ミサキが先生のとこで花粉症の薬を貰う話です。

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夢見月に愁いと微睡みと

 

「――へっくしゅ! へっくしゅん!」

 

 春は嫌いだ。

 (けい)(ちつ)だなんだと春の訪れを寿(ことほ)ぐ言葉の多いことは、それが慶事たるに相応しいと、私にも理解できないことではない。夜露に濡れるコンクリートの床が、アルミサッシの奪取されて剥き出しになった窓枠から柔らかな(しょ)(こう)を取り入れて、その固さと冷たさを和らげてくれるのが、私にとっても、悪い気分ではなかったからだ。断捨離と称して床に敷いた古雑誌とその上から襤褸(ぼろ)布を被せただけの急(ごしら)えの寝床は、身体を休ませるには十全にその機能を発揮してはいた(或いは、眠らなければならない、という内的に発した義務感をどうにか宥めることができていた)が、吹き(さら)しの(ぼう)(おく)に比べては幾分かまし、という程度の話でしかない。もう少し自身の肉体が頑丈にできてさえいれば、それでも構わなかったのかもしれないが、いざという時に思うように動けず窮地に陥るのは、私一人の問題に留まらないのだから、夜風に身体を蝕まれるのは、目下のところ焦眉の急であったとすら言えるだろう。最終的に解決の(いとぐち)となったのは、季節の移り変わりであり、つまりは私達の創意工夫、先生の入れ知恵によるものではなかったというのは、思うところがないでもないが、望む結果が得られたのであれば、それ以上云々するのも野暮なことだ。要するに、春が来たことによって、私達は身を寄せ合い寒さに凍える心配をする必要がなくなったのだった。

 けれど、春が(もたら)したのは、陽気と鶯、(はな)(いかだ)、それらに留まらないことは、忌むべき私の身体が雄弁に語っていた。

 

「っくし、はっくしゅん!」

「み、ミサキ、大丈夫?」

「うぅ……」

 

 傍らの先生から受け取ったティッシュで鼻をかむ。携えたビニール袋は既に使い終えたティッシュを満載しており、私は半ば詰め込むようにして追加のティッシュをそこに放り込んだ。

 春は(きざ)しと芽吹きの季節だ。諸処で花が開き、その姿を顕示せんと彩りを振り撒く。青々とした葉を茂らせ、その(こずえ)は頭を垂れる。降り注ぐ陽射しに目を(すが)め、穏やかな風を肌で感じるのは、存外に悪くない。

 空気中に飛散して私の粘膜を苛む花粉さえなければの話だが。

 確かに春は来た。忘却の果てに追いやっていた花粉症の顕在化と共に。屋内に身を潜めていても尚、その症状は看過すべからざる様相を呈しているのだから、(いわん)や外出時は不織布のマスクを手放せない。

 

「先生、マスク」

 

 このマスクだって、今日何枚目か数えていられない。目は痒いし、くしゃみと(はな)は止まらないし、鼻はひりひり痛むし、自然苛立ちが募るのも無理はないだろう。それを表に出したとして、問題が解決するならとっくにそうしている。それが無駄なことだと分かっているから、私は苛立ちを胸の奥に押し込めて平静を装っている。平時に感情をコントロールできないのなら、非常時にそれができる道理はなく、身を滅ぼすことになるのは他ならぬ私自身なのだから。隣を歩く先生に余裕のないところを見られたくない、というのも、否むべからざる理由のひとつでは、ある。

 

「もうちょっとでシャーレに着くから、そしたら薬飲んで、ゆっくりできるよ」

「言ったでしょ、居座るつもりはないって――ぅあっくしゅ」

「ミサキがそう言うならいいけど……」

「はっくしゅん!」

「…………」

 

 追加の使用済みティッシュをビニール袋に放り込む。

 粘性を伴わない鼻水は閉め忘れた蛇口みたいに止め処なく垂れてきて、啜り上げる時間の方がそうでない時をゆうに凌いでいる。

 先生は先生で、甲斐甲斐しく懐から取り出したポケットティッシュをこちらに差し出してきたり、一度は断ったはずなのに私の荷物を持とうとしてきたり、時々こちらの顔色を窺ってきたり、そこまでする必要もないはずなのに、ずっと私のことを気にかけているようだった。

(あぁ、いや、そうじゃない。ただ先生は先生として、手のかかる生徒を助けるのに、何の疑いも躊躇いもないだけか)

 

 ずずっ、と不快な音を立てる鼻に眉を(しか)めるのももう何度目のことだったか、犬みたいに私の周りをうろちょろしている先生を尻目に、暫くの間、そうして一緒に歩いていて、シャーレに着く頃には、ティッシュもとうに切らしていた。

 

「えっと……どこだっけ……」

 

 先生が独りでぶつぶつ呟きながらデスクの引き出しを幾つも開け閉めしている光景を眺めながら、私は近くのソファに座って、屋内に入ることで少しだけ緩和された症状にストレスの漸減を感じていた。ボックスティッシュを携え依然として鼻をかみながら、忙しなく動き回る先生と、整然とした無機質なオフィスに目をやる。ここには何度か来たことがあるが、その時は私が体調を崩して転がり込んだり、俄か雨に足止めを食らっていたところを助けにきてもらったり、何かと、先生に恩義を感じずにはいられない状況ばかりだった(今だってそうだ)。恩義を受けたのなら、それを返すのが道理というものだが、生憎と私は、それを行えるだけのものを持ち合わせておらず、一方的に世話になり続けるという後ろめたさだけが負債として腹の底に溜まっていって、居心地を重苦しいものにしていた。

 

「あったあった。お待たせ、ミサキ。これ飲んだらちょっとは楽になるはずだから」

 

 そんな私の胸の内など露知らず、先生がぱたぱたとこちらに駆け寄ってきて、携えた薬の箱と水を注いだグラスを差し出してくる。

 

「十五歳以上は一回二錠、一日二回飲んでね」

 

 受け取った箱を裏返して説明を読もうとすると、それが折り込み済みであったかのように先生が先んじる。

 

「……ありがと」

 

 喉元まで出かかった、わざわざ言わなくても見れば分かる、という言葉をすんでのところで呑み込んで、私は言われた通りに包装シートから白い錠剤を二つ出して水と一緒に(えん)()した。

 喉の奥を異物感が通り抜けていって、食道に差しかかった辺りで感覚が消え失せる。

 ああ、これで、この忌々しい花粉症の症状も少しくらいは和らいでくれるだろうか。

 空になったグラスをローテーブルに置いて、ソファに(もた)れかかる。

 

「どう? 少しは楽になった?」

 

 書類とコーヒーカップを手にした先生が、何の断りもなく私の隣に腰かける。

 いつもならシャンプーだか柔軟剤だかの匂いが分かるほどの距離にも(かか)わらず、生憎と、今日はそれどころじゃなかった。

 

「お節介な誰かのお蔭で、って言いたいけど、そんなにすぐに効果が出るわけないでしょ」

 

 私がそう指摘すると、先生はからからと笑った。

 

「まぁ、ね。でも即効性のやつだから、直後とはいかないまでも、もう少ししたら効いてくるはずだよ」

「だといいけど」

「それまでは、ゆっくりしていきなよ。どうせ効果が出るまでは外にいられないんだし」

 

 ちょっとやらなきゃいけないことがあるから、何のお構いもできないけど、と私が今更そんなことを気にするわけがないと分かっているはずなのに、ばつが悪そうにする先生に、思わず嘆息する。

 それをどう受け取ったのか(少なくともマイナスの意味では捉えていないだろう)、先生は書類を広げて、何やら独り言を零しながら睨めっこを始めた。

 私は私で手持ち無沙汰になってしまったので、アツコとヒヨリに連絡したり、装備の確認をしたりしていたが、とうとうそれも尽きると、仕事に没頭する先生の横顔を眺めていることしかできなくなった。

 

「…………」

 

 先生には本当に世話になりっぱなしだな、と自嘲する。勿論、先生はそうするのが当たり前だと思っているようなので、そんなことを口にすれば真面目な顔で説教を始めるのだろうが、私にしてみれば、そんなのはただの綺麗事だ。無私の精神や滅私奉公なんて、まるで、さもなくば自己に価値がないと認めているようにすら思える。生きることは無価値ではないと、そう教えてくれた当の本人が自己を顧みないのは、()(まん)だ。私達の存在一つ一つが小さな奇跡の積み重ねなのだとしたら、先生にだって同じことが言えなければ、フェアじゃない。

 無論、先生が他の組織や生徒から無二の信頼を寄せられていることは今や周知の事実だが、その過程で、どれほどの苦痛や(おう)(のう)や葛藤があったのか、その全容は私程度に推し量れるものではないのだろう。

 時折感じるのは、先生が、機械みたいに一種のシステム然として、かくあれかしと命じられるままに、私達生徒の選択や可能性を後押ししているのは、本人自身の意志であったとしても、必ずしも本意ではないのではないかということだ。そしてその仮説が真であるのならば、或いは、(すん)(ごう)にもそれを(がえ)んずることができるのであれば、私は、(いたずら)にその「先生」という機構の恩恵に(あずか)るを赦せなくなるだろう。私達生徒を支援するという行いそのものは、確かに本人によって能動的になされているように見えるが、動機づけとしては、内的というよりは外的、自ずから発せられたものによるというよりは、(たん)(げい)に能わざる役割とそれに付随する責任という重荷による、替えのきかない袋小路に身を追いやられているが故の、()わばツークツワンクじみた選択の果てではないのか。

 だとするならば、さしあたって、私にできるのは先生の助けが不要なほど自立すること、加えて、先生を無償で助ける(てき)(しん)の心構えだろう。昔の高名な聖者は身を投げ打って飢えた虎を救ったらしいが、そんなものは、やはりまやかしに過ぎない。私は、先生にそうあってほしくないと願う。だから、かつて私がそうされたように、私も先生に微力を添えたい。望まれたからそうするのではなく、この省察を経て、自ずから生まれ出でた格率としてこの身を費すことに躊躇はない。そういう意味では、あの日口にした「リードはあげる」という言葉は正鵠だったのかもしれない((いく)(ばく)かの自棄が含まれていないではなかったが)。これは、ただ助けとなる、などと大層なお題目を掲げるのではなく、助けられたから助けるという返報性の域を出ない話だ。だから私は、先生のそうあってほしくない姿と同属に堕することはないし、公平無私に身を(やつ)す先生を(せい)(ちゅう)することができる。

 

(あとは……そうだね)

 

 自らに課した任務を(つつが)なく遂行する為に、四六時中とはいかないまでも、なるべく先生の傍にいる必要がある。

 それだけだ。

 

 ……。

 

 …………。

 

 ………………。

 

 

 溜まっていた仕事に一区切りがついて、 "私" は大きく伸びをした。

 

「んん〜〜〜〜っ」

 

 凝り固まっていた肩やその周りの筋肉がほぐれていくような感覚と、ぱきぱきと首の骨の鳴るのが自身の疲労を如実に語っていた。

 どうやら思いの外集中できていたようで、腕時計を確認するとおよそ二時間が経過していた。テーブルの上に置かれたコーヒーは一口か二口飲んだくらいで、残りはとっくに冷めきっているようだ。捨てるのも勿体ないので、私はそれを一気に呷る。口の中を心地のよい苦味が通り抜けていって、その芳醇な香りが少し遅れて鼻を(くすぐ)った。よいものは時間が経ってもよいものなのだ。

 そういえば、と、私は傍らを顧みた。

 花粉症に苦しむミサキに薬を飲ませて、それから数回言葉の応酬があったのみだったが、その後彼女はどうしたのか、全く気にかけていなかった。教鞭を執る者として(じく)()たる思いがないでもないが、平時は特別手のかかる生徒でないというのは知っているので(ふとした時に目が離せなくなるような危うさをも兼ね備えているが)、何事かを心配したり気遣ったりする必要がなかったというのも手伝っていただろう。

 

「……ふふ」

 

 果たして、ミサキは依然としてそこにいた。私が仕事を始める前と寸分変わらぬ場所で、姿で、ソファの背凭れと肘掛けにその細い身体を預けていた。

 思わず私が口元を綻ばせてしまったのは、そのミサキが、すやすやと規則的な寝息を立てて眠ってしまっていたからだった。

 当初こそは、拾ってきた野良猫みたいにこちらを警戒してやまなかった彼女が、いつの間にやら自身の隣で寝落ちするまでになったというのは、それほど私のことを信頼してくれているということの表れでもあるだろうし、そうでなくとも、どうやら私のことを少なくとも危害を加えうる人物ではないと(意識しているにしろしていないにしろ)、そう認識してくれているということなのだから、冥利に尽きるというものだった。

 ただでさえ普段から緊張状態にあって、万が一にも仲間を危険に晒すことのないよう気を払っているのだから、きっとろくに睡眠も摂れていなかったのだろう。彼女にしてみれば、無防備な時間は少なければ少ないほどいいのかもしれないが、それでは彼女自身の身体と精神がもたないのは自明だ。だからこそ、こうしてリラックスできるような空間と時間を提供したことは、どうやら間違いではなかったらしい。

 

「さて、と」

 

 ミサキを起こすことのないよう、細心の注意を払って腰を上げる。座面の上下にも、衣擦れの音にも気を遣って、十秒ほどかけて立ち上がると、努めて静かにその場を離れる。

 ここで彼女を起こしてやるというのも選択肢の一つとしてあるにはあったが、先述の通り、彼女には休める時になるべく休ませてやりたいという思いがあったので、私は、仮眠室から引っ張ってきた毛布を、そっとミサキに掛けてやった。あどけない表情が僅かに顰んで一瞬ぎくりとしたが、すぐにまた穏やかなものに戻ったので、ほっと胸を撫で下ろす。

 目が覚めた時に何事かを言われることも考えられたが、少なくとも今は、他ならぬ私がそうすべきだと思ったのだから、何ら恥じることも省みることもない。

 過去も、現在も、未来も、苦しいことや辛いことばかりかもしれないし、それがミサキの精神性に多大なる影響を及ぼしたであろうことは疑いない。それでも、今だけは、昼下がりの陽射しの中で安息を得られる今だけは、どうか日々の(うれ)いを忘れて、穏やかな微睡(まどろ)みに身を委ねてほしい。束の間であろうと、どうかその時間が安らぎと救いに満ちたものであってほしい。

 だから思わず口をついて出たのは、そういった私の内から溢れた願いが形をなしたものだった。

 

「おやすみ、ミサキ」

 





旧暦ではまだ3月なのでセーーフ!!
でもスギ花粉はもう殆ど鳴りを潜めてるから、俺を含めた一部花粉症の人はもう何事もないかもしれないね

ところでミサキ、生誕おめでとう(誕生日ではなく生誕を祝っているだけなので1月13日でなくともよいとされています)
アリ夏復刻で水着実装、楽しみですね
自分で選んで自分で手に入れるということそのものが大事なんですよ、これは
だからひと夏の思い出を胸にずっと仕舞っておけるように、その水着も大事にしてほしいですね
俺の情緒のことは気にしなくていいので
また何か稲妻みたいなものが俺の胸を貫いたなら、またこうして稚拙な小説みたいなものが穿たれた穴からまろび出てくるかもしれませんね
もうその辺は俺の宿痾みたいなものなので、遅かれ早かれそうなることは半ば確定してしますけれどもね
すみません、俺の小説の需要ってどこにありますか?
よく分かりませんけど皆様あちらの方へ歩いて行かれますね
アッありがとうございます、それでは……

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