トレーニングをしないと衰えるのは声も体力も同じ。
再スタートを切った寧々にあったかもしれないお話です。
午前6時。まだ外を歩く人もまばらな時間。
太陽の光だけでは心もとない、少し暗い部屋の中でストレッチを終える。
朧げな昔の記憶と軽く調べた情報を組み合わせたやり方だけど、体を起こすにはちょうどいい。最初はもっと暗くて眠気も強かったけど、今では慣れてしまった。
「じゃあ、行ってきます」
水分をとって、ランニングシューズの紐をきゅっと締める。
まだ私以外は寝ているから、起こさないように小さくつぶやいてから玄関を閉めた。
外に出ると、肌を刺すような冷たい空気がお出迎え。
目の前の道には昨日の夕方に降った雨の名残がまだ残っている。あまり濡れていると走りにくくて困るから、真ん中が乾いていたのは幸いだった。
体操の要領で腕を振り、膝を軽く曲げる。
軽い準備運動のついでに辺りを見回すと、いつも通り静まり返った住宅街が広がっていた。類の家もカーテン越しの明かりが見えないから、今日は徹夜をしていないらしい。
最後に2回の深呼吸で息を整える。
今日のメニューは、5分のジョギング、10分のランニング、そしてもう一度5分のジョギング。頭の中で再確認して眼前の道と足元に集中する。
少し冷たい風を感じながら、私はタイマーウォッチのスイッチを押した。
「……ふっ、ふっ」
誰もいない道を走っていると、自分の呼吸音が妙に聞こえる。序盤だからリズムも崩れてない。
この習慣を始めて1か月を超えた頃から、こんなことを気にかける余裕が出来た。かつての自分に、吹き付ける風のこの感覚を伝えても想像できないに違いない。
なぜ、私はこんなにも早く起きてランニングに勤しんでいるのか。
全ての始まりは、今年の春に類の誘いを受けたことだった。
――― ◇ ―――
高校生になった春、4月のこと。
これまでと何も変わらないはずだった私の生活は大きく変わることになった。
国外にも名の知られる遊園地、フェニックスワンダーランド。
その広大な敷地の中で、木々を抜けた先にひっそりと佇むステージがある。
通称『ワンダーステージ』と呼ばれるその場所で、私は類、えむ、司の3人と共にショーをすることになったのだ。
中学生の頃まで舞台に立っていた私だけど、あの時から演劇と距離を置いていた。
触れないようにしていた、というのが近いのかもしれない。
そこから再びショーキャストになるまでには、本当に色々なことがあったけど。4人で結成した『ワンダーランズ×ショータイム』の一員として、今は演劇の世界にもう一度足を踏み入れている。
ただ、ステージに上がるといくつも課題に直面した。
その中でも大きな問題の一つは、長期間のブランクだった。
5月のゴールデンウィークを過ぎ、ワンダーステージ取り壊しの話が一旦なくなった頃のこと。私は棚の奥から何冊かの教本を引っ張り出していた。
ショーキャストとして演じるにあたり、私の武器になるのは声だ。
普段の会話とは声の出し方が違うし、発声練習は必須と言っていい。
でも類に誘われて以降、えむの事情や時間がなかったのもあって軽い練習しかできていなかった。これからは本格的に活動が始まるし、そのための準備もしておきたい。
そう思って当時使っていた中級者以上の教本を先駆けとして、もう一度練習し直すつもりだった。
(あれ、なんか変?)
(このパートの声の出し方、これで合ってたかな?)
感覚が合わない。音程が僅かにずれる。当時は難なくこなせていたはずのメニューでミスをする。
久しぶりだから仕方ないと最初は思っていたけど、何度も繰り返していると違和感は拭えない。嫌でも自分の腕が落ちていることを自覚する。
1冊をこなすだけで何回のやり直しがあったことか。棚の匂いが染みついた教本の山を手開くたび、心が欠けそうになる。
4人で集まりショーの練習をするときも、時折感じることがあった。
(やっぱり気のせいじゃない。トレーニングをしてなかったせいで、疲れるのが早い)
観客席からは分からないけれど、舞台の上に立っていると見た目以上に体力を使う。
声はもちろん、表情、手足の動き一つをとっても普段とは違う動きをする。
演目の内容にもよるけど長時間維持することもあるため、相応のスタミナを求められることになる。
これまではネネロボ……類が作ったロボットに声を当てて皆の前に出ていたから、意識しなかった。
けれど、いざ対面でステージに立つようになって、不安はじわじわと無視できないものになっていた。
他の3人は心配がない。
団長の司は、スターになるべく生まれた、とか豪語するだけあって体力は十分ある。というか、そうでないと常日頃からあのうるさい声を出せないだろうし。
類は、一見運動ができないように見えるけど要領がいい。そもそも演出を兼任するから舞台に上がる時間も少なくなりがち。
えむはよく分からないけど、抜群の運動能力を持っている。休憩中も余裕がありそうだったし、身も上がらないほど疲れる姿が想像できない。
おいて行かれるのは私だけだった。
ずるい言い訳をするのなら、私は甘えていたんだと思う。
人前に立てない私にネネロボを介することを提案した類の優しさ。
観客が昔の私を知らないという安心感。
逃げた私を、それでも受け入れてくれた新しい場所。
いくら時間に余裕がなくて必死だったとしても、心の隅でその環境に寄りかかっていたツケ。それがブランクという形を持って目の前に現れただけのこと。
今のところ自覚しているのは私だけで、まだ誰にも気づかれてない。
3人との練習は少しずつ良くなっているし、ステージを観に来てくれる人たちは今の私でも喜んでくれている。
けれど、この現状に甘んじるわけにはいかない。
私のせいで何かを台無しにしてしまう。そんな光景は、もう二度と見たくなかった。
――― ◇ ―――
(よし、5分経った。ここからランニングに切り替える)
タイマーの音と共に、足に力を込める。
ジョギングで温まった身体は、すでに次のステップに備えていた。
ブランクを解消するために、まずは教本の練習を再開し、体力をつけることにした。
教本はあくまで基本中の基本。家にあるものは基本からすべてこなし、それが終われば新しいものにも挑戦するつもりでいる。一度経験したことを体が覚えていたのか、最近はペースも上がってきた。
問題は体力で、これは一朝一夕ではどうにかなるものじゃない。
でものんびりしていられない。生身のキャストは4人だし、演目が増えれば一人一人の負担は大きくなる。
そんな状況でも疲れを見せずに演技を続けるには、相応の体力が必要になる。
昼は学校の授業があるし、放課後は演技と声の練習。どちらも削るわけにはいかない。
悩んだ末に選んだのは、朝のランニングだった。朝は眠いし、夜遅くまでゲームができなくなるけど背に腹は代えられない。
昔聞いた話や調べた情報を頼りに、最初は10分間のジョギングから始めることにした。
始めたばかりの頃はとにかく眠かった。
今までより早起きすると寒さもこたえるし、二度寝の誘惑に勝てない日もあった。
期間限定イベントが開催中だった時期は、起きるのが特につらかったのを覚えている。
やっと外に出ても結果は散々だった。
最初はジョギングすら、ろくにできない。ペース配分も考えずに走ったせいで、帰ってくる頃には息が上がっていた。
疲れが残りすぎると授業中は眠気との戦い。当てられたら確実に怒られたに違いない。
(それでも、今すぐやらなきゃ追いつけない)
そう自分に言い聞かせて、眠気も寒さも無視して足を動かした。
再びこのセカイに戻ることを決めたのに、ちょっと辛くなったくらいで抜け出すなんて。そんな選択をしてしまったら、絶対後悔する。
天気が荒れていたり、外せない予定がある日だけは休むことにしたけれど、それ以外は3人に内緒で続けるようになった。
続けていくうちに、少しずつ生活の習慣も変わっていった。
夜更けまでアプリの周回をすることもなくなったし、朝起きたときの気怠さも前より減った気がする。
狙っていたわけじゃないけど、集中できることが増えてきた。
(あ、タイマー鳴った。これで最後のジョギングかな)
慣れてくると時間が経つのが早く感じる。これならもう少し時間を延ばしても良いかもしれない。
走りながらタイマーを止めて、ゆっくりとペースを落とす。急に止まろうとすると足に負荷がかかるから、スピードを落とすのは少しずつ。
(今日のメニューも終わったし、早く家に戻って準備しないと)
そろそろ通勤や朝練の学生が登校する時間帯。すれ違う人とぶつからないよう、気は抜かないように。
――― ◇ ―――
「ただいま~」
時刻は6時30分。念のため小声で話すと、台所から水道の音が聞こえてきた。
洗面所はまだ空いていたから、用意しておいたセットを持ってシャワーを浴びる。
若干の疲労はあるけれど問題ない。昨日はきちんと寝たし、この感覚なら授業中に寝ることは無いだろう。
シャワーをさっと済ませたら、手早く髪を乾かす。細かく整えるのは後回し。
制服を着たら朝食の時間にしよう。
体力をつけるにあたって、食生活も見直すことを決めた。
今までは気分がよくなかったり、時間ギリギリになると面倒くさくなって食事を抜くことがあった。おやつ片手に深夜の周回をこなすこともザラ。
でも不規則な食事をとっているとメリハリがないし、何より集中できない。そんな自分をごまかそうとさらに間食する悪循環にもなりかねない。
これで体型に影響が出たら、ショーどころの話じゃなくなってしまう。ランニングも始めたし、丁度いいと思って今は朝食のメニューも少しだけ考えている。
台所に入ると、本格的に昇り始めた太陽の光が静かに差し込んでいた。
テーブルに置かれたトーストはまだ湯気が立っている。
「おはよう、お母さん」
横顔に声をかけると、お母さんが振り返ってにこっと微笑んでいた。
丁度ご飯を食べるタイミングだったみたい。
「おはよう、寧々。今朝は寒くなかった? 昨日の夜、雨が降ってたでしょう」
「ちょっと寒かったけど大丈夫。乾いてるところも多かったし」
「そう、それならよかったわ。ほら、トーストも焼けてるわよ」
「ありがと。あ、そのお皿もらうね」
私の分のサラダとゆで卵も盛り付けてあった。舞台を止める前も復帰した後も、お母さんは私が何も言わなくてもちゃんと準備してくれていた。
お母さんはいつも手間じゃないって顔をするけど。
「あ、ヨーグルトは冷蔵庫にあるからね」
「はーい」
冷蔵庫を開けると、見慣れたパックがちょうど手前に置いてある。
最近はお母さんたちも私に影響されて、ヨーグルトを食べる機会が増えたらしい。
食事改善の一環として朝食に食べることにしたのが、この無糖ヨーグルトだった。
取りすぎも取らなさすぎもアウト。
健康食品でも糖分入れすぎのものには気を付ける。
調べてみると情報やレシピが山のように出てくるけど、このヨーグルトは自分流だ。
使うのは無糖のプレーンヨーグルト、はちみつ、ブルーベリージャムの3つ。
はちみつとジャムも続けて取り出して、小鉢とはかりを用意する。
容器の重さは除くように設定したら、ヨーグルトをスプーンですくって量を測る。
100gを目安にしているけど、ピッタリに合わせるのは少し面倒。
「……93、105。まぁ、これでいっか」
前は戻すのが面倒で少しずつ足していたけど、もう慣れている。
ピッタリにこだわらなくても5gくらいなら誤差だ。
混ぜる前の固まりをいくつか落としたら小鉢を引き上げる。
次ははちみつとジャム。
入れすぎると糖分が多くなるから、小さなスプーンでそれぞれ2杯取る。
チューブ状のはちみつはともかく、ジャムはビンの中とヨーグルトが触れると傷んでしまう。
別々のスプーンを出すのは面倒だけど仕方ない。取り終えたら二つともしっかりふたを閉めておく。
最後は全部まとめてスプーンで混ぜる。
ぐるぐると底から回すと、白色だったヨーグルトにほんのりと紫色が付き始めた。
味付けは日毎にローテーションで決めるけど、バナナやリンゴだと色は付かないから混ざったか分かりにくいのが困る。
「いただきます」
まだ学校までの余裕はあるけど早く食べたい。走った分のお腹もすいてるし。
トーストに手を伸ばすと、ほんのり温かさが残っていたのが嬉しかった。
――― ◇ ―――
「最近、ちゃんと朝ごはん食べるようになったわよね」
ゆで卵とサラダを完食してトーストの残り半分を口に運んでいると、ふとお母さんが言った。
よくパンにマーガリンを塗っているけど、量が最近減ったような気がする。前に置かれたボウルを見ると、リンゴのすりおろしをヨーグルトに入れているらしい。
「うん。今は走ってるし、ショーもあるから……食べないと、やっぱり持たないし」
「そう?まあ体が一番だから、無茶はしないでね」
「そこは分かってる。……ありがとう」
私の返事にふふふ、と微笑むお母さん。
舞台に戻ることを決めたときも、反対せずにそっと背中を押してくれた。
トーストも食べ終わったし、最後はヨーグルト。
ぐるぐると混ぜた色付きのヨーグルトに、ほんのりブルーベリーの粒が広がっていく。
私もこんな風に少しずつでも変わっていけるのだろうか。
使い慣れた小さなスプーンですくって、一口食べる。
口に入れたヨーグルトは無糖の淡白な味と少し甘いジャムの味が溶け込んでいる。
今日の味は甘さ控えめ。ジャムが少なすぎたか、ヨーグルトが多すぎたか、どっちだろうか。
どのくらい目分量がずれていたかを思い出しながら、次の一口を運んでいた。
「ごちそうさまでした」
「はーい、お皿は水に浸けておいてね」
朝食を食べ終えると、お母さんの声が柔らかく響いた。その音に背を押されるように席を立つ。
さあ今日も学校とショーの準備をしないと。きっと消化しきれていないであろう朝食から、力がみなぎるような気がした。
おまけ
「~~♪」
「……最近のねねちゃん、何だか声が変わったかも」
「そうか?確かに、言われてみれば張りのある声のように聞こえるな」
「何ていうか、静かな時でもパワフル!みたいな力強さがあるの。私も負けてられない!」
「ああ!ワンダーランズ×ショータイムの団長として、俺も気合を入れなけれな!」