十数年前、東京郊外で“それ”は起きた。
晴れた日の午後、何の前触れもなく空が割れた。
ひととき現れた裂け目から、黒い煙が音もなく流れ出し、都市の一部を覆った。
視界は奪われ、空気は沈黙し、そして数分後にはすべてが消えた。
人も、街も、物理的な被害はなかった。
だがそのとき、確かに「何か」が、この世界に混ざった。
――それが後に「黒煙災害」と呼ばれる異常現象だった。
当時、誰も正体を知らず、証明もできなかった。
しかし、それを境に一部の人間の“何か”が変わり始めた。
七星煙司。
27歳、ブラック企業勤め。
長時間労働、サービス残業、壊れかけた人間関係。
そんな日々の中で、唯一の支えとなっていたのがタバコだった。
「吸ってる間だけが、生きてるって感じする」
その日も、終電間際の帰り道。
ヨレたスーツのまま自販機で缶コーヒーを買い、
人通りのない高架下の喫煙所へと向かった。
灰皿の横に腰掛け、火を点ける。
一口吸って、煙を肺に流し込むと、ようやく呼吸が落ち着く。
「……はぁ。やっと、呼吸できる」
だがそのときだった。
肺の奥に、いつもとは違う感覚が走った。
チリッとした熱。
そして、心臓の鼓動と共鳴するような圧。
目の奥に、ぼんやりと“何かの姿”が浮かぶ。
(……なんだ、これ)
次の瞬間、全身を貫くような眩暈と息苦しさ。
煙司はそのまま地面に手をつき、苦悶の表情でうずくまる。
肺の奥に、“何か”が蠢いていた。
(あの日……?)
黒煙災害の記憶が、脳裏にフラッシュバックする。
あの漆黒の空。目も耳も奪われた、異常な数分間。
自分は確かに、あの場にいた。
そして今――
彼の中に、その黒煙の“因子”が目覚めた。
「出ろ――灰ノ壱・イグニス・ウルフ」
無意識に、言葉が口を突いて出る。
そして、吐き出した煙が形を持ち始めた。
赤く揺らめく焔。
その中に現れたのは、狼の影――
だがそれは幻ではない。煙でできた“何か”が、こちらを見つめている。
「……嘘、だろ」
恐怖と興奮が同時に胸を打つ。
その狼は、しばらく煙司のそばを静かにうろついた後、ふっと風に乗って消えていった。
それからの数日間。煙司は、自分の変化を隠しつつも、
喫煙のたびに“その存在”を呼び出しては観察を繰り返した。
彼は知った。
これは病気ではない。異常でも、妄想でもない。
“力”だ――煙を媒体として発現する、異質な力。
そして、こうも思った。
(俺だけじゃない。あのとき、同じように巻き込まれた人間がいたはずだ)
もしこれが自分だけのことではないなら――
世界のどこかで、同じように煙を纏っている者がいるはずだ。
それは、友か、敵か、それとも――もっと異質な“何か”か。
煙司は知らなかった。
これが始まりにすぎないことを。
そして、いずれ“選ばれた十二人”と呼ばれる存在に、
自分が深く関わっていくことになることも。
この世界には、“煙を纏う者”が、他にも存在している。
その中でも、特別な十二人。
彼らは密かに、こう呼ばれている。
――「灰煙の使徒(はいえんのしと)」と。