがっ、わたしは──」

 

 しかし何かを言おうとした声は、

 

「きゃぁぁああっ!!」「いやぁぁああっ!!」

 

 最大の禁忌を目の当たりにして同時多発的に破裂した夥しい悲鳴にあっけなく打ち消された。

 まさに蜂の巣をつついたよう。

 オレには、混乱の渦に落ちた人間たちを見て愉快そうに笑う綾崎を呆然と眺めていることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 結子は逮捕され、オレも警察にこっぴどく叱られた。たぶん綾崎も少しは絞られたはずだ。

 警察署にオレを迎えに来たお袋は、「血は争えないねぇ」などと笑っていただけであれこれ聞いてくることはなかった。

 数日が過ぎて心が呼吸を思い出すと、ようやく泣くことができた。

 それも落ち着くと、耳に残っているある言葉について考えるようになった。

 あの混沌としたオフィスでのことだ。綾崎の微笑がふと(かげ)った一瞬があって、彼の薄い唇がささやいたのだ。

 

「ごめんね」

 

 聞き間違いだろうか。まばたきをすると、いつもの緩い表情に戻っていた。衝撃の連続に疲れた脳が見せた幻、そう言われれば否定できない。だが──。

 綾崎は何なんだ? あいつは何者なんだ?

 初めはかわいい顔した優等生だった。それがマイペースなミステリーオタクになり、サイコパス気取りの変なやつになり、理解不能な宇宙人になり──わからねぇ。綾崎は怖いもの知らずのナポレオンのようにも、不器用なラスコーリニコフのようにも見える。

 

「七海、上の空だね」テーブルの上で腕組みをしたバイク娘のサナが言った。

 

「何考えてるん?」二百円強のバニラシェイクを吸う合間に、鼻ピを新調したらしいユズキも聞いてきた。

 

 オレたち三人は夜這星高校の近くのファーストフード店に来ていた。窓の向こうの、夏休みが間近に迫る放課後の街は、どこか浮わついて見える。それはこのバイク仲間も同じだったが、彼女たちがお節介な親戚のような性根をしていること──オレを心配していることは知っていた。

 甘えるというほどじゃないが、綾崎のことを話してみることにした。彼自身が何よりミステリーしていて、真相(ほんしん)推理(わか)らない、と。

 

「ずいぶん変わった子ねぇ」サナの元々垂れぎみの目尻が、優しさを含んで更に下がった。「でも、本質はシンプル。七海は難しく考えすぎてるのよ。男の子はわたしらとは違うから、言葉に惑わされないで行動で判断すればいいの」

 

「んだんだ」肯定してユズキは、シェイクを置いた。「結果だけ見れば、その子のおかげで七海は人を殺さなくてすんだんだから、それでいいべ」

 

 言ってることは正しそうな気がしたが、妙に生温かい上から目線が気に食わなくて──照れくさくて、

 

「お前らも処女のくせに語るじゃんよ」

 

 なんて減らず口を叩くオレは、まだまだクソガキなんだろうな。

 

「それがそうでもないんだなぁ、これが」サナが思わせぶりなことを言えば、

 

「は? ガチなん?」ユズキが、ぎゅんと顔──口元にナゲットのバーベキューソースがついている──を向ける。「可及的速やかにすべて話しやがれ」

 

 その後の会話もあっちに行ったりこっちに来たりで、ついには最も優れた税は何かという議題で白熱しはじめた。消費税がどうとか所得税がどうとか訳のわからないことを言っているのを聞き流しながらオレは、ぼんやりと綾崎のことを思う。

 けれど、やっぱりよくわからねぇ。あいつはオレの理解を超えている。

 でも、それでも──殴ってごめんって、助けてくれてありがとうって伝えようと思う。きっとそのほうがいい。

 そうだよな、友輔。

 友輔がほほえんでくれた、そんな気がした。

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