燕少女は漢字を知りたい 作:sasugani
僕は極めて健康的な生活を心掛けているため就寝は午後10時、起床は午前5時半である。妹からは「え、お兄高校生でそれはちょっと老人の生活リズムすぎない?」と言われてしまったこともあるが今日も今日とてそんな些事なぞ気にせずに顔を洗う。
早朝に起きて何をするかと言えば特にこれと言った用事はない。それでも敢えて上げるならばソシャゲ、ゲーム、FPS、勉強くらいなものだ。75%がゲームであることは突っ込んではいけない、寧ろ早朝にやることとしてはある種一人暮らしの若者として健全なまである。
細目にログインボーナスを所得したり銃を撃ち合ったり英単語長を捲ったりしながら朝飯を食べ終えると7時半。朝HRの始まりは8時30分、下宿先のアパートであるここから学校までは10分。20分で更に着替えや教科書の確認などを済ませ、家を出た。
「あれ、先輩さん? おはようございます」
「おはよ……ん? どうしてここに?」
ガチャリとドアを開けて部屋の前の廊下に出ると、何だか最近聞いた覚えのある声が鼓膜を鳴らす。振り向けばシンシアがキョトンと目を丸くして、こちらを不思議そうに眺めていた。
─── ─── ───
「私、このアパートに住んでるんですよ。先輩さんが出てきた隣の部屋です」
「……マジで?」
「まじ………………?」
「本当かよ? って意味だよ」
「勉強になります……!」
ふむふむと可愛らしくメモ帳を開くシンシアを他所に僕は頭を抱える。
嘘だろ……そんな偶然あって堪るか。僕はここに一年は住んでんだぞ、それだったら会わないはずが……ってシンシアは最近越してきたんだったか。
それでも少なくとももう三週間くらいはこのアパートに住んでるはずだ。
「えっと、いつもこの時間に出てるの?」
「いえ。私、朝は
「なるほど、だから今まですれ違ったこともなかったのか」
朝から小難しい漢字を使うシンシアに若干呆れつつ、家で出くわさなかったことに納得が行った。僕は毎日この時間に出ているから、そりゃ出会うはずもない。帰りもシンシアは部活、僕は帰宅部だから違う時刻の帰路だし……アレ、でもそれだと漢字部とかいう例の分からない部活動が毎日活動してることになるのでは……。いやまさかね。
シンシアは僅かに俯いて前髪を弄るように指でゆっくりと搔き分けると、顔を上げた。金色の髪は太陽の光を浴びて妖精みたいに発光し、精巧な人形みたいに整った顔立ちが露になる。相変わらず今日も物凄い容姿が良い、口にしたらナンパみたいだから言葉にはしないけど。
「先輩さん、一緒に登校しません?」
「いいよ、行こう行こう」
断る理由は無い。ここで「いや、女子と一緒に登校したら勘違いされるしアレだから後から行くわー」とか言っちゃうほど思春期真っ盛りでもないのだ。
「先輩さんは一人暮らししてるんですか?」
僕が歩き始めたのに続いてシンシアは僕の横側に並ぶとそんなことを言った。
「うん、まあね。実は去年父親の仕事の都合で引っ越しの話が持ち上がってね、僕だけがここに住み続けたかったから残ったんだ」
「へえ〜そうなんですね」
それこそ一年前の今くらいの頃の話である。高校もまだ入学したばかりだというのに突然転勤だから引っ越すと言われ、無理を言って僕だけは賃貸アパートを借りて残ることになった。今通ってる高校は中々入るのに苦労した高校というのもあるし、何より僕自身がこの街を住みやすいと思っているから動きたくなかったのだ。
「妹も凄い駄々こねてたけど生活力ゼロだからね。両親からの許可が降りなかった」
「先輩さん、妹さんがいるんですね」
「ああ、うん。愉快なのが一匹ね」
「愉快……?」
シンシアはコテンと首を傾げた。
我が家の妹は何というか見てて飽きない。二人でジェンガをすればオーバーリアクションで積み木を抜こうとするし、二人で水族館に行けばシャトルランでもやっているかの如くあちこちと水槽から水槽へ走り回って行ってしまう。まるで入園したての幼稚園児だ。本人にこんなこと言ったら「私はもうパーペキに中学2年生だしー! お兄は私の保護者じゃないんだからね!」とブーブー文句垂れながら心が傷付いたからクレープ奢れと強請って来そうだから決して言わないが。
……思い返せばそんな妹の顔も年始で帰ったきり、5ヶ月は見てないんだよな。元気でやってると良いけど。
「……妹さんのことが大切なんですね」
「へ?」
シンシアは僕の双眸を直視すると、柔和な表情から直截的にそんな言葉を繰り出した。
「妹さんの話をされてる先輩さん、何だか優しげでした。私は姉妹がいないので分かりませんけど、それはとても貴重で大事な感情だと思います」
「う、うん……まあそうだね。ありがとう」
世の中には仲良く出来ない兄弟というのも多いと聞く。根本的にそれは家庭環境で左右されると思っているけど、僕の家庭はその点非常に理解があった。僕の両親は僕と妹を比較することもなかったし差別も区別もしなかった。だからこそ僕は良好な関係性を築けたのだろう、なんてな。考えてるだけで恥ずかしくなってくるなこの話、止めよう。
「そういやシンシアの家族は? あのアパート、狭いし一人暮らしなんだよね?」
そういや、と気になって今度は僕から質問をしてみる。シンシアは気負うことなく「はい、一人暮らしです」と前置きすると。
「私の家族は今も本国にいますよ。私だけ日本の高校に通いたいと思って留学してるんです」
「へえ……。思い切ったね」
「はい。でも後悔はありません。何故ならどこを歩いても何を見ていても漢字が世の中に溢れているのですから……! 素晴らしき漢字大国ジャパン、です!」
パーッ、とシンシアは明るく輝くような眩い笑顔で言った。その相貌だけなら聖女にも見えるのではと思ってしまうほどだけど、実際は漢字に思いを馳せているのだから何とも言えない。
一般的日本人である僕からすれば分からないけどシンシアにとって漢字というのは滅茶苦茶に心惹かれるもののようだ。昨日初めて会った時から薄々は知ってたけどこれに関しては上方修正しなくてはならないかもしれない。シンシアのそれは最早、神ではなく漢字を信仰する信者と言っても過言ではないような気がするのだ。
とか考えてると、不意に一つの疑問が水底から湧き出した。
「ん? でもそんなに漢字が好きなら中国に行けば良かったんじゃないか? 中国の方が漢字一杯あるでしょ?」
「確かにそうかもしれません……でも日本語の発音の方が好きなんです!」
意外だ。日本人である僕からすれば中国語の発音は正直五月蝿い(大声で話す中国人観光客のイメージが定着しちゃってるのもあると思う)けど、それは外国人であるシンシアからしても同じなのか。それともシンシアが特別そうなのか。
「へぇ……」
「ところで先輩さん、話は変わりますけどお昼は暇ですか?」
「昼? 特にやることはないけど」
「お昼ご飯を一緒に食べませんか……?」
シンシアはそう言うと肩を丸めて視線を逸らした。
昼か……ソシャゲしながら購買で買ったパンを咥えてるだけだし、その申し出を断る理由は無い。それにどうやら人を誘うのに慣れてなさそうな異性の後輩を無碍にしたくない。紳士なんだ僕は。
「いいよ。どこで食べるの?」
「やった……! 一日中部室は空いているのでそこで」
ガッツポーズを小さく取るシンシアにほっこりする。何だこの可愛い生き物。
「うん分かった。あ、僕弁当とか持ってきてないからさ、その前に購買に寄ってもいい?」
「私もお供します……!」
「良いけど……混んでるよ?」
「全然構いません! まだ転校してから購買には行ったことないので楽しみです!」
はにかみながらシンシアは笑った。まるで妹が一人で来たみたいだ。それにしても凄まじい懐かれようだよな……僕なんかしたっけ。本当に記憶がない。
その後も色々と話しながら、学校の下駄箱まで来るとシンシアとは別れた。何故か寂し気に瞳を濡らしていたシンシアに再度不思議だなぁと思いつつ、教室に入る。
クラスメイトと特別仲が良い訳でもない僕は教室のドア前で駄弁っている同級生に挨拶することもなく通り過ぎると、自分の席に着いた。
一応、僕の名誉のために弁解しておくとクラス内で孤立しているわけではない。普通にしゃべる相手はいるし、友人だって一人はいる。ただ効率厨としては大して趣味の合わない、将来的にも袂が分かれる
しかし、僕にとっては不幸なことにその件の友人はかなりサボり魔だ。皆勤賞である僕とは真反対に週に何度もサボってどっかをほっつき歩いたり或いは自宅で引き籠ったりしてる。小賢しくも欠席日数だけはちゃんと計算しているみたいで前にその事をやんわりと注意してみたら「あ~あたしは良いわ。そこらの優等生なら蹴散らせるくらいには模試順位良いし」とか宣ったのでもうその辺は諦めている。クソ生意気なのに僕より成績良いのは本当に納得がいかない。言い忘れていたけどこの不良っ娘は女子である。
そんなこともあって今日も来ないと思っていたんだけど、左隣の席の椅子が引かれる音がした。来たみたいだ。
「お~っす一貴。相変わらず早いわな」
「3日ぶりだね、久しぶり」
茶色の髪を短く伸ばし、小柄な身体を気だるげに丸めて椅子に座っている。口元が微妙に光の反射で輝いているのは……ジュースでも飲みながら登校してきたんだろうか。雪色らしいな。
美人というよりは可愛い系の顔立ちだ。改めて見ても容姿は良いし、男勝りな性格もあって付き合いも悪くは無いんだけど……如何せんあまりにもクラスに無頓着過ぎてやはり僕と同じようにクラスでは少し浮いた存在となっている。いわば似た者同士なのだ、僕も彼女も。だからこそ仲良くなれたのかもしれない。何せ親以外に合鍵を渡してる相手なんて彼女くらいである。
「今日も来ないと思ったんだけど何かあったの?」
「あたし、学生だぜ? 学生が学籍を置いてる学校に通うのは極めて当然のことだと思うが」
「その頻度がおかしいんだって。三日に一回しか来てないでしょ雪色は」
「それがあたしのライフスタイルだ」
悪びれもなく言い放った雪色に僕は諦めて溜息をつく。この友人は昔から変わらずこうなのだ。ゴーイングマイウェイ、とか言えば聞こえは良いかもしれないけどその実気分屋なだけであることを僕は知っている。
「全く……そろそろ定期試験なのにそんなことしてたら足元掬われるよ?」
「定期試験なんざ専門の対策しなくても問題ねえって! 赤なんて取らねえし、あ、けど範囲変わってたら教えてくれよな。万が一ってこともある」
「因みに範囲変わったら対策する?」
「する訳ねえだろ、時間が勿体ねえって。なぁ?」
なぁ?、って同意を求められてもなぁ……天才はやっぱ頭のデキが違う。
どうにも雪色は学校関連の事については本気で僕のことを頼る算段の様子。別に良いけどさ……ただ友人としてはもうちょっとちゃんとして欲しいと思うのも仕方がない事だと思う。
「……ん? 何かあったか?」
「どうしたの突然」
「いや、もし違ったらアレなんだが……何か新しい事でも始めたか?」
唐突に睨め付けるように目を細めると、雪色は探偵の真似事をするかの如く自分の口元に人差し指を当てた。
昨日は雪色はいなかったし、漢字部についても知らないはずなんだけど……何で分かったんだろうか。
「まあ、うん。始めたと言えば始めたかな」
「へぇ……あたしの勘も捨てたもんじゃないな。で、何を始めたんだ?」
「部活をね。正確には始めたというより浜田先生に強引にねじ込まれて入部したって感じだけどさ」
正直アレは一日経った今でもどうなんだと思う。越権行為でしょやっぱり。
入部することに異存はないとはいえ浜田先生の横暴な入部勧告を思い出して微妙な感情になっていると、雪色に揶揄うように笑いながら脇腹を肘で突っつかれる。
「まさか部活入るなんてな。やっぱりお前、効率厨じゃねえだろ」
「なんて暴言言うんだよ……僕からそれ取ったら何にも残らないからね」
「そうか? あたしは沢山良いとこあると思うけど……や!? 変な勘違いすんなよ!? 友人って接点からそう思うってだけだ!」
「そんな慌てなくても……僕も雪色の良いところは知ってるからお相子だよ。……悪いところも同じくらい知ってるけど」
サボり癖とかヤンキー口調とか……その辺直したら普通に可愛い女の子って感じなのにな。
そう思いながら見ていれば、雪色は顎を胸の方へ引くと声にならない呻き声を出して、それから「……ばーか」と堪えるように小声で言い放った。
「そ、それはもう良い! んで何部に入ったんだよ? ソシャゲやってるしeスポーツ部か?」
「ソシャゲはeスポーツじゃないしそもそもそんな部活は無いから……。漢字部だよ」
「漢字部? んだそれ」
「僕も知らない。言ったでしょ、昨日無理矢理入らされたんだよ」
「何をする部活なんだ?」
「……シンシア、ああ。シンシアって言うのは漢字部を作った部長なんだけどさ、彼女が言うには漢字を学ぶらしい」
「はぁ~変わってんな……シンシア?」
僕も変わってると思う、と同意しようと頷きかけた瞬間。雪色は目をキツネみたいに細めると僕の動きを手で制した。
「シンシアってもしかして女? 外人の」
「そうだけど……知ってるの?」
「いや、知らないけど……ふーん。名前で呼ぶほど仲良くなってるわけか?」
「別に他意はないよ、彼女の名字がテルリナットっていうんだけど呼びづらいから勝手にそう呼んでるだけさ」
「て、てるりな……?」
こてんとリスみたいに首を傾げると、雪色は口ごもってしまう。シンシアが以前まで住んでいた国ならともかく、日本語にするとやはり呼びにくいよな。
それにしても食いつき方がいつもより少し強いような……ジェラシーでも感じているのだろうか。僕の友人が雪色しかいないように雪色の友人も僕しかいない。だから僕が見知らぬ、しかも異性に取られてしまったと感じてしまったとか……まあないか。
「気になるんなら来てみれば良いと思うよ。シンシアには僕から話を通すからさ」
「……うっせ。漢字なんて興味ねえし誰が行くかよ」
一応聞いてみたけど雪色は鼻で笑うように返事をするとそっぽを向く。ちんちくりんなのにツンツンとした態度に黒猫を連想して、何となく心中で微笑ましく思っているとHRが始まる鐘が鳴った。