喫煙所の灰皿に、微かな違和感が残っていた。
朝の光に照らされ、白く乾いた吸い殻が並ぶ中、一本だけ異質なものがあった。
細身のシルエット。濃い青灰の灰。わずかに香のような甘い匂いが漂う。
「……また、あの煙か」
煙司はそれを指先でつまみ、慎重に観察する。
タバコとしての規格は普通。市販のどのブランドにも似ていない。
だが、その煙の匂いが、妙に記憶に引っかかる。
(あの路地で、すれ違った男の……)
昨夜、仕事帰りにふらりと入った裏通り。
酔ったサラリーマンに絡まれたのを避けるようにして曲がった角。
その先で、一瞬だけ――誰かとすれ違った。
黒いパーカーに、無表情な横顔。
目が合ったわけではない。だが、煙司は“感じた”のだ。
(あいつも……煙を纏ってた)
それはただのタバコの煙じゃなかった。
もっと鋭く、重たく、空気の一部として存在しているような――異物だった。
吸っていないのに、周囲に煙が漂っている。
しかも、その煙は風の流れとは無関係に、人を避けるように滑っていく。
肺の奥がざわめいた。
イグニス・ウルフが、反応したかのように。
(俺と同じ、“灰煙”の気配……)
それは理屈ではない。感覚だ。
煙司には“煙を察知する”力があるわけではない。
だが、自分の中に宿った煙が、他者の煙に呼応する。そんな気配を確かに感じていた。
その時、風が止まり、時間が一瞬だけ淀んだ気がした。
煙司は喫煙所を出た。
足元にはもう一度、あの吸い殻が転がっていた。
(これは、メッセージか)
誰かが意図的に、彼に“見せて”いる。そう思えてならなかった。
その夜、煙司は再びあの路地に足を運んだ。
昨日すれ違った場所。街灯の灯りも届かない裏通り。
人の気配はない。
だが、確かに残っていた。
空気の層が、薄く焦げていた。
通常なら気づかない。だが、煙司はわかる。
タバコでも香水でもない、あの特有の“煙の気配”。
路地の奥へと視線を向けると、青白い煙が一筋、ゆらりと漂っていった。
(……いる)
心臓が跳ねた。
一歩、足を踏み出す。
その瞬間、背後の空気がふっと揺れた。
誰かが、そこに“いた気がする”だけ。
だが、それが何よりの証だった。
(追うか……?)
その時、ふいにスマートフォンが震えた。
画面には「非通知着信」の表示。
着信音は鳴らず、数秒後に切れた。
まるで、「今はやめろ」と告げられたようだった。
> 『次は、お互いもう少し牙を剥こうぜ――七星煙司』
(……まだ、その時じゃない)
煙司は拳を握りしめ、煙の中に踏み出すのをやめた。
誰かが牙を隠しているなら、自分もまた、今はそれに応じるべきだと、そう感じた。
その夜、燐煙本部――地下の監視室。
「コードNo.021、都市内での出現を確認。煙司との距離は約120メートル。交戦の兆候なし」
データパッドを操作していた黒髪の女が、無表情で報告を続ける。
「仄煙。火気反応なし。属性不明。視線接触は一度のみ」
「行動パターンは?」
「接触を避けているが、行動は計画的。観察・判断・離脱に一貫性あり。偶然ではない」
背後にいた男――かつて烈牙を監視していた先遣隊の一人が、画面に映る映像を睨んでいた。
「青白い煙……視覚誘導か?いや、熱反応がない。幻覚系かもしれん」
女はモニターを切り替えながらつぶやく。
「仄煙は“使徒”の可能性がある。コードNo.049に次ぐ“第六候補”として記録」
「次はどうする?」
「……様子を見る。奴はまだ動いていない。こちらからの接触は控える」
部屋の空気がぴんと張り詰めた。
「だが、煙司との関係性が変化した場合――その時は即時対応を」
「了解」
モニターに映し出されたのは、喧騒の街を歩く青年の姿。
黒いパーカー、下を向いて歩く姿勢、そして常に背後にたなびく煙。
誰も気づかない。
だが、確かにその男は、煙を纏っていた。
同時刻、仄煙――彼は人気のない川沿いの歩道に立っていた。
街の灯りが川面に反射している。
風が止み、静寂に包まれた空間で、彼は一服の煙を吐いた。
> 「……灰煙、か」
口にしたその言葉に、特別な意味はなかった。
ただ、そう呼ばれているものが自分の中にあるというだけ。
彼の瞳は遠くを見据えていた。
それはこの都市の灯りでも、通り過ぎる人々でもない。
思い出すのは――喫煙所で、すれ違った男の“気配”。
> 「お前の煙は、赤かった。……きっと、燃えてる」
誰に言うでもなく、仄煙はそう呟いた。
その手には、今もなお煙草の火が灯っている。
「俺の煙は、まだ冷たい。……けど」
その言葉の続きを、彼は飲み込んだ。
再び口元に火を灯すと、煙は静かに空へと溶けていく。
その背後に、誰かの気配があったとしても――
彼は、ただ前を見据えたまま歩き出す。
仄かな煙が、確実に都市に満ち始めていた。