ワトソンレースは始まらない   作:虫野律

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 校舎の二階にある自動販売機で宇治抹茶ラテ──宇治産特有の深い香りが好きで愛飲している──を買って一息つきながらわたしは、あちあちミルクティーをちびちびやっている綾崎に言った。

 

「共犯を疑うならB組の男子──桜坂(さくらざか)咲哉(さくや)が一番怪しいんじゃない?」

 

 人見はああ言っていたが、長宝院ほど個性的だと合わない人はとことん合わないだろう。同じクラスにそんな人物がいたら、しかも逆らえないと来たら相当なストレスに違いない──動機としては十分に思えた。

 

「ほかのクラスが情報の授業してるパソコン室でレポートっていっても自習は自習なんだから、こっそり抜け出すのも不可能じゃなさそうだけど……」

 

 と目で綾崎に意見を求めると、

 

「うーん、難しいんじゃないかなぁ。ぼくも見てたわけじゃないから断言はできないけど、情報っていうと不動(ふどう)だよ? あの人、いつも咲哉のことちらちら見てるから気づかれないでっていうのは至難の業だよ」

 

 情報教師の不動は化粧っけのない色白のアラサー女で、独特の平坦なしゃべり方や形式ばった律儀な受け答えから、一部の口さがない生徒からはロボ先生と呼ばれている。

 

「まぁでも一応確認しとこうぜ」

 

 というわけで、桜坂がボーカリストを務める軽音楽部の部室を訪ねた。

 桜坂を中心にしてギター、ベース、キーボード、ドラムが配置され、一昔前の邦ロックを演奏していたが、不躾な闖入者に気づくと、ふっとメロディーが途切れて、しんとなった。部員の少女たちが、判断を仰ぐように──あるいは頼り甘えるように──うち揃って桜坂の背中に一瞥をやった。

 その様から艶っぽい関係のニュアンスをわたしは嗅ぎ取った。訝しそうにしながも自ら口を開こうとする気色を見せない彼女たちのしおらしい態度が、その香りをより芳醇なものへと変える。

 桜坂が口を切った。

 

「入部希望ってわけじゃなさそうだな──ユリアの件か?」

 

 彼の少しアンニュイで、それでいて甘やかなハスキーボイスがするりと耳に入り込んできて快美感たっぷりに女の芯に響き、ぞくぞくっとしてしまう。綾崎とは別ベクトルの魔性を具えた恐ろしい男だった。

 

「悪い男よのぅ」

 

 細君よろしく静かに控えている女たちを目の端で捉えながらわたしが言うと、

 

「俺を疑ってんのか?」桜坂は斜め上から核心を衝いた。

 

「疑ってるといえばたしかにそうだけど、どちらかというと疑わなくてよくするために話を聞きに来たって感じかな」綾崎はこれ幸いと便乗して小説家らしく言葉巧みに誘導する。「咲哉は一時間目のレポートの時、パソコン室から出てないよね?」

 

「そりゃそうだろ。授業中なんだから誰も出てねぇよ」桜坂は察し良く答える。「アリバイ証人が欲しいなら不動に行けよ。あいつなら確実だろ?」

 

 うなずいて同意すると綾崎は、「咲哉は誰が犯人だと思う?」

 

「さぁな、俺は名探偵じゃねぇからわかんねぇよ」

 

「ん、りょーかい」綾崎は軽く応じた。

 

 続いて職員室に行き、自分のデスクで姿勢良くパソコンを叩いていた不動に桜坂のアリバイを尋ねた。すると、

 

「はい、桜坂君の言うとおりです」昔のSF映画に出てくるロボットを思わせる起伏のない口調で不動は答えた。「補足いたしますと、ほかの生徒も、もちろんわたしもパソコン室から出ませんでした」

 

 あまりに人間味のない言いぶりにわたしには、「あ、はい」としか答えられなかったが、

 

「ロボ先生はユリアのスマホを盗んだ犯人に心当たりはありませんか?」綾崎は泰然としている。

 

「ありません」ロボ先生、もとい不動は表情一つ動かさずに端的に答えた。

 

「動機も見当がつかないですか?」綾崎は質問を重ねる。

 

「つきません」

 

「犯行の方法も?」

 

「わかりません」

 

 打てば響くというような淀みのない応答に、わたしはついふざけてみたくなった。

 

「不動先生は桜坂咲哉に恋をしていますか?」

 

「恋をしていま──」惜しくもあと少しのところで不動はフリーズしてしまった。かと思ったら急に解凍し、「な、何を言うのよっ」と頬をオーバーヒートさせる。

 

「何てわかりやすい女」とあきれるわたしに、

 

「犯人には向いてないね」とうなずく綾崎に、

 

「教師にもね」と同調を広げるわたし。

 

「用が済んだのなら退室願います」と、これは明らかに繕った澄まし顔で不動は言った。「ここは本来生徒がいていい場所ではありませんよ」

 

 去り際、「もし不動先生が児童生徒性暴力防止法違反で捕まったら、『いつかヤると思ってました』って言っとくから安心してくれよな!」と職員室に響き渡るようなはっきりとした声で言い放っておいた。

 

 座がざわっとしたが、後悔も反省もしていない。

 

 

 

 

 

 

 それはともあれ、事件のほうは悩ましい。

 

「あれ、これ詰んでね?」とわたしは思い及んだ。「犯人、動機、方法のどの糸口も、掴むどころか指先にかすりもしてなくない?」

 

 どこへ向かっているのか知らないが迷いのない足取りの綾崎の横を歩きながら尋ねると、

 

「うん」推理作家はあっさりと認めた。所詮は他人事、コップの中の嵐──珍事件とでも思っているのか、「だから今日のところはお開きにしよう。がんばっても駄目な時は駄目なものだし、お腹も空いたしね」

 

 廊下の窓の向こうには、黄昏(たそがれ)が通り過ぎた後の寂寞(せきばく)とした宵闇が満ちている。スマホを見れば、午後五時半になろうとしていた。たしかにわたしも空腹は感じているけど、

 

「長宝院には何て言えばいいのよ……」

 

「進捗を聞かれたらありのまま報告するしないね」

 

「おこられたくないんだけど」

 

「それは大丈夫じゃない?」と綾崎は軽く言う。「今日聞いた人物像のとおりなら、努力してれば多少は大目に見てくれそうだよ」

 

 むぅ、とジト目をやって、「そんなのわかんないじゃん。反省してるふりしなきゃいけないこっちの身にもなってよね」

 

 綾崎はくすっとおかしそうに笑った。「紅蒔って、いい性格してるよね」

 

「君には負けるよ」

 

 応酬を期待するでもなく期待した軽口には、

 

 ──ぐぅ。

 

 しかし腹の虫が答えた。綾崎を見たら、ちょっとはにかんでいた。

 かわいい。

 

 

 

 

 

 

 翌朝、登校して校門をくぐると、ゴム手袋をした猫石と行き合った。家庭ごみ用の白半透明の袋を持ってもいる。

 

「おはよう、早いね」と猫石のほうから声を掛けてきた。

 

 挨拶を返し、「何するんですか?」と聞くと、

 

「罠にネズミが掛かってたんだよ」猫石は袋を軽く持ち上げて示し、「回収しに行くとこ」

 

「へぇ……」

 

 ネズミかぁ、と想像する。サイコな笑顔が魅力的な世界一有名らしい某アニメキャラクターと人を感電死させる(おそれ)甚だしいイカレた戦闘力の某ゲームキャラクターしか思い浮かばない。本物を見てみたいかも、と何となく思い立ち、

 

「見学させてもらってもいいですか?」

 

 と言ってみたら、

 

「駄目ではないけど、気持ちのいいものではないよ?」

 

 猫石は眉間に曖昧な皺を刻んで答えた。

 

「ばっちこいっす」

 

「ばっちぃから触っちゃ駄目だよ」 

 

「あい」

 

 猫石から、猫っぽい性格の人はペットは犬派で犬っぽい人は猫派という持論を聞きながら歩くこと数分、たどり着いたのは食堂棟の裏、搬入口だった。

 その内壁の際に敷き詰められた粘着シートにそいつはいた。褐色っぽい毛色の小さな体に細長いしっぽの生えたそのネズミは、べったりとまとわりついた粘着材に完全に捕らえらながらもまだ息があるようで、浅い呼吸を繰り返しては身をよじろうとしたり突っ張るようにして四肢に力を入れたりしていた。

 

「見た目はそんなに怖くないね」一歩引いた位置で前傾に屈んで眺めるわたしが言った。「かわいいかかわいくないかでいえば、ぎりぎりかわいいような気がする」

 

「助けないよ?」猫石は言う。「〈情けは人の為ならず〉って言うでしょ」

 

「それ、ことわざとしては誤用ですよ」

 

「ゼロベースで解釈すればいいのさ」猫石はハミングでもするように言うと、「さぁさ、そろそろ片付けちゃうよ」

 

「うん」

 

 達者でな、とネズミに別れを告げて更に一歩離れる──と、ふと違和感を覚えた。とっさに、

 

「ちょっと待ってください!」

 

 と粘着シートを折り畳んでネズミを挟もうとしていた猫石を止めた。訝しむ彼女に、

 

「そのネズミ、何か変じゃないですか?」

 

「普通のドブネズミだと思うけど?」

 

 更に怪訝を深める猫石を横目にネズミを観察する。

 ──あっ!

 すぐにその違和感の正体に気づいた。

 後ろ足だ。その指の数がおかしいのだ──いや、こちらが正しいのか。

 

「猫石さん、ネズミの後ろ足の指はみんな五本なんですか?」

 

 猫石は、なぜそんなことを聞くのか、というような不思議そうな顔をしながらも、「そうだよ。人間の生活圏に棲息してるネズミは前足が四本指で後ろ足が五本指だね」

 

 逸る気持ちを抑えて質問を重ねる。

 

「ネズミ以外で壁際を走る小動物をここ数日の間に学校で見たり、見たっていう話を聞いたりしましたか?」

 

「いや、ないよ。ここ数日どころか、わたしが雇われたウン年前から今日までこの学園内でそんな動物を見たことはないよ。聞いたこともないし」

 

 ということは、やっぱりあの足跡は偽物!

 体育館裏の足跡はすべて四本指だった。現実と矛盾している以上、そう考えるよりほかはない。誰かがネズミの足跡に偽装してつけたのだ。というより、十中八九長宝院のスマホを盗んだ犯人の仕業だろう。

 でも、何のために?

 あの足跡をつけることにどんな意味がある?

 それとも、スマホ消失トリックの意図せぬ痕跡なのだろうか? しかし、偶然にしてはネズミの足跡としてのクオリティーが高すぎるように思える。意図しなければああはならないだろう。 

 やっぱり故意にネズミの足跡に偽装したんだ。

 しかし、その目的は皆目見当がつかない。

 方法だってそうだ。昨日は明け方に激しい雨が降っている。地面がならされて足跡がリセットされていたのだ。となれば、その後に偽装工作をしたことになるが、問題は偽の足跡以外は残されていなかったことだ。

 足跡だけが突然出現したとでもいうの? そんな馬鹿な……。

 

「急に考え込んじゃって、どうしたのさ?」

 

 耳に飛び込んできた声にふと気づいた。見ると、怪訝と心配をない交ぜにしたような顔をしていた猫石が、

 

「やっと反応してくれた」

 

 と安堵の色を浮かべた。沈思黙考に没頭するあまり猫石の声が聞こえなくなっていたようだった。

 

「大丈夫? 具合悪いの?」と尋ねてくる。

 

「ごめんなさい、ちょっと考え事に集中しすぎてたみたいで──」

 

 そこまで言葉にして、はっとした。もしかしてこれか? と思い当たったのだ。

 もしも当たっているなら、あるかもしれない。本当の痕跡が。

 

「わたし、行きますね! ありがとうございました!」と猫石にやり、次いでネズミにも、「じゃあな! ネズキチ! 来世で会おうぜぇ!」と送り、わたしは脱兎のごとく駆け出した。

 

 そして、目的地の体育館裏に到着した。晴れてはいるが、体育館に遮られて濃密な影に覆われている。人もいない。

 わたしはスマホのライトを点け、昨日と同じように丹念に、しかし今度は意識していまだ残されている偽の足跡を見ないようにして地面や外壁を調べた。

 

「っ! これは……」

 

 見つけたのは、目を凝らしても容易には視認できないほどの、ほんのかすかな痕跡だった。釣り糸を引きずったような細い細い跡が、更衣室の窓の下から近いほうの角まで、つまり偽の足跡に半ば重なるようにして延びていたのだ。

 やっぱりわたしの推理は間違っていなかった!

 偽の足跡をつけた目的は、不注意性盲目に陥らせるため!

 つまりはミスディレクション。トリックの痕跡である糸の跡から意識を逸らさせて、それを認識させないようにするのが目的だったのだ。

 推理──パズルのピースが嵌まる感覚に脳が震える。

 でもまだだ。まだ全体像は見えてこない。

 瞳を閉じて再び推理の海に意識を沈める。藍色に澄んで揺蕩う世界をまなうらに幻視し、次の瞬間には、ふっと音が消えた。

 目にした、耳にした情報が潮流に乗ってぐるぐると渦を巻いている。

 

〈色雲のアリバイを聞いても仕方ないんじゃねぇか。あいつとユリアに特別な関わりなんてないんだから、悪戯する理由もないだろ?〉

〈俺はその時間はずっと教室にいたよ。色雲以外は誰も出ていない〉

〈今わたしのこと馬鹿にしたでしょっ?!〉

〈ミステリーにおいて先入観は禁物だよ〉

〈明るいうちに現場を確認しておこう〉

〈そういえばあなたも入ってたね〉

〈網羅的ではないにしても更衣室に入った人物を聞いておいて損はないでしょ?〉

〈不意に催した際にも対応できるように通勤に使っているSUVにも常に忍ばせているし〉

〈プラスチック製の立体物を作る3Dプリンターというものがあるだろう?〉

〈ふふ、具体的にはIカップ以上が大好物なんだ。逆にそれ未満は眼中にないんだけどね。たとえH75でなかなかの量感があっても断固としてお断りだよ〉

 

 ──かちっ。

 

 ひらめきは音。

 推理は旋律。

 物語は楽曲。

 それは瞬く間に組み上がり。

 瞼を開ければ、真実はこの手に。

 世界はすでに裏返っている。

 

「この勝負、わたしの勝ちだ……!」

 

 つぶやかれた言の葉は、色なき風に舞い上がった。

 

 

 

 

 

 

〈読者への挑戦〉

 謎を解くために必要な手掛かりはすべて記述した。ハイエンドスマートフォン消失事件の真相を推理せよ。

 なお、本作は若餅紅蒔の一人称視点で書かれているが、その地の文に故意の嘘は含まれていない。

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