日が昇り始めた森の中をセナとドルハン、そしてかなみが歩いていた。かつてムシ使いが住んでいた廃村に、エミが隠れているというので、彼女を捕縛するためだ。
同行者にかなみを選んだのは、ウルザのアイデアだった。かなみには主にセナのサポートが任されている。精神的なサポートはもちろんのこと、もしもがあった場合、セナをアイスフレームまで連れ帰ってくるのも、彼女の役目だった。
重要な任だ。かなみはそう思いながらも、微妙に気の抜けた話を続けるセナを観察していた。
わざと無神経にこういう話をしている。かなみもドルハンもそう思った。
恐ろしいほどリラックスした状態は、どんな事態が起ころうともドルハンに逃げ道がないことを示しているようだ。それでいて、出てくる話題は他愛もなく、見張られているはずのドルハンを慮っている。
最強の冒険者としての風格が戻ってきている。かなみはそう思った。
それは半分正しい。確かにセナは目が覚めたように鋭い感覚を取り戻しており、たとえここに魔軍が大挙として押し寄せても、二人を守りながら切り抜けることが出来るだろう。
だが、戻っているのは感覚だけではない。セナの持つ、生来のアホさ加減も戻ってきていた。
ベラベラベラベラと話し続けているのは、単純にテンションが上がっているからである。久しぶりの外出は、春のわんわんのようにセナを喜ばせた。
「ドルハンさんはアルフォーヌの家に仕えて長いの?」本当に世間話のようにセナは言った。
「……ああ。エミ様が生まれる前からだ」
「そう、長いわね」
「どうしてだ?」
「? いえ、特に深い意味は──」
「──どうしてわしを殺したくない?」
虚を突かれたような顔をセナは浮かべるが、ドルハンからすれば──あるいはかなみからしても──当然の疑問だった。
少し考えてから、セナは話し始めた。
「……昔、父と母が死んだあと、父の奴隷と一緒にゼスから逃げ出したの。でも、彼はムシ使いの夜盗から私をかばって死んだ……といっても、死ぬまで随分かかったから、歳もあったんでしょうね」
「ならば、なぜわしを? わしはムシ使いだぞ?」
「大好きなメルドロス……主だからと私をかばったメルドロス……。死んでほしくなかったわ。死んでほしく、なかったのよ」
エミとドルハンの間には存在しない──あるいはひどく小さく見えなくなってしまっている──感情が、セナとそのメルドロスという奴隷にはあったのだ。ドルハンは理解した。そして同情した。
だがそれでもなお、エミへの忠誠は動かない。彼女を害するセナに心を許すわけにはいかない。
「わしはメルドロスではない」
「わかってるわ。でも、駄目ね。昔から、家族の面影をほかの誰かに見てしまう。きっとこれは一生治らない」
自虐するように笑い、それからセナは顔を上げる。
「それで、ムシ使いの人たちってやっぱり特別なものを食べるの?」
セナの言葉に二人はずっこける。
「いまそういう流れでした?!」思わずかなみが言った。
「え? ごめんなさい、気になったから……」
「気になったって、セナさん!」
本当のところを言うなら、これはセナなりにおどけて見せたのだが、すべてが冗談というわけではない。
自分とメルドロスがムシ使いに襲われたすぐあと、ゼスはムシ使いを虐殺したらしい。それを知ったのは、つい先ほどウルザが口にしたからだった。ゼスの情報などゼスを出てから手に入れる機会はなかった。
その話を聞いた時、ムシ使いを憎んでいたというのに、沸き上がった感情は怒りと悲しみだった。
その事実はセナに少し自分を見直させた。そして思ったのだ。
「ムシ使いのことって全然知らないもの! もっと知らなくちゃって思うのよ!」
「だからっていまのはちょっと……」
ドルハンにはセナの心が少しだけわかった。そしてほんの少しだけ、彼女と話す気になった。
「……食べるものは変わらん。しかし、ムシたちの好き嫌いに合わせなければならん」
返答に驚いて、セナは目を白黒させる。それからわっと堰を斬ったように質問を繰り返した。
そんな風にやたら騒がしく目的地に向かう一行だったが、ムシ使い達の村跡が見えたところでセナの足が止まった。
「……ねぇ、ドルハンさん。あなたの主は強い人?」
「いいや? エミ様は戦うことのできない方だ」
「……まずいわね。良くない何かが紛れ込んでるわ」
素早く反応したのはかなみだった。かつてリスの洞窟でサテラの侵入を察知した時と、同じ様子だったからだ。
「魔人のような危険が!?」
「いいえ、そこまでじゃない。でも、とんでもない害意を持った奴ね。しかもたぶん、隠れるのがすごくうまい」
「……エミ様の身に何かが!?」
ようやく状況を理解したドルハンが叫び、己の主の下へ走り出そうとした所を、セナの腕が止める。
「放せ──」
怒りのまま振り返ったドルハンは凍り付いた。先ほどまで話していた好奇心旺盛な女と、いまここにいる女は別の人物だと思うほど、強大なプレッシャーを放っている。
「私だけでじゃ見つからないかもしれない。ドルハンさんとは別れて探すわ。
それだけ言って、セナは手を放し、走り出した。その速さに二人は置いて行かれる。
かなみは既視感のある光景だと懐かしみ、ドルハンはただただ呆然としていた。
〇
地平線から朝日の輪郭がすべて出た頃、かつてムシ使いが暮らしていた村跡では、二人の女が息を切らしながら走っていた。
一人はエミ・アルフォーヌ。ドルハンの主であり、子どもを人質に恨みのあるランスへ復讐することを企てるような悪人だ。
そんな悪人の手を引く女は善意の人物だ。数少ないムシ使いの生き残りであるカロリア・クリケットは、ただ危険な場所にいたからという理由で、エミを助け、ともに逃げている。
そう、あの恐ろしい女から逃げているのだ。二人が知るすべはないが、その女の名はサマール・ハッピネスといった。彼女は『血まみれ天使』と呼ばれる殺人鬼だ。一晩で255人を殺した伝説を持っている。
エミは自身の左腕を見る。鋭い刃物で斬りつけられていて、ジクジクと痛みが襲ってくる。息は上がり、吐き気は喉元まで這い上がってきていた。先ほど女は目にも留まらぬ速さでエミを切り裂き、再びどこかに消えた。今もきっと近くでエミとカロリア──カロを見ているのだろう。
遊ばれているのは明白だった。あの速さを考えるにどれだけ二人が逃げ回ろうとも、すぐに追いつき殺すことが出来るだろう。エミにも覚えがある。逃げ惑う弱者を甚振るのはこの上なく楽しいことだ。だが逃げる方がこんなに恐怖に支配されるとは知らなかった。
実際はエミの中にある感情は恐怖だけではない。明らかに艶やかな興奮の色が心の奥底に浮かんできていた。エミの中のマゾヒズムは愉しむための殺意という、サディズムの極致によって急速に磨かれつつある。
「ああう!」
突然、カロが悲鳴を上げる。どこからか現れた血まみれ天使が左腕を斬りつけたのだ。それでもその左手はしっかりエミの右手を掴んで離さない。
反射的にカロは右手を上げる。毒やんというムシが入っているその腕からは、強力な毒針を発射することが出来る。
しかし、すでに血まみれ天使は消えていた。
カロは痛みに歯を食いしばった。少し骨が露出するほどの深い切り傷であるにも関わらず、ムシ使いの再生能力故にみるみる内に傷は小さくなっていく。
ある種の生命的なグロテスクさと美しさを持ったその光景に、エミは釘付けになった。
その傷を口に含みたい、あるいはカロの歯で自分に同じ傷をつけてほしい。そんな倒錯的な考えが一瞬脳裏によぎった。
「走って!」カロが脂汗を流しながら叫ぶ。
エミはどうにか正気を取り戻し、再び走り出した。それでも、この逃避行が長くは続かないことは、薄っすらと気が付いていた。
「エミ様!!」
「え!?」
聞き覚えのある声がして、エミは声の方を見る。それが幻聴などではなく本当にドルハンの声だったことに、エミは驚愕した。
「ドルハン、遅い──」
「──おじちゃん! 後ろ!」エミの言葉をカロが遮った。
ドルハンの後ろに血まみれ天使で立っていた。明らかにエミとカロに見せつけるように、絶望を引き出すように、血まみれ天使はドルハンの腹を貫いた。
「がっ……! あっくっ……エミ様をお守りする!」
ドルハンは貫かれたまま、反撃を試みる。しかし、その腕はむなしく空を斬った。再び、血まみれ天使は消えたのだ。
ドルハンは振った腕の勢いのまま地面に転がった。
次はない。次は殺される。
エミは自身の経験から直観した。自分は守られる側の人間だ。自分を守ろうとする者がこれだけ現れたのだから、間違いないだろう。
だからこそ、次の襲撃で自分は殺される。それこそが周りの二人を最も絶望させる行動だからだ。
「あ、ああ……」
エミは腰砕けになった。もはや恐怖と興奮は最高潮に達し、体中がふわふわとおぼつかない。
ほんの一秒先には頭か心臓か、あるいは腹を突かれて死んでしまうだろう。
脳内の物質がエミの思考を加速させ、世界の時間を鈍重なものに変えた。
ゆっくりと流れる時間の中で、初めてエミは血まみれ天使をまじまじと見る機会を得た。意外にも素朴な顔で、だが悦楽が止められないといった表情をしている。自分も同じ顔をしているだろうか。
次の瞬間、響き渡ったのは打撃音だった。
何が起こったのかその場の誰も理解できない。数秒して、突然三人は目の前に一人の女戦士が立っていることに気が付いた。
その足元には凹んだ地面と、白目をむいて倒れている血まみれ天使がいた。
女戦士セナは、エミの今わの際に見たゆっくりとした世界の中ですら、認識できないような速度で駆け付けて、血まみれ天使を殴ったのだ。
血まみれ天使が完全に無力化されたことを確認して、セナはちらりとエミを見た。生きている。ドルハンとの約束は守れそうだった。
エミもまたセナを見た。そして稲妻のような衝撃を受ける。セナが自分を見る、侮蔑と怒り、そしてあまりに強いプレッシャーはエミの精神に消えない光を焼き付けた。
一目惚れだ。
「お姉さま……」明らかに熱のこもった息を吐きながらエミは言った。
セナはエミの言葉にある色を正確に読み取った。気色の悪いものを見る視線も追加され、エミは思わず唾を飲み込む。
「ああ゛゛!?」
人生で一番低い声がセナの喉から出た。
セナが居たり、アベルトが居なくなった影響で思いのほか原作からは乖離していっています。