ワトソンレースは始まらない   作:虫野律

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第二章 ストーカーにラブ・ソングを


「別れたいだなんて嘘だよね?」

 

 三箇月ほど前から付き合っている恋人の晴輝(はるき)が通話に応じるなり、わたし──雨ヶ谷(あまがや)(りょう)は、すがった。

 五月の中旬、日曜日の夜のことだった。

 明日の仕事に備えて早めにベッドに潜り込んだところで、突然、『別れたい』というメッセージが送られてきた。つい数日前にも仕事帰りにディナーデートに行ったし昨日だってこの部屋に泊まっていったのに、青天の霹靂そのものだった。

 全身が粟立つような恐れに駆られたわたしは、断りも入れずに電話を掛けた。

 出てはくれたが、スマホ越しに晴輝の鬱陶しそうな息遣いが感じられ、胸が重たく疼いた。

 

『嘘じゃねぇよ』吐き捨てるように晴輝は言った。

 

「ど、どうして」わたしの声は、もう社会人だというのにみっともなく震えていた。「わたし、な、何かしちゃったかな?」

 

『……』

 

 アパートの部屋──1LDKのわたしの住みかだ──が静寂に包まれ、このまま通話を切られるのではないかという不安に襲われて返答を急かしかけた時、ようやく晴輝は面倒くさそうに理由を答えた。

 そもそもわたしと付き合ったのは、容姿といい声質といい貴公子然としたかっこよさが溢れ出ている──俗に言うところのイケメン女子──わたしが目新しかったからで、それ以上でもそれ以下でもない。初めは物珍しさから新鮮さを感じて楽しめたが、もう飽きた。だから別れたい。てか、別れる。

 

『──つーわけだから、納得してくれ』

 

 無理だ! できるわけない!

 喉どころか舌先まで出た言葉は、しかし声にならなかった。恋愛で男性に逆らうなど、そんな非常識がまかり通るわけがなく、こと別れ話においてはごねるとストーカーだなんだと言われてしまうリスクがあり──ストーカー扱いだけは絶対に嫌!──かろうじて保たれていた理性がそうさせたのだ。

 

「わかった……けど、一つだけ教えて」

 

『何だよ』不機嫌そうな声。

 

 わたしは、望んだわけでもないのに昔から同性にばかりモテてきた。男性の相対数が少ないせいで妥協して女性同士で慰め合う仮性レズビアンが珍しくないという世界の性事情もあってか、信じられないくらい沢山の女性からアプローチされてきた。

 しかし、わたしはありふれた異性愛者でしかない。彼女たちの気持ちを受け入れられるはずもなく、晴輝と出会うまで恋愛経験は皆無だった。

 晴輝と過ごす時間は、ありとあらゆる初めてに溢れていて、そのすべてがとても眩しくてかけがえのない宝石だった。

 わたしは真剣だった。信じていた。

 その輝きが、片恋にも似たわたしの一人舞台──あるいは喜劇的な──だったなんて思いたくなかった。

 だから、別れ際にうざい女になったとしても、後悔の予感に身を硬くしたとしても、聞かずにはいられなかった。

 

「わたしのこと、少しくらいは好きって思ってくれてた?」

 

『……普通』

 

「は? 普通?」何それ。

 

『お前ってさ、レアなナリしてるくせに中身はマジで普通の女じゃん? 目立った欠点もないし嫌いってほどじゃねぇけど、夢中になることもねぇなって感じなんだよな。毒にも薬にもならない女、みたいな?』

 

「……」

 

 完全に理解した。結局、わたしの片想いにすぎなかったんだ、と。

 鼻の奥につんとした熱──涙の気配を感じ、それが溢れて醜態をさらしてしまう前にこの別れ話を終わらせなければと慌てて、

 

「わかった、い、今までありがとねっ」

 

 と告げた。

 煩わしい手続きが終わるとわかったからか、

 

『おう、俺もサンキューな』

 

 晴輝の声は最初のころのように優しく響いた。

 通話を切った途端、涙腺が決壊した。

 明日の仕事に影響が出ないようにしなければ──そう思っても止められなかった。

 

 

 

 

 

 

 私立夜這星(よばいぼし)学園高等学校。

 宮城県の沿岸部にある箒星市(ほうきぼしし)に建つその高校は、男子への配慮に力を入れていて比較的に男子の数が多い。そのため女子人気も非常に高く、必然的に偏差値も高くなっている。またスポーツも盛んで、推薦組は全国上位クラスが大半を占める。

 そんな、宮城県だけにとどまらず全国の女子憧れの高校がわたしの職場だ。といっても、この春採用されたばかりの一年生英語教師なのだけれど。

 

「おはようごさいます」

 

 職員室の自分のデスクに着きつつ、隣の席の雲雀(ひばり)寛子(ひろこ)に挨拶する。彼女は、実家のお母さんというような柔和な雰囲気をまとっている中堅の音楽教師で、わたしの指導係だ。

 

「あら、何だか元気ないわね、どうしたの?」

 

 目敏く察知した雲雀が心配そうに尋ねてくるも、

 

「いえ、そんなことはないですよ」

 

 と笑顔を繕って返した。話したい話題ではなかった。

 

「そう? それならいいのだけれど」

 

 雲雀はそれ以上は尋ねてこなかった。

 のだけど、続いて登校してきた、もう一人のお隣さん、黄倉(おおくら)沙月(さつき)はそうではなかった。鷲鼻が特徴的でどこか魔女めいた面差しの彼女は、二十七歳の数学教師で、指導係というわけでもないのにやたらと世話を焼こうとしてくる。

 

「雨ヶ谷先生、どうしたの?」緩い文化系サークルの先輩のような距離感で黄倉は、無遠慮に踏み込んでくる。「あ、もしかして彼氏と何かあった? まさか振られちゃったとか?」

 

 牽制の意味も込めて彼氏がいると伝えていたことを後悔した。しかし時すでに遅し、眉を曇らせたわたしの様子からそれが正解だと察したらしき黄倉は、うれしそうな訳知り顔になり、

 

「男なんて薄情なものよ。あいつらにとってわたしら女なんかいくらでも替えの利く量産品でしかないんだから」そこで椅子のキャスターを滑らせてこちらに近寄り、「よしよし、今日はお姉さんが慰めてあげる──いいお店見つけたのよ、一人で飲むのもつまらないから付き合ってよ」などと誘ってくる。

 

 月曜日の夜から飲む社会人一年生はいないのではないか。特に教職では。

 その推測を裏付けるように雲雀が(くちばし)を容れて、

 

「こらこら、いたいけな後輩を悪の道に引きずり込もうとするのはやめなさい」

 

 とたしなめた。

 

「いやー、つい出来心で」などと反省の色の見えない返答の黄倉だったが、引いてはくれた。

 

 わたしはこっそりと胸を撫で下ろした。黄倉は、性的なにおいがして少し苦手だ。

 

 

 

 

 

 

 雲雀は一年B組の担任で、わたしは彼女の仕事ぶりを学ぶ副担任をしている。 

 帰りのSHR(ショートホームルーム)が終わると、一人の女子生徒──三つ編みおさげ髪の赤林(あかばやし)(すず)が、気後れしているようなたどたどしい口調で話しかけてきた。

 

「あ、あの、この前、雨ヶ谷先生が話していた小説、読みました」

 

 一拍遅れてその時のことを思い出した。ほかの英語の先生の授業の手伝いをしている時に、わたしの好きなイギリスの恋愛小説の話題を出したのだ。

 少し古い、しかも外国の小説だから、今の十代の子には読みにくかったのではないだろうか。

 そういうふうに尋ねると、話が広がりそうだと思ったのか、赤林は内気そうな瞳を綻ばせた。

 

「でも、おもしろかったです。特に三章の──」

 

 (たが)が外れたようにしゃべりだした赤林には悪いのだけど、

 

「ごめんね、この後、補習があって準備しなきゃいけないから」

 

 はっとしたようにおさげを揺らした赤林は、焦ったように、

 

「す、すみませんっ、わたしなんかが、迷惑でしたよね」

 

 と自分を卑下するようなことを言う。

 そういうふうにされると、

 

「そんなことないよ。わたしも語りたいから、また後で聞かせてね」

 

 と否定せざるを得ないのは、わたしが未熟だからだろうか。

 

 赤林ははにかんだ笑みを浮かべた。「はい、楽しみにしてます」 

 

 それに応えた愛想笑いの裏でわたしは、これも赤林の計算なのだろうか、と猜疑してもいた。

 赤林は、せっかく人気の私立に合格できたというのに、入学当初は休みがちだった。何やら困っていることがあるようで、雲雀はわたしに後学のためにも赤林の悩みを聞くように言った。自信はなかったが、これも仕事のうち、逃げるわけにはいかないと勇を鼓して赤林に話しかけた。すると、

 

「いえ、雨ヶ谷先生には関係のないことですから」

 

 と明確な拒絶が返ってきた。しかし諦めずにコミュニケーションを図りつづけていると、やがて打ち明けてくれた。

 

「あの、意味わかんないかもしれないですけど、わたし、何かを閉めたり清潔にしたりすることに囚われているんです。それで日常生活に疲れ果ててしまって……」

 

 蛇口や封筒、ペットボトルの蓋などがしっかり閉まっていないと気がすまず、閉まっているか何度も確かめたり、不潔なものへの強い恐怖から必要以上に手を洗ったりするのだという。

 赤林のその悩みは、精神疾患の強迫性障害(きょうはくせいしょうがい)の症状だとすぐに察せられた。なぜって、昔、同じことで悩んでいた友人がいるから。

 その友人の話を交えつつ治療を勧めた。心療内科に行くことに初めは乗り気ではなかったようだが、いい病院を探したり学校から一定の配慮を引き出したりしているうちに信頼してもらえたのか、治療に前向きになってくれた。

 そこまではよかったのだが、いつの間にやら赤林は教師と生徒の垣根を越えた親愛の情を抱いていたようなのだ。隙あらば話しかけてくるようになっていて、教師としては無下にはできないのだけれど、胸の奥で不安──警鐘が鳴っていた。

 自意識過剰。考えすぎだ。

 そう思う自分もいるのだけど。

 赤林の色めいて潤んだ瞳を見ると、どうしても──。

 

 

 

 

 

 

 一度職員室に戻り、教室の掃除が終わった頃合いに補習用のプリントと自分用のメモを持って再び一年B組を訪れると、臨時補習の主役──B組で特に英語が悲惨な二人の女子生徒がおしゃべりに興じていた。

 そのうちの一人、高校サッカーのスター選手ながら姫カットに地雷メイクの青山(あおやま)心羽(みう)が、わたしの登場に居住まいを正すでもなく、水を向けてきた。

 

「パイパンのほうがいいと思うのよ、心羽は。それで専用のシェーバーを使ってるんだけどぉ──」青山は、隣の机に着くうりざね美少女の白黒(しらくら)都和(とわ)をちらと見てから、「でも、都和ちゃんは自然なほうがいいとか言って処理してないんだってぇ」

 

 突然、アンダーヘア事情を暴露された白黒は、しかし恥ずかしがるでもなく、おっとりとした視線をわたしに向けて、

 

「だって、子供のようで変ではありませんか?」

 

 と妙に品のある敬語で問いかけてきた。白黒はさる華道の大家(たいか)の娘で、大和撫子という形容がよく似合う。青山とはお姫様属性という点で共通しているが、天然と養殖でその差は天と地ほどもある。

 

「涼ちゃんはどう思う~?」急かすように質問を重ねる青山だが、その口調は間延びしている。「てかさぁ、涼ちゃんはどっちにしてるのぉ?」

 

 カラーコンタクトの入った青山の眼球に内心を探るように見つめられてわたしは、恐怖心が鎌首をもたげるのを自覚した──けど、顔には出さないようにして、

 

「そんなことよりもあなたたちには関係代名詞について教えないとね。はい、これ、特製プリント」

 

「え~」青山は不満の声を上げたが、

 

「はい」英語ができないこと以外は優等生で学級委員長もこなす白黒は、素直な返事をした。

 

「つまんな~い」と文句を垂れつつも青山は、プリントに視線を落とした。

 

 しかし、わたしの緊張──青山への警戒心はほぐれない。

 自分のことに関してもすこぶる口の軽い青山は、最初の自己紹介で、「はじめましてぇ、心羽って言いますぅ。心羽、割とガチめのビアンなんでぇ、よろしくぅ~」と早々にカミングアウトしていた。

 その関心がわたしに向くかはわからないけれど、青山と関わる時は嵐のさなかに投げ出されたかのような心地がして落ち着かない。

 はぁ。疲れる。

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