その気配に真っ先に気付いたのは、演習を率いる国重だった。
形容しがたい不快な感覚が背筋を通り抜け、通路の先を睨みつける。
それが明確な確信に変わるまで、数秒と掛からなかった。
「全員、即時撤退!!」
国重が叫ぶ。が、ほとんどの者は何がなんだか分からず、困惑するのみ。
「さっさと逃げろ!! ここから逃げろ!! 全速力で逃げろ!! 今すぐに!!!」
更に叫び、チラホラと小走りに駆け出す者たちが出る。
対照に、引率者パーティーの面々はというと、物理職は冒険者たちの撤退を促し、魔法職はバフ━━強化魔法をありったけ国重に掛けてゆく。
そして、それはゆっくりと姿を現した。
赤い毛並みを持つ、巨大なウルフ。その全高はおよそ人の三倍近い。
レッドヴァンウルフというモンスターだ。本来はウルフより一回り大きい程度なのだが、一同の前に現れたそれは明らかな異常個体だった。
それを目視した冒険者たちが次々とパニック状態となり、我先に逃げ出しはじめる。
そんな獲物を前にしてか、レッドヴァンウルフは興奮したように雄叫びをあげ、突風のように駆け出した。
「シールドオブウォール!!」
国重が叫ぶと、巨大な光の壁が現れてレッドヴァンウルフの行手を塞ぐ。
唐突に現れたそれを前に止まることもできず、レッドヴァンウルフはゴンッという鈍い音とともに弾き返された。
しかし、すぐに体勢を立て直して、その場に一人残った国重を睨みつける。
「……来い!」
叫ぶ国重に触発されてか、すぐに飛び掛かるレッドヴァンウルフだが、再び光の壁に阻まれた。
獲物が目の前にいるのに手が出せない。
レッドヴァンウルフは、そんな怒りをぶつけるかの如く何度も何度も体当たりを繰り返す。
繰り返されるたびに光の壁にヒビが入ってゆき、ついには壊れた。
そのまま国重に噛み付かんとキバを剥くが━━。
「カウンターバッシュ!!」
レッドヴァンウルフの横面を、光り輝く盾で殴った。
攻撃されると思っていなかったところへの反撃は効果絶大で、レッドヴァンウルフは視界が揺れるのを感じてすぐに起き上がれない。
その僅かな隙を見逃さず、国重は手に持っていたボール状の物体をレッドヴァンウルフの前足に投げつける。
すると、強力な粘着性のある大量の糸が広がり、足と地面をくっ付けて瞬く間に拘束した。
「あばよ、クソ犬! 二度とその面見せるな!」
捨てゼリフを吐きながら、脱兎の如く逃げ出した。
重厚な鎧を装備しているとは思えない速度で走っているが、これは戦闘前に掛けてもらったバフの効果の一つである。
走る速度が上がるという単純な補助魔法だが、逃げるにも相手をかく乱するにも使える便利な魔法だ。
国重がトンズラしたことで、レッドヴァンウルフの怒りは高まる。
力任せに暴れるも、糸の頑丈性は並外れて強く、引きちぎることができない。
それでも諦めず、怒りに任せて引くわ跳ねるわ捻るわと大暴れし、最後には噛みつき口も粘着して取れなくなった。
フガフガと息荒く暴れ回る姿は非常に滑稽であるが、更に怒りが蓄積されてゆく。
やがて我慢の限界となったレッドヴァンウルフは、口から灼熱の炎を吐き出した。
さすがの粘着糸も炎の前にはなす術なく溶けてゆく……が、その高すぎる熱は炎だけでなく、自らの肉体も焼いてしまう。
糸から解放されたが、顔と両前足も焼けただれてしまった。
怒りの限界に達したレッドヴァンウルフは、逃げた獲物たちを仕留めるために全速力で駆け出した。
★
強力なモンスターが現れた際に、逃走するための基本的な撤退戦術というものが幾つかある。
国重にありったけのバフを盛りつけたのも戦術の一つで、敵を惹きつけるタンカーを強化して仲間が逃げるだけの時間を稼ぎ、何かしらの手段を用いて足止めしたのちに逃走。
一見すると見捨てたようにみえるが、むしろ国重が最も多用している撤退戦術だった。
引率者パーティーは参加者たちを導きながら、地上への道を最短ルートで進んでいた。
そして、鏡次は最後尾を走っている。逃げ遅れた者がいないか確認するためだ。
しばらく走っていたが、三階層の道中で倒れている者の存在に気付く。
「あっ……! 茅野さん!」
倒れていたのは愛だった。鏡次はすぐに駆け寄って抱き起こす。
「大丈夫か!」
「い、十六夜さん……」
痛みを堪えるような声で鏡次の名を呼ぶ。
どこか怪我をしたのかと調べてみれば、彼女の足の一部が赤黒く腫れ上がっていた。
「待ってろ、今治すから……! と、ポーションも飲んで」
鏡次はウエストバッグからポーションを取り出し、愛に飲ませてから患部にヒールを掛ける。
ポーションは遅効性だが、治癒力の活性化と止血効果、それに痛み止めの作用が多少ある。
対して回復魔法は即効性があり、治癒力の活性化というよりは使用者の魔力を変換して、細胞を新しく創りだして入れ替える……ようなものらしい。
回復魔法は深く解明されていないが、高ランクのヒーラーが使えば千切れた手足が生えてくる。
なので、魔力を細胞に変換して創り出しているのでは、という見解らしい。
ちなみにポーションと併用は可能だが、普通のヒーラーはやらない。
鏡次がそうしたのは、時間がないことと痛みを和らげる目的であること。
そして、ヒールの治療速度が他のヒーラーと比べて遅すぎるからだ。
「それにしても、なんでこんなことに?」
「みんなと一緒に逃げていたんですけど、押されて転んでしまって……それで足を強く踏まれてしまったんです」
「そうか……災難だったな。大丈夫だ、絶対に逃してあげるからな」
そう言いながらも、鏡次は内心で焦っていた。
もう一分近くヒールを使い続けているが、見たところ半分くらいしか治っていない。他のヒーラーであれば、そろそろ完治している頃だろう。
この程度も治せないことに苛立ちすら覚える鏡次だが、どう思ったところで治療速度は変わらない。
そして、タイムアップは訪れる。