ありがとう。今はただ皆様に感謝を。
昼間の太陽は高く、雲ひとつない青空がどこまでも広がっていた。アスファルトを照らす陽射しは鋭く、街の喧騒が耳に馴染む。車のクラクション、交差点の信号音、人々のざわめき――そのすべてが、日本ではないものの懐かしく感じられた。
目的地が視界に入って、俺は足を止めた。視線の先にあるのは、どこにでもあるようなアパート。どうやらここらしい。
扉の前に立ち、指先で軽くノックする。数秒の沈黙の後、ギィ…と軋む音を立てて扉が開いた。
現れたのは、かつてのアスガルドの雷神――兄、ソー。だがその姿は、王子としての威厳に満ちていたあの頃とは大きく異なっていた。肩の力は抜け、アスガルドの派手な装いとは違う地球のTシャツを着こなしていた。部屋の奥には、無造作に積まれた書類や古文書が散乱していた。どうやら整理中だったようだ。
俺に気づいた瞬間、ソーは目を見開き、それから懐かしさを込めて微笑んだ。
「…ロキ」
「やあ、兄上。地球での生活はどうだ? まさかミッドガルドの食べ物に夢中になってはいないだろうな?」
皮肉を込めた挨拶に、ソーはかすかに笑い、頷いた。
「思っていたより…悪くない。酒精は弱いが、酒もあるしな」
「ふむ。アスガルドの王子にしては、ずいぶんと地に足のついた暮らしじゃないか。今日は何をしていたんだ?」
しばらく沈黙が流れ、それから彼はぽつりと答えた。
「少し前にジェーン――ここで出会った友が、空間に“何か”が観測されたと騒いでいてな。手伝っていたんだ。彼女はビフレストに気づいている。…非常に聡い女性だ。……また会えて嬉しいよ、ロキ」
その言葉に、俺は何も言わずに頷く。ソーは扉を広げ、俺を部屋の中へと招き入れた。
「ロキ。どうして来たんだ?」
真剣な眼差しで、俺は口を開く。
「父上が突然、王の眠りについた。いつ目覚めるのか、誰にもわからない。アスガルドは今、非常に不安定な状態だ。だから…追放された身ではあるが、連れ戻しに来た。帰ろう、兄上。一緒に」
俺の言葉に、ソーの表情が曇った。沈黙が部屋を満たし、彼はテーブルに視線を落とす。そして、絞り出すように呟いた。
「……ムジョルニアを、持てなくなった」
その声は、かつての雷神とは思えぬほどか細く、脆いものだった。
「父上は言っていた。『ふさわしき者のみが、このハンマーを手にする』と。だが俺は…持ち上げることができなかった。つまり、俺は……王にふさわしくないということだ」
いつも元気な人が落ち込んでいるのを見るのはつらいな。胸の奥に、鈍い痛みが走った。
「ロキ、不出来な兄で…すまない。今日、お前が来てくれて嬉しかった。だが、だからこそ……俺の代わりにアスガルドを頼みたい。お前なら、きっといい王になれる」
「兄上…」
そのとき、部屋の奥から足音が近づき、一人の女性が顔を覗かせた。
「ソー、この人…知り合い?」
ナタリー・ポートマン…じゃないジェーン・フォスターだ。俺は静かに一礼する。
「はじめまして、レディ」
彼女は少し戸惑いながらも微笑みを返した。自己紹介でもしようかと思ったが、やめた。代わりに、ソーに向き直る。
「私にも、そして今のアスガルドにも――ソー、あなたが必要だ。…今晩、もう一度来るよ」
そう言い残し、俺は扉を静かに閉めてアパートの外へ出た。乾いた風が頬を撫で、俺の黒髪を揺らす。
近くの公園まで歩き、ベンチに腰を下ろすと、まもなくして羽音と共に一羽の鴉が降り立った。ユノだ。
「帰る気がなさそうだな。いや、帰るべきではないという反応だったな。ロキ、どうするつもりだ」
俺は肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
「本来の流れなら、兄上を連れ帰って任務完了のはずだったんだが……うまくいかないな」
「奴はお前に王としての役割を託したのだ。もうお前が王でいいではないか」
「いやだね。あと一週間も続ければ、胃がストレスで沸騰する」
「そうだ、試しに持ってみればいいではないか」
「持ってみる? 何をだ?」
「ムジョルニアだ」
ムジョルニア――死にゆく星の心臓で作られた、雷神ソーの象徴ともいえるハンマー。中身が一般人の俺が持てるわけがないだろう。
「私が? 持てるわけないだろう。仮に持てたとしても、解釈違いというか――」
言い終えるより早く、胸の奥に嫌な予感が走った。空気が変わった。張り詰めたような空気が、肌を刺す。
「…ユノ」
「ああ、何かいるな」
空を仰いだその瞬間、空間が歪み、巨大な宇宙船が突如として姿を現した。ステルスを解除したその艦は、漆黒の金属で構成された異形の船体。忘れもしない、この姿――
「まさか…!」
船底が開き、黒と銀の装束を纏った、不気味な白い仮面の兵士たちが次々と降下、街へと攻撃を開始した。瞬く間に地上は戦場と化し、人々の悲鳴が空気を切り裂いた。爆音、崩れ落ちる建物、逃げ惑う群衆――地獄絵図だ。
「――あの姿、まさか…ダークエルフ!?」
俺の脳裏に疑問が走る。なぜ今、彼らがここに? 時系列も状況も……おかしい。
そして、そのとき。
背後から聞こえた静かな声に、背筋が凍った。
「素晴らしい景色だとは思わないか?」
反射的に振り返る。
「この場には、ただ闘争と恐怖が渦巻いている。なあ、そうだろう――偽りの王子よ」
そこに立っていたのは、青白い肌をした闇を纏う男。黒いローブを翻し、氷のような笑みを浮かべていた。
「お前は…!」
俺は知っていた。その姿を。
マレキス――かつて滅びたはずの、ダークエルフの王。
マイティ・ソー/ダーク・ワールドにおいて戦うはずの過去の亡霊が、俺の前に姿を現した。