煙司は、仕事が終わると必ず自販機で缶コーヒーを買い、喫煙所に立ち寄る。
それはもはや習慣というより、ひとつの儀式だった。
灰皿の前に立ち、タバコに火を点ける。
ゆっくりと吸い込んだ煙が肺に満ちていく。
その瞬間、身体の奥がわずかに熱を持つのを、彼は確かに感じていた。
「吸えば落ち着く。けど……それだけじゃない」
火を灯すたび、彼の内側で何かが目を覚ます。
煙の通り道を伝って、獣のような“気配”が体内を巡っていく。
それは目に見えず、言葉にもできない感覚だ。
だが煙司は、確信していた。
(俺の中には“何か”がいる)
タバコの煙は、ただの嗜好品ではなくなっていた。
それは鍵であり、導火線であり――彼の“能力”を引き出す媒体。
「……灰ノ壱、イグニス・ウルフ」
小さく呟いた瞬間、吐き出した煙が赤く染まり、一瞬だけ形を帯びる。
狼のような輪郭を持った煙影が、闇の中に浮かんでは消えた。
あの日、黒煙災害の余波を浴びてから、半年が経つ。
煙司はその力を、誰から教わるでもなく、自ら試し、研ぎ澄ましてきた。
週末になると、郊外の山へ車を走らせる。
人気のない場所で焚き火を焚き、煙と向き合う。
そこでは誰にも見られず、思う存分、自分の“ギア”を操ることができた。
狼の形を維持すること。空気の流れを読み、揺らがない構造を作ること。
時には風上から風下へ、煙を刃のように飛ばしてみる。
まるで剣を振るうかのように、狼が咆哮するイメージで煙を動かす。
(まだ……足りない)
頭にこびりつくのは、あの夜の記憶。
喫煙所で出会った赤いジャケットの男――彼の灰煙ギアは、まるで獣そのものだった。
鋭い爪、牙のような煙。暴力的で、鮮烈だった。
(俺はまだ、“牙”の使い方を知らない)
イグニス・ウルフは確かに美しく、炎を宿す存在だ。
だが実戦で牙を剥くには、まだ力が足りない。
今のままでは、あの男には届かない。
それでも煙司は確信している。
(俺の煙は、もっと鋭くなる。まだ火種の段階だ)
繰り返す日々の中で、ひとつの仮説が形を成してきた。
黒煙災害。それは異世界との偶発的な接触であり、
その煙には、“黒煙因子”と呼ばれる未知の粒子が含まれていた。
極めて低確率ながら、その因子に“適合”した人間だけが、灰煙ギアを発現させる。
そして――
(あの災害で、目覚めたのは俺だけじゃない)
同じように目覚めた者が、必ずどこかにいる。
それが一人か、十人か、百人かは分からない。
だが、世界はすでに変わっている。
煙司は知らなかった。
その“変化”が、偶然ではなく意味を持っていたことを。
そして、その中でも選ばれし十二人――
『灰煙の使徒』と呼ばれる者たちの存在が、
やがて世界の構造を揺るがすことになることも。
その夜もまた、煙司は静かに火を灯す。
誰にも邪魔されず、一人で煙と向き合う。
吸い込み、吐き出す。
ただそれだけの行為に、命を燃やすような実感があった。
> 火種は、確かに燃えていた。