東京、朝。
澄みきった空気に、遠くで始業チャイムが重なる。
だが七星煙司にとっては、昨日から今日に変わっただけの日常だった。
「……いつも通り、か」
ネクタイを締め、コンビニでタバコと缶コーヒーを買う。
何も変わらないはずの朝。だが、どこか微かに違和感があった。
人の視線が妙に気になる。
電車の中でも、エレベーターでも、すれ違う人の目が引っかかる。
ビルの窓に映る自分の後ろ姿が、いつもより不自然に見える。
(……気にしすぎ、か?)
あの夜、赤いジャケットの男――烈牙と交戦してから数日が経っていた。
サイレンで中断されたあの戦いは、まるで夢のようだったが、確かな現実でもあった。
彼の灰煙ギア『ルガル・ファング』。
あの獣に、次は打ち勝たなければならない。
だが、それよりも先に、自分の周囲に漂う妙な空気が気にかかる。
社内の喫煙室でふと目を逸らす同僚。
机の上に置かれていた、自分が使っていないはずのメモ用紙。
スマートフォンの履歴には、知らない番号からの不在着信が残っていた。
「妙に落ち着かないな……」
終業後、煙司はビルを出ていつもの喫煙所へ向かう。
誰もいない時間を狙って来たはずだったが、灰皿の上に新しい吸い殻が残っていた。
銘柄は見覚えのないもの。
煙司の知るどのタバコとも違う――ラベルすら剥がされ、灰は濃く黒かった。
(こんな銘柄……あったか?)
妙に整った吸い殻。均等に折られたフィルター。
タバコ一本で、使い手の性格すら見える気がする。
「……わざと置いたか、これ」
誰かが自分の“存在”を確認するように痕跡を残した。
そうとしか思えなかった。
そのとき、遠くから視線のような気配が過った。
誰かが、こちらを見ている。
だが振り返っても、通勤途中のサラリーマンしかいない。
「気のせい……ならいいが」
煙司はタバコを咥え、火を灯す。
白い煙が、ゆるやかに空へと溶けていく。
イグニス・ウルフは呼ばない。ただ煙を、意図的に強く吹き出す。
(……見ているなら、煙の匂いを覚えとけ)
そのころ、街の別の場所――
薄暗いビルの屋上に、一人の男が立っていた。
黒いコートに、無表情の顔。
手にはデータパッドのような端末。
その足元にも、一本のタバコの吸い殻が転がっている。
「コードNo.077、行動パターン解析完了。対象、潜在脅威度Bランクに暫定指定。能力属性:炎系、具現型」
無機質な声でつぶやくと、男は背後に立つ人物に報告を送る。
「七星煙司。……牙を隠したまま、燃えようとしている」
その後ろにはもう一人、サングラスの女がいた。
彼女は短く返す。
「継続監視。手を出すのは、次の“起動”を待て」
彼らは『燐煙(りんえん)』。
裏社会に潜む情報組織。
灰煙適合者を探し、時に支配し、時に潰すために動く者たちだった。
「コードNo.049……次の監視対象の痕跡が、市内の第三区域で確認された。――接触準備を」
「了解」
男はタバコの吸い殻を踏み潰すと、背中を向けて闇の中へと姿を消した。
そして、同じ時間。
繁華街の裏通り、古びた喫茶店の入り口に、もう一人の影がいた。
「…………」
その人物は、表情を持たないままタバコに火をつける。
吸い込んだ煙は、淡く青白い光を帯び、ゆらゆらと蛇のように宙を這っていく。
誰の味方でもない。だが、明確な意思を持ってそこにいる。
目を閉じ、煙を吐く。
> 「この世界には……牙を隠したやつが多すぎる」
その言葉が、夜の空気に溶けて消えた。
物語は、静かに熱を帯び始めていた。