雇われパイロットwith素直クールな後輩系魔法使いで世界一周する話 作:サイバーゾンビー
──「異世界転生」という言葉を耳にしたとき、現代に生きる日本人の多くが思い浮かべるのは、おそらく魔法と剣が飛び交う英雄譚だろう。
魔王の支配に苦しむ人類。魔物に命を奪われる日々。数々の異能と魔法に彩られ、愛らしい少女たちの眼差しを背に受けながら、悪を象徴する魔王を討ち果たす──そんな、絵空事のような物語。
あるいは、息も詰まるような現代社会を離れ、異世界の片隅で静かに過ごす、夢想的なスローライフに心惹かれる者もまた、少なくはないはずだ。
サブカルチャーに通じていたわけではない。
︎︎だが、そうした物語がオンライン上で人気を博し、しばしば映像化されているという事実くらいは友人を通じて知っていた。
︎︎故に、何の変哲もない人生の只中、治癒の術も見つからぬ重病に倒れた一人の青年もまた、終わりの間際に聞こえてきた“謎の声”に、一縷の希望を抱いたのだ。
それが神であったのか、天使であったのか、それとも悪魔だったのか。彼には知る由もない。
︎︎ただひとつ確かなのは、彼が確かに“こちら”ではない世界へと転生を果たした、ということである。
文化も人種も明らかに異なる両親のもとに生まれ落ち、幼少期特有のスポンジのごとき脳みそが言葉を覚える頃には、しかし“ここが異世界か”と感嘆する暇さえなく、彼の淡い期待はあえなく砕け散ることになる。
「やーね、あなた。新聞をご覧なさい。また戦争ですって」
「とは言えだね、君。同盟国が軍国主義者の侵略行為に晒されているというのに、指をくわえて見ているわけにもいかんだろう」
「ああ、また税が上がるのね……ほんと、頭が痛いわ」
転生から五年。病も怪我も知らぬ、健康そのものの少年へと育ったアイザック・ウィリアムズは、木目の浮いた簡素なテーブルに並べられた朝食を前に、両親の会話に耳を傾けていた。
戦争。軍国主義。侵略──重苦しい語彙が、週末の朝をひたひたと覆い尽くす。華やかな魔法世界に胸を躍らせたかつての幻想は、現実の血と硝煙の匂いの前にみはや見る影もない。
︎︎十八世紀末、イギリスに端を発した産業革命がやがて全世界へと波及し、工業化という名の奔流が各国を呑み込んだように──この異世界にもまた、同様の変革をもたらした国家が存在した。
かつて学んだ世界史になぞらえるならば、いまアイザックが生きているこの世界の科学技術水準は、十九世紀末から二十世紀初頭にかけてのそれに近しい。
︎︎魔物の軍勢を統べる“魔王”と呼ばれた恐怖の象徴を討たんと、かつては幾多の冒険者が命を賭して戦い、その勇名を人類史に刻んだが、そんな華やかなりし時代も既に百数十年も昔のこと。
魔王を討ち滅ぼすという一世一代の大業を果たした英雄たちも、やがて歴史の闇に姿を消した。正義と悪、そのいずれの象徴も喪ったこの世界は、一時の混迷を経験することとなる。
︎︎だがそれでも時は緩やかに流れ続け、人類文明は決して前進を止めることはなかった。
憧憬の的であった“冒険者”という存在も、魔王の消失とともに輝きを失い、市民の目には次第に粗暴で古臭い徒党と映るようになった。
かつては国が潤沢な予算を投じて彼らの活動を支援していたが、魔王という脅威の根源を失った頃にはその必要も薄れ、支出は徐々に削られていく。国家という後ろ盾を失った冒険者ギルドは、自ら依頼を探して地方の片田舎まで足を延ばしたが、魔王亡き後の魔物たちもまた、次第にその姿を減じていった。
その上、知性を宿し、人語すら解する高位の魔物たちは、魔王討伐の折にほとんどが駆逐されてしまっていたのも影響を与えていた。交易路の護衛といった限られた仕事を除けば、もはや村や町の自警団で事足りる程度にまで脅威は縮小していたのである。
──結局のところ、己の存在意義を声高に叫び続ける冒険者ギルドの姿は、多くの市民にとって、もはや時代遅れの既得権益に映っていたのだ。
人類は、長きにわたる魔物との生存競争に勝利した。
︎︎種の存続を脅かす天敵なき世界において、人々はようやく己の文明を育むことに注力する余裕を手に入れたのである。
︎︎そしてそれは、停滞していた知識と技術の飛躍的な発展へと直結していた。
冒険者という存在の凋落は、皮肉にも、この世界が迎えた産業革命の象徴的な出来事のひとつに他ならなかったのだ。
異世界に生まれ変わった──その事実に、最初こそ歓喜を覚えたアイザックにとって、この現実はあまりに残酷であった。
︎︎死の瀬戸際に夢見たのは、まさにJRPGのごとき剣と魔法の冒険譚であったはずだ。
だが現実問題。窓の外に広がっているのは、うすぼんやりとしたスモッグの空。煙突から黒煙を噴き上げる煤けた工場。石畳の通りには、甲高いエンジン音を響かせて──元現代日本人の彼からすれば骨董品のような──旧式の自動車がのろのろと走っている光景である。
そこには、彼が思い描いていた異世界の幻想など欠片も見当たらなかった。
︎︎だが、それでもこの世界が、ただ失望に満ちた灰色の現実ばかりを突きつけてくるわけではなかった。
異世界ならではの刺激的なスパイスは、アイザックの日常のすぐ傍に、まるで何気ない朝の空気の如く、ひっそりと息づいていた。
「先生、旦那様。おはようございます」
「あら、おはよう、ヴェロニカ」
「隈がすごいぞ。……また深夜まで研究か?」
「論文試験まで、もう時間がありませんから」
「貴女なら大丈夫よ。そんなに焦らなくても」
ブロンドの長髪をさらりと揺らしながら朝の食卓に加わるのは、数年前からこのウィリアムズ家に居候しているヴェロニカ・フォスターだ。憂いを帯びた青白い肌と、目の下に色濃く沈む隈が、彼女の不健康な生活を何より雄弁に物語っていた。
「おはようございます、アイク」
「……おはよう、姐さん」
微笑みかける彼女に、アイザックはどこか気恥ずかしそうにぶっきらぼうな声を返す。彼が前世の記憶を取り戻したのは三歳の頃。それ以前、拙い舌で彼女のことを「姐さん」と呼んでいた名残が、今もなお癖のように口をついて出てしまう。
︎︎前世を含めて二十代後半という精神年齢を持つ彼にとっては、血の繋がらぬ美人の女性をそんな風に呼び続けることは、内心かなりの羞恥であった。
だが、どうやら両親はその反応を微笑ましい勘違いとして受け止めているらしく、特に母のジェニファーなどは、目尻を下げてからかうように笑っていた。
「ふふ、やぁね。男の子って分かりやすいわ」
「……うるさいよ、お母さん」
ふん、と不貞腐れるように鼻を鳴らして応じたアイザックの頬を、目に見えぬ力がふわりと摘まんだ。母の魔力による、彼女なりの柔らかい叱責である。
アイザックにとって、この世界の“異世界らしさ”とは、なによりも彼女たち──母とヴェロニカの存在に他ならなかった。
魔王が討たれ、蒸気と歯車の時代が到来しても、〈魔法〉という力は滅びることなく、むしろ科学技術と並び立つもう一つの知性として、深く人間社会に根を張っていた。
︎︎母のジェニファーは、かつて国内でも指折りの魔導師として名を馳せた存在であり、不健康な同居人ヴェロニカはそんな彼女が唯一、弟子として取った人物だった。
夢もロマンも遠ざかった産業の時代に生まれ落ちたアイザックが、それでもこの世界にわずかな希望を見いだすことができたのは、物心ついた頃から、超常というべき力を当然のように扱う存在が、傍に二人も居たからに他ならない。
︎︎もしそうでなかったら、きっとアイザックは死んだ目をする擦れたガキとしてダウンタウンの片隅で無気力に過ごしていたに違いないだろう。
「さて、それじゃあ俺はもう出るよ」
「いってらっしゃい」
「お見送りいたします」
「……いつも言ってるだろう、ヴェロニカ。大丈夫だ」
「ですが……」
「彼は恥ずかしがり屋なのよ。気にしないで」
今日は日曜日。だが、世間一般の休日など、この家の父ヘンリー・ウィリアムズにはあまり意味をなさなかった。
軍属の科学者として、彼は現在、無線電信の研究に従事しており、開発班の中でも中核を担う立場にある。だからこそ、研究所のある都市部からこの家へ帰ってくることの方が、むしろ珍しい。そもアイザックがこうして彼と顔を合わせるのも、実に二週間ぶりのことであった。
細身で、どこか華奢な体つきは、息子として見ていて心配になるほどだが、本人いわく「体調管理には自信がある」とのことだった。実際、口調も動きもどこか浮世離れしていて、身体的な不安よりはむしろ、彼の精神がどこへ行ってしまっているのかの方が気にかかるほどである。
眠たげな瞼をこすりながらも、ヴェロニカはきちんと腰を上げて見送りに立とうとした。だが、そうした仰々しさを好まぬ父は、いつものように軽く手を振ってそれを制し、そそくさと上着を羽織って玄関へと向かう。
扉が閉まる乾いた音が家の中に小さく響いたときには、もうその背は影のように街へと溶けていた。
何度も繰り返されてきたその朝の儀式に、もはや誰も特別な反応は示さない。アイザックもただ淡々と、手元の皿に残ったパンをひとかじりし、やがて手を合わせた。
「……ごちそうさま」
その小さな所作は、もはや彼の魂にまで染みついた前世の記憶の名残だった。
この国には、「いただきます」や「ごちそうさま」といった食事のたびの言葉は存在しない。宗教的な祝祭や記念日には、形式的な祈りの文句を捧げることもあるが、日常の食卓ではそうした口上はむしろ奇異に映るものだった。
前世の記憶を取り戻し、アイザックが人格を確立した当初、両親もヴェロニカも、自分が食後に何やら呟くたび、訝しげに顔を見合わせていたのをアイザックはよく覚えている。
だが数年経った今では、朝の挨拶と同じように、それはウィリアムズ家の日常風景の一部となっていた。誰も咎めず、誰も首を傾げない。
静けさと温もりに包まれた朝の空気の中で、それは一つの祈りのように、ひっそりと消えていった。
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︎︎アイザックが生を受けたこの〈オルトリア王国〉は、今年で建国六百年の節目を迎える──長い歴史と数多の変遷を経て今に至る、大陸西部を代表する王政国家である。
民族の大移動と国境変化による文化の衝突、幾度となく繰り返された流血と混迷の果てに形成されたこの王国は、神意をもって選ばれしとされる王室の権威を中心に、一つの国家としての統合を果たしてきた。
大陸西部一帯に根深く広がる宗教体系を後ろ盾とし、王権は「神授のもの」として神格化され、世俗の民にとっては畏敬の象徴となっている。魔王討伐という歴史的転機から始まった産業革命の波が国を覆ってもなお、王家の血統は「聖なる系譜」として人々の心に深く根を下ろしていた。
この百年ほどの間に議会制が導入され、政党政治は驚くべき速度で発展を遂げたものの、やはり民衆の精神的支柱としては、未だ王家の存在が揺るぎない影響力を保ち続けている。
︎︎貴族たちの時代は過ぎ、時代の寵児たる名門政治家一族が新たな権威となりつつあるとはいえ、その支持基盤は、王室の威光には遠く及ばない。
──とはいえ、アイザック自身には、そうした王室への忠誠心や敬慕の情といったものは希薄だった。
前世の記憶が影響していることは否定できない。だが、それ以前に彼の日常そのものが、「王」や「国家」といった巨大な抽象に接することのない、小さく穏やかな暮らしの中にあったことが大きい。
学校に通うにはまだ早く、両親もヴェロニカも愛国的な思想を押しつけるような人々ではない。そもそも「国家」や「忠誠」といった概念について、前世も含めてこれまで真剣に思いを巡らせたことなど、一度としてなかった。
彼にとって祖国とは、ただこの家の窓の向こうにある街路や、近隣の工場から吐き出されるスモッグの臭いであり、また、家族の会話や、同居人の足音といった、ごく私的で親密な世界の延長にすぎない。
故に──王がどこに住まい、どんな言葉で国を語ろうとも。
︎︎アイザックの目に映るこの国は、それとはまるで無縁の、静かで優しい日常そのものである。
だが、そうした穏やかな日常のなかにも、ときおり彼の心には、ふとした拍子に“異世界”の輪郭が浮かび上がる。
それはまるで曇天の切れ間から差し込む光のように、あたりまえの風景を一瞬だけ違うものに変える、小さな問いから始まる。
「姐さん。魔法で空って飛べないの?」
「空、ですか……?」
朝食を終えてから夕方頃まで、二階の自室で泥のように眠っていたヴェロニカは、目覚めと共に幾分か顔色を取り戻し、すっかり気力を回復してリビングへと戻ってきていた。
その頃には、母ジェニファーは各部屋の掃除を済ませ、夕食の買い出しにマーケットへと出かけていた。アイザックとヴェロニカは、紅茶の香りがゆるやかに満ちる居間で、その帰りをのんびりと待っていた。
自信がやるべきことを小一時間ほどで片づけたヴェロニカは、休憩がてら椅子に腰かけ、湯気の立つカップに唇を寄せていた。その対面に座るアイザックは、ぼんやりと窓の外を見つめながら、唐突にそんな言葉を口にする。
「高所からの滑空や、短時間の浮遊程度ならば可能ですよ」
ヴェロニカは少し首を傾げながら、彼の問いに答えた。
「飛行機みたいに、は無理なの?」
「えぇ、まあ……。空、飛んでみたいんですか?」
「うん。飛んでみたいな」
アイザックは、ためらいなくそう言う。
その言葉の奥底にはただの思いつきではない、静かだが確かな憧れが潜んでいた。
彼の前世──現代日本に生きていた頃の、どこにでもいる普通の大学生としての自分。名もない一個人でありながら、それでも子どもの頃には、胸の内に夢を抱いていた。
︎︎パイロットになりたい。
︎︎そんな、幼い心が一度は描いた願いである。
きっかけは単純だ。空を翔ける機体が格好よく見えたから。ただ、それ以上に大空という存在そのものに、かつてのアイザックはどうしようもなく心を惹かれていたのだ。広く、遥かで、手が届かないもの──その向こうには、自分の知らない世界が広がっているような気がしていた。
だが視力の低下や度重なる体調不良──そうした現実が夢の前に立ちはだかり、その道はやがて閉ざされた。
それでもアイザックは、こうして再び別の世界に生まれ落ちたことで思っていたのだ。今度こそ、と。
この世界にも飛行機は存在する。
︎︎歴史の教科書で見たような骨組みむき出しの複葉機ではあるが、すでに空を飛ぶという技術そのものは確かに芽吹いている。
だがその空を目指すには、軍隊に入るか、航空機メーカーに所属するか、ほぼ二択しかないというのが現状だった。後者の門はあまりに狭く、現実的なのは軍人として飛ぶことだけ。
──しかし、戦争の火種が燻り続けるこの世界において、それは命を懸ける選択と同義である。
︎︎事実、今日この日にオルトリア王国は同盟国の戦争に加わることを表明していたし、同時に若者を対象に徴兵も布告されているのだ。数多くの悲惨な出来事があった前世地球の近代史を思えば、この世界でも大規模な戦争が起きても不思議では無い。
だからこそアイザックは、前世にはなかった魔法という第三の可能性に淡い希望を抱いていたのが、それもヴェロニカの一言で見事に打ち砕かれる。
「そっかー......魔法でも無理なんかあ」
︎︎期待はずれの返答に、アイザックは小さくため息を吐いた。
︎︎思わず口に出した願望だったが、あっさりと否定されてしまえば、それもまた自分の手の届かぬものだったのだと、改めて思い知らされる。
──結局、今世でも空を飛ぶことはなく、地を這うようにして生を終えるのだろう。
そんなふうに考えると、胸の奥にじわりと鈍いものが広がり、なんとも言えぬ憂鬱が心に沈んでいった。
転生という、この上なく劇的な出来事を経たというのに。
︎︎まるで物語の主人公になったかのような気分にさせられて、知らぬ間に「自分は特別な存在なのだ」と思い込んでいたのかもしれない。
だが、そうした幻想はこうしてあっさりと現実に打ち砕かれる。結局は、どこに生まれ落ちようとも、自分という人間の在り方は何ひとつ変わらない──そう痛感して、アイザックは無意識に、落胆の色を顔に滲ませていた。
「そういえば、アイク」
湯呑みに口をつけたヴェロニカが、ふと思いついたように口を開く。
「今まで聞いたことがありませんでしたが、君って……将来の夢とかって、あるんですか?」
「ちょーど今、なくなったとこだよ」
ぼそりとした声音が返ってくる。ヴェロニカが不思議そうに首を傾げると、アイザックは肩をすくめて、どこか自嘲気味な笑みを浮かべた。
「おや、空を飛ぶのが夢だったんですか。君も意外と……いえ、失礼。ずいぶん子供らしいところがあるんですね」
「姐さん、まだ五歳だぜ。おれ」
「……全然、そんなふうには見えませんが?」
思わず口にした本音に、ヴェロニカは少し笑った。
彼女にとってアイザックは、間違いなく可愛い弟分のような存在だ──だが同時に、時折ふとした瞬間に見せる表情や言葉の端々が、年齢相応の幼さからあまりにもかけ離れていて、戸惑いを覚えることも少なくなかった。
今だってそうだ。
︎︎空を飛びたいだなんて、まるで絵本の主人公が口にするような夢を語るなんて──あのアイザックが、だ。
いつも無表情で、気の抜けたような声音で日々を過ごし、窓の外ばかりを見つめている彼。
︎︎近所の子どもたちが元気に庭先を走り回っていても、興味の欠片も見せずに静かに椅子に座っているだけ。
︎︎母ジェニファーは「このままでは不健康だ」と眉をひそめるほどだが、自分も旦那様も不健康な生活に染まりきっている以上、ヴェロニカは彼に何も言うつもりはなかった。
だからこそ、今のアイザックの無邪気な言葉は、彼が確かに「子ども」であることを思い出させてくれたようで──ヴェロニカの胸の内には、ほのかな安堵と嬉しさが同時に芽生える。
「では仮に、魔法で空を飛べたとしましょう。君はどこか──行きたい場所でもあるんですか?」
「行きたい所……?」
問い返すように繰り返したアイザックに、ヴェロニカは紅茶を一口含んでから、穏やかな声音で続ける。
「ただ空に浮かびたいだけなら、魔法で擬似的に体感することもできます。けれど君は、“飛びたい”と言ったでしょう? それは、どこかへ辿り着きたいという意志があるのではと思ったのですが……」
「……いや、単に飛んでみたいってだけだって」
アイザックは眉をひそめ、若干うんざりした口調で言い返した。
「いつも難しいことばっか考えてるよな、姐さんって。魔法使いって皆そうなん?」
「うっ……」
思わぬ反撃に、ヴェロニカは小さく声を上げて手元をふらつかせ、ティーカップを危うく落としそうになった。どうにか持ち直すと、バツが悪そうに目を逸らす。
──自覚はある。考えすぎる癖、つい理屈に絡めて物事を捉えようとする性分。それが日々の研究や魔導理論には役立つものの、こうして日常の些細な会話では時に空回りしてしまう。
ふたりの間に静けさが落ちた。
︎︎ティーカップが擦れる音、外の風が窓をかすめる気配、そして互いの呼吸音だけが、わずかな生活の気配として空間に残る。
アイザックはそんな沈黙の中、気まずげに黙り込んだヴェロニカの横顔をちらと見やったが、やがてふと視線を落とし、どこか遠くを見つめるような顔になる。
──前世の記憶が、唐突に胸の奥から湧き上がってきた。
まだ幼かった頃。病院の待合室で読んだ、古びた児童向けの冒険小説。ページの中ではパイロットの主人公が、見知らぬ国々を旅し、空を越えて新たな地平へと挑んでいく。
︎︎今にして思えばごくありきたりなストーリーだ。だが当時の自分にとっては、それが限りない自由の象徴のように思えた。
自分もいつか、あの空の向こうへ──そんな無垢な願いを抱いていた、あの頃の自分。
だが魔法で空は飛べないとわかった今、その夢はもう終わったのだと思っている。なぜなら、少なくとも今の自分に軍人になる気は欠片もないし、飛行機を造ることに興味もなかったからだ。
︎︎空を飛ぶという手段は、結局のところ自分の手には届かない場所にあるのだろう。
けれど、ヴェロニカの何気ない問いかけが、長いあいだ胸の奥に埋もれていた記憶をふと呼び起こした。
︎︎図書館の一角でページをめくったあの瞬間。病院のベッドの上で夢を見た日々。そのひとつひとつが、心の奥底で小さく火を灯していた想いに、そっと息を吹きかける。
そうして気づけば、その言葉は自然と唇から零れていた。
「……もし空が飛べるなら、世界を一周してみたいかな」
それは誰に聞かせるでもなく、ただ過去の自分自身に語りかけるような、ひとりごとのような呟きだったが──アイザックのその声が聞こえたヴェロニカは、その純真な願望の発露を、何処か眩しそうに見つめた。