オーディンが「王の眠り」に入ったのは、それから間もなくのことだった。
玉座の間で、突然倒れ――そのまま深い眠りへ。
神の心労というものは、人間の比ではないらしい。
長きにわたりアスガルドを治めてきた偉大なる王は、なんの前触れもなく、静かに瞼を閉ざした。
重苦しい沈黙の中、フリッガはただ静かにその傍らに寄り添っていた。
そして、肝心の長男・ソーは――いない。
地球、すなわちミッドガルドに追放されたままだ。
ならば、この王国を誰が預かるのか。
オーディンの血を引き(?)、王位継承権を持ち、魔術に長けた者――
つまり、俺。ロキである。
(……え、マジで?)
たしかにロキの記憶はある。
魔法の知識も、外交の基本も、それなりに備わっている。
だが――中身は、ただの日本の大学生。
神々の王政を任されるなんて、想像の遥か斜め上だ。
……でも、やるしかなかった。
誰かが国を支えなければならないのだから。
最初のうちは、案外うまくいった。
各部門の長たちと顔を合わせ、書類に目を通し、民の陳情に耳を傾ける。
慣れないながらも、王としての務めを淡々とこなしていく日々。
(……あれ? 意外とイケるかも?)
――そう思ったのは、最初の一日だけだった。
四日目。
「もうやだ。疲れた」
朝の政務報告が始まった時点で、すでに脳がフリーズ。
机に積まれた書類の山を見た瞬間、現実逃避スイッチが全開になる。
しかも、大臣たちの報告がまた厄介だった。
今回の「王の眠り」があまりに突然だったせいか、
その裏では、オーディン亡き後の利権争いが着々と進行中。
プライドと私欲が渦巻く言葉の裏に、透けて見える悪意が胃に突き刺さる。
(ああもう……俺、神経性胃炎になっちゃうよ)
……限界だった。
俺、ただの大学生なんですけど?
それでも今日も半日、ちゃんと働いた。頑張った。
けど、一般大学生ピープルにはもう限界だ。
王冠(トナカイヘルメット)――を机の上にそっと置き、
そのままの足で、虹の橋の門へと向かった。
「ヘイムダル。頼む、地球に行かせてくれ」
黄金の門を守る番人は、無言のまま俺を見下ろす。
その瞳の奥には、すべてを見通すような静かな光が宿っていた。
「……王務に心が折れたか?」
「折れたというか、砕けた。兄上を連れ戻す。
私は……王の器じゃない」
短くため息をついた後、ヘイムダルは剣を静かに掲げた。
「私から見れば、あなたは十分以上にやれていた。
……だが、今この時、アスガルドの王はあなたなのだ。――行くがいい」
本来なら、いずれ訪れるつもりだった。
けれど、こんな形で向かうことになるとは思っていなかった。
これはもう、世界の修正力でも働いているのだろうか。
――とにかく、ソーと話をしなければ。
今頃はジェーンとイチャイチャしてるかもしれないが……申し訳ないけど、そんなの関係ない。
オーディンが倒れた今、アスガルドには……いや、俺たちには、ソーという支柱が必要だ。
天空を裂く光が走る。
橋のように伸びた虹が、地球へと続いていく。
その瞬間、俺の体はふわりと宙に浮き、
次なる舞台――地球へと送り出された。