何が悲しくて異世界は帝国を召喚したか   作:太田目黒

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第7話 戦後統治

西暦2030年10月18日 19時23分

大日本帝国領旧ロウリア王国 仁伯 ロウリア軍政監部

 

 ロウリア王国が大日本帝国に併合されてから、早くも1か月と2週間弱。

 王都ジンハーク改め仁伯(じんはく)の王城を丸々改装して設置されたロウリア軍政監部による軍政主導の戦後復興は、あの圧倒的な敗戦によるショックを受けていたロウリア住民の心情をおいてけぼりにし、凄まじい速度で行われていた。

 何より初動により国王が捕縛されたのが痛かった。国王を人質にされては、ロウリアやその属国群も手も足も出なかったためである。

 国王による降伏宣言は、既に戦意を喪失していた彼らを矛を捨てるのに十分すぎるものとなった。

 

 今回の戦争により、日本軍は戦死者19名、負傷者148名を出した。これらは主に都市部や森林、山岳地帯における掃蕩作戦中、ロウリア軍の残党部隊や好戦的な少数部族によるゲリラ戦により出たものが主となる。

 日本軍では、70年前の東印度事変(独立運動側呼称:インドネシア独立戦争)によりジャングルで、40年前のアフガニスタン出兵により山岳部で、トラウマレベルのゲリラ戦を嫌というほど味わってきた。

 今回陸海軍は、両事変・出兵で得た知識を基に研究された対ゲリラ戦用のドクトリンを用い、これに当たったわけである。

 

 ドクトリンに基づき、大陸中央部を中心として形成されていた大森林地帯の一部はナパーム弾で焼き払われ、新たに「ロウリア開拓村」が置かれることとなった。

 またの名を、“反日敵性住民のための強制収容所”ともいう。

 

 この開拓村構想自体、数十年前より存在していた。きっかけは、1960年代の東印度事変にまでさかのぼる。

 第二次世界大戦時、日本は当時オランダ領東印度(インドネシア)から石油・ゴムなどを輸入していたが、対英参戦により態度を急変。それまで“日蘭会商”と呼ばれた貿易調整定例会議の打ち切りを一方的に宣言し、これが日本軍による蘭印進駐を招いた。

 以後、日本は『大東亜政略指導要綱』に従い、ビルマを除く馬来半島、蘭印を帝国直轄地とし、中立を貫きつつも親連合国であったアメリカに対抗した。

 

 しかし戦争終結後、インドネシアではインドやビルマが独立していくのを見て、独立運動が活発化していった。その最たる例が1961年の“9月蜂起”である。

 当時、東印度総督府では武断政治が行われており、かなりの高圧力状態であった。そんな中、陸軍が補助部隊として組織していた現地人部隊である「郷土防衛義勇隊(PETA)」が、インドネシア民族派将校に率いられ一斉蜂起した。

 

 この独立戦争では、長年東印度人を苦しめていた労務者制度及び光蓮、三丸、金田などの財閥による経済搾取に対する抵抗運動でもあった。

 64年には東京オリンピックの開催や弾丸列車(新幹線)が開通するなど内地では華やかしい国威発揚が行われる中、インドネシア独立戦争を追及された民政党内閣は総辞職。

 当時議会の三分の一ほどに勢力を持っていた立憲政友会総裁に政権の手が渡ったが、こちらも少数野党が予算案を通過させる際に民政党からの妨害が入り、満足な対策ができなかった。

 

 そんな中で、東印度最大の都市ジャカルタが陥落すると、遂にしびれを切らせた陸軍部の一部強硬派が決起するに至る。

 1966年4月1日、「四一事件」と呼ばれる陸軍第一、近衛師団によるクーデターは、かつての二・二六事件のように天皇の賛同を得られず失敗するかに思えたが、事前に研究し尽くしていた決起軍は宮城を占拠すると、今でも真偽が問われている詔が渙発された。

 これは、戦時体制への移行のため、軍の信頼しうる人間に大命降下するというものであった。

 

 かくして日本は復活して20年ほど続いてきた憲政の常道がまたしても崩壊し、軍部独裁の道を歩むことになった。

 政権をすぐさま掌握した軍事内閣は、すぐさま国家総動員法を再制定、大本営を組織、陸海軍の緊密なる作戦指導の下、延べ200万の陸軍を東印度に派遣した。

 3年による徹底した燼滅(じんめつ)作戦により、300万人近い民間人、ゲリラ、東印度総督府PETA隊員らが戦病死している。

 この作戦で日本陸軍はジャングル戦に新型の螺旋翼機(ヘリ)を投入し、また「あか剤(くしゃみ剤)」といった化学兵器を大量運用するなどにより、後々東印度各地に禍根を残すこととなったが、ともあれ”インドネシア独立戦争”は強烈な日本軍事政権のおかげで無事(?)鎮圧されるに至った。

 

 前置きが長くなったが、開拓村構想はそのような軍事政権下において考案された大規模移住・強制収容所構想である。

 東印度総督府ではゲリラの発生率が高い地域を指定し、そこに住んでいた東印度人を別の地域もしくは島嶼部に村ごと移住させ、空いた土地に“自由な移住”を推奨させたのである。

 これに呼応して、朝鮮半島や同盟国の中華民国、大満洲帝国からの移住者を注入し、民族構成をごちゃまぜにしたのである。

 これによりゲリラ多発生地域が一挙に収束していくこととなり、代わりに島嶼部に送られた……いわゆる島流し……反日住民は慣れぬ土地に対応しきれず死者が続出、もしくは日本側に恭順して支援してもらうか選択せざるを得なかった。

 もっとも、ごく少数の勢力は島嶼部においても抵抗を試みているようだが、その力もたかが知れている。

 

 この開拓村構想と、最近判明したドイツ国の“国家弁務官区式統治”とを融合したものを、ロウリアでも実施しようと軍政監部は考えたのである。

 近年のドイツによる“オーフェンハイト(公明正大)”運動による政治的自由化の中で、それまでドイツが秘匿していたロシア・ヨーロッパ各地に設置する「国家弁務官区」の統治手法が全世界に明らかになった。

 ゲルマン民族は劣等民族であるスラブ民族の根絶を本気で画策していたようで、欧州各地から移送されたユダヤ人や少数民族とともに数千万人の非ゲルマン民族を“使い潰し”ていたわけである。

 

 ロウリア人……親日的な者を除く……が極めて不運といわざるを得ないのは、ロウリア軍政監部として派遣された陸軍将校らは、日本陸軍中央から厄介者として左遷された者たちであったことだった。

 彼らは、不完全であった開拓村構想、そして国家弁務官区式統治について研究し尽くしており、それは半ば実験場として、旧ロウリア王国に実施されることとなったわけである。

 軍政監部は「皇国補導協会」を設立すると、原住民すなわちロウリア人に対する皇民化政策を始めている。各地に学校が建設され、成人にも日本語教本を無償で与えて皇民化を図った。

 

 ロウリア人は、先の戦争により数百万人が死亡したとはいえ、未だ3000万人を超す数がいる。

 しかしこれらすべてが反日勢力というわけではない。大多数は日本の統治に友好的、もしくは無関心であり、露骨に日本に対して対決姿勢を見せる者は200万から300万ほどであった。

 軍政監部開拓部は、反日抗日思想を持つ彼彼女らを、手当たり次第に山岳地帯や森林地帯に送り込んでいった。

 そして空いた土地には東印度や朝鮮半島、台湾、日本から職にあぶれた労働者、家族を受け入れていく。

 

 朝鮮では狭い半島内に1億臣民が、台湾でも5000万、東印度に関しては4億を超す住民が所狭しと暮らしており、転移直後の混乱で数千万人の失業者で溢れかえっていた。失業者たちは公園や高架下などにたむろし、治安状況は最悪なものになっていた。

 それら余剰臣民たちに対し、日本政府は失業者対策、治安対策として新大陸への開拓民構想を発表し、半ば強制的に定職に付かない(付けない)人々を護送船団で乗せてロウリアに送り込んだのである。

 

 大量の旅客船、フェリーなどが徴用され、1週間で80万、3週間経過時には250万、そして1か月半経った今では500万を超す帝国臣民がロウリア各地に移住していった。予定では3000万人まで移住者を受け入れる予定だった。

 ロウリア王国は200万平方キロ近い面積を有する。これは、日本領東印度に匹敵する面積を誇る。3000万人ポンと送り込んだとしても、面積当たりの人口は過密な日本に比べてかなり低い。

 

 復興にはこぞって各財閥が名乗りを上げた。

 光蓮(日本最大)を筆頭に、三丸(日本2位)、安住(工業重化学工業)、金田(金融)の他、朝鮮系の明星(朝鮮最大、電子部品・製品重工業)、将星(情報通信)、朝本(石油重化学工業)、そして台湾系から鹿港(台湾最大、金融)、高雄(食品加工・重化学)財閥などが我先にとロウリアに進出し、各地に営業所や各種工場、造船所、化学プラントといったものの建設ラッシュが始まっている。

 

 財閥からしてみれば、近年所得水準も上がってきて「安い・多い」で雇っていたはずの中華民国人、インド共和国人からあまりうまみを得られなくなっていた。

 半世紀前であれば、東印度総督府の斡旋によりいくらでも労働力を得られていた東印度人についても、先の軍事政権崩壊時、立憲政友会内閣が労務者制度を正式に廃止を決定したことにより、労使契約を結び自分たちで雇用しなければならなくなった。

 

 そんな中、21世紀の現代思想を持たない、すなわち好き勝手できる3000万人の労働力の登場である。これを喜ばない財閥はいなかった。

 拍車をかけることになったのが、ロウリア軍政監部が労務者制度を施行し、軍政監部労働局による“斡旋”という名の強制徴用を行うことになったことにより、財閥はロウリア人を安い賃金で働かせることとなった。

 

 もっとも、安い賃金とはいいながら、あくまで現代日本基準から見たものであり、ロウリア人からしてみれば、財閥から支払われた給料は今までの暮らしよりも数倍から十数倍も良いものとなっている。

 また20世紀中ごろの労務者制度と違い、ロウリアで採用された労務者制度では、労務者の管理をきちんとしなければ企業の営業権が取り上げられるなど、その辺は軍政監部労働局によって監督されている。そのため“奴隷”のような働かせ方はできない仕様だった。

 なお、開拓村の村民は除く。

 

 しかし良いことだけではない。

 人口不足や無数の瓦礫の撤去というものは、人海戦術によりなんとでもなるわけであるが、治安の問題は早急にどうにかしなければならなかった。

 移住してきた日本臣民の移住者たちが、新天地に到着早々に強盗に遭うことを避けなければならない。

 

 そこで軍政監部では、旧朝鮮総督府や東印度総督府で運用されていた憲兵警察制度を採用した。

 これは独立運動の激しい地域に対し、一般的な警察権力だけでは対応しきれないため、軍憲兵隊を警察機構の一つとして機能させるものである。

 内地・外地における憲兵警察制度においては、憲兵・警察官の分担箇所は明確に決まっていたが、軍政監部はすべての地域を「高危険度区域」に指定し、憲兵隊による独自の治安維持活動を行わせた。

 

 とはいえ、200万平方キロ以上あるロウリアを、数千名にまで増員したとはいえ憲兵隊だけで維持するには物理的に難しい。そこでロウリア軍憲兵隊では、元ロウリア王国軍将兵を対象に募集をかけ、憲兵補助員部隊を組織した。

 憲兵補助員制度は、既に戦前の朝鮮半島でやったことのある伝統的な制度である。実績のある制度であるため、ロウリア地域を統括するロウリア軍憲兵隊司令部は、当該制度の導入を決心したわけである。

 

 かくして最初の数週間で、憲兵隊は1万を超す憲兵補助員を獲得することになる。憲兵隊はこの即席憲兵に基礎的な警察業務を教え込むと、ただちに全国各地の分隊駐屯所に派遣している。

 業務内容が内容なだけに、それなりに高い給金が設定されていたこともあり、それに釣られて多数の元将兵を名乗る住民が押し寄せてきた点を除けば、概ね憲兵補助員部隊は軍政監部の予想通りに終わった。

 

 先の話ではあるが、貿易港は20万トン級タンカーが出入りできるように拡張整備、港湾施設には燃料貯蔵庫や、内陸部で産出された鉱物資源等を保管するための巨大倉庫が建設され、そこから陸軍鉄道連隊と運輸通信省鉄道総局が協力して敷設された鉄道路線が各都市に続いている。

 軍政監部のある仁伯中央駅を中心として再設計された都市部は、碁盤の目のように舗装された土瀝青(アスファルト)によって完成形を見る。

 

 少し地方に行けば、ロウリア開拓と自車路線の拡大を目論む私鉄各社による田園都市化が進んでいた。

 また開拓によってひと財産築いた外地系・内地系日本人住民や、ロウリア系元地主や貴族らが土地を購入し余生を過ごしていた。

 

 なお余談ではあるが、ロウリア王国時代の地主や貴族は、戦後そのほとんどが特権をはく奪され、財産没収の憂き目に遭っていた。

 しかし、軍政監部に協力すれば一部の財産を返還するという特例を出したことにより、多くの地主・貴族階級の人間が軍政監部に出頭して頭を下げ、下級役人……一部の公爵・侯爵レベルの大貴族は上級役人として登用された……として第二の人生を歩むこととなる。

 

 2031(1640)年が終わるころには、ロウリア全土での最低限の復興は終わりを迎えつつある。軍政監部と財閥による“連携”により、ロウリアはたった1年半で復興どころか、第三文明圏内でもトップレベルに反映した地域に生まれ変わることになったのであった。

 その裏では、数百名もの軍政監部の“経済将校”と呼ばれる、商工官僚顔負けの経済産業政策を立案した者たちの血のにじむような努力があった。

 かつて、元満洲帝国官僚時代に産業開発でその手腕を見せつけ、「昭和の妖怪」と呼ばれた商工官僚の影響を受け育った革新官僚らに対抗し、陸軍内で設立された総力戦に耐えうる統制経済の研究会「総力戦研究会」出身の彼らのおかげで今、ロウリアは現代化を果たしたのである。

 

 

中央暦1639年11月15日 13時13分

クワ・トイネ公国 クワ・トイネ

 

「首相閣下、10月分の貿易に関する報告書が出来上がりました」

 

 クワ・トイネ公国首都クワ・トイネ。

 首相執務室でカナタは、日本に倣って新たに設立した通商産業省の官僚から報告書を受け取った。

 何ページかめくって大体を把握すると、笑みをこぼす。

 

「よかった。大幅な、とは言えないが、黒字に転じたようだな」

 

 日本と接触し、通商航海条約を結んでから9か月……クワ・トイネが貿易黒字になったことは一度もなかった。むしろ真逆で、日本からの輸入品による膨大な貿易赤字を計上していた。

 日本からの「政府開発援助」により赤字によるデフォルトは免れていたが、そんなクワ・トイネも今般、ロウリアに対する穀物・商品作物輸出の結果、僅差ではあるが貿易収支が黒字に転じたのである。

 

「ロウリア開拓団様々です。日本から移住してきた人々は、ロウリアで生産された農作物が口に合わないとのことで」

 

「それで、日本向けに品種改良された我が国の農作物の需要が高まったと」

 

 商工官僚は頷く。

 

「日本政府によれば、現在3000万人の移住者を募っているとのことで、数年に渡ってロウリアの人口は急増していきます。そこになんとか我が国として、何らかの形で入り込むことができれば、今以上の貿易収支の健全化も可能となります」

 

「素晴らしい。是非検討してくれ。クイラのオイルマネーによる発展具合に比べると、明らかに我が国の発展は遅れている。農作物、特に単価の高い商品作物輸出による発展を頑張ってくれたまえ」

 

「はい、承知いたしました」

 

 官僚が退出するのを見届けると、カナタはクワ・トイネ産の葉巻を加える。

 それまであまり吸わなかったが、日本との折衝の関係からストレスがたまりにたまっており、気付けば常時口に咥えるようになっていた。

 ストレスは多い。悩みも多い。その代わり、利益は莫大なものだった。

 

 政府開発援助に軍事援助、最近では情報産業という新しい第三次産業も自国に進出しつつある。また、今月に入ってマイハーク近郊に民間宇宙港の建設も始まっている。

 これが実現すれば、来年か再来年にはクワ・トイネが宇宙空間に人工物体を送り出せることになる。

 

 もっとも、ロケットから人工衛星、その他装置まですべてが日本製のもので、管制するのも日本人であるため、あくまでクワ・トイネは土地を提供しているだけである。

 それをもって“クワ・トイネが宇宙に通信衛星を“という表現にはいささか疑問が残るわけだが。

 

「宇宙空間に通信衛星を打ち上げることにより世界的な通信網を確立する」という財閥のセールスマンの話は、確か六度聞き直したであろうか。

 前の世界では、その技術を十数年前に実現しているという将星宇宙通信株式会社(将星財閥)との提携契約も獲得したことは、クワ・トイネの発展にかなりの影響を及ぼしてくれるであろう。

 少なくともクイラより先に、クワ・トイネは情報宇宙産業という新たな産業に足を踏み入れることができることは間違いなかった。

 

「しかし、よくもまあ、短期間でここまで発展したものだな……」

 

 カナタは葉巻をふかしながら立ち上がると、執務室の窓から外の景色を見る。

 首都クワ・トイネの町並みは、昨年、いや半年前と大きく変貌していた。

 道路は土から“ドレキセイ”と呼ばれる丈夫な素材で舗装され、魔力を用いず、かといって馬も必要ない“自動車”と呼ばれる自走式の車が走っている。

 

 ついこの間、クワ・トイネ、マイハーク間で開通した国道1号線は、片側一車線の日本基準でいえば狭い道路であったが、クワ・トイネを一変させた。

 マイハークで降ろされた貿易品の数々は自動貨車に積み込まれ、国道1号線を通じて首都まで輸送される。

 それまでは数日から一週間はかかっていたであろう交易品のやり取りが、わずか一日で済むようになったことから貿易産業は活気づいた。

 

 さらに現在では、ロウリア軍政監部のある仁伯からここクワ・トイネまでの鉄道が敷設される計画も上がっている。

 ここに貨物路線が完成すれば、直接にロウリア地域に穀物輸出ができることから、手間賃も減る。

 

「このままずっと、繁栄を謳歌できればいいなぁ」

 

 脳内のストレスが紫煙とともに部屋に散らされている中、今後の華やかな国家繁栄に思いを馳せると、カナタは再び執務に戻るのであった。

 

 ロウリア、クイラ、そしてクワ・トイネは今、それぞれ別々の形で戦後を迎え、絶頂期を迎えようとしていた。

 おそらく日本という異次元の存在の登場により、本来この世界が辿るべき歴史は大きくねじ曲がり、化学反応を起こして180度回転されたのである。

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