眩しい光が差し込む中、意識がゆっくりと浮かび上がっていく。
まどろみの中でまぶたを開けると、目の前には見慣れない天井が広がっていた。
美しく彫刻された柱。天井には幾何学模様のフレスコ画が描かれている。
それはまるで、古代神話とSFが融合したような幻想的な空間だった。
けれど、部屋以上に違和感を覚えたのは、自分自身の“身体”だった。
手を動かすと、目に入ったのは白く細長い指先。
まるで西洋の名画から抜け出したような、優美な手だった。
そして、声を出そうとした瞬間——さらなる衝撃が俺を襲った。
「……っ、なんだこの声……?」
低く、柔らかく、どこか冷たい響き。
自分の声とは思えない。しかし、それは確かに俺の口から発せられた声だった。
慌てて近くの鏡をのぞき込む。
そこに映っていたのは——
「……ロキ……?」
鏡の中の男は、漆黒の髪をなびかせ、深いグリーンの瞳でこちらを見返していた。
どう見ても、マーベル映画『マイティ・ソー』シリーズに登場する“ロキ・ラウフェイソン”そのものだ。
「嘘だろ……!?」
思わず鏡に手を伸ばす。
冷たい感触が指先を刺す。幻覚でも夢でもない。これは、現実だ。
——俺は、“ロキになっていた”。
混乱する頭を押さえながら、記憶を手繰る。
たしか昨夜、大学の授業を終えたあと、部屋に戻って夕食を食べて、ベッドに横になった。
そのまま某配信サービスで、何度目かのMCU一気見マラソンに突入。ちょうど『マイティ・ソー』を見ていて——そこで記憶が途切れている。
(まさか……映画の世界に転生した……?)
そんな馬鹿げた話、あるわけない。だが、目の前の現実がそれを否定してくれない。
鏡に映るのは、日焼けした元の俺とはまるで違う、端正な顔立ち。
いや、むしろ美形すぎてちょっと腹立たしい。
窓の外に目をやると、さらに驚く光景が広がっていた。
高くそびえる黄金の塔。曲線を描く壮麗な橋。空に浮かぶ虹色の光。——あれは、“アスガルド”。
映画で何度も見た、あの神々の都だった。
ベランダで都市を見下ろしていると、背後からノックの音が聞こえた。
「ロキ様、お目覚めでしょうか?」
ドアが開き、一人の侍女が姿を現す。
純白のドレスを纏い、丁寧に頭を下げている。
「……お、おはよう」
ぎこちなく挨拶すると、彼女は微笑み、今日の予定を告げた。
「本日は朝食の後、王宮にてオーディン陛下との謁見がございます。その後、ソー様との訓練も予定されております」
(ソー……来たか……)
その名を聞いた瞬間、胸がざわつく。
雷神ソー。ロキの兄であり、MCUの世界で重要な存在の一人。
自分は今、その“弟”として生きていくのか?
朝食後、自然と足は王宮へと向かっていた。
知らないはずの場所なのに、体が勝手に動く。まるで“ロキ”としての記憶が染みついているようだった。
玉座の間に入ると、空気が一変した。
中央に座していたのは、黄金の鎧を纏った威厳ある男——オーディン。ロキとソーの父、アスガルドの王だ。
「ロキ、近う寄れ」
低く、威厳に満ちた声。しかしその中に、確かな温かさもあった。
体が自然と動き、膝をつく。「はい、父上」
敬語も所作も、完璧に“ロキ”のものになっている。
どうやらこの体には、ロキとしての習慣の記憶が残ってるらしい。
だが、中身はあくまで“俺”。
ただの日本の大学生、アニメと映画が好きな一般人だ。
オーディンはしばし俺を見つめ、やがて口を開いた。
「今日のお前は、どこか落ち着いているな。よき兆しだ」
実際は、落ち着いているというより、あまりの情報量に脳が処理落ちしかけているだけなのだが——。
謁見では、王族としての心得、ソーに関する愚痴など、さまざまな話を交わした。
血のつながりがないことを知っている俺にとっても、オーディンが“父”として接してくれるこの時間は、不思議と温かかった。
謁見を終えて一人になったことで、思考が止まらなくなる。
(このまま映画通りなら、ロキは道を踏み外し、兄に敵意を抱き、地球を侵略し、アベンジャーズに敗北し……最後には……)
——でも、もし俺がロキとして人生をコントロールできるなら?
運命を変えて、“死なない道”を選ぶこともできるかもしれない。
そんなことを考えているうちに、時間は流れ、ついに訓練場でソーとの初対面を迎える。
そこにいたのは、筋肉隆々で笑顔が眩しい、太陽のような男。
映画で見た姿そのままだが、実物は……やっぱり迫力が段違いだ。
「ロキ! 今日はずいぶん表情が柔らかいじゃないか!」
屈託なく笑いながら歩み寄るその姿に、まったく悪意は感じられなかった。
ただ純粋に、“弟”を心配しているようだった。
(時系列的には、ソーがムジョルニアをもらった直後くらいか……。ロキがモヤモヤし始めてる頃だな)
「最近、お前が笑っているのを見てなかったからな。何かあったのかと聞こうか迷っていたんだ」
「そ、そうか……」
気の利いた返しもできず、思わず苦笑い。
(やばい……いいやつじゃん……)
「まあいい、訓練といこう。さあ来い! 今日はお前の幻影魔法を完全に見破ってやるからな!」
ソーがムジョルニアを構える。
こちらも自然に構えを取り、気づけば体が魔力を練り上げていた。
左右に“分身”が生まれ、ソーの攻撃を華麗にかわす。
ナイフを投擲、魔法を放ち、幻影で翻弄する——
(うおっ……すげぇ! 魔法が、俺の意志で動いてる!?)
圧倒的な身体能力、魔力の制御、それらが完全に“自分のもの”として手に入っている。
——これが、神の力。
(この力を使いこなせれば……元の世界に帰ることも、あるいは——)
だが、考えがよぎったその瞬間、ムジョルニアがクリーンヒットして俺は吹き飛んだ。
戦闘中によそ見や考え事は厳禁。ははは、私は成長したぞ兄上様よ。
訓練は、早々に終了した。
その夜。王宮のバルコニーで一人、星空を見上げる。
見たことのない色と配置の星々。けれど、不思議と心が落ち着く。
「……俺は本当に、ロキになったんだな」
言葉にすると、ようやく実感が湧いてきた。
この世界に転生した理由も、目的も、まだわからない。
でも、もしこの命が本物なら——
「悪役にはならない。死にたくもない。できれば……穏やかに暮らしたい」
それは、ささやかで現実的な願いのはずだった。
——少なくとも、この世界では。
知識があるからこそわかる。
この世界は、指パッチンひとつで半分が消える世界だ。
「こちとらただの大学生だぞ……。痛いの嫌だし、とにかく“生き延びる”が最優先、安全が第2だ……」
その誓いと共に、俺の新たな人生が静かに幕を開けた。
——ただし、その“平穏”がどれほど遠いかを、この時の俺はまだ知らなかった。