地下駐車場に
その後部座席に乗り込んだ綾崎先輩を見た法橋が、残念そうに、「助手席じゃないのか」とつぶやくのをわたしは聞き逃さなかった。ちゃっかり楽しもうとするんじゃないよ、とこっそりとにらんでおいた。
そしてもちろん、わたしも後部座席に座った。綾崎先輩の隣だ。いいにおいがして、こんな時なのに表情筋が緩みそうになる。
ふと視線の気配を感じた。ルームミラーを見ると、法橋のあきれた目がわたしを見ていた。あなたも人のこと言えないじゃない、と言われているような気がしたけど、わたしは素知らぬふうを装った。
法橋の運転は、わたしの母よりは上手いけどタクシーよりは下手という具合だった。
地元の警察署に着くと、その建物内にある留置場に向かった。
面会室は中央で線対称に仕切られた八帖ほどの部屋で、カウンターテーブルの上のアクリル坂越しに向かい合って被疑者の人と話をするようになっていた。弁護士との接見という建前での面会のため警察職員の立ち合いはない。
ドラマのまんまだ、というのがわたしの感想だった。
今まで見たことがないくらいに姉の顔がやつれていたから。
いつかドラマで見た、強面刑事による拷問まがいの違法な取り調べシーンが脳裏に再生された。何と言ってよいかわからず、ただ口が乾いていく。
しかし綾崎先輩は飄々とした様子で、
「はじめまして、ぼくは妹さんの高校の先輩で、綾崎千宙って言います。気軽に千宙君って呼んでね」
と、たったの一文で敬語を放棄し、ほほえみさえ浮かべていた。
「え、あ、はい、有名人だから、それは知ってる、けど──」姉は面食らっていた。そしてなぜか顔色を窺うような自信なげな上目遣いに、「その、えと、千宙君先輩はどうしてここに……?」と尋ねた。
「ん、探偵ごっこのためだね」
「え、はぁ、探偵ごっこ? ですか?」姉はぼんやりした表情と口調で繰り返した──よくわかっていないときの姉の癖だ。
「そそ、ぼくって名探偵に憧れてるから」しかし綾崎先輩はそんなのお構いなしに話を進める。「早速だけど、事件のことを聞かせてほしい」
「わかりました」姉は神妙な面持ちでうなずいた。
「クエスチョン・ワン」綾崎先輩は人差し指を立てて、やたらと発音のいい英語を発した。「風花さんは煎豆翼さんを殺していない──それは本当?」
「本当だよっ!」姉は喚くように鋭い声を上げた。「嘘じゃないもんっ! 風花は絶対嘘ついてないっ!」
本当に余裕がなくなると一気に怒りのボルテージが上がって語調が強くなったり幼くなったりするのも、中学生くらいまでの姉にはよくあったことだ。最近ではめっきり見なくなっていたのにそうなるというのは嫌疑を掛けられるのがつらくてそれだけ参っているということなのだろうけど、慣れっこのわたしと違って 、初見の、それも男の子だと怖いのではないか、と心配になり、お姉ちゃん落ち着いて、となだめようとして、
「うん、やっぱりそうだよね」
しかしまったく動じずに微笑まじりにうなずいた綾崎先輩を見て、その言葉を飲み込んだ。
同じように口を開きかけていた法橋──わたし、綾崎先輩、法橋の並びで座っている──と無言の視線を交わし、小さくうなずき合った。綾崎先輩を信じて静観することにしたのだ。
「じゃあ風花さんが無実なのは確定として──」綾崎先輩は、「クエスチョン・ツー」とピースサインのように指を立て、蟹のように動かしながら、「風花さんは現場から逃げていく松原さんを見たんだよね? これも間違いない?」
「間違いない、です」綾崎先輩が至って平静だからか、その応対が上手いからか姉も落ち着きを取り戻していた。
ふんふん、とうなずいてから綾崎先輩は、
「クエスチョン・スリー」と三本目──薬指を立てた。「風花さんがその人物を松原さんだと判断した理由は何かな?」
「……え、何言ってるの?」姉は明らかに困惑していた。「鏡子さんは鏡子さんなんだから、鏡子さんなんだよ」
わたしは額に手を当てて天を仰いだ──くすんだ白い天井に遮られて、お姉ちゃんほんと馬鹿! と嘆く心の声が神に届くことはなさそうだった。
「なるほどたしかに」と真面目な顔で首肯した綾崎先輩のメンタルの強さ──仮面の頑強さには感心させられる。「完全無欠のすばらしい循環論法だね」
「え、ジュンカン……? 何かよくわかんないけど、ありがと」姉に小難しい皮肉は通じない。
「じゃあ次は──」綾崎先輩は四本目──小指を立てようとした。が、面倒になったのかその手を解いて膝の上に下ろした。「風花さんが事件のあった夜にその場所にいた理由を教えて」
──その瞬間、姉の表情が強張った。
「そ、それは……その……」と言葉に詰まりもする。
それが何を意味するのかわからず、わたしは姉の内心を探ろうと目を凝らす──けど、何も読み取れない。
少しして姉はようやく答えた。
「星が見たかった、から?」しかし疑問符付き。
「んー」綾崎先輩は考えるように視線を横に流した。が、瞬きをすると、「オッケー、ありがと。とりあえず今日のところはここまでね」と元の優しげな顔つきに戻っていた。
わたしたちが面会室を後にしようとすると、姉が、恐る恐る、そして思い切ったように尋ねてきた。
「あのっ、千宙君先輩は、わたしの味方なんですかっ?!」
上半身だけで振り向いて〈見返り美男図〉のような格好になった綾崎先輩は、アルカイック・スマイルめいたミステリアスな微笑をその流し目に浮かべ、
「もちろん」
自信たっぷりに言い切った。
姉の瞳がじわと潤み、その頬は赤く染まっていく。
そしてわたしは、あーあ、と思った。また一人綾崎先輩の魔性にやられちゃったよ、と。
何気なく法橋のほうに視線をやると、彼女も似たような──恋する乙女のようなふしだらな表情をしていた。
……法橋さん、お前もか?
被害者や被疑者の関係者を調べることを
煎豆が個人で経営していたそのカフェは、事件の後は休業している。なので、それぞれの自宅に押しかけるしかなく、最初に訪ねたのは、被害者の婚約者で、アリバイトリックを使った疑惑のある松原鏡子の自宅アパート──市の中心部にある駅から徒歩で二十分ほどの場所にある──だった。
二階の松原の部屋の呼び鈴を押すと、少ししてから、『……はい』と憂いに沈んだ声が答えた。
法橋が事情を説明すると、不快感をにじませながらもドアを開けてくれた。
現れた松原は消沈しきっていて髪もぼさぼさで肌も荒れていた。けど容姿自体はとても整っていて、本来の姿は明るく脱色したロングヘアがよく似合うモデル顔負けのスレンダー美女なのだとわかった。
松原はわたしと綾崎先輩を認めると、どうして高校生が? と思ったのだろう、訝しそうに眉をひそめた。
その疑問に答えるように綾崎先輩が先んじて口を切った。
「はじめまして、法橋法律事務所のアドバイザーをしている推理作家の綾崎千宙と申します」こちらは、とわたしを示し、「助手のアガサです」
淀みのなさすぎる真実まじりの嘘に唖然としかけるも、ハッとして調子を合わせた。
「アガサアリスと申します。お休みのところ申し訳ありませんが、事件の完全解決のためにどうかご協力お願いいたします」
松原の心中を思うと被疑者の妹だと名乗るわけにはいかない以上、身元については嘘をつくしかないのだ。
「見たことがあると思ったら、あの綾崎千宙君だったのね──でも、小説家が法律家のアドバイザー? 聞いたことないわね……」
松原はなおも
「被害者の煎豆さんと松原さんが婚約関係にあったというのは事実ですか?」
「ええ、そうよ」松原はつらそうに答えた。
「煎豆さんは、ほかの方と婚姻していたり婚約していたりしましたか?」
一般的には、法的な義務があるわけではないけど、男性は男性一人に対して三人から十人程度の女性で一つの家庭を築く。なお、その逆は制度レベルで存在しない。
しかし、松原は長い金髪を左右に揺らした。
「彼は少し変わっていて、一対一の関係がいいと言ってほかの女性のアプローチは断っていたわ」
変人でしょ?──悲しみを誤魔化すような自嘲の笑みをぎこちなく作って松原は聞いてきた。
「いいえ」綾崎先輩はうなずかなかった。「ぼくの両親もそうですから、ぼくにとってはかえってそちらのほうがしっくり来ます。存命であれば煎豆さんとは友人になれたかもしれませんね。残念です」
綾崎先輩よりも松原のほうが残念そうな表情を浮かべた。
綾崎先輩は質問を続ける。
「煎豆さんと被疑者の一野風花との関係はどうでしたか?」
「……良好だったと思うわ」少し考える間を置いてから松原は答えた。「風花ちゃんが翼君を殺したなんて、正直に言うと今でも半信半疑なのよ」
「ぼくらの調査したところによると、一野はあまり仕事のできるほうではなかったと聞きました。それが原因で叱られた彼女が逆恨みして事に及んだということはありえないでしょうか?」
「想像できないわね。風花ちゃんはどちらかというと内向的というか内罰的な子に見えたわ。何かあっても自分を責めるだけで外には向かないんじゃない?」
「煎豆さんはとてもお美しい方だったとお見受けしますが、彼に恋心を抱いた一野がすげなく袖にされた結果、その愛情が憎しみに反転したということもなさそうですか?」
松原は小首をかしげて、「ううん」と悩ましげに唸り、「ないと思うわ。あなたは男の子だからピンと来ないかもしれないけど、わたしたち女は振られるのが当たり前なのよ。そんなことでいちいち塞ぎ込んだり恨んだりしていたら生きていけないわ」
そこで松原はわたしと法橋を等分に見て、ねぇ? と同意の眼差しを寄越した。
わたしと法橋は仲良く首肯した。女同士の連帯感に場違いにもほっこりしてしまう。
「なるほど、わかりました」黒一点の綾崎先輩は寂しそうでもなく答え、聞き込みを続ける。「では、事件当日のことを伺います。その日も煎豆さんのカフェは営業していたんですよね?」
「ええ、通常どおり午前十一時から午後八時までやっていたわ」
「その日に何か変わったことはありませんでしたか?」
松原は即答する。「警察の方にも聞かれたけど、特になかったと思うわ。せいぜい
鞠子というのは、二十五歳の女性店員で、フルネームは
「長戸さんは頻繁に体調を崩されるのですか?」綾崎先輩の問いに、
「いえ、そんなことはないのだけど」と松原。「でも、おかしなことでもないでしょう? どんなに気をつけていても風邪を引いてしまうことはあるわ」
「もちろん、そのとおりです──では、ほかには何かありませんか? どんな些細なことでもいいので」
「そう言われてもねぇ……」と言いつつ松原は、視線を左上にやって記憶を掘り起こす素振りを見せた。口を挟まずに待っていると、数秒後、「たぶん関係ないけど」と断ってから、「うちの店は更衣室と休憩室が一緒になってるんだけど、あの日は開店前に──だいたい十時ごろね──そこで
どこのブランドのコートか尋ねられてもいないのに松原は、高校生には手を出せない価格帯の有名ハイブランドの名を口にし、スマホにその画像──白い無地のコートだ──を表示させて説明した、闇色の光を瞳にたたえたまま。
パッと見ではごく一般的なスプリングコートといったデザインで、とても高価なものには見えなかったけど、
「かわいいですね」と言っておいた。
でしょう、と軽く顎を引くと松原は、
「この色合いのものは好みじゃないから持ってなかったんだけど、これだけはビビっと来て一目惚れしちゃったのよ。それで翼君に買ってもらったものだったんだけど、風花ちゃんがね、ものすごくはしゃいだ感じでドアを開けて休憩室に入ってきたの。何事かと思って顔を向けた時にはもう遅くて、彼女、盛大につまずいちゃって、持っていたナポリタンをコートにぶちまけちゃったのよ」
わたしは申し訳なさと情けなさで涙が溢れそうになった。中学生のころから何も成長してないじゃないの。
「お姉ち……一野はなぜそんな時間にナポリタンを?」
「風花ちゃんは一足先に来てナポリタンの試験を受けていたらしくて、つまりね、翼君に店で出せる出来だと合格を貰えたのがうれしくてテンションが上がっちゃったみたいなのよ」
姉ならやりそうだ──いや、確実にやる。一部始終が容易に目に浮かぶ。
わたしがあまりにも沈痛な面持ちをするからか、松原は微苦笑し、
「翼君のマンションはお店のすぐ近くなんだけど、不幸中の幸いにも彼の家にわたしの別のコートがあったから、その日の帰りはそれを着てやり過ごしたわ」
「なるほど、それは災難でしたね」思案げに聞いていた綾崎先輩が、言葉を差し挟んだ。「汚れてしまったコートはその日のうちにクリーニングに出したのですか?」
「いえ、この辺りのクリーニング屋さんはどこも午後八時には閉まるから後日持っていったわ。その日は翼君のマンションに置かせてもらってそのまま帰路に就いたのよ。わたしもすぐに出したかったのだけど、仕事を抜け出すわけにもいかなかったし、翌日は事件のせいでそれどころじゃなかったし」
「ということは、汚れたコートは仕事中は職場のカフェにあったのですね? どこに置いていたのですか?」
「どこって」松原は怪訝そうに、「──袋に入れてロッカーに入れていたけれど」
「そのロッカーは施錠していましたか?」
「それはもちろん」
四桁のダイヤル式のよくあるタイプで、その日もいつものようにロックしていたそうだ。
綾崎先輩は続けて問う。
「汚れたコートの写真はありますか?」
「そんなものはないけれど」
「では、SNSに上げたりご友人と共有したりということもなかったのですね?」
「わたしはそんなふうに何でもかんでも報告するような女じゃないわ」
「ほかの店員の方はどうですか? 撮影していませんでしたか?」
「みんな、そんなことしないわよ」
軽くうなずいてから綾崎先輩は、質問の矛先を変える。「代わりに着たコートはどういったデザインですか?」
松原はまたスマホを操作し、「これよ」と言ってその画像を見せてくれた。
わたしも横から覗き込む。黒を基調としたシックなトレンチコートだった。これもありふれたデザインだ。そういうのが好きなのかもしれない。
ありがとうございます、と礼を言って綾崎先輩は、「ところで」と質問を転じた。「死亡推定時刻である当日二十三時から二十四時ごろの行動についてお聞かせ願えますか」
一転、松原の眉間に心外そうな皺が寄った。「わたしを疑ってるの?」
「いいえ」綾崎先輩は真顔で即答した。「状況を正確に把握するためにすべての関係者に確認していることです。松原さんには動機もないですし、誓ってそれ以外の意図はありません」
「……そう」やや不服そうにしながらも松原は質問に答えた。「その時間はこの近くのファミレスに旧友──高校の同級生といたわ」
「そのファミレスには何時から何時まで滞在していましたか?」
「コンビニでその子とばったり再会したのが九時過ぎで、その足で向かったから九時半くらいから十二時半くらいかしら。だいたい三時間といったところね」
「コンビニへは仕事の帰りに寄ったということでしょうか?」
「ええ、そうよ」
「とすると、コンビニやファミレスには先ほどの黒いトレンチコートを着ていったということですか?」
「そうね」
「そのご旧友と煎豆さんは面識がありますか?」
「ないでしょうね。翼君から聞いたこともないし、彼女も言っていなかったし、これまでの人生で二人が暮らしてきた所が全然交わらないから街ですれ違うことすらなかったはずよ」
「ご旧友と会ったのが偶然だったということは、本来は別のご予定があったのでしょうか?」
松原はそれにも首肯した。「予定といってもアパートで一人で映画を観るだけだったけど」
「映画がお好きなのですか?」
「ええ、映画には目がないの。翌日は休みだったから気になっていたものをゆっくり観ようと思っていたのよ」
「その予定について知っている方はいましたか?」
質問の意味を掴みかねているのか、今度は、「え、ええ」ためらうようにうなずき、「お店の人たちには雑談の中で話していたから」
「なるほど」綾崎先輩は更に質問を重ねる。「翌日はお休みだったとのことですが、煎豆さんと一緒に観るご予定ではなかったのでしょうか? いわゆるおうちデートといった形で」
「映画は一人で没入して観たいのよ。その世界に浸りたいというか。それに、あの日は翼君にも予定があったし」
「煎豆さんのご予定というのは?」
「カフェを閉めたらそのまま自宅には戻らずに友達と飲みに行くと言っていたわ。これも仕事中に聞いたことね」
車中で法橋から聞いたところによると煎豆は居酒屋からの帰りに襲われたということだから、この証言に嘘はないだろう。
続いて綾崎先輩は、最後の質問です、と置いてから尋ねた。
「一野以外で煎豆さんを殺害しそうな人物、動機のありそうな人物に心当たりはありませんか?」
松原は悩ましげに、あるいは悔しげに眉をひそめ──それから首を左右に振った。「いないわ。翼君はそんな人じゃない」
礼を言って松原と別れ、車に戻った。空はまだ明るいが、スマホを見ると時刻は十六時を過ぎていた。