姉は不器用な人だ。
料理をすれば猫が暴れ回ったのかというほど散らかすし、できたものは幼稚園児の作った粘土細工のような残念な有り
運動だっててんで駄目。姉の体の動かし方はどうもちぐはぐで、壊れたロボットを見ているかのようだった。
勉強も小学三年生のころには周りについていけなくなっていた。小学校のテストなんて、とりあえず授業に参加さえしていたらたとえ先生の話を真面目に聞いていなかったとしてもそれなりの点数は取れるものだけど、姉は例外のようだった。
けど、姉は努力家だった。
それが目に見える形で報われるとは限らないけど、というか報われないことのほうが圧倒的に多いけど、ひたむきに努力していた。その甲斐あってか、年を重ねるにつれ、人並みか否かは措いておくとして、料理はマシになっていっていたし、ぎりぎりの成績ではあったけど高校を卒業できたし、できないなりにどうにかこうにか生きていた。
それに、姉は人の痛みがわかる人だ。
わたしが小学生の時のことだ。当時、わたしと仲の良かったクラスメイト──仮にAちゃんとする──がいじめの標的になってしまった。そういうときの上手い立ち回りなんてわからなかったわたしは、馬鹿正直に抗議の声を上げてしまった。
その結果、今度はわたしがいじめられるようになった。おかしかったのは、昨日までいじめられていたAちゃんまでいじめっ子に成り下がってしまったことだ。
わたしは学校に行かなくなった。人間不信と言うと大げさかもしれないけど、そんな感じだった。人が怖かった。
そんなふうに落ち込んでいたわたしを、姉は何かと構ってくれた。どうやら心配していたらしく、一生懸命に元気づけようとしてくれた。
その時に作ってくれた、わたしの好物のナポリタンの味は、いろんな意味で忘れられない。二度と食べたいとは思えないほどひどすぎる出来だったけど、台所のあまりの散らかりっぷりに一緒に母に叱られてしまったけど、何だか笑えてきて学校に行こうという気になれた。大切な思い出だ。
姉は、いろいろと駄目なところだらけだけど、とても優しい心を持っている。意図的に人を傷つけるような人ではない。だから──、
「姉が人を殺したなんて、わたしには信じられません。姉はそんなことをするような人じゃないです」
身内贔屓そのものの意見を聞いた綾崎先輩は──彼はわたしの隣に座っている──、「なるほど」と思案げに顎に手を当てた。その、色気のある長いまつ毛が瞬くと、
「情状証人としては悪くないエピソードだけど、その方針で攻めるなら罪状を否認しないほうがいいね」
などと言って、綾崎先輩が味方なのかわからなくなるような意地悪な笑みを口元にたたえた。
わたしは不安に駆られ、
「さっき綾崎先輩は姉は無実だと思ってるって言ってましたけど、どうしてそう思ったんですか?」
「あ、怒っちゃった?」わたしを見る大きな瞳に悪びれる色はなく、「ごめんごめん」と言う声は楽しげにも聞こえた。綾崎先輩は仕切り直すように、「──冤罪を疑った理由はね、返り血を浴びていなかったみたいだからだよ」
「返り血?」おうむ返しに尋ねながらわたしは、そんな情報あったかな、と考えていた。なかったと思うんだけど、「そんな話どこで聞いたんですか?」
すると綾崎先輩は、ポケットからスマホを取り出して手早く操作し、「これだよ」と言って画面をわたしに見せた。
「……」わたしの眉間に自然と力が入った。
そこには、血まみれの遺体のそばで泣いている姉の画像が表示されていた。若者に絶大な支持を得ている某SNSに投稿された写真らしかった。わたしもチェックはしていたけど、情報の洪水に押し流され、見落としていた。
「現場は繁華街のど真ん中だったからね、夜行性の通行人が撮って上げたんだよ」綾崎先輩は事もなげに言って、「ほかの人のもあるよ」とパパッと写真を見せようとしたけど、
「いえ、大丈夫です」大丈夫じゃないわたしは、かぶりを振ってそれを拒否した。凄惨な光景はあまり見たくない。
「ん」綾崎先輩はスマホを下ろし、「もうわかったと思うけど、お姉さんの衣服には
言われてみればたしかに、という説得力があった。けど、すぐに疑問が湧く。
「じゃあどうして警察は姉を犯人だというんですか?」
目撃証言と状況証拠に矛盾があるなら断定まではしないんじゃないの。
「それは社会のニーズが原因だよ」
「ふぇ? ニーズ?」予想外にポップな横文字が返ってきて首をかしげた。
「うん。男性が殺害されたら、悪感情のパンデミックでも起きるのかまるで集団ヒステリーみたいに皆プンプン怒るよね? 早く犯人を捕まえて極刑に処せって感じで。昼夜を問わず犯人を憎む声がネットに溢れて、テレビも馬鹿の一つ覚えみたいにそればかり報道する。それなのに警察が成果を挙げられないでいると、どうなると思う?」
「あ」と気づいたわたしに、
「そう」と綾崎先輩はうなずき、「世論の怒りの矛先が今度は警察に向く。昔、連続男児誘拐殺人事件の犯人をなかなか捕まえられなかった時は、その所轄の県警本部と警察署の幹部が何人も辞任する事態になった。警察としては彼女らの二の舞を演じたくないんだ。そういうわけで、社会の関心──という名の圧の強い男殺しの場合は往々にして強引かつ杜撰に捜査が進められる」
「そんな……」わたしは心を掻き乱されていた。
敵はネットだけじゃなかった。警察までもがそうだったなんて、そんなの絶望するしかないじゃないか。
心の暗雲が濃くなっていき、目の前に闇が降り注ぐ。
けれど、
「大丈夫だよ」不意に聞こえた麗らかな声が、わたしを春の光の中に引き戻した。「お姉さんが本当に何もしていないなら、ぼくが必ず証明してみせる」
でもどうやって。一介の高校生が社会や警察に打ち勝つなんて無理だよ。
喉まで出た反論めいたその問いは、綾崎先輩の自信に満ちた微笑に遮られた。
「これでもぼくは天才推理作家で──」そこでもったいをつけるように間を取った綾崎先輩は、小悪魔な笑みを目元に漂わせ、歌うように言った。「しかも男の子だからね」
わたしは今ようやく理解した。ちっぽけなわたしの隣にいるこのきれいな探偵は、最強で最凶の
「よし、じゃあ次は弁護士先生に会いに行こっか」
姉のことをひととおり聞きおえると綾崎先輩は、やや唐突にそう宣言して立ち上がった。
担当の国選弁護人の協力を得て、情報を整理したり聞き込み捜査なりを円滑に進めたりしようということらしい。そして、わたしもそれに参加することは確定しているようだった──どうせ学校にも行けないし構わないのだけど。
「小春は風花さんの弁護士の人と面識はある?」綾崎先輩に聞かれ、
「ううん」わたしはかぶりを振った。親族といっても未成年の妹に挨拶に来る必要性はないのだろう。
「あ、そ」綾崎先輩は落胆したふうでもなくさらりと答え、「じゃ、ま、面倒だしアポなしで突撃しますか。ぼくの美貌を見せたほうが話が早いだろうしね」
「え、どこにですか」
「そりゃあ法律事務所さ」当たり前でしょ? と言わんばかりの口ぶりだった。「一野風花の国選弁護人・
マジかこの人、と憮然として立ち尽くすわたしの手を、綾崎先輩はためらう様子もなく取った──瞬間、わたしの頭は真っ白になって、たぶん顔は真っ赤。
「ほら、早く行くよ」
あわあわしているわたしを引っ張って綾崎先輩は、迷いのない足取りで歩きだした。
そして、タクシーをつかまえて──料金は綾崎先輩が出してくれた──やって来たのは、駅前にある、地下駐車場付きの八階建ての小洒落たビルだった。入り口の前にある縦長の自立看板に、『弁護士法人法橋法律事務所』とある。このビルすべてが事務所のようだった。
姉の弁護士の名字が入っているのは、綾崎先輩曰く、すこぶる優秀だった法橋司律の母が設立した事務所だからだそうだ。ちなみに、その母はすでに亡くなっていて、今は血縁のない弁護士が仕切っているらしい。
その話を聞いた時、わたしはスレでささやかれていた〈法橋司律は無能だ〉という噂を思い出した。それが本当なら、無能な二世弁護士なんて腫れ物でしかないだろう、事務所内の空気はあまりいいものではないのではないか、というお節介まじりの邪推が脳裏をよぎった。あるいは、特に有能な母親と比較したら、という前提での評価だろうか、だとしたらかわいそうだな、とも。
「こんにちは、アポイントメントはおありでしょ──ええっ?! 嘘っ、すっごい美形っ!!」
木目調の自動ドアをくぐってすぐの受付カウンターにいた小綺麗な女の人──たぶん事務員だろう──が、応対マニュアルを放り投げて綾崎先輩に見とれた。気持ちはわかるけど依頼人の親族としては、ちゃんと仕事しろ、と言いたい。あ、こら、メスい目で未成年を見るな。
それに気づかないはずのない綾崎先輩は、
「法橋司律先生はいらっしゃいますか?」
と
「しょ、少々お待ちくだちゃいっ」
上擦った声で、しかも噛み噛みで答えた──わたしは自分のことを棚に上げて白けた眼差しを送っていた。
一方、綾崎先輩は、「へへ、ちょろいもんだね」と悪い笑みを浮かべていた。
そうしてわたしたちは、応接室で法橋司律と対面した。
法橋の第一印象は、地味でモテなそうなアラサー女、というものだった。
後ろで結われたセミロングの黒髪──いわゆるひっつめ髪──には艶がなく、色白の薄い顔立ちからは覇気や魅力のようなものは感じられず、黒縁眼鏡はいかにも要領の悪いガリ勉のようで頼りない。そして、興味とおびえのまじったような綾崎先輩への視線は男慣れしていない女そのものという感じだった──まるで自分を見ているようだ。
革張りのソファーに座って向かい合った法橋が、わたしを
「ええと、本日はどのようなご用件で──」
「一野風花さんの事件のことでちょっとね」綾崎先輩は食いぎみに答えた。
わたしがいることから予想はしていたのだろう、法橋に驚いた様子はなかった。ただ、気まずそうな皺を眉間に刻んではいた。
というと? と先を促す法橋に、綾崎先輩は軽い調子で質問した。
「法橋先生は風花さんが犯人だと思いますか?」
単刀直入なその問いは揺さぶって本音を見極めるためだろうか、などと考えるわたしはサスペンスドラマの見すぎなのだろうか。
しかし、法橋の目が泳いだのを見て、あながち的外れでもないかもしれない、と思う。その曖昧な視線は、心に引っかかるものがある、と物語っていた。判断に困るような事情があるのかもしれない。
「……いえ」ややあって静かに法橋は答えた。「風花さんが無実を主張している以上、わたしたちはそれを信じるだけです」
綾崎先輩の瞳が妖しく笑った。「お姉さん、嘘が下手だねぇ」
びくりと法橋が震えた。釣られたわけではないけど、わたしもどきっとした。
「返り血の不自然さには気づいてるんでしょ?」綾崎先輩の問いに、
「ええ、それはまぁ」と歯切れ悪く法橋。
「それなのに弁護士でありながら無実を信じきれてないってことは、報道されていない、嫌疑を強めるような事実があるってことだよね?」
「ええと……」と迷うように言い、しかし法橋は観念するように肩を脱力させた。「実は風花さんが虚偽の供述をしているようなんです」
「嘘……」わたしは思わずそう洩らしていた。姉はそんな器用な真似はできない。はずだ。「それは本当ですか?」
「ええ」法橋は神妙に、そして沈痛そうにうなずいた。
法橋が言うことには、姉の供述の内容はこうだ。
事件当日二十四時ごろ、姉は偶然、被害者の煎豆翼が公園で倒れているのを見つけ、慌てて駆け寄って包丁を抜き取った──この場面を通行人に目撃されて殺人犯だと間違われた。
その一方で姉のほうも、彼女が入っていったのと反対側の出入り口のほうへ逃げ去る人物──煎豆の婚約者で同じカフェで働く
しかし松原には明確なアリバイ──ファミレスで友人と話し込んでいたという──があり、姉の目撃証言は事実ではありえない。また、松原の写真を使った現場付近での警察や弁護士の聞き込み捜査でも姉の供述の裏は取れなかった。
姉は見間違いや虚偽の類いではないと主張しつづけているが、警察は犯人である姉が罪を逃れるために嘘をついているのだと断じ、法橋の事務所の刑事事件担当の者たちも概ねそう考えているという。
「つまり、その松原って人のアリバイを崩せれば姉は釈放されるんですよね?」
ミステリーには多少は造詣があるわたしは、事件の核心を理解した気になってそう尋ねた。真犯人はアリバイトリックを用いたに違いない、と。
しかし法橋は、「それは難しいですね」と答えた。「現実は探偵小説とは違います。事実として松原さんのご友人やファミレスの店員のアリバイ証言、さらには店の防犯カメラの映像がある以上、アリバイ崩しなどというものは不可能でしょう」
「そういう偽装をするのがトリックなんじゃないんですか?」わたしは隣に座る天才推理作家に助け──意見を求めた。「ね、そうですよね?」
しかし、期待していた答えは返ってこない。綾崎先輩は考え込むように顎に手を当てて口をつぐんでいて、こちらを見ようともしない。
途端にわたしは不安になった。まさか綾崎先輩まで敵になってしまったのだろうか、と。
それを掻き消すために──都合のいい言葉を聞きたくてもう一度尋ねようと口を開きかけたところで、
「次はお姉さんと、それから職場のカフェの人たちにも話を聞きに行こう」
綾崎先輩は言った。
綾崎先輩は聞いていた以上にマイペースな男の子のようだ、とわたしはわかってきていた。だから、
「あ、わかってると思うけど法橋さんも来てね。警察の立ち合いのない状態で面会したいし、車も出してほしいし──こんな美少年とドライブできるんだから役得でしょ? 感謝してね」
と一方的に決めた時にも、自分で美少年とか言っちゃうんだもんなぁ、という感心以外はなかった──法橋は目を白黒させていたけど。わたしにすがるような視線を寄越してきていたけど。
わたしはかぶりを振って、綾崎先輩はこういう人だから諦めて、と伝えた。後方彼女面というやつである。