私は昔から体が弱く、多くの子供たちが外で遊びまわっている中、それを眺めることしかできなかった。
それが嫌だったかと言えばそういうわけではなかった。彼らの遊戯を眺めるのは映画を見ているような感覚だったからだ。
それでも、幼い私はそこに加わりたいと思ったことは何度かあった。だってそうだろう。みんな外で遊んでいる中で何故私だけ室内という檻に縛られてなければならないのだろうと思わずにはいられなかった。
分かっていた。そうしなければすぐに具合が悪くなってしまうのだから。そうはさせまいとする親心なのだったのだろう。
けれど、私からすれば束縛に過ぎなかった。言い方を悪くすれば、牢屋の中にいる感覚とも似ている。
束縛から逃れたかった。不変の毎日が変わることを願った。
同時に変わる筈などないとも思った。だって変わることができたならこんなに待つことなどない。変革が起きているならばとっくに自分の見る光景は一転している筈だから。
何も変わらないと諦めた私は本を読むようになった。それも変わらない日々を一転させるような物語を。
私の心を最も惹いた物語はこんな話の内容だった。
常に城から外の光景を眺めることしか出来ないお姫様の元に素敵な王子様が現れるという物語だ。お姫様の境遇は自分と似通っているためか、自分の元にも現れるのでは、という期待を膨らませたことも何度もあった。
けど、来るはずがないのだ。あくまでこれは物語。幻想でしかないのだ。
だが、現実よりも物語の幻想の方がはるかに自分を癒してくれたようにも思う。現実には幻想など一欠けらもない。そのためか次第に現実世界を忌避するようになり、物語の世界に自ら足を踏み入れた。
しかし、そんな物語も数十回、数百回と繰り返し読むと倦厭するようになる。
変革など起きるはずない。けど起きて欲しいと願った。
何とも驚くことに私の世界に変革が起きる。
偶々、木登りをしていた少年が窓際に立つ私と目が合った。
それからというもの、彼は頻繁に私の元を出入りするようになった。
荒廃していた私の世界は一転し、花に包まれた楽園へと変転する。
彼に何か特殊なものがあるわけでもない。ごくごく普通の少年だ。ただ、剣術の腕は秀でていた。
だが、惹かれたのはきっと彼の優しさだろう。彼が此処に来てくれたからモノクロの世界はカラフルへと変わったのだから。
けれど、親の都合上、別れることになる。
それでも、次に会ったときは彼が好いてくれるような女性になれるようにと直向きに努力を重ねた。
そうして、今の私がいる。
☆
言いたいことだけ言ってラジオはマジックテープのような雑音だけを放つ。
「えーと……。今のは?」
「分かりませんでしたか?お嬢様の愛の言葉ですが。」
楽は怪訝そうな表情で本田に質問する。
内容が物語のように感じられた。
それに流暢に話しているところ、恐らくこのことを伝える為だけにかなり練習したのだろう。
「貴方が彼女を知らないのは仕方ない。けれど、これを聞いたからには結婚は必須ではないでしょうか?というよりするほかありませんね。」
「………え、ちょ。」
口ぶりは冷静だが、瞳には熱が帯びていた。
「えと、もう結婚するのは決定ですか?」
「むしろ、あなた方のご両親たちは賛意を示しています。あとは貴方の意思次第なのですが。」
「いや、でも。ほら、俺には彼女が………。」
「でしたら別れたらどうですか?見てて思うのですが、アレは演技か何かでしょう。」
「な………!ちょ………!」
慧眼というのか、人を見抜く力に長けている気がする。
確かに千棘との恋人関係は演技に他ならない。
「安心してください。お嬢様には秘密にしています。」
「いえ、そういう問題でなくてですね………。」
どう言おうか言い悩んでいると、本田は何かを見破るように、
「それとも、『二年前』のことが忘れられませんか?」
「………っ」
思わず息を飲んでしまう。
それは誰も持つはずのない記憶。その記憶を持つのは今のところ楽と学院長くらいだ。それ以外のほとんどの者は忘却されたものである。
「貴女は知っているんですか?」
「いえ、知っているのはお嬢様です。」
「橘が?」
本田はゆっくり首肯する。
「実はここからが本題です。先程、私は『二年前』の記憶があると言いましたが、それはお嬢様の入り知恵に過ぎません。全てを知っているのはお嬢様です。」
―――全てを知っている。
つまり、誰もが忘却してしまった過去を憶えているということである。
だが、そんな筈はないのだ。『二年前』の記憶の中心人物である楽、強力な魔力を持つ学院長以外は消失してしまったものだ。
「お嬢様は戦闘能力には長けていませんが、その代わり莫大な知識を脳に刻んでいる。
「な……っ!」
その魔本の名を楽は知っている。
それは世界の始まりから今に至るまでの全ての知識と史実が記されており、それは人のキャパシティーをはるかに超える記憶量だった。
聞こえの良い魔具に思うかもしれない。しかし、この魔本は新たな知識を得る際に所有者の魔力を喰らうというデメリットがあった。
つまり、万里花が所有しているということは―――。
「本田さん。橘の寿命は………。」
「あと持って一年というところでしょう。元々彼女の体そのものが病弱なので一年持てば幸せな方です。」
「………な………!」
先程、彼女が言っていた『呪い』というのはこのことだろう。
余命一年しかない。
ならば残りの時間は有効に過ごすべきだ。自分なんかと過ごすよりも他にやりたいことをするべきだ。
そんな楽の気持ちを察したのか、本田はまるで分かってないとでも言いたそうな表情をする。何か言いたそうにしていたが、自分の口から語ることができなかったのか断念する。
「話は此処までです。お嬢様のことは頼みましたよ。」
☆
十年前の一夏はあっという間に過ぎてゆき、別離があった。
その後の彼は世間的に有名となった。流麗な剣捌きと優しい人柄に皆が憧憬を抱いた。
けれど『あの少女』と出会ったことで、皆が抱いてきた憧憬は消失する。正確には彼という存在と記憶が霧散してしまったのだから。
その日から彼は魔力も失い、一般人と何ら変わることのない平凡な存在になってしまった。
だからといって彼を厭う理由はない。十年前にくれた優しさが忘れられないから。けれど、問い質してみたかった。
―――貴方を忘れた人達を憎んだことはありますか?
憎んでいなければ嘘だ。
だってそれは裏切られる感覚と似ているのだから。
忘却してしまうのは仕方無いことだ。それだけの大魔術を掛けられたのだから記憶の欠片もないのは当然のことだ。
それでも、彼に救われた者は千を超え、彼に助けを請うた者は万を超える。
それなのに、彼らはその恩を忘れる。
彼もそれを気にした素振り一つ見せない。
それどころか笑っているのだ。ただ、誰かが無事であることを心の底から願って。
そこには『自分』という存在が抜け落ちているかのようだった。
「どうして貴方は………」
その先は言葉にならない。
だが、その答えは背後から振りかかってくる。
「理由はない。ただ俺がそうしたいからそうしてるだけだ。」
声の主を確認すべく背後を見る。
その正体はやはり彼、一条楽だった。
「それは嘘でしょう。怨むことはあっても許せるはずがない。」
けれど、楽はかぶりを振った。
確かに表情から憎悪、怨恨といったものは感じない。むしろ穏やかに笑う。
「そうか。お前は全て知ってるんだもんな。この世の全ても、俺のことも。」
「はい。」
世界の始まりから現在に至るまでの全ての出来事、あらゆる分野の知識を記した魔道書。
その知識は特定の人間の過去も精密に記されている。
「俺は人が忘れたことに何か感情を抱くことはない。俺の栄光も出来事も過去になるのは当然のことだから。だから『人』は恨まない。恨むとしたら………。」
先程までの穏やかな表情は消え、ゾッとするまでの冷たい声音が響く。
「恨むとしたら『世界』の方だ。」
彼の幼少を知る彼女は目にしたこともなかった表情だった。
―――なんて冷たい表情なのだろう。
だが、だからといって冷徹というわけでもなかった。寧ろ、彼は優しすぎたのだ。どんな人も大切と思う彼は人を咎めるという選択肢がない。
しかし、世界は常に冷酷だった。彼の願いを希望を常に切り捨てきたのだから。
―――それでも世界は美しい。
とある少女はそう彼に告げた。
彼からしてみれば呪いのような言葉だった。
世界は常に彼を切り捨てているす、その少女はそんな世界を美しいなどと言うのだ。
それでも彼は少女を信じた。
人を愛しても世界に対して失望していたので、世界を愛するとは何なのか、それを知ろうとした。
それも理由のひとつではある。だが、それ以上に彼女を裏切れなかったのだ。裏切れない故に呪いであることを知って尚、信じ続けている。そこに意思などない。妄信といった方がしっくりくる。
やめて欲しいと思った。貴方が苦しむことなど何もないと伝えたかった。
しかし、恐らく自分にそれを言う権利はない。いや、義務も与えられていない。
言ったところできっと何も変わらない。届くことはない。
すると楽は表情を戻して話題話変えてきた。
「それよりもお前、体は良いのか?お前の魔具は………。」
そして今も尚、他者を案じている。
そう、確かに万里花の魔具は寿命を削るもの。残された時間は少ない。
けれど彼の妄信を目にした時、自身の寿命など些末な問題だった。
彼の言葉に万里花は「はい、大丈夫です」と答えることしかできなかった。
☆
翌日。
騒がしい教室の中、楽は参考書と睨めっこしていた。
睨めっこの理由は単純。答えが分からないのだ。
その参考書の科目は『魔道の道Ⅰ』と魔術士の正しい在り方を学ぶというのが趣旨だ。
だが、魔術師としての知識全般に疎い楽は文章からして何を書いてあるのかが理解できなかった。
「えーと………う………はあ」
必死に脳を働かせてみるが、十秒もしない内に溜め息が零れる。
とはいえ、魔術関連の知識に疎いだけであって他の科目、特に文系を中心とした科目は上位十位内にランクインできる成績だった。
「あんた、そんな問題も分からないの?」
横から呆れたような声が掛かってくる。その声の主は千棘だった
秀才の彼女からすれば楽が苦戦している問題は大したことはないらしい。
すると瞳から「この問題できる私スゴイ」という視線を送ってくる。本当に性格が悪いと思った。
「はあ、それにしてもこれ、暗記科目みたいなもんでしょ。あんたこういうの得意じゃなかったっけ?」
「ああ、まあな。」
しかし、魔術という言葉がつくだけで異様なまでにやる気が急降下する。魔術師の在り方というのはどうも非人間的、つまり人間の倫理から外れているような気がしてならないからだ。非情であることを強要しているようにも思える。
人であり続けたいと思う楽からすれば、この科目を厭うのは当然のことだった。非情にならなければ守れないものもあるけど、情がなければ伝わらないことがたくさんある。
それをこの短い人生の中で学んできた。
ふと、昨日のことを思い出す。
万里花は何故、余命が少ない中で自分に会おうなどと思ったのか。
昨日、それを聞こうとしたら逆に自分が問い質されてしまったため、聞くことができなかった。
しかし、知りたいと思った。
そこには理由がある。そうでもして成し遂げたい信念があるのだ。
と、そんなことを考えていると勢いよく教室の扉が開かれる。
「おはようございまーーーす!楽様----!」
「うォわっ!?」
突然のことだったので思わず間抜けな声を出してしまう。
そして抱き付いてくる。
正直周囲の目が痛いのでやめてほしい。いや、周囲以上に千棘の視線が睨むとかそういうレベルではなく、殺気に近い視線を送ってくる。
「突然ですが、ちょっと屋上に行きませんか?」
「ん、ああ。本当に突然だな。」
もう少し、タイミングを見てからさそってくれませんかね、と心の中で呟いた。
「で、話ってのは?」
「いえ、大した話じゃないんですよ。」
微笑みながら万里花は言う。
「ただ、一つ伝え忘れたことがあります。」
「伝え忘れた?」
どうやら楽は気付いていないらしいので告げる。
「何故、僅かな余命にも拘らず、安静にしていないのか……。」
「………っ」
それに楽は息を飲んだ。
それは楽が彼女に問い質そうとしたことだったからだ。
「………貴方に会いたかった。」
ぽつりと、本音を吐いた。
「でもただ会いたかっただけじゃない。貴方に教えたかった。」
「教えたい?」
楽は首を傾げた。
それに万里花は答える。
「もう、自分を責める必要はないと。」
「………え………」
彼は世界を憎悪した。だが、同時に自分自身も憎悪していた。
救えなかった命がある。届かない言葉があった。そしていくつもの死を見てきた。
それを全て己のせいだと思った。
万里花の言わんとすることを理解したのか楽は笑った。
「ああ。そうなのかな。」
しかし、瞳は相変わらず自分のせいだと、自分が許せないと訴えていた。
言葉が届かない。
それでも、万里花はいつか彼が自分を許せる日が来ることを祈った。
自分を許し、罪を背負ったままの苦い笑いなどではなく、本当の笑顔を見たい。そう思った。