夕焼けが山の稜線を捉え始め、あまねく物は皆、血の色に染め上げられる。辺りは魔物によって破壊しつくされ、あまりにも凄惨な有様は、ここで起こった戦闘の激しさを物語っていた。
魔物。ドルトの不意を突き、傷を負わせ、命を摘み取ろうとしていた恐るべき捕食者はここにはいない。崖から突き落とされたのだ。
それを成したのはドルトともう一人。
生まれたままの格好をした少女はハルと名乗り、倒れたままのドルトに手を差し伸べていた。
邪気なく笑うその顔は、まるで、娘のようで。
思わず手を取ろうとして、しかし、警戒心と恐怖がその手を振り払う。
「近づくんじゃねぇ!」
叫ぶと血の味がより濃くなり、喉に絡んだ。立ち上がろうとして、そこで足が折れていることに気づく。あの時、魔物に放り投げられたときだろう。認識した途端に叫びだしたくなるほどの痛みがドルトを襲ってくる。
それでも痛みを無視して立ち上がり、少女に対峙する。手には転がっている最中に見つけた石を握っている。
命を救われた。
あの子の面影がある。
年端のいかない少女だ。
そうだ。
その姿は村や街中で見ればどこにでもいる女の子のようで、それでよさそうなものだった。
幸福が今になって芽を出して己に花開いてくれたのかもしれない。あの子はどういう運命かこの場に現れ危機一髪、己の命を救ってくれたのだ。
そう無邪気に信じるにはこの世界はあまりにも悪意に満ちていた。人を騙る魔物など珍しくもなく、隣人は信じるよりも先に疑ってかからなければ、平穏を保つこともままならない。
敵意と悪意を絞り出して、ドルトは今にも倒れそうな体を立ち直らせようとする。
「何故その姿で俺の前に現れた! 言え!」
もし、魔物なら。
その時は、目のまえの少女が何を言おうとも、始まるのは殺し合いだ。
頭の中心が焼けるように熱く、反対に体は冷え込んでいった。周囲の物音がはるか遠くにあるようにぼんやりとしていて夢のようだった。
これじゃ、生きたいのか死にたいのか分からないな。頭のどこか冷静な部分がそう囁いた。
せっかく生き残ったのに、これじゃ、人であろうと魔物であろうと怒りを買って終わりだ。
少女は答えたり、弁明だったり、はたまた、沈黙をすることもなかった。
「よいしょ。」
「離れろっ! 何をしてるんだ、お前は!」
「肩を貸しますから、家があるなら案内してください。それと、命の恩人に一晩の宿をください。文明が恋しいんです」
自分は害されないとでも思っているのだろうか。あまりにも無防備に近づいてきた少女にドルトは困惑する。
この距離なら、手にした石で殴りつけれる。突き飛ばして、倒れた所を踏みつけてその頭を果実のように割ってしまえる。
だというのに。
「寝たりしたら不味いからな……。私は今から話続けますから、それでお気を確かに持ってください」
人間の言葉を真似るのは魔物のお得意の芸だ。そうだとも知っているはずなのに。
ずっと昔に乾いた心が今更になって痛み始め、服の上から掴むも痛みは次第に強くなっていく。
ドルトは少女を見た。
少女は嬉しそうに、己がどのようにこの森を切り抜けてきたかと、高らかに武勇伝を語っている。
語りたくて自慢したくてしょうがないのだとその表情から透けて見えた。
この場に悪意を持っているのは己一人であると気づいたときには、もう、ドルトにはもう少女を殺すことなどできなかった。
手に握った石はとっくに転がり落ちていた。
「これを着ろ」
ドルトは着ていた外套を渡す。何であれ、裸のままなのはよくないだろうと緩慢とした思考である。
バカみたいな話だが、文明の産物である衣類が少女の浮世離れした雰囲気を取っ払ってくれるのではないかとも。本当にバカみたいな考えだ。
「おお! ご親切にありがとうございます!…意外に裸も悪くなかったんですけどね」
およそ血や泥でこれ以上ないぐらいに汚れてはいたが少女はうれしそうに笑うと礼を告げそそくさと羽織る。
……死んでいるはずの孫娘に会えたらなんて、考えたことも無かったが。
考えるより、まずは、拾った命つまらぬことで捨てないように、治療を始める。
考えるということは、目の前の少女に答えを出さねばならなくなる。さっきまで死にかけていた脳みそにはとてもつらいことだ。
ドルトの自己治癒の様子を興味深げに見てくる少女の視線は盛り上がる肉とピンク色の肌に釘付けのようだ。
「魔法だ……」
上ずった声で囁く。
どうやらこの少女が笑顔を絶やさないのは、生まれたての赤ん坊のように周りの全てが未知で、知るということに興奮を覚えているかららしい。
「もしかして、今から帰宅されますか?」
その通りだと答えようとして、
「やっぱり、ついてくるのか」
「もちろん!」
外套をギュッと握りしめながら、少女はわかりきった事を聞くのだととでもいう風に小首をかしげた。
いずれにせよ、もうそろ日が沈む。悠長にしている暇はなかった。
「…」
一瞬、瞑目したのちに答えを出す。
これは己だけの問題ではない。村全体の問題となる。
それならば、目の前の存在を村に連れていくべきではない。それが答えだ。
村の外縁部に位置しているその小屋は人ひとりが住むことを前提としてられたドルトのささやかな王国であった。
大部分を「語らない木」から作られた室内はランタンの光によってぼんやりと闇から浮き出ている。ついでに家主の疲労にまみれた表情も浮かばせている。
赤茶色をした机の上には大小さまざまな酒瓶が並べられており、床には格子状の籠が積み上げられており、中は空のようだが時折ガタリと揺れている。奥のスペースには最低限体を休ませられる寝具があり下には泥を拭くマットが敷かれている。
本来であれば、秘蔵の酒、賢者殺しの末法酒をゆっくりと飲んでから床について一日を終えるのだが、終えたいのだが。
椅子に勢いよく座り頭を抱えるドルトは長くため息を吐いた。
その原因は隣で家探しする強盗がごとく物品をひっくり返している少女によるものであり、そもそもハルを連れてきてしまった自分に対するものでもあった。
村には連れていけない。しかし、この場所は厳密には村ではない。そうドルトは解釈した。屁理屈も良い所だった。
そのハルは今は少女物の服を着ている。ドルトの娘の物だ。
「何をしているんだ俺は…」
「これなんで光ってるんですか!? オジサンが光れって言ったら光りましたよね! 凄すぎない? 凄すぎるよなぁ、それにこの籠めっちゃガタガタしてる。もしかして何かいたり?…ギャッ! 噛まれた!!」
大暴れを尻目にベットの下から革で綴じられた古びた本をドルトは持ち出す。埃がたっぷりと乗っていたので、無造作に払う。
目ざとくそれを発見したハルが声をあげる。
「痛ってえ…、ん?それは何ですか? あ、もしかして魔導書ですか!?」
「今から人皮査問を行う。これはそいつに使う」
人皮査問。これの確実性を己はよく知っている。だというのに、それを口にすると己の臓腑がひっくり返るような吐き気に襲われた。
「人皮査問? 物騒な名前ですね。オジサンが考えたんですか?」
「んなわけあるか。…先人が考えてくれた簡易的な判別方法だよ」
つまり、と言葉を続ける。
「お前が人か魔物かどうかをだ」
ハルは疑いををかけられてなお気にした様子を見せずに、家具をひっくり返している。
「……とりあえずこっちの椅子に座れ」
お楽しみを中断されたハルは不承不承と椅子に座り、机をはさんで反対側にドルトも座った。
「今から質問をするからそれに嘘をつかずに答えてもらう。それと必要だからな、血を貰う」
先にドルトが針を用いて血を垂らし、円形に呪文が描かれたページの中央を赤く染める。
針をドルトから渡されたハルはワクワクと針を親指に突き刺し流れ出した血を本の指定された場所に塗り付けた。
「嘘をついたらどうなるんですか?」
「全身の皮が剥がれる」
少女の笑顔がこの世界で初めてこわばった瞬間であった。
「先人怖ぇー」
「ああ、それと立会人も必要だな」
ドルトは先ほどハルが文字通り手痛い目にあった籠を持ち上げると机の上に置いた。ぶぅんと籠が不満げに揺れる。
どうせ聞かれるだろうと、先んじてハルにこの籠の中の同居人について説明する。
「透明だが何もいないわけじゃない、ここにはれっきとした生き物がいる。…ただ飯喰らいめ、たまにはお前にも働いてもらう」
ブゥン! 抗議するように鋭く揺れた。
「同居人というより、虜囚って感じですね」
「こいつ自身の要望だ。それと、出ようと思えばこいつは何時でも出れる」
ふうん、とハルは籠をつつく。かじられそうな気配を感じ取り、素早く指をひっこめた。
「それじゃ、始めるぞ」
ランタンの光が揺らめき、ドルトとハルの顔に影を作る。
夜はまだ始まったばかりだ。
「お前は、そうだな……。どうして、あの森に居たんだ」
「さぁ? こっちが聞きたいぐらいですね。そもそも、自分に関する記憶があやふやで」
「記憶がないのか?」
「どこか別の世界、べつの国で成人男性をしていたことは何となく覚えています。そして、この世界での私は主人公であることも!」
「そういう確信?があるんですよ。私は主人公だって」
「……そうか。生まれ変わりなんて滅多に聞かない、はるか昔の聖人や英雄がどうたらってぐらいだ。そいつらも、別の世界からって話ではないしな」
「へぇ、やっぱり私は特別なんですねぇ」
「あぁ、異端視されるだろうから、死にたくないのなら言いふらすな。ここでは、他と違うというのはそれだけで他人の攻撃対象になる」
「信じるんですか?」
「どっちでもいい」
「成程」
「魔物についてはどの程度知っている?」
「見つかったらやばい奴ってぐらいですね。見ている分には楽しい奴らですけど。なんです、あれ?」
「人類の敵だ。それ以上でもそれ以下でもない。もし、見つけたら殺すか、逃げるかだ」
これが最後だと前置きして、ドルトは聞く。
「お前は、人間に、敵意を持っているか」
「ないですよ。人恋しくて泣いてたくらいですからね、森で」
ほう、とため息をつく。どっと全身から力が抜け、椅子からずり落ちそうになるのをぐっとこらえる。
「これで、終わりだ」
本をぱたりと閉じ、ドルトはそう告げた。
「お前は行く当てがないんだろう。とりあえずはここに住めばいい、とはいえただ飯ぐらいは嫌いだ。俺の仕事を手伝ってはもらうことになるがな」
「是非もなしですよ! 屋根と服とご飯が得られるなら、何でもします!」
そうか、威勢のいい若者だと笑って。
「そっちのを使え。さっき、同居人に特急で作ってもらったやつだ」
弾かれたようにそちらをハルが見ると、先ほどまで存在していなかったベットがシーツと枕までついて、そこにあった。シミ一つない純白だ。
「いつの間に…。お前って実はすごい奴なんですね?」
籠は誇らしげにブゥンと鳴いた。
寝室に向かったドルトは足を止め振り返る
「それと、あの時、お前が居なかったら俺は死んでいた。お前は、命の恩人だ」
それだけだ。そう言うと、今度こそドルトは寝室に向かった。
ハルはしばらく沈黙し、今のが礼だと理解すると、満面の笑みを浮かべた。
「勿論。主人公ですから!」