十月の箒星市の日の入りは秋らしく早い。放課後になると綾崎は、「明るいうちに現場を確認しておこう」と言った。
返事も待たずに教室を出ようとする綾崎に小走りに追いつくと、わたしは尋ねた。
「明るいうちっていっても現場は屋内でしょ。体育館の中はもう調べ尽くしてるよ?」
それに、ほかのクラスの授業で使われているから現場保存もされていない。今更調べても意味はあるのだろうか。運動部もすぐに練習に来るだろうし。
歩調を緩めることなく第二体育館に向かいながら綾崎は、艶っぽく瞬く流し目でわたしを一瞥し、「紅蒔は、共犯者が窓の下でスマホを受け取ったんじゃないかって疑ったんだよね? それで窓を開けて足跡を確認した」
「うん。まぁ何もなかったんだけどさ」
「それだよ」と綾崎は少し声を高くした。「足跡を残さなかったり消したりするトリックなんてぼくらの業界ではありふれてる。現実で実行可能なものに絞っても、やりようはいくらでもあるんだ」
「そのトリックの痕跡を屋外で捜そうってことね」
「それだけじゃないけどね。ミステリーにおいて先入観は禁物だよ」
「それくらいわかっとるわい」とわたしはむくれて見せた。
でも実は、偉そうに講釈しおってからに! というほど不快でもない。
「それは失礼」綾崎はキザったらしく肩をすくめた。
第二体育館の東側は駐車場になっていてアスファルトで舗装されているが、南北と西側──更衣室の窓のあるほうは土のままだ。ただし、西側以外の外周部分には犬走りと呼ばれる道幅二メートルほどのコンクリートの通路がある。
到着したわたしたちは、落としたコンタクトレンズを捜すときのように目を凝らして──陰になっている所ではスマホのライトに頼りつつ──周辺の地面と犬走り、体育館の外壁をつぶさに調べ上げた。
結果、明け方に降った雨のせいか、窓の近く以外でも人間の足跡は見つからなかった。そう、人間の、は。
「これって何の足跡だろ?」
例の窓の下でしゃがみ込んでわたしは、体育館の外壁にぴたりと沿って延びる、四本指の小さな足跡らしきものを見ながら言った。北側の角から来て窓の下で折り返している。しっぽの跡のような細い線も断続的に続いていて、小動物の足跡に見える。
「んー」腰を屈めて観察していた綾崎は、上体を起こして答えた。「壁際を走る習性のある小動物っていうと、たぶんネズミじゃないかな」
と聞いて猫石の犬顔が瞼に浮かんだ。ネズミが出たと言っていたのだった。
「まだ捕まってなかったんだ」
「学校で見たの?」
と、ちょっと嫌そうに言う綾崎に猫石のことを説明した。
「じゃあやっぱりネズミなんだね」綾崎は納得した様子だった。
「事件と関係あると思う?」
「動物を使ったトリック自体は昔からあるね。ただ、ネズミだからねぇ。スマホを運搬させるのも難しいだろうし」
「そうよね」じゃあやっぱり無関係か。「でも、それなら足跡消失トリックはどうなるの?」ほかにそれらしい痕跡は見当たらないのだ。「まさか窓から放り投げて、犬走りの端に立った共犯者に角から手を伸ばさせてナイスキャッチしてもらった、なんて言うんじゃないでしょうね?」
更衣室の窓から近いほうの角──向かって北側──でも二十メートル近く離れている。野球のマウンドからホームまでの距離とほとんど同じだ。届かせるだけなら何とかなるかもしれないけど、精密にコントロールして投げ渡すのはプロ野球選手でもなければ無理だろう。わずかでも逸れたら犬走りから出なければキャッチできなくなる。つまり土の地面に足跡を残すことになるリスクが高く、とてもじゃないけど確実性がない。わたしならトリックとして採用しない。
「それはないだろうね」綾崎も同意見のようだった。
「かといって──」窓の構造と塀の高さを考えると、「塀の外の共犯者に投げ渡すのはもっと難しいでしょ? もう共犯じゃないって考えるしかなくない?」
「ううん……」綾崎は緩く腕組みして秋晴れの空を仰いで考える。顔の向きを戻すと、「単独犯とすると犯行の方法がなさそうなのがね」
「窓から受け取ったとすると痕跡を一切残さないタイプのトリックだったってことになると思うけど」そんなことできるの?
「現実で可能か否かは断言できないけど、少なくともぼくの小説では思いついても書かないね」
「ノーヒントのミステリーは本格ミステリじゃないもんね」
そういうこと、とうなずいた綾崎の口元が、ふっと綻んだ。
「何、ニヤニヤしてんのさ?」
「謎が深まってきたと思ってね」
わたしはあきれた。「ミステリオタクめ」
「仕事熱心と言ってほしいな」
「それは失礼」わたしはわざとらしく綾崎の真似をした。
笑われた。
笑った。
へへっ。
次に向かったのは、更衣室に入った可能性がある最後の一人、有佐美波の所だった。長宝院の忠実なる子分であるところの有佐は、その忠誠心からか、親分と同じ硬式テニス部に所属している。
屋内テニスコート──四面もあってかなり広い──を見渡すと、まずコートで躍動する長宝院が目に入り、次いで端のほうで休んでいる有佐を見つけた。
ちょうどいい、とそそくさと忍び寄り、やほー、と親しげに声を掛けた。
「──ちっ」しかし有佐は、わたしたちを認めるなり忌々しそうに舌打ちしてきた。
何それ、と訝るも、憎しみのこもった有佐の視線がわたしの
「今わたしのこと馬鹿にしたでしょっ?!」極めて希少なAAA級の有佐はヒステリックに指摘してきた。
被害妄想がすぎる、と思って若干面倒くさい気分になったわたしだったけれど、更衣室で見たB組のお胸事情を思い起こすと有佐に同情しないでもなかった。おっぱい星人の丸眼鏡にかなうほどではないにしろ長宝院をはじめ程よく豊満な美巨乳が多く、控えめな子でも有佐ほどの断崖絶壁はいないのだ。自分一人だけが持たざる者になる環境にいたのでは劣等感が肥大化してしまうのも仕方ないのかもしれない。
「そんなことあらへんで」と優しい顔を繕ってわたしが答えると、
「京言葉やめろ。ウザい」有佐は長宝院と同じようなことを言う。「あと、そのニヨニヨ顔もやめろ。ウザすぎ」
「ほんま、かんにんえ」
はぁ、と悲愴感を吐き出すようにくたびれた溜め息をつくと有佐は、尋ねられもしないうちに先んじて反論してきた。
「わたしじゃない。授業中に更衣室のほうに行ったのはトイレしたかったからで、更衣室には入ってないから」
「ふうん」と疑わしげに鼻息で応じて綾崎は、口を開いた。「稲庭健人のことで一悶着あったって聞いたけど?」
有佐は煩わしそうに眉間を険しくし、「誰から聞いたか知らないけど、みんな誤解してる。人間って自分の見たいものしか見ようとしない生き物でね、わたしが振られたすぐ後に稲庭先輩とユリアが付き合いだしたから下世話なストーリーをおもしろおかしく妄想してるのよ。実際にはみんなが望むようなことは何もなかった。貧乳女が振られたっていう、ただそれだけのつまらない話。もう終わったことよ」
綾崎は質問を転じる。「じゃあユリアには何のわだかまりもないっていうの? あの気性だと大変なんじゃない?」
「そりゃあ腹が立つときもあるけど、だからって仲が悪いわけじゃない。普通……とはちょっと違うかもしれないけど、ちゃんと友達だよ」
有佐から嘘の気配は感じられない。
と思うけど、しかしどうだろうか。嘘の上手い女はいくらでもいる。表では友達のふりをしていても裏では陰口三昧というのもありふれている。
綾崎も有佐を信じきっているようには見えず、どこまでも冷徹に観察していた──その横顔はやはり誰よりも美しく、長いまつ毛が照明を受けて妖しくひらめくと、こんな時なのにドキッとしてしまう。
有佐と別れたわたしたちは、証言の裏取りも兼ねて稲庭に会いに行く。図書館に併設された自習室に着くと、案にたがわず彼は勉強に励んでいた。夜這星高校の生徒は大半が有名大学を受験するのだ。
話しかけると、稲庭は、「悪いけど、用があるなら後にしてくれ」と最初はけんもほろろな様子だったが、長宝院の名を出すと怪訝そうに眉をひそめながらも応えてくれた。というより、逆に聞かれた。廊下に出るなり、
「ユリア、俺のこと何て言ってた?」
話の前提が噛み合っていないようだった。
何か思い違いをしているんじゃないですか。
しかし、そう尋ねようとするわたしを制するように綾崎が先んじて口を開いた。
「彼氏から連絡がないってしょげてたよ」
何か考えがあるのか、とわたしは口をつぐんで静観する。
稲庭は幾分か安堵したように口調を柔らかくした。「怒ってはいないんだな?」
「うん」と綾崎はうなずく。「ぼくらも詳しくは聞いてないんだけど、喧嘩でもしたの?」
「まぁたいしたことじゃないんだがな」稲庭は決まり悪そうに曖昧に肯定した。
「深く聞いても大丈夫?」綾崎は人のよさそうな顔で聞く。「いつも自信満々のユリアがおとなしいとぼくらも調子狂うんだよね」
話を合わせて情報を引き出そうという魂胆か、とわたしはようやく理解した。
「心配掛けちまったみたいだな」
そして稲庭が恥ずかしそうに答えたところによると、彼を独占したい長宝院とその束縛に反発する彼という構図の対立のようだった。
「姉御らしいっちゃらしいですけど、彼氏を独り占めしようなんてちょっと非常識ですね」
などと安直に追従してみせたわたしに、稲庭は我が意を得たりとばかりに強くうなずいた。
「そうなんだよ。彼女を何人も作らないと世間から白い目で見られる男の立場も少しはわかってほしいもんだよ」
「でも、嫌いになったわけじゃないんでしょ?」綾崎が質問した。
「そりゃもちろん」
「それなら根気良く話し合ってみたらいいと思うよ」綾崎は言う。「意外と話のわかる女だよ、ユリアは」
稲庭は場都合が悪そうに後ろ頭を掻いた。「わかってはいるんだがな」
「あ、でも」という不意の高い声は綾崎。「今ちょっとユリアのスマホがなくなってて直接会わないとどうしようもない状況だから、そこは気をつけてね」
「どういうことだ?」
「実は──」と綾崎は事の次第を語って聞かせ、「こっちも解決しないといけないんだけど、何か思い当たる節はない?」
少し思案して稲庭はかぶりを振った。犯人の心当たりはないという。
「ちょっと小耳に挟んだんだけど」と綾崎は淀みなく質問を転ずる。「二年B組の有佐美波からユリアが健人を奪ったというのは事実?」
「いやいや」稲庭はやや口早に否定した。「普通に有佐の告白を断っただけで、そんな妙なことにはなってないよ」
「ちなみになんだけど、今日の一時間目は何だった?」
「?」稲庭は不可解そうに疑問の色を浮かべた。「色雲の倫理だったが……?」
「三年の教室で受けてたの?」
「そうだが──」ここで稲庭はアリバイを確認されていることに気づいたようだった。「当たり前だが、俺はその時間はずっと教室にいたよ。色雲以外は誰も出ていない──これでいいか?」
「うん、ありがと」としおらしく装った綾崎は、しかし抜け目はない。共犯が可能だった人物は洩れなくチェックするつもりなのだろう。「色雲がいなかったのは何時から何時だったか覚えてる?」
「あー、何時だったかなぁ。たしか半分くらいのところで職員室にプリントを取りに行くとか言って出てったはずだから、だいたい九時二十五分くらいじゃないか。どれくらい不在だったか正確にはわからないけど、単に職員室に行って戻ってくるだけにしては少し長かったような気はする。ただまぁ、俺らは俺らで共通テストの過去問の早解きをやらされてたから主観的には一瞬だったよ」
ていうかよ、と稲庭は話の流れを変える。
「色雲のアリバイを聞いても仕方ないんじゃねぇか。あいつとユリアに特別な関わりなんてないんだから、悪戯する理由もないだろ?」
諭すようにも聞こえる口調だった。
「念のためだよ」
と、しれっと答えて綾崎は、礼を言って立ち去ろうとする。わたしも、「せんきゅー、パイセン! 今度姉御の恥ずかしい写真見せてくれよな! うんと過激なやつな!」と爽やかに続けた。
変な顔された。