ワトソンレースは始まらない   作:虫野律

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「転校生、ですか?」

 

 出勤したわたしに、雲雀が季節外れの転校生のこと──六月から登校してくるという──を伝えてきた。思わずオウム返しに聞き返せば、しかも男の子で、遥か遠く西日本にある進学校──ビッグスリーと呼ばれる日本屈指の超名門私立──からで、さらにはわたしたちの一年B組に来るという。

 どうしてこんな中途半端な時期に? 何か問題でも起こしたのだろうか──キナ臭いものを感じて尋ねると、

 

「そうなのよねぇ」雲雀は困ったように眉根を寄せた。そして、「詳しくは職員会議で取り上げると思うけど」と断ってから教えてくれた。

 

 それを聞いたわたしは、「なるほど」とうなずいた。そういう事情ならば仕方ない、と納得すると同時に、厄介なことにならなければいいが、と不安に思う。

 

「大丈夫よ」雲雀は快活そうに笑った。「悪い子じゃないみたいだし、きっと上手くやれるわ」

 

 経験豊富な雲雀がそう言うならきっとそうなのだろう、と思うことにしたわたしは、

 

「そうですよね」

 

 と曖昧にうなずいて答えた。

 それがおよそ三週間前──まだ晴輝の彼女でいられたころの話で、今日、六月二日はその転校生が登校を始める日。時刻は午前八時二十分。もう少しで職員室に現れるはずだ。

 いざ目前にするとやはり不安が鎌首をもたげるが、努めて楽観視する。悪いほう悪いほうに考えて気を揉む余裕は、今のわたしにはない。

 

 

 

 

 

 

 幸いなことにその希望的観測が外れることはなく、転校生の二之宮(にのみや)(いたる)はB組に溶け込んでいたし、夜這星高校には女子禁制の男子サロンなる緩いおしゃべりサークルがあるのだけど、そこの男子とも仲良くやれているようだった。

 それについてはよかったのだけれど、ストーカー問題のほうは解決の兆しすら一向に見えず、わたしは自分の心がどんどん弱っていくのを日々感じていた。

 それは体の不調としても表れていた。

 天気予報が梅雨入りを伝えたころの放課後、

 

「あっ」

 

 校舎の隅のじめじめとした薄暗い階段で突然目眩に襲われてふらついたかと思ったら足を踏み外してしまった。世界がぐるんっと回転し、転倒の痛みに鼓動がおびえた。

 が、それは現実とはならなかった。

 

「ん、雨ヶ谷先生、結構重いね~」

 

 かつて漫画で見たワンシーンのように二年生の綾崎千宙がわたしを抱き支えていたのだ。

 わたしの瞳を覗き込む、同じ人間とは思えないほど──人形やゲームのキャラクターすら霞むほど──整った中性的な眉目が視界一杯に広がっていて、一瞬、自分の立場も悩みもすべて忘れてドキドキしてしまった。が、すぐに取り繕おうとする。

 しかし、

 

「危ないなぁ」再びふらついて綾崎に支えられる。ゆっくりとわたしを階段に座らせた彼は、悪戯っぽく笑ってからかうように尋ねてきた。「何、雨ヶ谷先生、酔っ払ってるの?」

 

「いえ、そういうわけじゃないんだけど──」

 

 ちょっと寝不足で。そう答えて誤魔化そうとして──ふと脳裏をよぎった。

 綾崎なら簡単にストーカーを突き止められるんじゃないか。

 綾崎千宙──成績優秀な美少年にして現役高校生推理作家。彼とは挨拶を交わすだけの関係で本人の口から直接聞いたわけではないけれど、噂では実際の刑事事件の解決に貢献したこともあるという。

 

 ──助けてっ、もう限界なのっ。

 

 しかしわたしは、そう言いたい弱い心を唇を噛んで押し殺した。

 生徒に頼る教師などいるものか、ストーカーにバレたら大変だ、最悪綾崎にまで被害が及んでしまうかもしれない──そういう理屈で自縛する。

 が、綾崎はそんなわたしの葛藤を見透かしたかのように柔らかく苦笑した。

 

「そんなすがるような目で見られると、流石に気になるんだけど」

 

 そう言って隣に腰掛けた綾崎に、

 

「あ、その、ごめんね」

 

 わたしは恥ずかしくて上手く答えられない。

 

「──で、何したの?」

 

「いえ、何ということはないのだけれど」

 

 と、ためらうわたしに、綾崎は容赦なく必殺の殺し文句を放った。

 

「早く言わないと、雨ヶ谷先生に強引に迫られたって告げ口しちゃうよ? 何なら抱きつかれて体をまさぐられたとか具体的にでっち上げちゃうよ? 人生終わらせちゃうよ?」

 

「くっ……!」

 

 というわけで、人けのない屋上前の階段に移動し、すべてを話した。昔から似非レズビアンを惹きつけてしまうこと、大学生のころのストーカー被害、彼氏と別れてから始まったストーカーの手紙、三人の容疑者──一人で抱えてきた苦しみの反動か、わたしの舌は饒舌だった。

 綾崎は時折質問を挟みながら最後までしっかり聞いてくれた。

 どう思う? と目で意見を求めると、綾崎は、なるほどね、とうなずいて、

 

「それで絶妙に似合ってないフェミニンな髪型にしてるんだね」

 

 茶色に染めた長めのセミロングを緩く巻いているのだが、たしかに図星で、女性らしく見られたいから──似非レズビアン避けのためだった。

 

「短いほうが似合うと思うよ」綾崎は無責任に言う。

 

 自覚はあるし、余計なお世話だ。

 

「それより」と声を強めて話を戻す。「犯人について何かわかったことはない?」

 

「ん──」そうだねぇ、と顎を掴むようにして考えて綾崎は、「とりあえずその証拠の写真とやらを全部見せてよ」と事もなげに言った。

 

 流石に躊躇した。だって、手紙やハンバーグだけならまだしもあんな卑猥な画像をこんなきれいな少年に? いや駄目でしょ。教師としても大人としても。

 そういうふうに渋るわたしに、綾崎はあきれたように反論した。

 

「いいよ、そんなの。それくらいネットに溢れてるんだから今更でしょ」

 

「それはそうだけど」

 

「いいからいいから」

 

 と押し切られ、ポケットからスマホを取り出してそれを表示させた。

 まずは最初の手紙──晴輝と別れたことに言及していることから、黄倉以外が犯人であれば、盗聴なりをしていたことが窺える──を見せる。

 

「へぇ……」綾崎は興味深げな様子。「たしかに盗聴の可能性は低くないね」

 

 次に生理の、それからハンバーグの時の手紙とその写真。

 

「ハンバーグが好きなの?」と綾崎が聞くので、

 

「ええ、自分でも子供っぽいとは思うけど」と答えた。

 

「このストーカー、雨ヶ谷先生のこと何でも知ってるね~」綾崎は軽い調子で茶化すように言った。

 

 むっとしないでもなかったけれど、努めて平静を装い、女性器の画像を見せた。

 

「ふうん」綾崎はちらと見ただけで、やはり直視に耐えなかったのか、すぐに目を逸らしてしまった。そのせいか、「口紅で書いてあるのは、『愛してるよ、涼』って蜜語とハートマークだけ?」と確認してきた。

 

「ええ、そうよ」

 

 首肯して、その後に送られてきた手紙にもすべて目を通してもらった。

 

「戸締まりはしっかりしてたんだよね?」綾崎は尋ねる。

 

「もちろん」わたしは大いにうなずいた。

 

「で、合鍵は不動産屋と大家さんを除けば田舎のお母さんしか持っていない、と」

 

「そう」そしてわたしは、推理というほどでもないけれど、前から考えていたことについて意見を求めた。「だからピッキングしたんだと思うんだけど、そうなってくると赤林さんと青山さんには難しそうじゃない?」

 

 綾崎はきょとんとして目を瞬いた。「何でさ?」

 

「だって、そんな特殊技術、普通は鍵屋さんしかできないことだし、そういうところで働いた経験でもないと難しいと思うのよね。だからその可能性のなさそうな学生の赤林さんと青山さんは違うかなって……」

 

 自信のある推理ではなかった。わたしは教師の顔色を窺う生徒のように生徒を見る。

 と、綾崎は出来の悪い生徒に教え諭す教師のように言う。

 

「いやいや、ピッキングくらいその気になれば子供でも覚えられるよ──実際、ぼくも中学に上がるころにはできてたし」

 

「えっ──」わたしは驚いて、「どうして綾崎君がそんなことをする必要があったの?」

 

 何か善からぬことを企んでいたのだろうか、と思って尋ねたのだが、それは杞憂だった。

 

「そりゃあトリックの検証のためだよ。ミステリーを書くにあたって、その犯行が実際に可能か否か知っておきたいんだよねー。リアルまで要求するかリアリティーでよしとするかは別としてもね」

 

「すごいプロ意識だね」

 

「別に普通じゃない?」綾崎は何でもないことのようにさらりと言い、「──ま、とにかく、ピッキングだから赤林鈴と青山心羽は犯人じゃないってロジックは成立しないと思うよ」と結論。

 

「でも、それならいったい誰が」

 

「ううん……」綾崎にもわからないらしく、悩ましげにしている。

 

 すると、

 

「あ、千宙さん、こんな所にいたんですね」

 

 男の子特有の爽やかな声が階段の下のほう──廊下からして、見れば、アスリート風の引き締まった体躯の二之宮が、安堵の微笑をその甘いマスクに漂わせていた。

 

真田(さなだ)さんが待ちかねてますよ」二之宮は綾崎に言う。

 

 真田とは、三年生の真田大誠(たいせい)のことだろう。男子サロンを開くというのでメンバーの綾崎を呼びに来たらしかった。

 綾崎への相談が中断された残念さはあるが、優先順位は間違えない。わたしのことは気にしなくていいよ、と強がって彼にうなずいてみせると、

 

「また後で一緒に対策を練ろうね」

 

 とほほえんで約束してくれた。

 一瞬、その、女心を慰撫するような優しい笑みに見とれかけたけれど、目の端で二之宮の視線に気づき、慌てて背筋を伸ばして取り繕った。けど、逆に怪しかったかもしれない、とすぐに少し後悔。

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