灰煙の使徒   作:vananana

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【第四話】仄煙の足音

 

 

喫煙所の灰皿に、微かな違和感が残っていた。

 

朝の光に照らされ、白く乾いた吸い殻が並ぶ中、一本だけ異質なものがあった。

細身のシルエット。濃い青灰の灰。わずかに香のような甘い匂いが漂う。

 

「……また、あの煙か」

 

煙司はそれを指先でつまみ、慎重に観察する。

タバコとしての規格は普通。市販のどのブランドにも似ていない。

だが、その煙の匂いが、妙に記憶に引っかかる。

 

(あの路地で、すれ違った男の……)

 

昨夜、仕事帰りにふらりと入った裏通り。

酔ったサラリーマンに絡まれたのを避けるようにして曲がった角。

その先で、一瞬だけ――誰かとすれ違った。

 

黒いパーカーに、無表情な横顔。

目が合ったわけではない。だが、煙司は“感じた”のだ。

 

(あいつも……煙を纏ってた)

 

それはただのタバコの煙じゃなかった。

もっと鋭く、重たく、空気の一部として存在しているような――異物だった。

 

吸っていないのに、周囲に煙が漂っている。

しかも、その煙は風の流れとは無関係に、人を避けるように滑っていく。

 

肺の奥がざわめいた。

イグニス・ウルフが、反応したかのように。

 

(俺と同じ、“灰煙”の気配……)

 

それは理屈ではない。感覚だ。

煙司には“煙を察知する”力があるわけではない。

だが、自分の中に宿った煙が、他者の煙に呼応する。そんな気配を確かに感じていた。

 

その時、風が止まり、時間が一瞬だけ淀んだ気がした。

 

煙司は喫煙所を出た。

足元にはもう一度、あの吸い殻が転がっていた。

 

(これは、メッセージか)

 

誰かが意図的に、彼に“見せて”いる。そう思えてならなかった。

 

 

 

その夜、煙司は再びあの路地に足を運んだ。

昨日すれ違った場所。街灯の灯りも届かない裏通り。

 

人の気配はない。

だが、確かに残っていた。

 

空気の層が、薄く焦げていた。

 

通常なら気づかない。だが、煙司はわかる。

タバコでも香水でもない、あの特有の“煙の気配”。

 

路地の奥へと視線を向けると、青白い煙が一筋、ゆらりと漂っていった。

 

(……いる)

 

心臓が跳ねた。

一歩、足を踏み出す。

その瞬間、背後の空気がふっと揺れた。

 

誰かが、そこに“いた気がする”だけ。

だが、それが何よりの証だった。

 

(追うか……?)

 

その時、ふいにスマートフォンが震えた。

画面には「非通知着信」の表示。

着信音は鳴らず、数秒後に切れた。

 

まるで、「今はやめろ」と告げられたようだった。

 

> 『次は、お互いもう少し牙を剥こうぜ――七星煙司』

 

(……まだ、その時じゃない)

 

煙司は拳を握りしめ、煙の中に踏み出すのをやめた。

 

誰かが牙を隠しているなら、自分もまた、今はそれに応じるべきだと、そう感じた。

 

 

 

その夜、燐煙本部――地下の監視室。

 

「コードNo.021、都市内での出現を確認。煙司との距離は約120メートル。交戦の兆候なし」

 

データパッドを操作していた黒髪の女が、無表情で報告を続ける。

 

「仄煙。火気反応なし。属性不明。視線接触は一度のみ」

 

「行動パターンは?」

 

「接触を避けているが、行動は計画的。観察・判断・離脱に一貫性あり。偶然ではない」

 

背後にいた男――かつて烈牙を監視していた先遣隊の一人が、画面に映る映像を睨んでいた。

 

「青白い煙……視覚誘導か?いや、熱反応がない。幻覚系かもしれん」

 

女はモニターを切り替えながらつぶやく。

 

「仄煙は“使徒”の可能性がある。コードNo.049に次ぐ“第六候補”として記録」

 

「次はどうする?」

 

「……様子を見る。奴はまだ動いていない。こちらからの接触は控える」

 

部屋の空気がぴんと張り詰めた。

 

「だが、煙司との関係性が変化した場合――その時は即時対応を」

 

「了解」

 

モニターに映し出されたのは、喧騒の街を歩く青年の姿。

黒いパーカー、下を向いて歩く姿勢、そして常に背後にたなびく煙。

 

誰も気づかない。

だが、確かにその男は、煙を纏っていた。

 

 

 

同時刻、仄煙――彼は人気のない川沿いの歩道に立っていた。

 

街の灯りが川面に反射している。

風が止み、静寂に包まれた空間で、彼は一服の煙を吐いた。

 

> 「……灰煙、か」

 

口にしたその言葉に、特別な意味はなかった。

ただ、そう呼ばれているものが自分の中にあるというだけ。

 

彼の瞳は遠くを見据えていた。

それはこの都市の灯りでも、通り過ぎる人々でもない。

 

思い出すのは――喫煙所で、すれ違った男の“気配”。

 

> 「お前の煙は、赤かった。……きっと、燃えてる」

 

誰に言うでもなく、仄煙はそう呟いた。

 

その手には、今もなお煙草の火が灯っている。

 

「俺の煙は、まだ冷たい。……けど」

 

その言葉の続きを、彼は飲み込んだ。

 

再び口元に火を灯すと、煙は静かに空へと溶けていく。

 

その背後に、誰かの気配があったとしても――

彼は、ただ前を見据えたまま歩き出す。

 

仄かな煙が、確実に都市に満ち始めていた。

 

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