徹との交際が始まりもうすぐ一月が経とうとする中、矢場弓子は衝撃的な光景を目にしてしまった。まさか彼氏の川神徹が別の女性と歩いているとは夢にも思わなかった。これが姉の百代や義妹の一子であれば問題なかった。決して嫉妬深くはないと思っているが、仲の良さそうに歩く姿を目にしては味わった事のない感情が弓子を支配していた。
その後、彼女はどう家路に着いたか、どうやって朝を迎えたのかも分からず学園へと向かうのであった…
「よう!」
「おーっす!」
「おはよう徹」
翌日、恋人が憔悴していることなど知らず、
徹はいつも通りに家を出て風間ファミリーの集団に合流する。岳人は卓也と一緒に週刊漫画雑誌の批評に余念がなく、京は大和に文字通り着いて歩くと言う何時もの光景である。
「あれ、ワン子と姉さんは?」
大和は姉妹のどちらかが居る筈が、両方とも居ない事を訝しんで徹に尋ねた。
「一子は走っている。姉ちゃんは先に家を出たぜ」
これだけで大和は二人がどう行動したかを理解した。それは京も岳人達も同様であった。だからこそ、この後に起こる可能性の高いイベントに大和たちは溜め息を吐いた。
「うちの姉が本当に済まん大和…」
尻拭いは決まって大和へ、と言うのが百代の中に存在する。徹もやはり家族と言うフィルターが存在し、どうしても甘くなってしまう。何事も手際よく行う大和を信頼しているとも言えるが、大和は何時も見返りが少ないと心の中で愚痴を零すのである。
「まあ、もう慣れたけどな…」
何処か達観した様な大和の言葉に、今度何かで穴埋めをしなければと決心をする徹であった。
「そう言えば昨日バイト先で咲さんに有ったぜ」
徹たちの間では大和の母咲と岳人の母麗子に対して、おばさんとは決して付けてはいけないと言う不文律が存在する。嘗て純粋無垢な一子が『大和のおばちゃん』と言った時の光景がトラウマとして彼等の脳裏にこびり付いているのである。それは麗子に関しても同様であった為に以後、空気を読まない翔一ですらこのルールは守っている。
「ああ、その話昨日聞いたよ。突然帰って来て俺も吃驚したけどな」
大和はそう言うが、若干マザコン気味と受け取られてしまう大和と咲の関係は言葉では表せないほどに仲睦まじい。寮内での出来事を知る京は敢えて何も語るまいと静観を決め込んでいる。
話題に事欠かない彼等は話しに夢中になりながら、特にこの場に居ない翔一の事を心配しながら歩いていると目の前に人だかりが出来ていた。それに大和は大きく溜め息を吐く。
「あーやっぱり…」
「ごめん、大和…皆も迷惑かける」
予想通り、目の前では河川敷で百代対大人数の不良と言う構図でバトルが行われようとしている。それを面白がって見物する川神学園の生徒たちは、本来ならば怖がり人を呼ぶなどするはずが、その様な雰囲気が皆無である。言うなればイベントを楽しむ様な空気が流れている。
「さてと、いつも通りに頼むぜ」
大和はファミリーにそう言うと皆自分の行う事を理解していてテキパキと役割をこなして行く。大和と徹は百代の邪魔にならぬ様、観衆を適度な距離まで離す。これが重要で、他の一般人に被害を出さない様にするのだ。そして土手まで埋め尽くす観衆を通行の妨げにならぬ様誘導整理を行うのが岳人、卓也、京の役割である。一子がいればここに加わる事になる。
そう頑張っていると勝負はあっという間に決する。五十人は居た筈の不良は来た方角へと投げ飛ばされての決着となった。それに湧きあがる生徒たち、我先にと女子生徒が百代の周りに集まり労いの言葉を掛ける。男以上に男前な百代の仕草に彼女等はうっとりとしてしまう。
「あーいいよなー一人で良いから恵んで欲しいぜ」
「仕方ないよ。ガクトだもん」
さり気なく毒を吐く卓也にすら気が付かないほど、百代の空間を凝視する岳人であった。
その後は遅刻するかもと言う事で見物していた生徒は一路学園へと急いだのは言うまでもない。
この日から学園の授業は午前で終了する。部活に精を出す者、バイトや遊びへと多種多様な行動に幅が出る。
珍しく京は自身が所属する弓道部への練習へと顔を出していた。しかも見学では無く確り練習着に着替えてである。
京はやはり弓道と弓術は違うな、と思いながら的へと矢を放つと珍しい光景を目にしてしまった。それは他の部員すらもお目に掛からないものだった。
「あっ…」
そう声を漏らした弓子の放った矢じりは的を外してしまった。しかも一度や二度では無く、当たっても端を射抜くだけである。正しく精彩を欠くとはこの事であった。
(これは何かあったね…)
男女の機微には殊更に敏感な京は徹との間に何かが有った事を悟った。弓子には技術の前に集中力が皆無であると京は判断していた。それを失わせる何かとは、徹以外において無しと京は考えていた。ファミリーにおいては積極的な京は思いもかけず弓子に手を差し出そうと決心したのであった。
終始精彩を欠いた弓子は、声も弱くこの日の部活動を終えた。既に三年生は引退し、新体制に移行して主将は弓子に選ばれていた。顧問をしている小島梅子も言葉では厳しく弓子に喝を入れているが、内心では何かあったと分かるほどに弱々しいものであった。
「矢場先輩」
京は時機を見計らって弓子に声を掛けた。幾度となく部員が励ます中、力無く答える弓子に対してそれを遠目で見ていた京が動いたのである。
「な、何かしら椎名さん…」
そう言った弓子は項垂れている。着替えを済ませ後は戸締りをして学園を後にするだけと言う中、部室内には京と弓と言う珍しい構図である。
「徹と何かあったのですか?」
徹と言う言葉を京が出した瞬間、弓子の体が強張る。これではもう決定的であると京は思った。
「ま、まあ遭ったと言うかね…」
京と徹の中を知る弓子は思わず告白しそうになったが口を噤んだ。昨夜の光景を思い出し、口が先を告げさせなかったのだ。
ファミリー以外関係ないという態度を隠そうともしない京の普段を知る弓子は、驚きの気持ちと徹との関係のある人物、そして女性と関連させ負の連鎖を呼び起こしさらに落ち込む。
「取り敢えず何があったのか話してみませんか?」
京はぶっきら棒な物言いではあるが、優しい言葉を掛けるよりも何が有ったのかを確認する方が先だと考えたのである。
「実はね…」
心が弱っていた弓子は遂に後輩である京に話しを始める。その内容は昨日の光景であった。
「なるほど…」
確かにと京は弓子の見た光景を見ればそう疑うのも無理はないと思った。しかし、長年ファミリーとして一緒にいた京として、徹はがその様な事をする筈がないと自信を持って言える。だが、弓子は知り合って間もない間に恋人関係となった。だからこそ京が徹の事を説明しても無理だとも考えている。加えて第三者が介入して拗らせる可能性が在るならば、自分たちで解決しなければならない問題だと言う結論に京は至った。
本来この様な事も大和が介入することで万事解決と為るが、この日は家族で食事をするということで連絡は取れないと判断し選択肢から除外していた。
「矢場先輩は徹に確かめましたか?」
「ムリよ、確かめられる訳ないじゃない…」
それを行うことは恐怖でしかなかった。もしその様な事をして「そうだ」と言われれば繊細な弓子の心は壊れてしまうことに違いなかった。だからこそ簡単なようで困難な一歩が踏み出せないのだ。
「なら確かめてみましょう」
しかし、京は違う。徹を知り、第三者である彼女にとって会話が一番であると確信し、携帯を取り出し徹に連絡を取ったのである。
一方、徹はバイトもなく彼女の弓子が部活と言う事もあり川神院で汗を流していた。
「押す!お願いします!!」
元気よく声を上げたのは一子である。
この日の徹は全員が倒れるまでと言う変則的な百人組み手を行う。院内でも実力者を集めた中で一子を徹が指名し一番手を任されたのである。周囲からも不満が出無かった事で一子の実力も認められて来たと実感したのは徹だけでは無かった。
「それじゃあ、用意はいいネ。はじめッ!」
ルーの言葉で組み手は始まった。武器有りでの戦いは真剣勝負である。気を抜けば幾ら刃を潰した、とはいえ大怪我は必須となる。
一子は例によって自身の武器となる速さを活かした攻撃を薙刀で行う。
「ウォリャー!」
彼女は言葉には出さなかったが川神院の技を、それも奥義を徹に見舞った。嘗て徹に指摘を受けた際『どうして技の名前を言うのか』と言われた事を確りと学習していたのである。一見の対戦相手であればどの様な技か判断できないが、同門川神院の修行僧であれば話しは別だ。瞬時に体が反応し対策を取られてしまう可能性が高くなる。これでは速さと言う彼女の利点も死んでしまう。
一子の攻撃をギリギリで避ける徹は満足そうに頷くと一瞬の隙を突いて拳を入れる。その瞬間一子は壁際まで飛ばされてしまった。
「次ぎ!」
介抱する者も確りと準備していて飛ばされた一子を既に見ている。それをちらりと確認したルーは二番手の者を促した。又、一子や彼等が目を覚ますとストップが掛かるまでこの鍛錬が続くのであった。
放課後から四時間ぶっ通しで戦った徹は汗を流す為にシャワーを浴び、タオルで髪に残る水分を拭き取っていると携帯が鳴っている事に気が付いて部屋へと駆け込んだ。
「京…?」
珍しい人物の表示を見た徹はどうしたのかと通話ボタンを押した。
「もしもし、どうした京?」
『あっ、良かった。今から学園に来て』
それだけを言うと通話を切られてしまった。突然過ぎてどうしたものかと悩んだが、京がそう言うのならば、と急いで着替え一子に出掛ける旨を話して家を後にするのであった。
「これでよし。矢場先輩、先ずは確り徹と話して下さい。不安でしょうが私が知る徹はその様な事はしません。だから勇気を出して話して下さい」
珍しく饒舌に語る京に思わず弓子は素直に従った。彼女の言葉と瞳が真剣さを伝えていたのを弓子が感じていたからである。
「わ、分かったわ。椎名さん…」
その後京は『これで失礼します』と述べて部室を後にし、追加で徹にメールを送るのであった。
京が去ってから程無く徹は部室へと現れる。
「京、入るぞ!」
徹の声が外で聞えると弓子は体を強張らせる。やはり恐怖が彼女を包み込んでいた。初めて出来た彼氏と言う事もあり、どうしていいのか判らない彼女は京に言われても拭いきれない不安が存在していたのだ。
徹は京が中で待っていると思い、入る前に一度声を掛けて部室の扉を開けた。
「話ってなんだ?って弓子?」
何気なく京だと思って扉を開ければ中には彼女の弓子が待っていた。
「こ、こんばんは徹君」
務めて気丈に、普段の通りに声を掛けたと思った弓子であったが、その小さな変化を武神の弟である徹は瞬時に悟る。
「こんばんは弓子。それで……何か有ったのか?」
窺う様に徹は弓子に言葉を掛けた。それから本の数秒間を置くと意を決し徹に話し始める。その間、弓子は長い時間であったと感じていた。
「昨日の夜……一緒に歩いていた女の子は誰?」
賽は投げられた。一瞬、最後の最後で言葉を躊躇うがもうここまで来たら、と昨日の事を尋ねた。
「昨日の…夜…?ああ、伊予ちゃんの事か」
徹はそんな弓子の思いとは異なり、尋ねられた事にハッキリと答えるだけであった。その瞬間心臓を掴まれ体が冷える感じを覚え、呼吸が止まる様な感覚に襲われた。
「伊予ちゃん…?」
もう一度尋ねる様に弓子が言うと徹は件の女性を説明する。
「ああ、昨夜バイト終わりであの橋で変質者に襲われているところを助けた新しい後輩だよ。名前は大和田伊予ちゃんだ。それがどうしたんだ?」
そう徹が言い切ったところで弓子は全身の力が抜け落ち、崩れる様に地面に伏せ始める。
「あぶなっ!」
徹は彼女を正面から抱きしめて何とか無事に済んだ。弓子は彼の胸に収まるように抱かれいている。
「は、はは、何か力が抜けちゃった…」
「一体どうしたんだよ、弓子?」
徹は事情が飲み込めず、さらには緊張が安堵に変わり自然と涙を流している弓子に狼狽していた。
「あのね、昨日の事なんだけど…」
そうして弓子は昨夜自分が見た事を、そして感じた事を徹へと話し始めた。
まさに青天の霹靂であった。人助けをした一方で彼女を傷つけるばかりか、此処まで追いこんでしまうとは夢にも思わなかった。そして徹は弓子を抱きしめたまま部室の床に座る。
自然と彼女は抱きしめられたまま密着度合いが高まった。
「ごめん弓子…」
この言葉だけで弓子は彼の考えている事が理解出来た。拒絶の言葉ではなく謝罪であると。
「ううん、いいのよ。勘違いした私が悪かったわ」
全ては自分の早とちりであると結論付けたのである。今ではこうしているだけでも幸せな気分になっていると思うと随分と現金な、と自身を笑ってもしまう。
「椎名さんがね」
そう言って一度言葉を区切った。
「京が?」
間を置くことなく徹が尋ねた。
「椎名さんが私に話し合うべきだと言ってくれたの。徹君はそんな人じゃないって」
そう言う弓子はさらに徹の胸に顔を押しつける。
「そうだったのか…」
そこで漸く謎の連絡も理解出来たと徹は思った。それと同時に弓子に対し本当に申し訳なく思い。抱きしめる彼女にさらに強く抱きしめる。
「うん。あそこまで真剣な目をして私に話してくれた椎名さんは初めてよ」
人一倍ファミリーを大事にする京だからこそだと徹は思った。実際には、京の中で弓子は徹との関係から半分ほど気にかける存在にランクアップしていた。
こう出来るのならば大和とも相談して京を他の人間と触れさせるのも良いのかもしれないと考える切っ掛けとなった。
「そうか、それじゃあ今度お礼をしないと」
そう言って徹は弓子の顔を上げさせる。目と目が真正面で見える位置にまで体勢を変えさせる。
その近距離からか泣き腫らした弓子は顔を背ける。
「駄目よ。今迄泣いていたのよ。こんな顔見ないでよ。んっ!?」
そう言う弓子に対して徹は有無を言わさず彼女の顔を正面に戻すとキスをした。
長い事唇を重ね、何時しか力を抜いて彼に体を預けていた。
「今の弓子は本当に綺麗だ。見た目とかじゃなく、その内面から美しさが溢れているようだ」
岳人がそんな事を言えばドン引きどころの騒ぎではないだろうが発言は徹である。加えて彼氏彼女の間柄であればこの程度の言葉問題にならなかった。
「バ、バカ…」
それでも時と場合による。この時、徹の言葉は彼女を打ち抜くのに十分な威力を発揮するのであった。
この後、一向に報告に来ない弓子を心配した梅子が二人のあられもない姿に赤面し雷が落ちるのは言うまでもなかった。
但し、梅子基準である事は忘れないでいただきたい。
御一読ありがとうございました。