燕少女は漢字を知りたい 作:sasugani
職員室から出た僕はシンシアを探そうとしてスマホをポケットから取り出し、すぐに足が止まった。
───シンシアの連絡先、知らないんだった……!!
そりゃそうだ。まだ出会って一日、浜田先生によって引き合わせられただけの僕たちは互いに互いを知る段階まで来ていない。連絡先を交換するほど仲が良いかと言われても首を傾げてしまう。ともかく、探さないと……!
校内を隈なく歩き回る。教室。学食。購買。屋上。部室。思い当たる場所全てに行ってみてもそこにシンシアの姿は見つからない。もしかしたらもう校内には居ないのかもしれない。そしたら僕に見つける手段なんてもう……!?
「……あ、そっか。シンシアの家、僕の隣じゃん」
僕は馬鹿だった。そんな簡単な事実を失念していたなんて。
決定的な事実を思い出した僕は一先ず下宿先に帰ることにした。何だか校内を駆け回った僕がアホみたいだ。
学校を出ると春の陽気に当てられながらすっかり人通りも少なくなった登下校路を進む。途中までは駅までの道と同じだから普段の時間帯なら帰宅する生徒で溢れているんだけど、流石にHRから幾許か時間が経ったこの中途半端な時間ともなると学生服の往来は乏しい。
コンビニに寄って色々買いこんだりしつつもアパートへと帰ると、一旦僕は自宅の鍵を回す。ガチャリと音を立ててドアが開き中の光景が目に入ってくる。
「んあ。帰ったのかよ、早えな」
「まあね」
部屋の中心では宣言通りと言うべきか、一心不乱にゲームをしている雪色の姿があった。こちらを一瞥すらせずに、顔をゲーム画面の映し出されたテレビへ固定しながらも僕へと声を掛ける。あのさ、僕が一応家主なんだけども。
まるでこの部屋の主みたく自由気楽にゲームする雪色に頭痛を覚えつつ、敢えて無視して制服から着替えようと適当にハンガーに掛ってる私服を手に持った。ワンルームタイプの部屋で、雪色はこんなのとは言え異性だから面倒だけど洗面所で服を着替える。
「アレ、どっか行くのか?」
「うん。ちょっと野暮用でね。さっきアイス買ってきたから適当に食べて良いよ」
「ナイスだぜー。愛してるー」
「棒読みで言われてもなぁ……」
何とも言えない告白を背に受けつつ手土産を片手に再び外に出た。
と言っても向かう先はシンシアの家。距離にしておよそ5m。5秒とせず扉の前に僕は立った。
ごくりと生唾を飲み込んで、呼び鈴を見つめる。何気なくだけど人生で初めて異性の家に来たことに気付いて、ピンポンと鳴らしかけた指が止まる。
これって大丈夫なのだろうか? アポとかも取ってないし、それに迷惑かもしれないし……。
少しの間、女々しい躊躇から身体がフリーズしてしまう。でもあの状態のシンシアをこのまま放って置けないと思い直すと、僕は重い人差し指を動かした。
ピーンポーンと気の抜けた電子音が鳴って、暫くしない内にドアがガチャリと開いた。そのままドアはある程度まで開いて、チャリン、と金属が擦れる音が耳を打つ。ドアチェーンだった。どうやら防犯には用心しているらしい。
ドアの隙間から見えたシンシアは部屋着みたいで、淡いパステルカラーのワンピースに身に纏わせていた。滅茶苦茶似合ってるな。もし僕が雪色で異性耐性を付けていなかったら惚れてたまであるよこれ……口にしたら気持ち悪いと思われるかもしれないから言わないけどさ。
僕の姿が意外だったなのか、シンシアは目を白黒とさせた。
「……先輩さん?」
「こんにちわ……えっと。一緒にアイス食べない?」
僕は笑顔でそう言うとビニール袋を胸の高さまで持ち上げた。
ドアチェーンが外されて僕は生まれて初めて異性の部屋へと案内された。「狭い部屋ですけれど良ければ」と勧められるがままカーペットの上に座って左見右見と首を回してみる。女子の部屋なんてアニメとかドラマでしか知らないけど、そんなステレオタイプな知識しか持っていない僕でも「あ、これは年頃の女の子っぽいな」という感想を覚えてしまう。目に付いたものだけでもソファの横に置かれた赤ちゃんほどの大きさのある熊の人形や、飾ってある白いカーネーション、それに写真立てにはシンシアともう一人の女の子がピースをしながら笑顔で写った写真が飾られている。
「お茶を持ってきました」
物珍しさから見回していると湯気が立ったコップをシンシアはお盆に乗せて運んできた。コトン、と目の前の小さなテーブルに置くのに合わせて僕もカップアイスを袋から取り出す。その間にシンシアの表情をそっと伺う。浜田先生からああも言われたけど、今はあまり気にしてなさそうに見えた。……或いは、気にしていない素振りをしているだけなのか。
僕の対面にシンシアは座った。
「あの、先程の件ですけど……」
「まずはアイス食べよ? 溶けちゃうからさ」
口を開くのを中断させる。このまま勢いで話をさせるのは何となく危うさを感じた。
「……はい。では、いただきます」
シンシアはコンビニで貰った木製スプーンを手にすると、アイスの表面を掬って小さく口を開く。それが何だか妖精が食事をしているみたいに見えて可愛らしく思えた。
思わずジッと見ているとその視線に気づいたのか、こちらを見るなりぱちくりと瞳を瞬かせる。
「どうかしましたか先輩さん」
「いや、えっと……可愛いなと思って」
「へぷ……!?」
やべ、咄嗟に誤魔化すことが出来ずに正直に答えてしまった。
流石に忌避の目を覚悟したがシンシアは虚を突かれたような変な声を上げて固まった。良かった、こんなことでシンシアに嫌われたくないからな。
するとスプーンをカップアイスに置いて、両手で顔を隠した。さながらだるまさんが転んだでもやってるみたいだな、とか呑気なことを考えていると。
「……ど、どう返せばいいんでしょうか」
「いや、僕に言われても」
手の隙間から見える顔は林檎みたいに淡紅色に染まっている。その照れ具合と言うと、何だかこっちまで照れそうになるほどだ。
「……そうです! 分かりました、これが
「うーん。そう勘違いされるのも癪かも。別に諛言じゃないよ、正真正銘僕の本音だって」
「ぺぷッ……!?」
何? ペプシコーラって言おうとした?
更に朱に染まるシンシアを見つつ、後頭部をカリカリと掻く。本音と言えば本音なんだけど、今の発言に限っては正直シンシアの反応が面白くて態と口に出してしまった。ちょっと反省すべきかな。というか純粋過ぎる後輩に対して愛おしさを感じる反面どう育てたらこんな生娘が出来上がるのだろうと思わなくもない。
「なんか……ごめんね。アイス、早く食べちゃおうか」
「……え、は、はい」
余りにもオーバーに反応されて次第にちょっと罪悪感が出てきたので謝ると、しどろもどろになりながらもシンシアは頷く。それを見て僕も続いてアイスを口にすることにした。
コンビニで買ったカップアイスの感想は、まあこんなもんか、という至極平坦なものだった。スタンダードにバニラ味を選んだのがマズかったのか。意外性ないから全く思う所が無い。これなら最近出た焼肉味でも良かったかもしれないな。
無言でアイスを食べつつ、時折シンシアから視線が送られてくる。まだ会って一日の人間と無言で一緒にいるのが気まずいのかなとも思ったけど、多分違う。やはりさっきの事を引き摺っているんだろう。
「あの……」
「どうかしたの」
「き、聞かないんですか? 何があったのか……とか」
あからさまに目に影を落としつつ、シンシアは遠慮がちに呟いた。
何があったのか、というのはひょっとしなくとも浜田先生が言っていたアレだろう。シンシアが前の学校で問題を起こしたとか何とか、そういう話だ。
興味が無いかと言われれば嘘になる。前の学校でシンシアの周りで何が起こったのか、シンシアはそれに対して何をしたのか。たった一日の僕たちの関係性ではあるけど、時間という解釈で語れないほど僕はシンシアに対して友好的な感情を抱いていた。不思議だ。こんなこと……人生で一度も無い。
だからこそ嫌われたくない。その一心で答える。
「うん。でもそれは、まだシンシアと会ってから一日しか経ってない……なんて理由じゃないよ」
「え?」
「僕はシンシアのことを知らない。知らないからこそ、尊重したいんだ。知られたくない過去も、知られたい過去も等しくある。誰にでもさ。だから聞かないよ。シンシアが話すまでね」
「先輩さん……」
「それに、シンシアには嫌われたくない。思い上がりじゃなければ、折角好かれてるんだから好かれたままでいたいんだよ」
偽らざる本心。それは自分からしてもあまり気持ちの良い発言じゃないと思う。
嫌われたくないという目的で投げかける甘言は何処までも利己的だからだ。他人のことを考えて言っているように見えて、実は自分のことしか考えていない。嫌われたくないなんて思考から出る言葉は完全に自分を中心に据えてしまっている。表面だけ利他的に見える分、より醜悪に見える。人の気持ちを分かっていたうえで踏みにじる。やはり僕は効率厨でしかないのだ。
それでも、シンシアは気付かない。僕の惨めな脳内回路に。
「……嬉しいです。そう言っていただけるなんて……でも私に、その資格があるんでしょうか」
「え……?」
シンシアは嬉しそうに微笑み、それから悲痛そうに顔を歪めた。
今度は僕がはてなを浮かべる番だった。資格。その言葉の意味を考えて、考えが纏まらない。
「先輩さんと違って私は、全然良い人じゃないです……私なんて……何も……何も出来ない。良かれと思っても全部謬見で……端倪間違っていて……慚愧まみれの人生で。その言葉を受ける価値なんて、私にはありません……」
「……そんなことないよ」
「……すみません。空気を悪くしてしまいましたね」
悄然とした相貌でシンシアは前髪を触った。
自己嫌悪が電流みたいに筋肉に走る。無為に顔が強張り、自覚した僕はすぐに元に戻した。
僕は間違っていた。安易さから出た謬見だった。
シンシアの懺悔。
それは前の学校の出来事からだけじゃない。その自虐的過ぎる、触れれば霧散しそうなほどの儚さすらある口吻からして……シンシアの歩んできた人生から出てきたんだ……!
その事実を思いついて、戦慄した。
どんなことを考えて生きてきたらそんな自罰的な発言が自然に出てくるんだろう。どれだけあぐねて、絶望して、後悔したのだろう。あのシンシアの発言は、何も知らない僕でもその一端を感じてしまうほど情動が籠っていた。
だからこそ僕は後悔する。そんなことないよとか言ってしまった自分に悔恨を感じる。
安易な気遣い。
それは普段なら良い。
けども、あの重い。括り付けられた鉄球を振り子にして叩きつけられたような衝撃に対して。僕の発言はどこまでも空疎で、どこまでも軽すぎて。
「いや……僕の方こそ変なこと言ってごめん」
「先輩さんは悪くないです……! あ、アイス! アイス溶けちゃいます!」
「そうだね……。うん」
相槌しか返せない自分に嫌気が差しながらも、僕は考えるのを一旦辞めた。考えても結局いま僕に出来ることが無いと直感したからだ。
「あの、さ。そう言えば、漢字部のことなんだけど」
「漢字部……」
「シンシアは部長……正確には部長ではなかったけどさ。ともかくこれからどうするつもり……いや。どうしたいの?」
先程の思考を打ち切るように、滔々と言葉を紡いだ。
漢字部は張りぼてだった。浜田先生が作った、実際には存在しない箱庭だった。
浜田先生によって設立の目的も暴露され、挙句の果てに部室も摘発された。最早校内で部活動としては活動出来ないのは明々白々としている。
「どうしたい……ですか。どうしたいんでしょう、私は」
悩むようにシンシアは俯く。顔に落とした影に翳りが見える。
シンシアの思考は縛られている。浜田先生の正論に心を殴られ、学校では唯一の拠り所となっていただろう漢字部を仮初と知り、ポジティブな事を考えられなくなっている。余裕が無いんだ。
……僕に出来ること。それはなんだろうか。
僕に可能な選択肢なんてそれほど多くはない。
甘言で誤魔化す?
適当に流す?
親身になって同情する?
僕の言葉がシンシアの今後を決めてしまうなんて思い上がりはしていない。それでも、ここで妥協したら駄目な気がした。
空白のような静寂が空間を包みこむ。体感で5分ほど経って、カップアイスは半分を残してドロドロと溶けてしまっている。
両者ともに悩み、口を噤んでしまった膠着状態。先に無言を破ったのは僕だった。
「シンシアはさ、浜田先生のことをどう思う?」
「浜田先生ですか……?」
「あんなことになっちゃったけどさ。何というか、シンシアって浜田先生のことを信頼してたと思うんだ。僕はそう感じた」
「……はい。確かに私は浜田先生は信じられる人間だと思っていました」
……思っていました、ということはつまり過去形。それほどショックだったんだろう。
口を挟まずにいると、シンシアから何か光を見た。見れば、目尻に一掬の涙を溜めて、辛いはずなのにシンシアは口を開く。
「浜田先生は私の現状を理解して、私が高校生活を楽しめるようにと配慮してくれました。信じて……いました」
「立ち入ったことを聞くようだけど、何で信じられたの? 浜田先生の他にもクラスメイトもいたよね」
「それは…………何ででしょう」
本気で分からないのか。それともシンシアは無意識に分かっていて拒否しているのか。
何れにしても、この話を僕は止める気はない。
「僕は浜田先生から聞いたんだ。本当かどうか、分からないけど。シンシアは難しい漢字を理解できないクラスメイトと話す価値を感じてないんじゃないかって」
「そ、そんなこと……!?」
「ない。って本当に言えるのかな?」
「……ッ!」
弾かれたようにシンシアは立ち上がった。
「浜田先生は現代文教師だ。普通の学生が知らない二字熟語とか漢字を知っててもおかしくないよね。でもただのクラスメイト、ただの高校生じゃ分からないと思う。幾ら進学校の学生と言ったって普段使わない言葉は知らないし理解できない。国語でも見なければ小説くらいでしか見ないからねシンシアの使う言葉は。そんなの他言語と同じさ。……何で見下してるか教えて欲しいんだ」
複雑な顔色だった。
自分のことを根こそぎ聞かれてきっと良い気分ではないだろう。
───どうして僕はシンシアにこんなことを言っているのだろう。いや理由は分かっている。シンシアに立ち上がってもらうため。前向きになってもらうため。それ以外に理由はない。
でもこんな嫌われ役をやるなんて、矛盾でしかないはず。
嫌われたくないのに嫌われようとしている。
完全に自己矛盾だ。効率をモットーにする僕からすれば、説明のつかない言動だ。
再び自己嫌悪が行き交う脳内に、あの、とシンシアの声が耳を打つ。
「私は…………確かに、ちょっとだけ自覚がありました。多分ですけど。日本人の皆さんが、理解できない言葉があるとは思わなかったのが起因していると思います。私からすれば外国語ですけど、日本語は皆さんにとって母国語です。だから……だから、思っていた以上の皆さんの無知さに失望してしまった……のかもしれません」
「憶測なんだね」
「はい……。でもその点、浜田先生と先輩さんは違いました。私の言葉……語彙を十全に理解して、会話をしてくれたのはお二方だけなんです……! 嬉しかった、楽しかったです……! クラスメイトの方々を見下していたわけじゃないんです……でも、お二方と無意識に比較してしまったのかもしれません……」
胸の底から掬い出すようにシンシアは語る。
神前で罪を告白するように語る。
日本人ならば日本語は完璧だ、なんていうのは幻想に過ぎない。寧ろ日本人だからこそ知りえないのだ。それは至極当然のことで、諸外国の言葉と比較すれば明るみに出る。
英語ならば使用頻度上位の3000語を覚えれば会話の90%が理解出来るとされる。フランス語なら上位2000語で89%分かるだそうだ。しかし、日本語は上位5000語を抑えても81%しか理解出来ない。出来ないのだ。つまり、日本人は元よりそれだけ大量の語彙を兼ね備えているということを意味する。
普段使う言葉だけで濁流の如く語彙が氾濫を起こしているのに、使用頻度が低い単語なんて言うまでも無く分からないに決まっている。母国語として大量の言葉を覚えているからこそ、使わない言葉はインプットしないという謂わば効率化が必要なのだ。寧ろ外国人であるシンシアが日本人以上の語彙数を誇っているのがヤバいのである。端的に。
そこまで考えて、お茶で喉を潤した。先程まで湯立っていたけど既に冷め、温くほろ苦い感覚が口内を刺激する。
シンシアにとってはその心情は忌むべき事情なのだろう。俯いた顔へカーテンみたいに前髪は垂れ下がって、その暗泥とした内心が推し量れる。誰だって自分の醜い部分を直視するのは辛苦を伴う行為だ。理想の自分と現実の自分。その差異を、乖離を、否定したくなるのは人間として当たり前の衝動だ。
同情すべきなのだろう。憐憫の感情を持って、そんな欠点を改善するよう助言を与えるべきなのだろう。
なのに僕はそれを聞いて、不覚にも。
ああ、嫌われてなくて良かったんだな、とか安心してしまった……!!
醜悪な内心を隠しながら、僕は下劣な思考回路を振り払った。
「私は……自分が情けないです」
「あの、さ」
「……何でしょうか」
「語彙が足らない人は信用には足らない?」
顔を上げたシンシアは僕の言葉を聞いて息を呑んだ。ピタリと動きが止まる。
「分かり……ません」
「そっか。じゃあ、これまでは知らなくても頑張って勉強して語彙を増やした人ならどう?」
「それは………………」
水色の瞳が篝火のように揺れていた。
迷いと不安。
自分のことが分からない。もしそういう状況に陥ったとしても自分がどう考えてどう対応するのか予想が出来ない、そんな憂いを帯びた表情。
「分からないならさ、やってみれば良いんだよ」
「やってみる?」
「そう。さっきは分からないって言ってたけど、僕からすれば折角シンシアが作った場所なのにこのまま漢字部を完全に無くすのは凄い勿体無いと思うんだ」
コクリと首を傾げたシンシアに対して優しい口調を意識して、僕は言う。
「でも、生徒会の方が部活として認めていないと言っていましたし……」
「なら認めさせちゃえば良いんだよ。公式にね」
「そんなことが可能なのですか?」
「副会長も言ってたでしょ。部員が三人いて、申請書が生徒会で通れば公認のものになるって」
比良橋先輩はこう言っていた。
『そもそも部活というのは最低でも三人以上いて、且つ部活の目的を記した提案書が生徒会で認可されない限りは発足とはならないのですよ。果たして、誰がこの部活を認めたのですか?』と。裏を返せば、部員をあと1人集めて申請書を通せば再びあの空き教室が漢字部の部室になることだって可能なんだ。
「そのためには最低でも一人勧誘する必要がある。その人で試そう。言い方は悪いけど試金石だよ。シンシアが本当にそんな人間なのかどうか、さ。僕も手伝うから」
「先輩さんが手伝ってくれるんですか?」
「勿論。部長はシンシアとは言え僕は先輩だからね。ちゃんとシンシアが出来るようサポートする、それくらいやらせてよ」
「……もし、もしです。それで私、駄目だったら……」
「それはその時考えよう。うん。でも約束する。僕が絶対にどうにかするから」
にかっと、我ながら似合わないだろう爽やかな笑みを浮かべつつガッツポーズで答えた。これで多少は不安も紛れただろうか。そうだったら良いんだけど。
シンシアは不意を突かれたように数度瞬きをして、すると「先輩さんは良い人です……ありがとうございます先輩さん!」と頭を下げた。……これは、本当に楔が出来てしまったかもしれない。責任、取らなきゃな。
重い話を終えて、溶けたアイスを飲むように啜ると僕は立ち上がった。
さて、やることは幾つもある。人を勧誘するならやっぱり広報としてチラシを作らなきゃならないし、部活を作るのに必要な申請書も生徒会から貰ってこなきゃならない。あと入部申請書も親と離れて暮らしているせいで作るのが地味に面倒くさい。でもまあ、それは全部明日考えよう。今日は……ちょっと疲れた。
一言告げて家に帰ろうとして、僕はハッと思い出した。
「そうだシンシア!」
「な、何ですか?」
「携帯の連絡先! 交換しよう!」
幾ら部屋が隣とは言え、出先で連絡を取り合う必要だってあるはずだ。さっきみたいに!
一驚を喫したようにビクっと震えたシンシアは言葉の意味を理解すると、満面の笑みで「はい、喜んで!」と居酒屋の店員みたいに声を上げた。
無事に連絡先を交換すると僕はシンシアの部屋から出た。一応僕が持ってきた物だしなぁ、と思って片付けを手伝おうとしたけどシンシア的には客人を手伝わするなんて論外なのか「駄目です! 駄目です! 先輩さんは帰ってください!」と頑なに固辞されてしまった。あんな頑固な一面があるとはなぁ……意外なシンシアの一面を見てしまった気がする。普段はそれこそ、全てを受け容れる聖女みたいに微笑んでるイメージだし。
外は既に夕方を回って、日が落ちかけていた。オレンジ色の一筋の光が雲間から差し込んでいる。スマホを見ればシンシアの部屋に突撃してから一時間以上が経過していることに気付く。思った以上に話込んじゃったな……まあシンシアが立ち直ってくれたから良いか。
そう思い直そうとして、ピキリと脳内で血管が断裂したような鋭い痛みが走る。
結局、僕は何をしたかったんだろうか。
考えないようにしていた事実が脳裏を支配する。気付けば僕はドアの前の手摺に両腕を乗せて、徐に空を見上げていた。
……シンシアに立ち直って欲しかったのは本心だ。シンシアから嫌われたくないのも本心だ。じゃあ何故さっきあんな遠回りな真似をした? 嫌われてもおかしくないような手を打って、回りくどく煽るようなことを言った?
あんなのは効率的じゃない。最短ルートで行くならシンシアに考えさせる必要はなかったはずだ。答えを教えて、手を引っ張れば良かっただけだ。有り体に言ってしまえばそちらの方が好感度を下がるリスクを侵さずに問題を解決できた。
なのにあの時。僕はあそこで妥協しては駄目だと感じた。それは何故なんだろう。直感的にシンシアのことを考えて慮ったのだろうか……いやそんなはずはない。僕は
拳を握りしめる。その手は何の為にあるのか、そう問われた僕は何も答えられない。
白状しよう。僕だって人の為に誠心誠意を持って何かが出来る人間ならば、そういう風になりたかった。これは理想ではない。憧れだ。手をどれだけ伸ばしても北斗星には届かないように、僕という人間は絶対的に他者主義になれない。効率主義を掲げる以上、水と油のように混ざらない観念だ。人生で雪色の他に友人がいないのはその為で、雪色が僕の友人である理由も実際はあぶれ者だからじゃない。雪色が僕に興味津々だから、友人になれたんだ。
だから、僕は有り得ない。仮に無意識でも、アレは自分本位なアドバイスなのだ。
…………そう断言してみても、僕の心の中は霧雨の降る森林の如く視界不良で、肝心な結論は曖昧模糊に歪んでいる。自分のことは分かっているはずなのに輪郭は像を成さず、直線は交わらず。
30分ほど立ち尽くしただろうか。
僕はようやく気を持ち直して、部屋に帰ることにした。何も解決はしていないけどこれは考えるだけ時間を浪費する。もう、分からないならば、分からないままで良い。自分という存在がどれだけ惨めで虚しい瑕疵を抱えているのか、そんなのを理解してもしょうがないだろ。
僕はポケットから鍵を取り出すと部屋の鍵を開錠して扉を開ける。
「……アレ?」
見慣れた部屋。しかし明確な違和感があった。部屋の中に誰も居なかったのだ。
───そう、雪色の姿が無かった。
急用が入って帰ったのかもしれない。雪色だって女子高生、多少は用事もあるだろう。でも僕に一言を言わず、ゲームも放置して帰宅するなんて今まで一度も無かった。一度もだ。言いも得ない不安が胸を過る。
テレビモニターには先程まで雪色がやっていたゲームの画面が付いたままだった。ポーズ画面らしく、「resume」と書かれた文字の横で白い矢印がチカチカと明滅しているのを見て嫌に悪い予感がした。
それから一週間、僕は雪色の姿を見ていない。